はてなキーワード: 田楽とは
自分は貧乏舌なのでなんでも美味しく食べられるし、48円で200gの豆腐で満足していた。
寒くなってきましたね。
こんな寒いときにはお湯に昆布出汁を取って絹ごし豆腐を入れるだけで体の芯からぽっかぽかな湯豆腐。それに、芋焼酎のお湯割り。
やっぱこれだね。
食事を安くおいしく済ませたい自分にとって湯豆腐、水炊きなんていうとりあえずぶっ込んで美味しくいただける料理はスターダムで、湯豆腐なんて昆布出汁の素とか、出汁の素とか、コンソメとかがあれば50円もかからない自分にとっては寒い時期のエース料理なんだけど、職場の先輩と京都のほうに打ち合わせに行った時に「ええもん食わせたるわ!」とおごってもらったのが湯豆腐。
自分としては普段そんなに油を取っていないので先輩におごってもらうならラメーンとか焼肉とかがいいなぁと思いながら先輩の「ほんとハマるで」と言ってちょっと高級そうな5000円ぐらいする湯豆腐(もちろん豆腐だけの値段じゃなくて天ぷらとか田楽とかがついて)をごちそうになる。
うん、豆腐ってスゴイ。
自分が普段食べていたのは豆腐じゃない。豆乳を固めただけの何かだ。舌触りがまず全然違う。コシっていうのか、豆腐のくせに噛みごたえがある。まるで柔らかい鶏肉でも食べてるんじゃないかっていうぐらいの噛みごたえ。そのくせ、プツッと噛み切れて口の中にホロホロと茶碗蒸しのように崩れて、広がるのは大豆の旨味。
「大豆って本当に畑の肉なんですね」
豆腐がこんだけうまいと田楽もうまい、湯葉もうまい、天ぷらも全然くどくない。焼酎も進む。
異質な体験だった。
今年も寒くなり、湯豆腐を食べてるけども、やはり安い豆腐っていうのは安いんだ。
今日、貸してもらった本を返す。
だけで返せたらいいなと思う。
年下の友人が先週貸してくれた。それはもう、ありきたりなぐらいにありきたりな軽い小説で、映画化されて流行っているからという、おそらくただそれだけの理由で彼女はそれを読んでいた。本をあまり読まない人が持っているのを見たこともあるぐらいだから、乱読気味の彼女が読んでいて、それで、「面白いから読んでみ」と貸してくれたのは、まったく不自然じゃない。
けれど、本を貸すのはむずかしい。彼女はまだそれを知らない。知らないままにしておいてあげるほうがいいのかなと思う。まだそれでいい。
なぜなら、読書は人の心をかき乱す。たとえそれが安っぽいお涙頂戴式の小説であっても、思いもかけないところで心の平安に波風をたてる。
「貸して欲しい」と言われて貸す本ならかまわない。本屋で手に取っていくのと同じで、いくら取り乱そうが、それは借りていった者の責任だ。そこで完結する。しかし、「ぜひ読んで」と貸した場合、ダメージを受けた側はやはり相手に責任を求めたくなる。それを求めることをまた、求められているのではないかと思う。つまりは、なにか気の利いた感想でも言わねばならないような気になる。
だが、いかにも仕組まれたクライマックスでボロボロ涙を流した者にとって、気の利いた感想などいえるはずがない。こんなご都合主義で泣くなんて、恥以外の何物でもない。その恥を否定するために、あえてその物語をくさすのか。不治難病モノは定期的に流行するキッシュだと、知ったかぶりの韜晦に逃げこむのか。それとも、涙もろい自分を素直に認めてしまうのか。だが、それはとてつもなくややこしい。
なぜなら、年下のきみが感動した理由と、もう長いこと生きてきたぼくがやられてしまった理由は、たぶんちがうからだ。ぼくにとっては、舞台設定そのものが痛かった。その感覚は、きみにはわかるまい。
きみは信じないだろうが、こんなぼくにだって高校生だったときはあった。きみはよく「青春」なんて言葉を口にしてぼくを笑わせるけれど(たぶん意識してカギカッコ付きで使っているんだというのはわかるけど)、どんな意味においてさえ、ぼくにとって高校時代は青春なんかじゃなかった。ひたすらしんどい時代だった。そして、この小説の舞台設定は、まさにその果てしなくしんどい時代を思い出させる。
美化してしまえば、ぼくにだって「青春の思い出」みたいなものがないわけじゃない。だけど、時間のレタッチと自己正当化を取っ払ってしまったら、そこに残るのはただただめんどくさくておもしろみのない屈辱の日々だ。
