はてなキーワード: 演義とは
シンゴジが特別面白いってわけじゃないんだけど、シンゴジと渡り合えるぐらい面白いの初代ゴジラぐらいだなほんま。
他は俳優の演義もなんか下手くそなのが多いし、展開も全体として雑だし、そもそも怪獣が暴れるだけでテーマとか薄いし。
なんでゴジラの話題になると初代・KOM・シンゴジの3つばかりになっちゃうのか不思議だったけど理解したわ。
他のは当時映画館で見れば当時の基準ではそれなりにオモロかっただけで今の豊富な娯楽の中だと埋もれちゃうレベルなんだな。
他人が同じこと言ってきたら「は?邦画アンチ乙。ゴジラシリーズは超名作だぞ?俺もガキの頃みたけどなんか凄かった」と言ってたと思う。
親父が昔「でもお前寝てたぜ?怪獣出てきたら起きるけど政治パートほぼ寝ててストーリー分かってなかったろ」と言ってて嘘だろそう見えただけだけだぞと思いこんでいたが……こりゃガキに見せたら怪獣出て来ない所は寝るなw
大人が見てても眠たいもんw
タイトル通り
最近原作が好きって理由でFから始まる某ソシャゲを始めたんよ。んでプレイ感想用に新しく追加でアカウント取ったんだけど、ま〜〜〜〜〜ぁTLに流れてくるワシの【好きな男キャラ】の二次絵、なんかめっちゃまつ毛生えてんだよな。まつ毛の長さが気になって気になってしゃあない(fジリュー版 封◎演義みてぇなヤツ生えてる)。ツリ目になって、アイラインめっちゃ引いてる。何でや? 過去現在これまでの立ち絵にそんな要素ねえやん……そいつツリ目でも封神◎義まつ毛でもねぇやろ。 Twitterで検索かけてほしい、すげぇ同じような絵ばっかりあるから見てほしい。いややっぱやめたほうがいい。検索避けしてない腐女子の絵がたくさん引っかかる、すまん。ので伏せる。
二次創作での共通認識の原因になった先駆者ていうか大手絵師がおるとしか思えんくらいあからさまに誰が描いても目尻にまつ毛あるから、最初はどのキャラにもまつ毛描く絵柄が流行ってんかな〜〜思ったけど、そいつらが描く他の男キャラにはまつ毛生えてなかった。まつ毛無い男描けるやんけハッ倒すぞ。
まつ毛生えてる【好きな男キャラ】絵を避けようったってこの場合どうしたらいいんだ。エ口絵やBLなら検索避けしたり鍵かけたり描き手が操作してくれるが、ただの単体絵で、ただ「まつ毛が追加されてる」のはもう作風だから当てはまらん。避けられん。
それでもキャラデザに存在しない要素が追加されるのばっかり見るの嫌すぎる。貧乳キャラが巨乳にされるくらいショック。乳(まつ毛)追加されて、それが二次創作で浸透している。しかもインターネットに流す奴ら、みんな絵がうまい、うまいからみんな真似する、また広まる…………。
マジか〜。
ワシの場合「好きな男キャラに何故か二次創作では当たり前のように皆がまつ毛を追加する」が受け付けなかったけど、こういうこと大なり小なりあるよな。
劉備亡き後の蜀漢をよく支えたが、志半ばにして五丈原に死した。
その判断は公明正大で、諸葛亮によって流罪とされた者ですら、彼を恨まずその死を嘆いたという。
彼の手になる「出師表」は古今の名文とされ、「読みて涙を堕さざればその人必ず不忠」と言われるほどである。
唐の凌煙閣二十四功臣の第四位。
もとは太宗の政敵である李建成の部下であったが、その剛直さを買った太宗が自身の側近として登用した。
皇帝となった太宗に対しても容赦なく諫言し、亡くなったときには「朕を写す鏡を失った」と太宗を嘆かせた。
そのやりとりが多く記録された「貞観政要」は帝王学の名著とされている。
魏徴と同じく、性剛直にして諫言を多くすることで知られ、寇準がやってくれば百官が震え上がると言われた。
その性格のため周囲の恨みを買い、讒言により宰相を追われるが、死後に名誉回復がなされた。
賄賂を厳しく取り締まったことで、貴族からは恐れられ、民からは慕われた。
その峻烈な性格は「包拯が笑う時は黄河が澄む時だ」と言われるほどだった。
死後、人気はさらに高まり、「包公故事」として劇や小説、あるいはテレビドラマの題材となった。
南宋の三忠臣、亡宋の三傑と呼ばれたうちの一人。
弱冠にして科挙に首席合格した傑物であり、「正気の歌」などの優れた詩を残す。
南宋の首都が陥落したあとも抗戦したがモンゴル軍に捕らえられた。
彼の才を惜しんだクビライから、帰順すれば宰相にするとまで言われたが、「宋の宰相がどうして二姓に仕えようか」とただ死を望んだ。
やむなく文天祥を処刑したクビライは、彼を評して「真の男子なり」と讃えた。
エセン率いるモンゴル軍に明軍が大敗し正統帝が囚われたとき、于謙はすぐさま正統帝の弟を皇帝に立て、徹底抗戦の構えを見せた。
首都である北京にまで迫ったエセンを撃退し、正統帝を取り返したが、のちに反逆者の汚名を着せられ処刑された。
地方の官吏であった頃に、賄賂を受け取らずに都に戻る清々しさを詩に詠んだという故事は、「清風両袖」の語源となっている。
道教に傾倒し政治を顧みない明の嘉靖帝を諌めたことで投獄された。
海瑞は、棺桶を買い、妻子に別れを告げ、死ぬ覚悟を持って直諫に臨んだという。
嘉靖帝の死後、釈放されてからも要職に就けないまま役職を転々としたが、その謹厳な性格は変わらなかった。
この海瑞のことを描いた戯曲が、文化大革命の発端となった「海瑞罷官」である。
明末、抗清の武将。
李自成の乱によって明の首都である北京が陥落すると、江南へ退避して亡命政権を打ち立てた。
揚州にて清の大軍と戦っていたがついに包囲され、熾烈な抵抗を行った末、落城時に自刎した。
それによって莫大な損害を被った清軍は、報復として揚州の八十万人を虐殺したと言われる。
日本で生まれて七歳で明へ渡り、北京陥落後は亡命政権の一つに拠った。
そこで隆武帝に気に入られ、国姓の「朱」を与えられたので、以降「国姓爺」と呼ばれるようになった。
父親が清に降ったのちも、鄭成功は奮戦を続けたが、抗しきれず台湾へと渡った。
その地を支配していたオランダ人を追放して独自政権を打ちたて、翌年に死去した。
清の官僚として、地方の農村の再建と腐敗した官吏の処分を行い、名声を高めた。
道光帝によって欽差大臣に抜擢され、阿片禁輸の大任を託された。