はてなキーワード: 武勇とは
だいたい次代の奴が自己正当化のために悪く書いただけで、実際はそこまで馬鹿じゃないという話もあるので、話半分に読みましょう。
?-前771 | 姫宮涅 | 西周の第12代の王・幽王。無口無表情系の美女・褒姒の機嫌をとるために、用もないのに何度も緊急の烽火をあげ、集まってくる諸侯の軍を見ては、褒姒と一緒に笑っていた。ついに反乱が起きた時、幽王はあわてて烽火をあげたが、もはや集まる軍はなかった。これにより西周は滅んで東周が興り、そして春秋時代へと突入していく。 |
259-307 | 司馬衷 | 西晋の第2代皇帝・恵帝。先帝の御前で家臣が「あいつには玉座がもったいない」と言い放ったほどの暗愚だった。飢饉のときに「米が無いなら肉粥を食べればよいではないか」と言い放ち、かの有名な台詞を1500年くらい先取りした。その無能さ故に、代わって政治の主導権を握ろうとする皇族たちが争い「八王の乱」が起きたが、その無能さ故に殺されることはなく、48歳のときに食あたりで死んだ。 |
335-357 | 苻生 | 前秦の第2代皇帝・厲王。生まれつき隻眼だったために祖父から忌み嫌われ、たびたび鞭打たれるなど、虐待まがいに育てられた。武勇に優れていたが、残虐で酒を好んだ。宴のときには酒を飲まない者を殺したため、諸官は懸命に泥酔せねばならなかった。また隻眼のコンプレックスから「少」「無」「残」「偏」などの文字を使うだけで誅殺した。従弟たちが起こしたクーデターにより23歳で殺害された。死ぬ間際にも泥酔していたという。 |
463-477 | 劉昱 | 劉宋の第7代皇帝・後廃帝。「天性好殺」と評されたシリアルキラー。従者に凶器を持たせて街を練り歩き、気に入らない者を自ら殺して回った。贈り物が好みでなかったというだけで皇太后を毒殺しようとしたが「喪に服しているあいだは街へ出られませんよ」と諌められて諦めた。一日に誰も殺さないと不機嫌になったという。有力な将軍のクーデターにより14歳の若さで殺害された。 |
502-549 | 蕭衍 | 南梁の初代皇帝・武帝。当初は名君の誉れ高かったが、次第に仏教に傾倒していき、莫大な寄付金で国庫を傾けた。なまじ優秀だったために諫言を聞かず、勝手に出家してはそのたびに寺院から連れ戻された。周囲の反対を押し切って、隣国を追われた武将を受け入れたところ、即座に反逆され、凄惨な籠城戦の末に捕縛、幽閉された。息子たちの誰も救援に来ない中で、惨めなうちに病死した。 |
1122-1161 | 完顔亮 | 金の皇帝。「天下の美女を妻に得たい」と嘯き、親族、家臣の妻、母娘、幼女、あらゆる美人を後宮に入れ、宮殿のいたるところで乱交した。幼い姪を強姦して殺し、従弟の妻を奪おうとして死に追いやった。南宋に対して大規模な遠征を行ったところ本国で別の皇帝が擁立され、それでも遠征を続けようとして部下に殺された。死後、皇帝どころか王とすら見做されず、「海陵庶人」と記録された。 |
1563-1620 | 朱翊鈞 | 明の第14代皇帝・万暦帝。幼い頃から聡明で知られ「朕は5歳で字が読めた」とよく自慢していた。宰相・張居正の手腕により、統治の初期は成功を収めたが、その後は外征・内乱が相次ぎ、自身も酒色に溺れて堕落した。明で最も在位期間の長い皇帝だが、30年にわたって後宮に引きこもり、上奏があっても何の返答もしなかったため、国政は機能不全に陥った。ただし徴税だけは熱心だったという。 |
161-192 | コンモドゥス | 第17代ローマ皇帝。暗殺未遂や側近の裏切りなどから政治への興味を失い、剣闘にのめりこんでいった。「ヘラクレスの化身」を自称して狼の毛皮をまとい、実際に剣闘士としてコロッセウムで戦った。その武勇は素晴らしいものだったが、「皇帝が奴隷の真似事を」とローマ市民を嘆かせた。あるとき重臣たちの粛清を図ったが、逆に毒薬を飲まされ、朦朧としたところを襲われて殺された。31歳だった。 |
203-222 | ヘリオガバルス | 第23代ローマ皇帝。ローマの最高神を故郷シリアの土着神に挿げ替えてその神官となり、処女を守るべきローマの巫女と結婚して神の子を産もうとした。その後は離婚と結婚を繰り返し、最後には女装をして男性奴隷の「妻」として振る舞った。さらに宮殿の中に売春宿を作り、自ら男妾となって通りがかる男性を誘い込んだ。マゾヒストの気もあったという。近衛兵の反乱により18歳の若さで殺され、死体は切り刻まれて川に捨てられた。 |
