「昨日の大会の様子ですか?」
昨日と言えば、新聞社が主催する弁論大会に本校放送部として出場し、個人の部で金賞をもらった日だ。きっとその様子が新聞社系列のテレビで夜のニュースとして放送されたのだろう。
「そうそう。きりっとしてて立派だったわ。内容もよかったし」
私はそう答えた。昨日の大会で発表した原稿の内容は、この先生とつきっきりになって詰めたもの、と言えば聞こえはいいが、ほとんど先生の意見ばかり採用したものだった。曰く、人々が平等であることは普遍の真理であり、それを阻害する社会はいけない、社会の構成員は我々一人一人であるのだから、まず自分から実践することが大事なのだ、という内容を、自分はシングルマザーの娘であることで受けてきた差別があるということを通して飾り立てたものだった。
正直、この原稿内容は嫌だった。私の母は確かにシングルマザーであったし、それがもとで嫌な思いをしたこともなくはなかったが、そんなことで母を心配させるのは嫌だったからずっと黙っていた。それをこの先生は私がシングルマザー家庭の子供だから何かあっただろうと掘りこんできて、仕方なしに軽いエピソードを話すとそれを元にあっという間に筋書きを作ってしまった。それでも私は我慢した。なぜなら、本校放送部はいわゆる強豪であり、その実績はこの顧問の手腕、というか趣味の実践によるものだと知っていたし、それで大会で賞をとれれば、私の大学進学に有利に働くと計算したからだ。
本当を言うと、こんなパワハラみたいな手段で可哀想なシングルマザーの娘という筋書きを作られてしまうことこそ差別だと叫びたかった。が、そこは我慢するしかない。
そうして実際に金賞が取れて、私は一安心していた。これで大学推薦の道は堅い。勉強で手を抜くつもりは当然ないが、受験機会が増えるということは単純にチャンスが増えるということなのだから。
授業中にスマホが鳴り始め、その頻度が徐々に頻繁になってきたのが最初だった。授業中は当然バイブにしているけれど、それでもこんなに頻繁になると少しは迷惑になってくる。実際、近くの席の何人かはこちらをチラ見したりした。緊急の連絡かもしれない気持ちと周りに迷惑をかけている気持ちで焦った。そしてようやく休み時間になり、私は急ぎながらスマホを確認した。電話の着信は残っていない。けれども、SNSの通知欄がひどいことになっていた。
「最低ですね」
「偉そうなこと言わないで」
「屑だなお前」
知らないアカウントからそうした罵倒がたくさん届いていた。混乱したなかで次に目に入ったメッセにはこう書かれていた。
「JKのくせに似非人権派なクソのアカウントはこちらですか?」
それでなんとなくわかってきた。たぶん、昨日のニュースに何らかの形で火が付いたのだ。
そこから、情報を整理するまで時間はかからなかった。こういう時はとりあえずまとめサイトが火付け役だ。拡散されているまとめサイトを見れば、私がどう思われているかは簡単に分かった。
まず、テレビ放送があった。その内容について賛否両論あったらしいが、今日の午前中に
巨大掲示板で私のSNSの個人アカウントが晒された。その晒しには、私が以前に書き込んだつぶやきが添えられていた。
『電車が来て、妙に空いてるなと思ったらひどい悪臭がした。どうやら席で寝そべっているホームレスの人のものっぽかったので、急いでほかの車両に移った』
これに、人権派JKの差別意識wwwというコメントがつき、まとめサイトで拡散されていたのだ。私は、人権を語りながら人を差別する許せないやつ、という立場にされてしまった。
とりあえず、私は深呼吸をして落ち着こうと努めた。その間にもガンガンSNSの通知が来るのでそれはオフにした。それからしたのは、一番炎上しているつぶやきを消すことだった。そして、先生に相談しなければと思った。と、思ったところで先生に呼ばれた。もうすぐ休み時間が終わって授業が始まるところだったが、それはいいらしかった。
「困るのよね、こういうのは」
部の顧問の先生は開口一番こう言った。呼ばれた面談室では、担任の先生、部の顧問の先生、教頭先生がいた。
まあ先生方の話をかいつまむと、昨日のテレビで学校名と個人名は既に出ている、そして、私がつぶやいた内容について外部から問い合わせが絶えず、仕事にならない状況になっている、とりあえず早退して自宅謹慎しろ、とのことだった。
先生方の態度は一貫して、私が問題を起こしそれが悪いことだ、というものだった。正直、力になってもらえると思っていたがそんな気配は全くなく、私は真っ先に進学のことについて先生方に聞いた。答えは、
「こうなった以上推薦は考え直すことになる」
ということだった。
自宅に帰って、私は母になんて言おうかとずっと考えていた。私は母を尊敬している。シングルだけど大手の会社でバリバリキャリアとして働いて、わたしは何不自由な思いをさせられたことはない。母子家庭なのに、みたいなことを言う人はいないでもなかったが、それはそう言う人が悪く、母のせいではない。
そんな母は常々私にこう言っていた。
父が亡くなっても、今自分が大手企業でバリバリ働いて、満ち足りた衣食住を手に入れることができるのは勉強をしていい大学に行ったおかげだと。
だから私も一生懸命勉強していい高校に入ったし、そこから大学に向けて頑張っていた。そうした私を母は全力で応援してくれていた。そんな母に、今回のことはどうやって話したらいいんだろう?
