はてなキーワード: 律令制とは
“語源として、夫の所有する人の意である” という誤解がある[1]。フェミニズム論者には好まれない側面もあるというが、安易な言葉狩りであるとも言われている。
律令制における天皇の后妃の身位及び称号。皇后・妃に次ぐ地位にあり、定員は3名。位階は最低でも従三位・正三位を与えられる。
平安時代以降、妃・嬪(ひん)の号とともに次第に用いられなくなり淳和天皇期に事実上廃止され、夫人の地位は中宮・女御・更衣へと移行する。
后妃位の1つ。 秦から唐までの後宮における高位の妃嬪の汎称。特定の称号として
ゲームさんぽが終わってしまった。いや正確にはまだ終わったわけじゃないけど、自分がYouTubeに齧り付くきっかけとなったチャンネルなので、どこか名残惜しい。
ゲームさんぽを知って、こんな「教養のお裾分け」をしてくれるものが転がっているという事に驚き、それからYouTubeで似たようなチャンネルを探し回っていた。しかし素直に「教育」とか「教養」のジャンルを検索しても、出てくるのは中田のあっちゃんかDaiGoか、あるいはアフィリエイトのにおいのするチャンネルで、ちょっと違うなぁという感じ。とりあえず興味のあるものを片っ端から再生して、関連動画にサジェストされるものを集めて回った。
良い機会だと思って、その中から特に気に入ったものをリストアップしてみた。選出の目安は次のとおり。
・参考文献が明示されていること
(今回はよびのりたくみさんのような、机と椅子に座ってガチで観るべきものは除かせて頂く)
また、最初は動画へのリンクも載せていたのだが、リンクが多すぎてはてなにスパム扱いされたためか、投稿できなかった。
そのため大変恐縮ながらリンクは無効化した。気になったら各自でYouTube検索して欲しい。
東大の生物学系専門家集団による動植物の解説チャンネル。ゲームさんぽをきっかけに作られたというだけあって、どうぶつの森やポケモンなどの考察動画が多め。本家livedoorのゲームさんぽにも出演あり。
専門家がはしゃいでるところが好きな人ならハマると思う。今でも十分面白いけれど、今後はゲームさんぽ系以外の企画も増えてくれると個人的には嬉しい。(自分がまだ見てないだけかもしれないけど)各自の専門分野についてガチでじっくり語るやつとか見たい。
オリジナルゆっくりキャラであるきつねさん、たぬきさんが解説する、生物学系のチャンネル。へんないきもの、という名前になっているが、身近な犬猫から魚類、昆虫、植物、古生物と、動植物ならなんでもアリ。丁寧な説明と、動物と接するときの啓発的内容もあり、子供向けとしても良いチャンネルだと思う。
科学系専門家集団「薬理凶室」に所属する怪人(専門家)たちのチャンネル。普段は立派な専門家だが、匿名の「怪人」になることで、表の立場では言えないちょっと危ないことも言える、というのがコンセプトとのこと。主な活動は雑誌(ラジオライフ)や書籍(アリエナイ理科シリーズ)が中心のようだが、Youtubeでは一般にあふれる疑似科学の解説したり、実験をする動画が多め。中心メンバーのくられ先生が化学専門ということもあり、中高生向けの化学解説シリーズ動画もあったりする。
ゆる言語学ラジオの元ネタ。歴史に詳しい深井さん、楊さんが語り手、樋口さんが聞き手となって、歴史のあれやこれやを語るラジオ。(最近は動画によって聞き手、語り手がちょいちょい変わる。)
特徴は、とにかく一つのテーマを深堀りすること。例えば鎌倉幕府の説明をする(シリーズ全12回)ために、まず前提として平安時代以前の話から始まる。最初の1~4回は律令制や藤原道長、平家の説明をして、シリーズ5回目でやっと源頼朝が登場した。ラジオというだけあってYouTubeでも視覚資料は使わず、全て語りだけになっている。とにかく長尺なので、ながら聞き推奨。
クレオパトラとマリー・アントワネットがかわいいゆっくりキャラになって歴史のあれこれを解説する。コテンラジオは歴史のど真ん中の出来事をガッツリ解説するのだが、こちらは反対に人々の生活やものの移り変わりなどに注目した内容で、少し肩の力を抜いて観ることができる。同じ中の人が以前投稿していた「旧ゆっくりモンドちゃんねる」もおすすめ。
僕は古代エジプトが好きだ。子供のころにかこさとしの絵本を読んだのをきっかけに、世界ふしぎ発見のエジプト回は欠かさず見るようになった。そして令和の今、YouTubeで古代エジプトの遺跡や文化について解説してくれているのが河江先生だ。ギザの大ピラミッドの3次元計測という一大プロジェクトを垣間見れるだけで、古代エジプト好き垂涎の的である。古代エジプトに関するオカルトが好きな人にもおすすめ。
「まいど~、ドクターキャピタルですぅ~。音楽博士やさかいに、ドクターやねん。」というあいさつでおなじみ、ギターの上手い関西弁のおっちゃんが、お気に入りのJ-Popの曲を解説してくれるチャンネル。一通り解説した後、最後はその曲をギターの弾き語りで歌ってくれるので見応えあり。