典型的な場面を思い出す。それは、昼休み、グラウンドに面した廊下、ぼくはグラウンドを見て退屈している。なぜ退屈する場所にそこを選ぶのかというと、グラウンドの木陰はリア充たちが(「リア充」なんて言葉はその時代にはもちろんなかったのだけれど)占拠しているし、教室内にはまだ弁当を食っている人や早速にお勉強をしている優秀な生徒たちがいる。そういう人たちの邪魔はしたくないし、だいたい教室内の席なんて飽きるほど座っている。友だちの少ない、話題の乏しいぼくにとって、いられる場所は限られていた。そして、人の邪魔にならないわずかな隙間のようないくつかの場所の中でも、グラウンドの見える廊下は特等席だった。なぜなら、そこからはクラスでいちばんのお気に入りの女の子と、クラスでいちばんの美人と評判の女の子が眺められたからだ。親友である二人は、たいていつもグラウンドの向こうの特別教室の日陰でおしゃべりをしている。もちろんぼくは、ただ鑑賞するだけ。それだけ遠いと見ていることもあんまりわからないだろうから、まあ人畜無害な楽しみだ。
そうやってしばらくすると、ぼくと同じぐらい冴えない女子が弁当を食い終わって廊下に出てくる。いつも凄まじい寝癖のついた髪をしている。彼女もまた、昼休みにどこに行くアテもないのだろう。ぼくと彼女は少し言葉をかわす。話題のないぼくと同じくらい、彼女も話題がない。だから食い物のことばかりしゃべっている。カレーの玉ねぎは具であるべきなのか、ペーストの一部であるべきなのかみたいなことを、特に目的もなくしゃべっている。
そうこうするうちに、学級委員長が廊下に出てくる。いや、彼は正確には学級委員長ではない。彼がその役にいたのは一年生のときだから、「元」をつけるべきなんだろう。彼はぼくの数少ない友だちの一人で、というよりもぼくにとってはその高校で唯一の友だちで、だからぼくは少しホッとする。ただ、彼が加わってからの話はちょっとぎこちなくなる。彼にとっては食い物のことは重要ではない。いや、ぼくにとってもそうだよ。だけど、他に話すこともない。彼はちがう。なにか、他に話すべきことがある。けれど、ぼくにはそれが見えない。そのうちにチャイムが鳴って、ぼくらは教室に戻る。
そういうことを思い出してしまう。だから、ぼくは泣いてしまう。
なぜなら、シチューをご飯にかけるのは有りか無しか、ナポリタンスパゲッティの麺は柔らかいほうがいいのかどうかなんてどうでもいい話をする過程で、ぼくはとんでもなく人を傷つけていたからだ。
後になって、ぼくはその寝癖の女の子から聞いた。学級委員長と彼女はそのとき付き合っていた。だというのに、彼女はぼくとばかり話しているものだから、最後に学級委員長は傷ついて、そして、結局別れ話につながった。そういう展開が愉快な人はいないだろう。親友の失恋を喜ぶような奴はいないし、自分がその原因だったら焼きそばノドにつめて死んでしまったほうがマシだと思っても仕方ないんじゃないだろうか。
だから、ぼくはもう、そこから先の筋書きがどうであれ、泣く準備はできていた。そして、ヒロインが死ぬところでやっぱり泣いてしまった。
それでもあのとき、おにぎりノドにつめて死ななくてよかったなあと、いま、そんなふうに思う。
なぜなら、いま、こうやって気軽に本を貸してくれる友人がここにいる。それを感じることができる。そして、ぼくはいま、ちくわに詰めるのはキュウリがいいのかチーズがいいのか、ナスは田楽と揚げびたしのどちらを奨めるのか、寿司屋で卵焼きを食べるべきなのか否か、そんなことを熱くもなく語ることができることの嬉しさを知っている。
だからぼくは、うっかりと誰かを傷つけてしまうようなことをしたくない。気づかないうちに自分の力を超えることをしてしまいたくない。
そんなわけで、ぼくは何も感想とかいわずに、この本を返そうと思う。こんなことを喋らないために、ちょっとだけ皮肉っぽい表情も見せるかもしれない。
「上手は、目利かずの心に相叶ふ事難し。下手は、目利きの眼に合ふ事なし。」
