はてなキーワード: ドーパとは
今日、35歳になった。
予定より5年も長生きしている。
27ぐらいになったらニートになって、そのあと創作活動に打ち込み、失敗したらそこで死ぬ予定だった。
27にニートになる所までは予定通りだったが、創作活動は3ヶ月ぐらいで行き詰まって気付いたらずっとゲームをしていた。
どうせならゲームやりまくって死ぬかと思っていたが、更に3ヶ月ぐらいでゲーム三昧にも飽きた。
年齢的にまだまだ準第二新卒ぐらいの立ち位置で就活が出来たので就活をし、結局ニート半年・就活生半年で社会人に戻っていた。
そこからダラダラ生きながらどこかで「でも予定だと死んでたし、また金溜まったらニートに戻って死ぬか」と思って暮らしていた。
そこから7年働いて、まあ2年ぐらいならまたニート出来るぐらいの金は溜まっている。
どうでもいい。
消費活動への熱意もない。
生きるのも死ぬのもどうでもいい。
あれほどあった「とにかく必死に生きていることに意味を見出したい。無理なら死のう」という気持ちは、生きることの苦しみに対価を求めての事だったんだろう。
正直今いる会社もそこまで良いものでもなく、昭和パワハラオヤジに育てられた4年目ぐらいの若造が昭和パワハラの真似事を後輩にしているのを見るたびに「このサル山に付き合っていくのは本当にしんどい」とげんなりしてしまう。
でも死ぬほど辛いわけでもない。
風俗・酒・ラーメン・パチンコぐらいしか楽しみがないと言う昭和オヤジたちの価値観も何となく分かってくる。
ああいった快楽装置(快楽主義に対してのツッコミに出てくる直接ドーパミンをドーパドーパさせる謎のマシーン)じみたものに脳と人生を委ねてしまうのは想像性がない代わりにある種の確実性と楽ちんさがあるんだろうね。
でもそういったものに頼り切ろうと割り切れるほどは人生が終わってないからSEKIROとかやったりして俺はまだ大丈夫だって言い聞かせているが実際には五十歩百歩な自覚はある。
こんな状態でも生きられるし別に社会人やっているのも最近は特に苦痛もない。
仕事で怒られが発生してもどうせお互いに社会人演じてるだけだと分かってきているから「(コイツの演技つまんねーな……和ドラかよ……)」と心の奥で突っ込んでればいいだけだと理解ってしまっているわけで。
あとはクソみたいな人生をダラダラ過ごして40~90のどっかで癌が見つかって死ぬだけだ。
どうせこんな人生を絞り出しても人を魅せるような物語やデザインが垂れてくる見込みはないんだし、本当にもうただただダラダラグダグダすりゃいいだけなんだなあ。
ふぇ~~~~~つまんね~~~~~~~気持ち的にはクッソらくちんだけど~~~~悟り開いちまったか~~~~~。
もう
レイドレースは、世界中のff14プレイヤーが一緒に遊べるお祭り。
MMORPGとはいえ、ワールドもデータセンターも別れていて、別データセンターの人と交流する機会はほぼないので、もちろんプレイヤーも知らない。
けど、レイドレースになれば、世界中の猛者が参加し、攻略スピードを競い合う。
world 1stになったところで、得られるものなんて名誉しかなく、公式からは世界一おめでとうのtweetがされるのみである。
レイドレース自体はプレイヤー間で自然発生的な感じで始まった非公式のお祭りだけど、公式も称賛だけだが一枚噛んでくれる。
ゲーム内にNFT的なもの、、それこそ某アニメなどにありそうな、世界で唯一のユニークスキルだとか、唯一のアイテムとか、そんなものはない。
あるのは吉田P/Dからのコングラッチュレーションだけである。
とはいえ、日常的に配信しているプレイヤーであれば、実利はある。
もともと配信に向かないと言われているff14だからそんな大したことはないだろうけど、14内での唯一のeスポーツ的なものと言えばこの非公式レイドレースである。
名前を売るにも絶好の機会ではある。
ff14自体外部ツールは利用禁止である。利用規則にも明言されている。もちろん、ソフトの改変やリバースエンジニアリングなども禁止である。