自分は音楽理論に全然詳しくないのだが、実際に弾き語りを見せられて「どや、このコード、ちょっと○○な感じするやろ~」って言われると、いつも「する!する!」って思って見てしまう。
絵画に詳しい山田五郎さんによる美術のチャンネル。ワダ(25)さんからの質問をもとに、各回に1人の画家にスポットを当てて、その半生を解説するというスタイル。自分は絵画を楽しめる素養が無いと思っていたけど、画家の人生はうんちくとしてものすごく楽しめている。モロに影響を受けて、BSの五郎さんの番組も見てるし、去年の印象派展にも行った。
雑誌のWIREDの日本語版YouTubeチャンネル。動画ごとに色んな専門家が出てくるので、ゲームさんぽと同じくらいジャンルは広め。専門家がTwitterからの質問に答える「Tech Support」、一つのテーマに対して子供向け〜同じ専門家向けに説明のレベルを変えていく「5 Levels」なんかがある。僕は寿司職人と葬儀師の動画が好き。
霊夢と魔理沙が、倒産したり不祥事を起こしたりした「しくじり企業」についてゆっくり解説するチャンネル。中の人が係長だからカカチャンネルという名前らしい。知らんけど。
このチャンネルを見始めてから、自分でも企業の調査報告書をちょいちょい見てみるようになった。ミートホープとか聞いて「そういえばそんなのあったなあ」と思って開いてみたら、あれってマジで肉を水増し(肉に注射器で水入れてた)っていうので驚き。
これは説明不要かも。自分もメンバーシップに加入している。最近、のれん分けから始まった生態学、哲学、天文学、書道、音楽、民俗学のゆる○○学ラジオもそれぞれ面白いので、その他ジャンルとした。
僕が思うに、彼らは動画のクオリティだけでなく、コミュニティづくりも上手い。彼らのメンバーシップコミュニティにの中で、いろんな人が勝手に創作活動を始めており、ラジオ以外のプロジェクトも複数動いている模様。このままフォロワーが増え続ければ、彼らの「ゆる○○学ラジオ」のフォーマットも、ゲームさんぽに続く新しいジャンルのひとつになるかもしれない。
ゲームさんぽはYoutube教養コンテンツ界隈の巨塔だった。専門家と一緒にゲームをして、気になったものを解説してもらうというフォーマットを確立し、他のYoutubeチャンネルでもゲームさんぽスタイルの動画を投稿する人たちが現れ始めた。
僕は書籍化プロジェクトのときに真っ先に投げ銭して、寄進表に自分の名前が載ったのは今でも誇りである。いいださん、ますださんの退職は大変残念ではあるが、いいださんは個人で次の活動を企画されているとのことだし、またゲームさんぽのフォーマットを引き継いで面白いことをする人は今後も現れると思っている。それに一人のファンとして、今でも名越先生のDetroit Become Human解説の続きを待っている。
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というわけで、まだまだ発掘し足りないから、みんなも好きなYoutubeの教養系チャンネルを教えておくれよ~(∩´∀`)∩
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追記:
いつの間にやらこんなに伸びてた。みんなありがとう。自分も知らないチャンネルたくさん教えてくれたから、これを書いて良かったよ。こういうの発掘するのもすごく楽しいから。
あと、本当に良いチャンネルだと思ったなら、この投稿に反応するだけじゃなくて、ちゃんとチャンネル登録といいねをしに行こう。それじゃあね~(・∀・)ノシ
江戸:オランダ (「シャボン」、「カルタ」、望遠鏡など輸入)
明治:ドイツ (「カルテ」、「カリウム」、「ナトリウム」、プロイセン憲法など輸入)
第二次世界大戦後:主として米国 (身の回りのありとあらゆるものやウェブサービスを輸入)
といろんな文化を輸入して使いこなしてきてる(日本史でやるでしょ)
ドイツ語もその一つだが廃れかけていて、ちょっとけれんみが効いてくる
近代の英語でいうと「ラブい」だの「ファボる」だの元がなんの単語だかを気にしない程度に日本語に溶け込んじゃってる
ありふれた言葉でもドイツ語で「リーベ」だの「クーゲルシュライバー」だのというとなんか魔法かかってるっぽくてかっこいいからみんな使う、
明治大正のぎりぎりエンタメの中にでてきてわかる程度の古めの日本語(「糸し糸しと言ふ心」だの「君死にたまふことなかれ」あたり)とも相性がいい
ドイツ語なんてシャーロックホームズにいわせれば「動詞をさんざん虐待(分離させたり受動態でゲつけたり)したあげく一番最後にもってくるラテン語の方言」やぞ
