はてなキーワード: レナードの朝とは
ある時、テレビで映画「フォレストガンプ」が放映された翌日、学校でセンセイが俺に言い放ちやがった。「お前は無能なフォレストガンプだな」って。その時は腹が立ったけども、よく考えたら当たってた。そうだよな、映画じゃ主人公のフォレストガンプは知恵遅れだけど、底抜けの優しさと脚の速さで皆から愛された。少なくとも才能があった。卓球だってアメリカ代表になるくらい強かった。
あぁ、わかるよ。とにかく愛されないんだ「俺たち」は。
ちなみに、製作者はフォレスト・ガンプをどう思っていたんだろうな。結論から言うと、彼らはガンプを愛したが、知的障害者は愛していなかった。監督のロバート・ゼメキスはDVDの副音声でこう言ってる。
監督が求めたのは、自分の意思がなく、状況をただただ受けいれるだけの純粋無垢なキャラクターだった。90年代の映画にしてはちょいと古くさい知的障害者像だ。
じゃあさ、「フォレスト・ガンプの時代に現実の知的障害者たちはどうだったの?」っつー疑問が浮かぶわな。そこで調べたんだが、1950年~1990年のアメリカは知的障害者にとっても激動の時代だったことがわかった。
劇中、フォレスト・ガンプ少年はIQの低さから公立小学校への入学を拒否されかけたのだが、ママが校長にファックを決めたおかげで難を逃れた。
愛する息子を守るため、裏技に手を出すのも当然だ。当時、知的障害者は施設にぶち込むのが当たり前だった。そして、施設はひどいなんてもんじゃなかった。
1965年にウィローブロック州立学校という知的障害児の施設がリークされた。
潜入リポーターが残した記録によると、4000人しか収容できないにもかかわらず、6000人にものぼる障害児が押し込められ、服を着ていない人や、ほとんど介助されず放置状態の人など、人間が生活する環境とはとても思えない状況だった。
とにもかくにも、この時代に知的障害であると判定をされたら終わり。その先に人間の尊厳はない。
1950年代には知的障害者の親たちが施設への批判を始めたという動きもあったらしいので、ガンプのママが知っていても全然おかしくない。
ちなみに、映画では校長から特別支援学校への入学をすすめられ、ママが「そんなところでタイヤの修理方法を勉強させません」なんて言い返している。
個人的には、史実に基づいたやり取りなのかという点でちょっと疑ってる。
というのも、当時の特別支援学校には簡単には入れなかったらしいからだ。教育を受けられる障害者は全体の5人に1人程度。軽度だからほいほいと入れるのだろうか。
それに、修理工の授業なんてあったのだろうか。卒業後、施設にぶち込まれるのであればそんなもの必要ないわけで。ここは有識者のコメントを求む。
血の日曜日事件のアラバマ州が舞台でありながら公民権運動をスルーしたことで、白人礼賛の保守映画と認定されがちな本作であるが、1960年代は黒人だけでなく障害者にとっても革命的な時代だった。
1963年には脱施設化の転機である「精神病及び精神薄弱に関する大統領教書(ケネディ教書)」が発表され、
1972年には、Wyatt vs. Stickneyの訴訟で、軽度の知的障害のある人たちは入所施設に収容されるべきではないという判決が出された。
公民権運動だって知的障害者に大きな影響を与えた。アメリカの障害当事者団体の中で一番強力な権利擁護運動団体といえば「ADAPT」だ。(まあ、身体障害者向けの権利団体なんだが)
設立者のウェイド・ブランクはガンプのお膝元アラバマ州で公民権運動にかかわっており、その運動のノリでADAPTを設立したってわけだ。
個人的には、ガンプがキング牧師に会わなかったことより、ウェイド・ブランクにスカウトされてないほうが疑問なわけだ。
アメリカ全体が脱施設化に向けて動きはじめたのはいいが、「じゃあどうやって地域で暮らすの」というのが目下の問題だった。
ガンプは走りたいから走っていたが、現実の知的障害者たちはそういうわけにはいかない。
結局デモなりなんなりで、「地域で暮らしていいよね!」、「俺たちにだって権利があるよね!」と市民の了解を得るしかない。
というわけで長い年月がかかったわけだが、1990年に「ADA法(障害を持つアメリカ人法)」という決定的な法律が成立した。障害による差別を禁止する公民権法だ。ダン中尉、政府のおっぱいは限界です的な裏事情はあるものの、いよいよ連邦政府が障害者の権利を認めたのだ。
「マイレフト・フット」、「レナードの朝」、「ギルバート・グレイプ」、「フィラデルフィア」。
90年代ハリウッドでは障害を肯定的に捉える映画がたくさん作られた。フォレスト・ガンプもこの延長線上にあることは間違いない。
革命的なのは2000年代のファレリー兄弟だろうな。いよいよ障害者ご本人が登場しちゃうんだもん。
さて、冒頭のロバート・ゼメキスの話に戻る。彼は障害を肯定的に捉える映画の企画が通りやすい状況を苦々しく思っていたのかもな。
「だって俺、興味ねーし」っていう。
結局ADA法に逆行するような、意思のない愛されキャラのフォレスト・ガンプが作られたし、世間もそれに乗った。
まあ、素の「俺たち」は苦々しく思われているわけだ。
「知的障害者」だって苦々しく思われてる、それは同じだ。それでも権利を主張してきたし、いくつかは勝ち取ってきた。
今じゃグループホームなんかで暮らしながら、地域生活をエンジョイしてる知的障害者もいる。
日本の話だけど、この前バリバラに地域で子育てしてる知的障害者の夫婦が出てたぜ。ハロー・1950年代、これが2019年だ。