じゃあどこまでが禁止か?ということに関しては、吉田P/Dはずっと言及を避けてきている。
まぁ光の戦士であれば常識だとは思うが、詳細は過去の吉田P/Dの発言などでも見てほしいものだけど、
あたりであろうか。
多分感想は人それぞれだと思う。性善説で任せてもらっていると思う人もいれば、バレないようにやれよお前らと言われていると感じる人もいるでしょう。
今回の騒動の中でも、act(ダメージログの自動集計)はいいけどズームハック(クライアント改ざん)はダメって言ってる人もいるわけで(個人的にはどっちも難易度に直接関わるものなので両方ダメに決まってるだろと思うわけですが)。
で、この騒動の中で吉田P/Dがずっとぼかしていた部分を明言したわけですよ。
「今回、外部ツール不正使用が調査によって明らかになった場合、少なくとも僕は、当該チームをワールドファーストチームとは認めません。」
一歩踏み込んで来ましたね。僕はね、これはちょっとなぁと思っちゃったわけです。全方位に配慮する吉田P/Dにしては珍しいなと思った次第です。
まず、今回ツール発覚はチーム内部・関係者によるハッキングの結果の告発になります。前々回のネバーランドは自らツール使っていることを晒していましたが、今回はハッキングされた上で情報がバラされています。
もし、サーバー側で外部ツールの利用が確認できているのであれば、前回覇者にもペナルティが来るはずですが、それはなかった(と思う)。
ということを考えたら、ズームハックしてもログ上ではバレず、ペナルティはない。
まぁ、今回は大炎上したし、チームからも自首したようなので、そちらがメインなのかもしれませんが。
細かい経緯はわからないけど。まぁハッカー(正確にはクラッカーですけども)が得をするということは、今後レイドレースを行うチーム、ユーザーは常にハッキングに怯えることになるのもセットで考えなくちゃいけないのではなかろうか。
ツールを使っていなければいいというわけじゃなくて、ツールを使っているだろうお前!!って疑ってくるやつがクラッキングを繰り返す可能性があるということです。
なぜなら、吉田P/Dの発言は、クラッカーに正義棍棒をもたせることになったなと思うのですよ。
大炎上している、燃やしている側に正義棍棒を持たせるっていうのも、なんだか吉田P/Dとしてはなんとなく珍しいなと思った次第であります。
吉田P/Dがかのように明言されている以上、今後レイドレースは、外部ツールを使っていないことを証明しながらのクリアをしなくてはいけなくなるのですけども、
まぁいわゆる悪魔の証明との戦いなのよね。
なんだかドーピングと戦ってきたロードレース業界みたいだなと思った次第。
戦ってきたというとなんか違うな。ドーピングスキャンダルまみれだったという方が近い。
最高峰のレースであるツール・ド・フランス、99年から95年まで優勝者無しなんだから。
ランスアームストロングが7連覇したときだけど、ドーピング発覚で優勝剥奪になったけど、
何位までの選手がドーピングしているのか、今更全部調べきることできないからもう空白っていうことで!みたいな。
大きなレースとか大会の優勝者が、何年その座につけるのか、そっちの方が気になっちゃうのがロードレースだから。
ロードレースのドーピングは2つに大別されて、トレーニング中と大会中の2つ。
トレーニング中は回復力を高めることができ、質の高いトレーニングを通常より多くこなすことができるためのもの。
大会中もやはり回復力を高めることができるもので、心拍数190くらいで死にそうな状態で山を登っているときのもう一踏みを手助けしてくれるもの。
俺自身はドーパーなんて優勝者として認めないけど、とは言えドーピングすることで、他の誰よりもつらい状況に長時間いることができるようになるものかつ、
ロードレース界でいえば、当時上位者は全員ドーパーだったこともあり、結局のところイコールコンディションなので、まぁそれはそれでええんちゃうっていう気持ちもある。