およそ、能の名望を得る事、品々多し。上手は、目利かずの心に相叶ふ事難し。下手は、目利きの眼に合ふ事なし。下手にて目利きの眼に叶はぬは、不審あるべからず。上手の、目利かずの心に合はぬこと、これは、目利かずの眼の及ばぬ所なれども、得たる上手にて、工夫あらん爲手ならならば、また、目利かずの眼にも面白しと見るやうに、能をすべし。この工夫と達者とを極めたらん爲手をば、花を極めたるとや申すべき。されば、この位に至りたらん爲手は、いかに年寄りたりとも、若き花に劣る事あるべからず。されば、この位を得たらん上手こそ、天下にも許され、また、遠國・田舎の人までも、遍く、面白しとは見るべけれ。この工夫を得たらん爲手は、和州へも、江州へも、もしくは田楽の風體までも、人の好み・望みによりて、いづれにも亙る上手なるべし。この嗜みの本意をあらはさんがため、風姿花傳を作するなり。
かやうに申せばたて、我が風體の形木の疎かならんは、殊に/\、能の命あるべからず。これ、弱き爲手なるべし。我が風體の形木を極めてこそ、遍き風體を心にかけんとて、我が形木に入らざらん爲手は、我が風體を知らぬのみならず、他所の風體をも、確かにはまして知るまじきなり。されば、能弱くて、久しく花はあるべからず。久しく花のなからんは、いづれの風體をも知らぬに同じかるべし。しかれば、花傳の花の段に、「物数をつくし、工夫を極めて後、花の失せぬ所をば知るべし」と云へり。
一、この壽福增長の嗜みと申せばとて、ひたすら、世間の理にかかりて、もし、欲心に住せば、これ、第一、道の廃るべき因縁なり。道のための嗜みには、壽福增長あるべし。壽福のための嗜みには、道まさに廃るべし。道廃らば、壽福おのづから滅すべし。正直圓明にして、世上萬徳の妙花を開く因縁なりと嗜むべし。
およそ、花傳の中、年来稽古より始めて、この條々を注す所、全く、自力より出づる才覚ならず。
于時應永第九之暦暮春二日馳筆畢 世阿
田楽というのは象徴的な語彙として使っているんだろうけど、いわゆる限界集落みたいなところは人口の再生産にはもはや寄与してないよね。
元増田が言いたいことは、古びたイオンのショッピングセンターなんかがある衰退期に入った地域の話なんだろう?
お前らはすぐ、若年人口を吸収しているくせに再生産に失敗している東京が悪いと抜かすが、
江戸や東京に限らず、都市化の進んだ先進国というのは、大なり小なりどこも少子化傾向である。
そもそも、都会というのは人口の再生産を行うようにできていない。
なのに都会に住みたい奴、都会のライフスタイルを望む奴ばっかりになったら、そりゃ少子化止まんないよ。
確かに今の世の中、田舎に魅力は乏しい。交通は不便だし文化的にも遅れている。
おまけに住民はどいつもこいつも程度が低い。高いのは都会行って戻ってこないんだから当然だ。
しかし、誰かしらがそこで生活を送らなければ、人口の維持などハナから不可能なのだ。
移民にしたって、要は「田舎」をこれまで通り国の内側に求めるか、外側に求めるかの違いしかない。
「東京に流出する人口を、せめて地方都市で食い止められれば多少はどうにか」という論もあるが、
あれも大概無理があるんじゃないかと思う。
東京に出て行く彼らは、東京で暮らすというよりも、遅れて不便な田舎生活の反対、
例え地方都市に留まったとしても、やはり子供は産みたがらないだろう。
2人も産んだら、よほど稼いでない限り、郊外に移るしかないからだ。
もちろん、地方都市の衰退が止まれば東京一極集中の回避にはなるし、
それはそれで意義のあることなんだけど、しかし少子化対策にはならない気がする。
とにかく田舎なんて、米と人だけ作ってりゃいいんだ。
今の日本が子どもを生み育てるには、きつい環境なのは同感だけど、今できることをしないと。
食生活の改善は絶対必要。今は栄養失調なんじゃないかなぁ。野菜だけでなく、タンパク質も足りない気がする。
激務でももっとマシな食生活送ってる人はたくさんいますよ。食事に興味があまりないのかもしれないけど。
昼と夜ちゃんと食べるのがしんどいなら、残業中に何か食べて一日4食にするとか。
一食だけでもバランス良く食べるとか。
できることから。
私は残業の多い時期は、休みの日に、大量に鍋作ったり(鍋の元使用)、炊飯器で大きめに切った野菜炊いたり(田楽味噌で食べる)してますね。