「今先生から連絡もらったよ。大丈夫?すぐに帰るからね。ネットは絶対に見ちゃだめだよ」
そんな母の声に、私はうん、と答えるしかできなかった。その答えと一緒に涙があふれてきた。
ネットは見てはいけない、そういう母の言いつけを守りながら母の帰りを待った。ネットを見て現状を確認したかったけど、今までネットで見かけた炎上では、こういう時に大したことを言っている人は実はいないので、今回も同じだろうと思って我慢した。それに、こういう時こそ母の言いつけを守って心配をさせないようにしなければ、と思っていた。
母はすぐに帰るといっていたけど、帰ってくるまでにだいぶ時間がかかった。でも、帰ってきたときの母はまるで戦士のような顔をしていた。
そう言って、優しく私を抱きしめてくれた。私は不安と安堵でまた泣いた。
母の守る宣言は決して表面上のものではなかった。帰ってくるまでの間にすでに弁護士を頼んでくれたらしい。大学時代の友達が紹介してくれた、信頼できる人だと言っていた。
これからネット上の誹謗中傷について、弁護士さんが各所に問い合わせをして事実関係をまとめてくれるそうだ。素早い相談だったので、これから起こることについても出来事をまとめていけることが強みだと。そしてその結果次第で、訴えるべきところは訴えるといっていた。
ただ、これをしたからと言ってネット上の誹謗中傷が消えるわけではないこと、今回の件を拡散した全員を訴えることは不可能だということを説明された。「あなたのダメージはどうやっても避けられない。それは本当にごめんね」と母は涙をこらえた様子で言った。私は「お母さんが味方をしてくれるから大丈夫」と答えた。それは本心だった。
そのあとのことはまるでジェットコースターみたいだった。弁護士さんから住所が晒されているので不審者に注意し警察に相談を、という一報が入り、実際に警察に相談しに行った帰りに変な人に遭遇して警察にお持ち帰りしてもらったり、一番最初に私のつぶやきを晒した人物がクラスメートだったことが発覚したり、高校から学校を辞めるようにする圧力がかかったり、母子家庭なのに裕福すぎるとか言う人まで現れ始めて、本当にいろいろあった。
結果として、私は高校を辞め、大検を受けて大学進学を目指すことになった。
母は最初は納得しなかった。私がしたつぶやきは確かにあまり褒められたものではなかったのかもしれない。でも、それに対しての代償が大きすぎる、と。
だけれども、私はもうこの件で何か騒ぐのは馬鹿らしくなってしまった。学校に行くのだって、あんな先生方やクラスメートがいる学校で頑張るのは意味がないと思ったし、むやみに私を誹謗中傷していた人たちを訴えるのも不可能だ。出回った私の個人情報を消すのも。
だから私は一つだけ母と弁護士さんにお願いした。自分の名前を改名できるようにしてほしい、と。
母自身は今回の件について全方位に憤っていたが、私の気持ちを汲んでくれて、振り上げたこぶしを下してくれた。そして、改名の件も了承してくれた。ただ、今は亡きお父さんがくれた私の名前を捨てさせることには相当葛藤があったようだ。私だって、今の名前を捨てたくない。でも、これは私がこれから普通に生きていくには避けられないことだと思ったのだ。
けれども、今回の件への恨みは深い。その深い恨みはネットに吐き出すことはできない。リアルで人に話すこともできない。私と母の腹の底で、マグマみたいに滾り、身を焼き続けている。
恨みを溜めることはこんなにも地獄なのか。
だが、地獄であっても生きていかねばならない。私は私の人生を取り戻す。
それだけが、私を叩いた悪鬼たちに負けない道だと信じて。