飛鳥に29、40、41代天皇の墓があって大阪、奈良に16代天皇家族の墓があるのは変だなと思って経済史的に考えてみた。
4世紀、帯方郡と卑弥呼が滅び、渡来人が辰砂利用技術を持ってきて、初代天皇が立つ。天照・卑弥呼から曾孫の代は出雲にも進出。
5世紀、貿易で成功した15〜16代天皇は大阪と奈良盆地に進出して栄える。巨大古墳を作る。
6世紀、29代のとき任那が滅びて百済貿易が中心になる。渡来人が増えたので32代までに飛鳥京が開発される。それで銀山も開発されたが、場所は秘密。
7世紀、33代は遣隋使を送り、34代は遣唐使を送ってまた大陸貿易栄える。36代のとき百済が滅びて渡来人が増えたので38〜41代が奈良を再開発。飛鳥京は国内統一のための機関になり、統一後は廃止。
8世紀、渡来人がいるので43代に古事記(たぶん百済系)、44代に日本書紀(たぶん漢人系)ができる。45代が奈良大仏。47〜49代あたりに続日本紀ができる。50代(平家祖のひとり)が長岡京、平安京を開発。しばらくすると、インフレが酷くなりしばしばデノミをする。
平安時代は長いので飛ばして11世紀、唐と平家が滅びて道教の公家が衰退、仏教の武家が台頭。大陸も日本も諸国分立時代。
古墳の年代が正しいなら、天皇は4世紀からで、5世紀に大阪・奈良時代が始まり、任那滅亡のあとしばらく飛鳥京がある。飛鳥京の謎の石造物は任那系渡来人が来る前のものだろう。そもそも2世紀に福岡伊都国に千如寺が建ったときは天皇がいないだろうし、新羅系渡来人も鉱山開発をしてる。
天皇陵のある奈良や飛鳥や古墳作りがが廃れたのは、国内統一し終わって割の良い古墳作りを村人にさせる必要がなくなったとか、そのあたりの銀山が閉山したとか、任那や百済が滅びて古墳が流行らなくなったとか、産廃の利用方法を古墳作りの他に見つけたとか、唐辛子や香辛料が入ってきて、料理に忙しくなったとか。
初代天皇の父親の墓が鹿児島にあるとされているが、だったら隼人の反乱が起きるはずがないと思う。
だいたい古墳の主は仮託もできるし、もしかすれば戦争の死者が埋められてるかもしれないわけだ。律令制のあとは古墳がないんだろ。
90年代前半、自分が18歳の時に区役所に住民票と戸籍謄本を取りに行った際に父親の名前を聞かれたので答えたところ、違うと言われて怒られた。「君、自分の親の名前なんで知らないの?おかしいでしょ」
父の名前は音読みで通っていて、父の親、つまり祖父母も音読みで呼んでいたし父自身もそれが本名だと言っており仕事で使う名刺の振り仮名も音読みだった。
更にもっとおかしな事に気が付いた。父方の祖父母の名前も違う。普段使っていて手紙や軽い法的文書(学校に出す認書など)にも書き、預金通帳にも記され、付き合いのある人に呼ばれる名前は通名だったのだ。本人が全く名乗った事もなく出てきた事もない本名が別にあったのである。
更に自分の苗字も今まで使っていた当用漢字と違い、戸籍では旧字体だという事にも気が付いた。知らなかったので学校の学生証も卒業証書も銀行口座も当用漢字で、それで通っていた。
何れも父方の関係である。何故こういう風になっているのか良く判らなかった。が、調べる方法を知らなかったしものを知る大人が近くに居なかったので説明を得られなかった。
その後10年以上が経過して図書館で調べる方法を知り、更にネットという道具を得た。その結果歴史的な背景がある事が判った。我々はほんの十数年前の事すら知らない。核家族化によって大文字の伝統から外された風俗も伝授されない。
日本は中華文化圏の周縁にあった。独立した文化ではあったが風物の認識には漢籍(中国で書かれた書物)が参照される。梅雨があるのにそれを無視して「四季」なんていうのもそうだ。漢詩での季題に倣って詩やうたを詠んだ事に由る。
昔の中国では親に貰った本名を親を除いて他人が呼んではいけない。本人も使ってはいけない。これは諱(忌み名)であり墓場まで持って行く。他人が本名を呼ぶのは殺人に値する非礼である。
この風習が日本でも倣われ、江戸時代まではやはり出生時に親に貰った本名は親以外が使ってはいけなかった。幼少時には幼名を使い成長した後には仮名(けみょう)を使う。仮名というのは後世の歴史用語であって当時の人達は本名を絶対使わないのだから「名」といったらこれのみである。
武士の場合は朝廷の官名を名乗った。大岡越前守の越前守は律令制時代の越前国の長官だ。それを名乗っている。水戸黄門は変則的で黄門は中国での中納言の事である。漢籍=知的であるので漢語で名乗ったものだ。~~左衛門~~右衛門というのは宮廷の衛兵の事だ。だから家光公なんて言い方は後世のもので当時の人は絶対に言わない。言ったら死刑だ。
外国の報道では天皇の名にemperorを付けるが日本語の報道では絶対に名を呼ばないのはその名残である。
