はてなキーワード: 花束を君にとは
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「○○み」は概念そのもの、「○○さ」は定量的な判断を加味している。
だから両方の表現があってしかるべきだが、「○○み」が使われない表現の方が多いような気がする。
「○○み」はマ行五段活用動詞の連体形接続を使っていると仮説を立てようと思ったが、明らかに
そうではない例もたくさんあるので、使う場合・使わない場合の合理的な理解が難しい。
「○○み」はそういった合理的な理解よりも、その用法がどれだけ長く使われているかの方が、言葉
として定着している度合いを左右しているのかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20160930010427
私の父は厳格な人だった
ゲームやテレビは子供の教育に悪いと信じ込んでいて兄である私と弟はただの一度もゲームを買って貰ったことはなかったしテレビも1日の視聴時間が決められていた
お小遣いは定額制ではなく使用用途を伝えその都度貰っていたが、基本的に本や文房具以外のものが認められることはなかった
高校に入学した頃には私以外の全員がケータイを持っていたが、私にそれが与えられることは遂に最後までなかった
しかしそんな厳しい父を尻目に小学校高学年までの私はとにかくよく遊んでいた
2つの習い事に加え塾にも通っていたが、休日はもちろん塾が終わった後の短い時間でさえ無駄にすることはない徹底ぶりだった
それが出来たのは、ひとえに母のおかげだった
母は父に内緒でよく私に少額ではあったがお小遣いくれ、時には習い事を休ませたりしてくれた
ゲームも漫画もうちにはなく、テレビも自由には見れなかったが、私はその分友人の家に入り浸って幼いころの自由な時間を満喫していた
私は一切それを守らずそれまで通り遊び倒した
父はなぜ言いつけを守れないんだと怒り、私は玄関に立たされた
ふてくされて突っ立っている私をもういいよと中に入れてくれるのは母の役目だった
流石の私も少し堪えたが、頻度は減らしたものの眠ったり仕事をしている父の目を盗んでは遊びに行くのを辞めなかった
父はまた言いつけを守れと怒り、私は玄関に立たされた
母は何も言わずに私を見ていた
私は休日に遊べなくなった分、平日夕方めいいっぱいまで遊び家族の食卓に遅れた
父は私の夕飯はないと言い、母も反省しなさいと言った
私は遊ぶのを辞めなかった、決して非行に走ったり学校や塾を休んだりする事はなかったが、遊ぶことは辞めなかった
ある日、母は私に言った、父さんの言うことを聞きなさい、と
それからしばらく経った頃、父は急におかしなことを言うようになった、更に少し経った頃、父は急性アルコール中毒で病院に運ばれた
私は怖くなり、父の言いつけを守るようになった、遊ぶことをやめ家で読書をする時間が増えた
それから少しして父は夜中、急に外に出ていくようになった
私はそれを阻止するため玄関に布団を敷いて寝た
父はよく分からない薬を大量に買ってくるようになった
私は父が寝ている間にそれを没収しては机の引き出しに隠すのが日課になった
父は朝早く起きると財布の中身を確認しては金が足りないと言うようになった
私は誰も盗っていない事を証明するため日に1度写真を撮り、父よりも早く起きるようにした
私が父の言いつけを守った時間が増え、習い事の段が上がり、学校の成績が上がる度、父は昔の父へ戻っていき、我が家は平穏を取り戻していった
私以外の家族3人に笑顔が戻るに連れ、私の中には私だけが犠牲になっているという思いが募っていった
私は自分の憎しみをコントロールすることが出来なかった、心の底から父と母を憎んだし、休日、自由に遊ぶ弟を卑怯だと心の中で罵った
愚かな私は他人の気持ちを考える事が出来なかった、自分の気持ちを正当化するために家族を悪者に仕立て上げた
父と母は十分に私を愛してくれていたのにそれを理解できなかった
私には望むだけの本が与えられたし、望んでも通うことが出来ない人間もいる塾や習い事へ行かせてもらったのに、ただ一面だけを取り上げ、事実を見ることが出来なかった
父の症状が殆ど寛解したある日、私は友人と1泊2日の旅行に行きたいと言った、お金のない私のために友人が当ててくれた懸賞だった
父の症状はみるみるうちに悪化していった
私はそれを無視した、頼むから行かないでくれと泣いて頼む母を無視した、兄ちゃん行かないと父さんに約束してと言う弟を無視した