937-964 | ヨハネス12世 | ローマ教皇。カール大帝の子孫という家柄であり、わずか18歳で教皇となった。無謀にも教皇領の拡大に乗り出して大敗を喫し、それを助けた東フランク王国のオットー1世にローマ皇帝の冠を与えた。これにより神聖ローマ帝国が誕生したが、教皇の権威は低下することとなった。不道徳な人間で、ラテラノ宮殿を売春宿のようにしており、最期は人妻と寝ていたところをその夫に見つかって殺されたという。27歳だった。 |
1012-1056 | ベネディクトゥス9世 | ローマ教皇。父親の後押しにより20歳にもならないうちに教皇となる。賄賂などはもちろん、殺人もいとわず、姦淫にふけり、同性愛も行っていた。従妹と結婚するために教皇位を金で売りとばしたが、すぐに後悔して復位を主張し、混乱を招いた。結果として三度も教皇に就位することになり、最後には新たな教皇により破門されてしまった。四度目の復位を画策していたときに43歳で亡くなったと言われる。 |
1199–1216 | ジョン | イングランド王。幼い頃から父・ヘンリー2世に可愛がられていたが、父と争っていた兄・リチャードが優勢になると寝返り、ヘンリー2世は失望のあまりに亡くなった。さらにリチャードが亡くなって王に即位すると、フランス王フィリップ2世と敵対して惨敗、フランスにあった広大なイングランド領を全て喪失し、その体たらくにイングランド諸侯の不満が爆発したため、やむなくマグナカルタを認めて王権の制限を受け入れた。 |
1835-1909 | レオポルド2世 | ベルギー国王。アフリカのコンゴを私領とし、私財のほとんどを投じて近代化を推進したが、やがて「天然ゴムの採取ノルマに達しなければ手首を切り落とす」といった残虐な労働を強いるようになった。さすがの欧州諸国もドン引きして強烈なバッシングを浴びせ、最終的にコンゴの統治はベルギー政府に移管された。国民からの信頼は地に堕ち、晩年は王妃や娘にまで白い目で見られたという。 |
1845-1886 | ルートヴィヒ2世 | バイエルン王。「狂王」とも「白鳥王」とも呼ばれる。政治への興味は薄く、戦争に負けたばかりで多額の賠償金を抱えていたにもかかわらず、借金までして自身のメルヘン趣味に耽溺し、中世風の美麗な城を各地に残した。夜中にソリ遊びを始めるなど、奇行に走る王を家臣たちは危ぶみ、精神病だという理由で退位させた。その翌日、40歳で謎めいた死を遂げた。 |
増田島。モンスーン気候に含まれ大陸の東岸に位置するその諸島では多くの家が覇を競い、謀略と決戦による離散と集合を繰り返したあげく、十一の家が生き残っていた。
一つ目は増田家。
増田島の北端部に位置するこの家は北方の豊かな資源を中継する立場にあり、回船によるすいすい水上交易で莫大な財産を築いていた。威信財を重視する家風がもたらす物欲のせいか増田家では内乱が起こりやすく、せっかくの資金力を安定して外征に投じることができなかった。厳しい冬の気候も遠征の障壁となっている。しかし、大量動員されたときの傭兵軍団の力は本物であり、革新的な当主にひきいられて都へ上ったことも何度かある。
本拠は増湊。
前述の増田家の南東に位置する増田家では、婚姻外交が盛んであり、周辺諸国や有力家臣のほとんどと血縁関係を有している。送り込んだ夫人とその侍女団によるもはやスパムめいた文通による諜報活動が増田家の地位を巧みに保ってきた。反面、他家の内輪もめに巻き込まれることも多く、いまいち地域の主導権を掌握できないでいる。
結婚はそろそろ分家に任せておけ。戦争せよ。が、新当主のモットーである。本拠は増谷。
三つ目は増田家。
増田家の南西、そして増田家の西に位置する増田家は、古代先住部族の血が濃く、やや異質な存在である。増田家内部でもその意識が強いため、かえって先進文化を取り入れることに熱心であり、増田海を利用した通商が盛んに行われている。北の増田家とは海上交易権をめぐるライバルでもあり、自分たちの土地よりも交易先の港で激しく干戈を交えている。ぶっちゃけ非常に迷惑である。両家の争いは都の外港である増瀬を炎上させたことがあり、そろって出入り禁止を言い渡された。