明治になるとこの風習は廃され、どこでも本名を使う事が定められ、諱の併称も禁止された。だから明治以後は本名一本主義である。
…のだが実際は人々は従わなかった。相変わらず通名も使われ続け、更に一般化したのが有職読みだ。
有職(ゆうそく)読みは訓読みする語を音読みする事である。特に名前での使用が顕著であった。
例えば名付けする時に音読みも訓読みも出来る名にする。本名は訓読みとして戸籍に記す。だが一般に使うのは音読みの名前とした。
一般と言っても法的な行動含めほぼ一生の生活の全部である。不動産を買ったり婚姻届け出す以外ではそれで問題は起きなかった。現在常識化している正しい本名をどこでも使うのを求められるようになったのはバブル以後の30年位でしかないからだ。
だから歴史で伊藤博文(ひろぶみ)と習っても、当時の人はひろぶみなんて呼ぶ人は恐らく一人も居ない。呼び方は「はくぶん」だ。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13120057343
「イヌカイ キ」とフリガナを振っている。日本人の名に「き」はちょっと変だが、訓読みの本名を音読みするのが当たり前なのでそう書いてあるのである。当然本人の名乗りだけでなく世間の通りも「き」なので当然の事だ。
戦前の新聞を見れば歴史で習うのと違い、政治家の名前はほぼ全て音読みのフリガナが振られている。原敬なら「ハラ ケイ」である。
戦後になると流石にこの風習は廃れた。特に戦後生まれの団塊世代はこの倣いに従わなかったし、その親である戦中派の多数派も有職読みで子を呼ぶ事をしなかった。
しかし保守的な家庭ではこの倣いを続ける所もあった。それが私の父方だったのだ。祖父は旧職業軍人で戦後も神社や右翼人士と付き合いがある右翼シンパであった。
こんな感じで段々とこの倣いは細くなって行ったのだがバブル期~90年代前半にトドメがさされた。
銀行口座はそれまでハンコと通帳だけを参照するもので、本人確認もろくに行っていなかった。だから仮名での口座開設も簡単であり、銀行自体がそれを止めていなった。日本人で外国人名の口座をもっている人もいるし、法人格獲得していない社名でも口座が開設出来た。
だが当時日本はストックの急拡大により急激に国際的な地位を獲得しつつあり、マネーロンダリングへの対策を求められる事になった。これで仮名での口座開設は不可能になり、本人確認書類も必要になった。口座の文字は本名の字と一致させる必要がある。
更にIDカードが常に参照される社会になって行った。90年代初頭では「欧米では何するにもIDカード提示させられるのでID携行必須なんだよ」というのが珍しい事として語られていたのだが、90年代後半の日本はその欧米と同じ状態になっていた。
こうして本名との完全一致は常に求められうようになったので有職読みとか通称使用とかは完全に無くなって行ったのであった。
だから私が区役所で怒られる数年前までは細々と続いていた風習であったが、現代っ子であった私は自分の周囲がそういう古い倣いに従っていた事に気づかずに居たのである。
そして私を叱った区役所の役人は自分が生まれた頃にはまだかなり現役の風習に気づかず40年以上生きてきたのである。更に戸籍や住民票を扱う部署に配属されてなお知らなかったのである。常識とは視野を狭くする事の一例だ。常識があるが故に保守的な風習が認識できないというのは寓話的だ。
こういう事が判ってから母型の家系を調べると、やはり曾祖父母として認識されていた名前が戸籍に出てこないケースがあった。認識されていた名前と本名が違うのだろう。
現代っ子の自分は時代の常識に則り祖父母の名を本人に代わり書く時も本名を使うようになったが、この辺の知識が無かったのでその時バツが悪い思いをしているだろうという事に気が付かなかった。直接聞いた訳ではないが生まれてから数十年それが名前であったのだから言うまでもない。
親にキラキラネーム付けられて成人してから変名するケースが増えているが、この問題も昔の知恵なら問題にならない。
そもそも親がまともかバカかというのは子がベット出来ないギャンブルだ。そしてやたらとおかしな名前をつける親というのは戦前には結構いた。ダジャレで付けたり有名芸者の名前付けたり、バカ親は戦前でもバカ親である。
でも通名を別につける方法が残されているから問題が無い。「親に貰った名前を変えていいのですか?だって?親に貰った名前を名乗れるかよ!」と言えたのだ。
更に変な読みを付けられても有職読みすればいいのだから問題ない。「今鹿」で「なうしか」と付けられても「こんろく」と名乗ればいい。これは今でも教育現場でも会社でも本来の読みに固執しているのが問題であってそんな例外なきルールなんて精々30位の歴史しか無い。困った問題が続出しているなら破棄すればいいだけの問題だ。