だから、俺は無能な「フォレスト・ガンプ」をやめて、こいつらを参考にすることにした。権利があるんだって言いつづけてやるさ。
当然のように、俺たちにはその権利があるんだ。
ある朝、いや、夜でもいい。目が覚めたら、そこが30年後の世界だったらどうする?目覚める前とは全く違う場所、思うように動かない手足、鏡に映る自分の姿は30歳分年老いているとしたら?そんなこと、現実には起きそうもないから、真面目に考えるのは難しいよね。
でも、これは実際にあった話。ある病気で30年間、事実上眠り続けていた男が、優しくて熱心な医師の治療で30年ぶりに目を覚ます。その男は30年間の空白を埋めるように、本を読み、音楽を聞き、人と会話をし、恋をするんです。生きるって最高だなって思いながら、でも、病気が完全に治ったかどうかわからないし、投薬も続けているから病院からは出られない。病院から出たい、普通に生きたい。でも症状が安定しなくて、強い痙攣が止まらなかったりする。何もかも思い通りに行かない状況でどう行動するか、周りの人は何をしてあげられるか。レナードの朝っていうのはそういう映画。
映画のど終盤で、その男は、強い痙攣と戦いながら、好きな人とランチをするんです。痙攣を止められない、醜い自分を好きな人に見せながら、その男が何を言って、その女がどうするか。どうすると思う?たぶん、想像してることと全然違うことになるんだよ。そこで、泣いちゃうんだよね。そのシーンを見るためだけに、2時間があったと言ってもいいくらい、印象的なシーンなんです。
レナードの朝を誰かに勧めるとしたらこんな感じになるかもしれない。ネタバレしすぎな気はするし、こんなに長々話して、見てみたいと思ってもらえるか疑問。人に何かを勧めるって難しい。アカデミー賞の作品賞にノミネートされた映画です、みたいな権威付けしたくないし。難しい。
わたしが小さい頃、母はわたしをこうやって諭したり慰めたりした。
「世の中にはこんなに不幸な人がいるんだよ。それに比べてあなたは恵まれてるのよ。」
テレビでアフリカの貧しい人が映った時、湾岸戦争の時、駅の柱の下にうずくまっていたホームレス…。
わたしの家は貧しかった。父はわたしが生まれた直後に亡くなり、母はわたしを女手ひとつで育ててくれた。そのことは、本当に感謝している。何の技能も持っていない女が、社会に出てお金を稼ぐことの難しさを、わたし自身も社会人になってから身に染みて実感することができた。何度も心がくじけそうになったのだろう、そしてその度に母は上の言葉を自分にも言い聞かせていたのだろう。今ではそれがわかる。そうやって自分を奮い立たせ、わたしを育ててくれたのだ。
でも、当時のわたしはその言葉を聞きたくなかった。辛く悲しい気分になったからだ。自分より下の人間を見て、自分の幸福を噛み締める。では、もしわたしよりも恵まれている子(クラスの大抵の子はそうだった)が、わたしを見て同じことを思っていたら?
わたしに向けられた強烈な蔑みの目に、その架空の目に幼いわたしは怯えざるを得なかった。
「レナードの朝」という映画がある。原題は「Awakenings」といい、嗜眠性脳炎という不治の病を扱った実話にもとづく映画だ。数十年間昏睡状態にあり、石のように固まってしまった嗜眠性脳炎の患者たちに、新薬のL-ドーパを与えたところ一時的に意識を取りもどすが、次第に薬に対する耐性ができてしまい、また昏睡状態にもどってしまう。L-ドーパによって数十年ぶりに朝を迎える患者たちの”目覚め”と、この平凡で退屈な世界に対して驚き感動する患者たちが、周りの人達に与えた”目覚め”、この二つの”目覚め”が原題の複数形たるゆえんだ。
わたしはこの映画そのものはとても好きなのだが、ふたつ目の”目覚め”が言わんとするメッセージに、どうしても違和感を覚えてしまう。自分より不幸な人を見て気づか”された”幸せは、本当の幸せと言えるのか?もし幸せという状態があるとするならば、それは相対的なものではなく、絶対的なものでなくてはいけないはずだ。
2年前に早くして亡くなった母へ。
あなたの人生が、他の誰にも邪魔されることなく、幸せなものであったのなら嬉しい。だってわたしは、あなたの娘であるというだけで幸せなのだから。
ここまではまあいいよ。
個人的に賛成しなくもない。
オタクの自己評価のテンプレと言えば顔は「※」、性格は真面目系クズ、って感じだよね。
で、「モテたい」とか「男になりたい」とか言ってる奴に素直に聞く。
いや、どこにそんなオタクが居るのよ。
「モテたい」みたいな価値観に身を投じるのってやっぱりリア充志向の人だと思うけど。
オタクって言うのは良くも悪くもそういうとこからちょっと離れちゃってるわけで。
ていうか「男になりたい」ってなによ。
そんなこと言う奴オタクじゃなくてもなかなか居なくね?
キモオタとは別の方向に超気持ち悪い。
ほんのり加齢臭もする。
あと無意味なとこで「素直に」とか書くの
結局おまえら、どうなりたいの?
わかんねーのかよ!
いい機会なのでここで語らせてもらうが、俺の観測では
とか言って偉そうに出てきといて
結論は自分でもわかんなくなってる
ってなんじゃそら。
「オタクは男になりたがってる」
オタク叩きとしても相当周回遅れだよなこれ。
今はむしろ
「オタクは卑屈」
「要は勇気がないんでしょ」
「オタクは他人に興味を持ってない」
みたいな方向で叩くんだよ。
(っていうかこれも既に古くなってきたよな)