前代当主は大の鯖好きであり、そのために港を手に入れた。
本拠は増浜。
四つ目は増田家。
入港禁止を言い渡された増田海側北方の二家の縄張りに横から失礼する形で頭角を現してきたのが増田島の背側にある増田家である。もともと繊維の有名な産地であったが、一般には無骨な武人と思われながら実はトップセールスに優れた一面をもつ当主によって、繊維の染色から加工、納入までもこなす重商国家へ変貌を遂げつつある。
植物性繊維の染色に欠かせない明礬の鉱山の帰属を巡って、二つ目の増田家の南にある増田家と激しく争っている。
本拠は増館。
五つ目は増田家。
増田島最大の平野部を領有する増田島南東部の増田家は比較的あたらしい家であり、この時代を象徴する存在である。高度にシステム化された統治機構と徹底的な遠交近攻策によって平野部を平らげて来た。
しかし、近年は領土拡大に伸び悩みはじめており、また農業以外の産業育成にも苦戦している。四つ目の増田家と泥沼の戦乱状態にあるが、敵の求めているものをいまいち理解できていない( ・ิω・ิ)。
六つ目は増田家。
古くからの名門である増田家は、いわいる主語が大きくなった例としてよく知られる。きわめて機会主義的で行き当たりばったりの外交政策をとって来たため周囲に味方がまったくなく、いままでのツケを払わされつつある。それでも、他家の当主を低能とやたら罵倒する。
増田家が攻め込んできた時だけは、普段はいがみ合う増田家も同盟を結んで侵略者を撃退したという。そして撤退する増田軍の背中に塩をまく。敵に塩を送るの由来である。
本拠は増台。
七つ目は増田家。
商業の結節点である増津をおさえる増田家は財政的に非常に豊かであり、宗教と結びつく禁断の政策によってますます富を集積している。本来は宗教施設にしか使用できない角度とかにうるさい石垣技術をもちいた国境城塞群は難攻不落であり、増田家の富に垂涎する敵の侵攻をにべもなく、はねのけ続けている。女装癖の当主は勤勉で、年中むきゅうで働いている。しかし、増田島を統一する意欲には乏しい。
長く続く戦乱が武器産業に利益をもたらし、彼らが共依存する宗教にも信者獲得の機会を与えているからである。
本拠は増津。
八つ目は増田家。
都の周辺を押さえる増田家はいちおうは天下の号令者の立場にある。だが、前代未聞の宮中脱糞事件を含む不祥事続きで尊敬を完全に失っており、洛書にあざけられない日はない。結果、「都の地方勢力」に堕している。
支配する人口は非常に多いが文化的な反面、戦争に向かない人材の割合が多く、暴力による意志の強制にも成功していない雑魚ナメクジである。
本拠は増居。
九つ目は増田家。
増田島の長く狭い陸橋部を支配する増田家は律令制時代の駅長にはじまる豪族の出であり、社禝を守りじわじわと支配地をひろげていった結果、豪族からの二段JUMPで西増田島一の勢力と謳われるまでに成長した。
彼らが都の増田家を制圧してしまわないことは長年の謎とされている。下手に関わっても火中の栗を拾うだけであり、遷都などすれば柔弱な気質に染まると中興の祖が言い残したことが影響しているらしい。西方には年々攻勢を強めており、完全制覇がなれば都を抑えにでるとの観測もある。
本拠は増州。
十番目は増田家。
古代から大陸に対して開かれた湾港都市、増屋を支配する増田家は渡来人の血が濃く、一族の中には毛の色が増田島人一般とは異なる者までいる。大陸から導入した兵器を大量運用することで戦術や武勇の不足をおぎない周囲の弱小勢力を打倒した増田家であるが、より大規模な九つ目の増田家と十一番目の増田家との戦争では、文明力の差を軍事技術で埋められ、苦戦している。最後の三家の争いを特別に増田三国志と呼ぶこともある。
本拠は増屋。
十一番目は増田家。
増田島南端に位置する増田家は武勇の誉れ高く、それ以上に攻勢を一方向に集中できる利点を駆使して、勢力を拡大してきた。なお、家中は新参者に限らず犠牲になる粛清の嵐であり、酒の席はいつもピリピリしていたと言う。大喜利に滑った人間には容赦がない――が大喜利を強要する。