なので硬いルールと思っているものが実は30年程度の風習でしかない事に気が付くべきだし、柔軟にしたら解決する問題もあるという事に気づくべきだ。伝統というものは伝統と思っているものの外側にある事がある。そしてその伝統が問題を解決する術を持っている事もあるという事に気づくべきだ。
最後に、あの区役所のおっさんにこの「自分の親の名前の読み方を知らない理由」を言って聞かせたいもんだが、もう鬼籍に入っちゃってるだろうなぁ。あんたの叱責のおかげで日本の伝統について知ることが出来たぜ。
たとえば岐阜県の上戸村(じょうごむら)は実際にそういう由来らしい、
市町村制施行前後において、当地区は大浦とともに戸町村であった。大浦郷、浪ノ平郷(以上大浦地区)、下郷、上郷、蓑尾郷の5郷があった。1898年、大浦・浪ノ平・下郷が長崎市に編入され、同時に上郷・蓑尾は小ヶ倉村に編入され、戸町村は消滅した。のちに、1938年に小ヶ倉村は長崎市に編入され、旧戸町村が全域長崎市になった。
下郷は1913年に戸町1丁目-3丁目、国分町、小菅町に分割された。また、上郷・蓑尾郷は小ヶ倉村を経て1949年にそれぞれ上戸町・新戸町となった。以降、住居表示の実施により丁目が増設されるなどして現在に至る。
この書き方だと「戸町」に対する「上戸町」っぽいよなあ。
ちなみに「戸町」自体の由来については、
古くは「とはち」ともいい、古地図には“戸八”とも記されているエリア。この「とはち」には、船の停泊地を意味する「門泊(とはち)」に由来する、また、中世(鎌倉~戦国時代)にこの辺り一帯を所領していた戸町氏(戸八氏)に由来するなど諸説あるようだ。
とのことらしい。
思うところあって中屋敷均『ウイルスは生きている』を再読。走り読みなので細部までは目が行き届いていないが、これを読んだ時に受け取った熱を思い出した。2016年3月の初版発行からそう経たぬうちに読んだと思うが、今は随分ここから遠くに来た気がする。本書が今の自分とは縁遠いものという意味ではなく、寧ろ逆にずっと俺の心を捉えて離さなかった。自分の世界認識に深く影響を与えた(与えている)ので、もっとずっと昔から自分の中にあったように感じていたが、たった4年前のことなのか。
思うところが何かを明確に言語化するのは難しいが、
古今伝授を真に理解するためには、それが中世社会の特質と深く関わっていることを考えなければならない(古今伝授を和歌という縦糸だけで説明しようとするからダメなんだ。中世という横糸を忘れている)。中世は壮大なコジツケの体系が構築された時代神仏習合・本地垂迹説・卜部神道・中世日本紀等々…の奇妙奇天烈な世界観!古今伝授もその一環として見るべきではないか。コジツケと言われればそうだけど、それはその時代の人々にとってとても必要なコジツケだったのだ、という。もし積極的な意義を見出すのならその方向から説明しなければならないのだ。(古今伝授を受けた天皇を中心に優れた歌人が輩出された、だから歌学教育として意味があったとかバカか。優れた和歌とは何かという定義、評価軸じたいが古今伝授の支配圏内で形成されるのだから、優れてるかどうかを論じること自体がナンセンス。)
古今伝授が古今伝授になっていく過程、つまり古今集という単なる書物が、あるいは勅撰集編纂という律令制国家の一事業が、その枠を超えた何か大きな・尊い・民族文化の精髄のように認識されていくその過程において、付与された様々な言説――三木三鳥だの八雲神詠だの人麻呂がなんちゃらかんちゃら、後世から荒唐無稽とさんざ罵倒されることになるこれらの言説は、あたかも胎盤形成におけるシンシチン(syncytin)のような役割を果たしていた、と考えることはできないのか。異物を異物と感じさせない、捏造を捏造と感じさせない仕掛け。それは、倫理的な断罪とか文化的価値の優劣の俎上に乗せるのはふさわしくなく、その仕掛けを通じて何が実現されたか、その何かはその仕掛けを用いずには実現され得なかったのか、をこそ見るべきではないのか。
本来ウイルスのもつ能力を自己の一部として、機能として取り込む。生物は自己の維持に必要な機能の一部を外部環境に依存する。ポータブル外部環境としての細胞。生命と非生命の境界は我々が思っているほど明確に線引きできるようなものではない。我々の生命の定義は、あまりにも我々が日常的に馴れ親しんだものの見方に、「個人」という概念にひきずられてやしないか・・・というのが本書の示唆するものの最も深い所だ。
契沖や子規の批判は分かる。俺も一個人としては古今伝授(に代表されるもったいぶったコジツケ家)はバカジャネーノと思う。が同時に、それは文化・知・個人といったものについてこっちの定義/概念を押し付けてるだけじゃないの?とも思う。
根拠がない、合理的でない、和歌の質的向上につながっていない、という。では何故根拠がなければならないのか?合理的でなければならないのか?なぜ質を向上させなければならないのか?