私は母と弟に言った、父の症状が悪化しても毎日寒い玄関で寝て夜中の2時に一度起きてまた朝5時に起きるのは私なのだから、お前らは毎日ぐっすり眠っているのだから良いだろうと
それは事実とは違った、まずそれらは毎日のことではなかったし、母がそれを出来ないのは父の分まで忙しく働いているからだった、弟にも弟の事情があった
なのに私は全てを無視して、他人の気持ちを考えず、家族を口汚く罵って、ただ自分が楽しみたいという理由のためだけに旅行へ行った
その日父は死んだ
私が高校2年生の春だった
父は書き置きを残した
私への言葉だった、お前にはもう何も期待しない、自分の好きな場所で自分のしたいことだけして暮らせと、そう書いてあった
父は休養しながらも仕事を続けていたので式は母の想いに反して大きなものになった
私は笑顔で父の生前の思い出を語った、嘘の思い出を、思ってもいないことを、父をなくした不幸な長男面して喋った
私には明確に父を殺したという意識がある
ふとした時、誰かと話している時、急に思う、なぜ親を殺した人間がこんな笑顔で、こんなニコニコと話しているんだろうと
同時に思う、自分はそんな可哀想な自分に酔っているのだと、罪の意識など微塵もないのだと、自分が悪いなどとは考えていないのだろうと
しかし、また同時にそんな考えに至る自分に驚く、なぜ一丁前に自死遺族面しているんだと、もしかしたら誰かに受け入れて貰えると思っているのかと
そしてそんな時どうしようもなく自分を殺したくなる、罪があるのなら死ねば良いし、親を殺してなんとも思わないような人間は死ねば良い、どちらにしても自分が死ねば良いとそう思う
自分が死ななかったのは、その無神経さもあるだろうが
ひとえに母と弟のお陰だと思う
私は父が居なくなった後すぐに家を出た、父の最後の言葉からどうしても父の家を自分が居て良い場所だとは思えなかったから
高校に行きながらバイトをして、大学へ入学後もバイトを続け、最初に母から借りた引っ越し代や入学時に借りた入学金は全て返済した
お金の返済は、どうしても振込は嫌だと母が言うので現金で実家まで持っていった
それ以外にも何かと母は私に実家へ来るよう約束を取り付けた、大学入学後買ったケータイには毎日朝昼晩メールが来た
母は私が死なないように心配していたのだと思う
私は外ではそう出来るように、母に対しても明るく振る舞えば良かったのだが、母と弟に対してはどうしても昔のような態度で接することが出来なかった
父がいなくなった後、私が母と話すときの態度を傍から見ていれば、私が次の日死んでしまっても不思議ではないと思うだろうがから、母には悪いことをしていると思う
でもどうしても、母と弟の顔を正面から見ることは出来なかった
時が経つにつれ私は父への想いよりも生きている母と弟への思いが強くなっているように感じる
おそらくどちらかが、私に父を殺した責任を取れと言えば私はその場で命を断つと思う
そして、こんな事を考えながらも実際の所、私は二人の気持ちを確認するのが途方もなく怖い、そう怖いから二人から距離を取ったのかもしれない
今週、そんな私も20幾度目かの誕生日を迎え、母が祝ってくれると言うので、昨日は実家にいた
用意してくれたケーキを食べ母と少し会話した後3人でテレビを見ていると、母がコンビニに行くと言うので、私も帰ろうとした所、引き止められた
弟と二人きりになるのは久しぶりだったし、会話するのはもっと久しぶりだった
弟は誕生日おめでとうと言い、私は驚きながらありがとうと返した
続けて、その…兄ちゃんに俺……と言い出した所で弟は泣き出した
どうやら、ずっとごめんって、と言おうとしているようだった、でもそんな簡単な言葉も聞き取るのが難しいくらいに弟は泣いていた
泣きながら、ごめんごめんと言っていた
ごめん兄ちゃんずっとごめん、と泣きながら言っていた
兄ちゃんが家を出て行く時ホントは止めたかった、でも止められなかった、兄ちゃんが俺の変わりに父さんを助けてくれてた、でもありがとうも言えなかった
ホントはもっと俺が頑張るべきだったのに、兄ちゃんが変わりに頑張ってくれた、ごめん、ずっとごめんって言いたかった、ずっとありがとうって言いたかった
でも言ったら兄ちゃんが死んじゃうような気がして言えなかった、ずっと言いたかった、兄ちゃんごめん、あの時、ホントは言いたかった、兄ちゃんありがとう
弟が目を手で伏せ泣きながら喋っている間、私は弟以上に泣きじゃくっていた、本当に信じられないくらい泣いていた
本当は弟より先に私が言うべきだった、弟にごめんと、また弟の気持ちを無視していた、自分のことだけを考えていた