本拠は増林。
さあ以上、十一家の中で増田島の支配権を握るのは、どの家だ!?きみも当ててみよう。
次回
はてなでは楽しく視聴されている方が多そうですね。
ちょっと記憶があいまいではあるのですが、真田と高野山の話をします。
2年ほど前に高野山にお参りに行きましたが、そこで真田幸村の手紙を見たんですよ。
高野山霊宝館という、見ごたえのある展示物が数多いのに、人はわりと少なく静かでいいところでした。
内容がまたしゃれている。
「どこそこの坊さんに呼ばれているが、腹もくだっているし、あまり行きたくない」
知略や武勇とは程遠い隠遁生活や、本音をもらすチャーミングな人柄がしのばれました。
坊さんのところに行かずに済ませるための言い訳かもしれませんが、なんと「腹がくだっている」と。
増田向きな内容でありますし、ふと思い出し書き記したしだいです。
それではまた。
「我ら五人衆、この通りお館様にご忠誠をお誓い申し奉りまする」
武勇で名高い五人衆は、揃って喜多川右府に対し、地面に這いつくばるように平伏した。
しかし、その言葉に反して、五人衆の筆頭である中居弾正は、怒りと絶望に覆われていた。
中居は、まるでその怒りを抑えこむように、いつしか自分の手をつねっていた。
彼ら五人衆を見出し、股肱の臣として、ここまで育て上げた飯島摂津守が、突如、その主君、喜多川右府に反旗を翻したのだ。
原因は、主君による飯島摂津守への嫌がらせである。家中の諸将たちが見守る中、何を思ったか喜多川右府は、刀に刺した餅を飯島摂津守に突き出すと、「食え!」と屈辱的な命令を発したのだった。
もし、これを断れば謀反者として一族郎党滅せられる・・・飯島摂津守は、武功を立てお家を支えてきたという自らのプライドをぐっと飲み込むと、目をつむりながら餅を頬張ったのだった。
しかし、飯島摂津守は、自らの居城へ帰り着くと、主な家臣を集めて「もう我慢ならぬ」と、声を絞り出すようにぶち上げた。
「俺は謀反を起こす・・・ただ、皆を巻き込みたくはない。去りたい者は、今すぐここを去るがよい」
家老となっていた五人衆の筆頭、中居弾正は、すぐさま前に進み出ると、「我らには摂津守殿に多大なる恩義がありまする。たとえ地獄であろうと地の果てであろうと、我ら五人衆は一心同体。殿にどこまでもついてゆくとお誓い申し奉りまする!」と申し出た。以下、木村内匠、稲垣五郎右衛門、香取金吾、草薙武蔵も、声を揃え「おう!」と答えたのだった。
そして、五人衆は血判状を書き上げると、それを木村内匠に託して城を下がった。
木村には妻子があった。
その夜、帰宅した夫を見て、奥方のお静はすぐにその異変に気づいた。
「お城で何かありましたか?」
お静の疑問を黙殺すると、「今日はもう疲れた。すぐに寝る」と言って、そのまま寝てしまった。
翌朝、木村は妻に問いつめられていた。
夜のうちに、持ち帰った血判状が妻の手に渡っていたのだった・・・
「もしご謀反がお館様の耳に入りましたら、幼い若君もろとも滅せられまする!どうか、お考えをお改め下さいませ!」
「既にお館様のところへ」
「なんということを・・・」
「もちろん、“その場の流れで血判状を書きましたが叛意は無い”と付け加えて・・・」
「それでは・・・それでは、わしは同輩を裏切ることになるぞ」
「これも、お家を守るためにございます」
もう何もかも終わった・・・木村は観念すると、事の経緯を他の五人衆に打ち明けた。
「なに、この俺が話をつけてやる」
そして、城は一戦も交えること無く落城した。
家老五人衆の翻意を知った城主、飯島摂津守が観念し、「家臣には罪はない」と言って、城から逃走してしまったからだ。
余談だが、城に残された飯島一族百名余りは尽く捕らえられ、市中引き回しの上、六条河原で次々に斬首され、鴨川が真っ赤に染まったという。しかし、果たせるかな、飯島は喜多川右府の死後も生き続け、後に、茶人として復活している。
これまた余談だが、いち早く謀反を主君に注進した事になった木村内匠は、喜多川右府の寵愛を受けて取り立てられ、飯島に代わり摂津一国を任せられて大出世を遂げるが、家臣に裏切られて自害している。また、五人衆の筆頭・中居弾正を含む4名も、この事件の後は歴史の表舞台から姿を消してしまうのであった。