これらの批判は、文化とは何か、個人とは何かについての定義をすでに前提にしていて、その立場から加えられている(反論する側(古今伝授を擁護する側)にもその立場から反論するやつがいるからどうしようもない)。まず始めに個人がある、歌は個人の気持ちを詠むものだ、しかるにコレコレの御方に入門しなければ和歌は詠めないのだとはけしからん、しかもその御方の教えたるやひたすらややこしい制約ばかり、かつ透明性のかけらもない、おまけにそう教える根拠はどこにあるかと探してみれば無い、要はこいつがでっち上げた妄説じゃねえか、それで偉ぶったり金巻き上げたりするなんて悪どい奴らだ・・・、こういう自他の区別、新旧の区別、真偽の判別をつけずにはいられない、ある意味病的な正義感。いかにも科学的合理性に偏っている。
しかし、それとは全く異なる評価軸があって、古今伝授は(中世の壮大なコジツケ志向は)その軸からみればもっとずっと整合的に理解できるはずだ。
本書の示唆する構造は、外来文化を自家薬籠中の物にする日本文化の性質(漢字・仏教等々)、中世の遺制としての近世的身分制(身分的周縁論)、象徴天皇制(近代国民国家の中の「伝統」)などに比較してみると実に都合がいい。
本来異質な要素を自己の維持に不可欠な一部として取り込み、その「元異質たち」も含めた全体として再生産されていく。あるいは新しい政権が成立する際に、それ以前からあったが途絶えかかっていた慣習を改めて制度化し流用する。取り込まれた方は同一性が失われ単なる機能に解消されてしまうことなく、細胞に異変があれば細胞内生物が独立した生物としての振る舞いを取り戻すこともあり得る(少なくともあり得ると見なされる。226事件を想起せよ)。天皇機関説ならぬ天皇ミトコンドリア説。
文化じたいが多かれ少なかれこういう性質を持っているのだが、特に日本はその傾向が顕著というか、世界中に普遍的にみられる文化現象の一例というだけでは説明のつかない点が多い。(なぜ先端技術の粋を凝らした構造物を建てる前に、土地の霊を鎮めるための宗教儀礼をやるのか?なぜ参加者は誰もその宗教の信者でないのか?わけが分からない。)こういう部分を説明するうえで本書の示唆する構造は役に立つ。その応用系として、古今伝授についても似たようなことが云えるのではないか。
なぜ「現在のようになったのか」の因果関係の背景を知るため、というのが一つ
自分が生まれて以降の歴史しか知らないと、なぜ韓国が難癖をつけるのかとか
漢字はもともと中国からの借り物だった、というか律令制で定められた
官職名や社会制度やら中国のパクリばっかりといったことを理解せず
ドヤ顔で日本オリジナルみたいに語って大恥をかく大人が量産されてしまう
あと、これは私見だが
「世の中には自分と異質な人間・異質な文化」があることを理解すること
環境によって習慣や考え方さえ左右されている
ということを頭の片隅に意識して置くかおかないかで人間観は大きく変わると思う
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以前にこういうことを書いたことがある
これの筆者です。
id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田(国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。
なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。
山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。
618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジアに大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。
東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本からの遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度や国際的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。
朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部に建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。
これはひどい。遣唐使の派遣再開が何年だったかという記述がありません。
そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使を派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。
一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書が8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京の時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。
ちなみに、他の教科書では、遣唐使の派遣再開についての説明が次のようになっています。
「7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇の時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」
「白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島からの渡来人や新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」
「律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物や制度の摂取につとめた。[中略]
こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣の鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」
[引用者注:教科書のページを戻って「白村江の戦いと国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]
遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます。
三省堂の記述もおもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています。
大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣の鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使、新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通の教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代の様相として語っているのがすごい。
東京書籍、実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。
山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代の出来事と把握すると誤りになります)
東大入試(2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています。
次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。