私はなんとなく何をあげたらいいのか分からないので昔兄弟が好きだったアーティストのアルバムをくれたのだくらいに思っていた
http://anond.hatelabo.jp/20160930010427
このエントリーを読んで初めて「花束を君に」という歌のことを知った
もしかしたら弟はこのプレゼントを話題のきっかけにしようとしてたのかも知れないし、単純に私のためにこれを選んでくれたのかも知れないが
とにかく、知ることが出来てよかった
衝動的に書いたので読み辛いだろうけど
笑われるでしょうが、朝起きてお昼を過ぎるまで、このページを開こうと思う度、激しい震えと動悸に襲われ開く事が出来ませんでした
父の事を誰かに話すのは、どんな形であれ初めてだったので、何と言われるのか本当に心底怖かったからです
意を決してこのページを開き、はてなブックマークのコメントを読んで、また10分程泣いてしまいました
おそらく他の方には何気ないコメントだと思いますが、私にとってはそのやさしい言葉の一つ一つがどうしようもなく嬉しいものでした
結局の所、私はあなたは悪くないと、あなたは生きていても良いんだよと、そう誰かに言ってもらいたかっただけなのかも知れません
もちろん当人にとってはそんなつもりは一切ないのかもしれませし、自分の気持ちを本当にこんな簡単な言葉で表す事ができるかは分からないのですが
今はただ、弟と宇多田ヒカルさんとコメントをくれた方、皆さんから勝手にそんなメッセージを貰ったつもりになってとてもうれしい気持ちでいます
そして優しいコメントをくれた皆さんへも
18歳の夏、父が自殺した。
反抗期真っ盛り、いつも夜遅くに帰って来て母と口論してばかりの父と話すことなんてないと思ってた。
仕事のトラブルから人知れずうつを背負い込み首を吊った彼は、棺の中で首元まですっぽり隠し、薄化粧の下でちょっと気弱そうな、いつもの父だった。
その顔を見た瞬間、思った。
「父を殺したのはわたしだ。」
もっと父の変化に気づいていれば、父を止められたかもしれない。
もっと父と話をしていれば、父は死のうなんて思わなかったかもしれない。
もっと父に笑顔を見せていれば、父はギリギリで思いとどまったかもしれない。
夜明けごろ、家族をかなぐり捨てても彼岸へ逃げたかった父は、どんな気持ちだったのだろう。
家族に自殺者がいると知られたら、どんな目でみられるんだろう。結婚や就活はどうなるんだろう。
自死遺族が自殺する可能性は、通常の3〜5倍らしい。私もいつか父と同じ死に方をするのではないか。
あの時から10年近くが経つが、後悔と自責と不安は消えない。時間が経ち、考える頻度は減っても、その重みは変わらない。
父と死別していることは周りに言えても、その死因は恋人にも友達にも話せない。
このように自死遺族にとって、死者の話はタブーだ。その人を懐かしんで語ることは、見殺しにした自分には許されない。家族を助けられなかった罰として、あけない喪に服し続け、自分を守るために自死遺族であることを隠して生きている人が多い。
そんな中、宇多田ヒカルの8年ぶりの新アルバム「fantôme」の「花束を君に」を聞いた。
朝ドラの主題歌で耳では知っおり、柔らかな曲調とドラマの内容からほのぼのした歌と思い込んでいたが、改めて歌詞を見て、涙が止まらなかった。久しぶりにしゃくりあげて泣いた。
「今は伝わらなくても
真実には変わりないさ
抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に」
それは、母を亡くした一人の自死遺族が、前を向く為に書いた言葉だった。
そして、わたしが10年間、どんなに探しても見つからなかった、自分を許してあげるための言葉だった。
いままで父を思い出すとき、「ごめんなさい」という気持ちばかりで「ありがとう」って思ったこと、なかった。
ありがとうって言ってもいいんだって、背中を押された気がした。
宇多田ヒカルさん。
ずっと、欲しくて欲しくて、でも自分では与えちゃいけないと思ってガマンしてた救いをあなたはくれました。
自死遺族の団体寄付をしたとかしてないとか一部報道がありますが、正直どっちでもいいんです。
あなたがまた歌をうたいはじめてくれただけで、ここで一人の自死遺族がやっと死じゃなくて生のほうを多く考えて生きていけるようになりました。
ほんとうにありがとう。
【追記】
いままでのいろんな感情が溢れすぎて、肝心の曲名で誤字をしていました…。
いろいろな反響をいただけ、とても嬉しいです。