ロードレースはドーピングスキャンダルにより、長い長い低迷期を迎えることになった。
今それなりに人気が戻ってきているのは、チームスカイがゼロトレランスをうたいながら、クリス・フルームという偉大な選手を育て上げたからだろう。
その流れを見てきたあとで、ff14の不正ツールスキャンダルを見れば、
それらを使ったところで俺にはクリアできないし、劇的に簡単になるわけでもない。
レース一位を競うには有利にはなると思うけど、使ったところで自キャラがコエチカモリモリのワンパンマンになれるわけじゃない。
一段と窮屈になるのが嫌だなーっていうね。
まぁ、個人的にはズームハックはもちろん、actもダメだし、discordも外部ツールだし、ヌシ釣り用の各情報サイトも外部ツールだし、YouTubeの攻略情報も外部ツールだと思っているので、グレーのままが良かったんだけどねぇ。
公式フォーラムに書く場所なかったからついでにここに書いておくけど、
もし本当にレイドレースを公式にしてレギュレーションも決めるのであれば、ぜひ一度ロードレース界の話を聞いてみるのがいいと思う。
個人的にはこれまで通り非公式且つコングラあり、ツール発覚時には通常より重めのペナルティ(一発垢バン)とかでいいんじゃないかなーと思っちゃうけど。
最後に、これだけの最高のコンテンツを、長時間に渡って開発してくれて、見ているだけでもドラマチックで感動的なバトルで胸が熱くなるもんで、
それが最終的にユーザー同士のいがみ合いの場として終わらせてしまったことに関して、
何よりも吉田P/Dはじめ開発スタッフの皆様に本当に申し訳なく思う。
吉Pごめんよ(土下座エモート
わたしが小さい頃、母はわたしをこうやって諭したり慰めたりした。
「世の中にはこんなに不幸な人がいるんだよ。それに比べてあなたは恵まれてるのよ。」
テレビでアフリカの貧しい人が映った時、湾岸戦争の時、駅の柱の下にうずくまっていたホームレス…。
わたしの家は貧しかった。父はわたしが生まれた直後に亡くなり、母はわたしを女手ひとつで育ててくれた。そのことは、本当に感謝している。何の技能も持っていない女が、社会に出てお金を稼ぐことの難しさを、わたし自身も社会人になってから身に染みて実感することができた。何度も心がくじけそうになったのだろう、そしてその度に母は上の言葉を自分にも言い聞かせていたのだろう。今ではそれがわかる。そうやって自分を奮い立たせ、わたしを育ててくれたのだ。
でも、当時のわたしはその言葉を聞きたくなかった。辛く悲しい気分になったからだ。自分より下の人間を見て、自分の幸福を噛み締める。では、もしわたしよりも恵まれている子(クラスの大抵の子はそうだった)が、わたしを見て同じことを思っていたら?
わたしに向けられた強烈な蔑みの目に、その架空の目に幼いわたしは怯えざるを得なかった。
「レナードの朝」という映画がある。原題は「Awakenings」といい、嗜眠性脳炎という不治の病を扱った実話にもとづく映画だ。数十年間昏睡状態にあり、石のように固まってしまった嗜眠性脳炎の患者たちに、新薬のL-ドーパを与えたところ一時的に意識を取りもどすが、次第に薬に対する耐性ができてしまい、また昏睡状態にもどってしまう。L-ドーパによって数十年ぶりに朝を迎える患者たちの”目覚め”と、この平凡で退屈な世界に対して驚き感動する患者たちが、周りの人達に与えた”目覚め”、この二つの”目覚め”が原題の複数形たるゆえんだ。
わたしはこの映画そのものはとても好きなのだが、ふたつ目の”目覚め”が言わんとするメッセージに、どうしても違和感を覚えてしまう。自分より不幸な人を見て気づか”された”幸せは、本当の幸せと言えるのか?もし幸せという状態があるとするならば、それは相対的なものではなく、絶対的なものでなくてはいけないはずだ。
2年前に早くして亡くなった母へ。
あなたの人生が、他の誰にも邪魔されることなく、幸せなものであったのなら嬉しい。だってわたしは、あなたの娘であるというだけで幸せなのだから。