(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝の元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。
(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。
(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまりの大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。
設問:この時代の日本にとって、唐との関係と新羅との関係のもつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。
山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですから、いくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂をのぞく。後述)
8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使を派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者は正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]
一方、日本の律令国家内では天皇が皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。
白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人が仲介したものが多いと考えられる。[後略]
以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。
(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。
(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。
(3)は、日本と新羅の関係悪化について述べています。新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。
(4)は、日本と新羅が政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅は民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人が仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。
教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試に対応するためだけではありません。
例えば『詳説日本史』には、最初に引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。
ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまいます。
もしくは、これは2003年の入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史』シリーズ(2000年~2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズからも引用しておきましょう。
国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗に蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人や蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正『天皇と諸蕃』)
さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国に位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号を「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。
実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家の領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである。
[中略]
このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しかし東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢、列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。
日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使の派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。
いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書(日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。
こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使の派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。
私がこのエントリの題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者が国内と国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います。
それに、このことは現代の外交問題についても、重要な示唆を与えてくれます。例えば政府が国内に向けて愛国心やナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調のアピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。
あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。
遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます。
おもしろい特色がありません。
無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的な呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。
華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚のイベントになったと推測できます。もっとも、沈没や行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?
つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459
枝吉 神陽(えだよし しんよう、文政5年5月24日(1822年7月12日) - 文久2年8月14日(1862年9月8日))は、江戸時代後期の幕末に活躍した佐賀藩の思想家、教育者、国学者。藩校弘道館の教諭。外務卿、内務大臣を務めた副島種臣は実弟。本名は経種。贈従四位。佐賀の尊皇派の中心的存在。
目次 [非表示]
1 経歴
2 影響
4 関連項目
5 参考資料
経歴[編集]
佐賀藩の藩校・弘道館の教授であった枝吉南濠種彰の長男として生まれる。幼児期より神童と賞され、20歳の時には江戸の昌平黌に学んでいるが、ほどなく舎長に推されている。また、漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶことを認めさせた。
早くから儒教や朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩の哲学である『葉隠』をも否定したといわれる。
26歳で帰郷してからは弘道館の教諭や什物方などを務める傍ら、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行った。1850年には「義祭同盟」を結成。天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが藩主鍋島直正を動かすことは出来ず失敗している。なお、この義祭同盟からは実弟の副島種臣のほか、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇ら明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出しており、「佐賀の吉田松陰」とも言える人物である。また、水戸の藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された。
1863年、コレラに罹った妻を看病するうち自身も罹患し、死去。享年41。墓所は佐賀市本庄町の高伝寺。
影響[編集]
神陽は律令制を学ぶことを奨励したが、彼の教えを受けた江藤新平(初代司法卿)や大木喬任(2代司法卿)は法整備に活躍した。また、明治政府が当初導入した太政官制は副島種臣が起草したものであるが、ここにも神陽の影響がみられている。
増田島。モンスーン気候に含まれ大陸の東岸に位置するその諸島では多くの家が覇を競い、謀略と決戦による離散と集合を繰り返したあげく、十一の家が生き残っていた。
一つ目は増田家。
増田島の北端部に位置するこの家は北方の豊かな資源を中継する立場にあり、回船によるすいすい水上交易で莫大な財産を築いていた。威信財を重視する家風がもたらす物欲のせいか増田家では内乱が起こりやすく、せっかくの資金力を安定して外征に投じることができなかった。厳しい冬の気候も遠征の障壁となっている。しかし、大量動員されたときの傭兵軍団の力は本物であり、革新的な当主にひきいられて都へ上ったことも何度かある。
本拠は増湊。
前述の増田家の南東に位置する増田家では、婚姻外交が盛んであり、周辺諸国や有力家臣のほとんどと血縁関係を有している。送り込んだ夫人とその侍女団によるもはやスパムめいた文通による諜報活動が増田家の地位を巧みに保ってきた。反面、他家の内輪もめに巻き込まれることも多く、いまいち地域の主導権を掌握できないでいる。
結婚はそろそろ分家に任せておけ。戦争せよ。が、新当主のモットーである。本拠は増谷。
三つ目は増田家。
増田家の南西、そして増田家の西に位置する増田家は、古代先住部族の血が濃く、やや異質な存在である。増田家内部でもその意識が強いため、かえって先進文化を取り入れることに熱心であり、増田海を利用した通商が盛んに行われている。北の増田家とは海上交易権をめぐるライバルでもあり、自分たちの土地よりも交易先の港で激しく干戈を交えている。ぶっちゃけ非常に迷惑である。両家の争いは都の外港である増瀬を炎上させたことがあり、そろって出入り禁止を言い渡された。
前代当主は大の鯖好きであり、そのために港を手に入れた。
本拠は増浜。
四つ目は増田家。
入港禁止を言い渡された増田海側北方の二家の縄張りに横から失礼する形で頭角を現してきたのが増田島の背側にある増田家である。もともと繊維の有名な産地であったが、一般には無骨な武人と思われながら実はトップセールスに優れた一面をもつ当主によって、繊維の染色から加工、納入までもこなす重商国家へ変貌を遂げつつある。
植物性繊維の染色に欠かせない明礬の鉱山の帰属を巡って、二つ目の増田家の南にある増田家と激しく争っている。
本拠は増館。
五つ目は増田家。
増田島最大の平野部を領有する増田島南東部の増田家は比較的あたらしい家であり、この時代を象徴する存在である。高度にシステム化された統治機構と徹底的な遠交近攻策によって平野部を平らげて来た。
しかし、近年は領土拡大に伸び悩みはじめており、また農業以外の産業育成にも苦戦している。四つ目の増田家と泥沼の戦乱状態にあるが、敵の求めているものをいまいち理解できていない( ・ิω・ิ)。
六つ目は増田家。
古くからの名門である増田家は、いわいる主語が大きくなった例としてよく知られる。きわめて機会主義的で行き当たりばったりの外交政策をとって来たため周囲に味方がまったくなく、いままでのツケを払わされつつある。それでも、他家の当主を低能とやたら罵倒する。
増田家が攻め込んできた時だけは、普段はいがみ合う増田家も同盟を結んで侵略者を撃退したという。そして撤退する増田軍の背中に塩をまく。敵に塩を送るの由来である。
本拠は増台。
七つ目は増田家。
商業の結節点である増津をおさえる増田家は財政的に非常に豊かであり、宗教と結びつく禁断の政策によってますます富を集積している。本来は宗教施設にしか使用できない角度とかにうるさい石垣技術をもちいた国境城塞群は難攻不落であり、増田家の富に垂涎する敵の侵攻をにべもなく、はねのけ続けている。女装癖の当主は勤勉で、年中むきゅうで働いている。しかし、増田島を統一する意欲には乏しい。
長く続く戦乱が武器産業に利益をもたらし、彼らが共依存する宗教にも信者獲得の機会を与えているからである。
本拠は増津。
八つ目は増田家。
都の周辺を押さえる増田家はいちおうは天下の号令者の立場にある。だが、前代未聞の宮中脱糞事件を含む不祥事続きで尊敬を完全に失っており、洛書にあざけられない日はない。結果、「都の地方勢力」に堕している。
支配する人口は非常に多いが文化的な反面、戦争に向かない人材の割合が多く、暴力による意志の強制にも成功していない雑魚ナメクジである。
本拠は増居。
九つ目は増田家。
増田島の長く狭い陸橋部を支配する増田家は律令制時代の駅長にはじまる豪族の出であり、社禝を守りじわじわと支配地をひろげていった結果、豪族からの二段JUMPで西増田島一の勢力と謳われるまでに成長した。
彼らが都の増田家を制圧してしまわないことは長年の謎とされている。下手に関わっても火中の栗を拾うだけであり、遷都などすれば柔弱な気質に染まると中興の祖が言い残したことが影響しているらしい。西方には年々攻勢を強めており、完全制覇がなれば都を抑えにでるとの観測もある。
本拠は増州。
十番目は増田家。
古代から大陸に対して開かれた湾港都市、増屋を支配する増田家は渡来人の血が濃く、一族の中には毛の色が増田島人一般とは異なる者までいる。大陸から導入した兵器を大量運用することで戦術や武勇の不足をおぎない周囲の弱小勢力を打倒した増田家であるが、より大規模な九つ目の増田家と十一番目の増田家との戦争では、文明力の差を軍事技術で埋められ、苦戦している。最後の三家の争いを特別に増田三国志と呼ぶこともある。
本拠は増屋。
十一番目は増田家。
増田島南端に位置する増田家は武勇の誉れ高く、それ以上に攻勢を一方向に集中できる利点を駆使して、勢力を拡大してきた。なお、家中は新参者に限らず犠牲になる粛清の嵐であり、酒の席はいつもピリピリしていたと言う。大喜利に滑った人間には容赦がない――が大喜利を強要する。
本拠は増林。
さあ以上、十一家の中で増田島の支配権を握るのは、どの家だ!?きみも当ててみよう。
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