2014-05-02

人の不幸を見て幸せを噛み締めること

わたしが小さい頃、母はわたしをこうやって諭したり慰めたりした。

「世の中にはこんなに不幸な人がいるんだよ。それに比べてあなたは恵まれてるのよ。」

テレビアフリカの貧しい人が映った時、湾岸戦争の時、駅の柱の下にうずくまっていたホームレス…。

わたしの家は貧しかった。父はわたしが生まれた直後に亡くなり、母はわたしを女手ひとつで育ててくれた。そのことは、本当に感謝している。何の技能も持っていない女が、社会に出てお金を稼ぐことの難しさを、わたし自身も社会人になってから身に染みて実感することができた。何度も心がくじけそうになったのだろう、そしてその度に母は上の言葉自分にも言い聞かせていたのだろう。今ではそれがわかる。そうやって自分を奮い立たせ、わたしを育ててくれたのだ。

でも、当時のわたしはその言葉を聞きたくなかった。辛く悲しい気分になったからだ。自分より下の人間を見て、自分幸福を噛み締める。では、もしわたしよりも恵まれている子(クラスの大抵の子はそうだった)が、わたしを見て同じことを思っていたら?

わたしに向けられた強烈な蔑みの目に、その架空の目に幼いわたしは怯えざるを得なかった。

レナードの朝」という映画がある。原題は「Awakenings」といい、嗜眠性脳炎という不治の病を扱った実話にもとづく映画だ。数十年間昏睡状態にあり、石のように固まってしまった嗜眠性脳炎患者たちに、新薬のL-ドーパを与えたところ一時的意識を取りもどすが、次第に薬に対する耐性ができてしまい、また昏睡状態にもどってしまう。L-ドーパによって数十年ぶりに朝を迎える患者たちの”目覚め”と、この平凡で退屈な世界に対して驚き感動する患者たちが、周りの人達に与えた”目覚め”、この二つの”目覚め”が原題の複数形たるゆえんだ。

わたしはこの映画のものはとても好きなのだが、ふたつ目の”目覚め”が言わんとするメッセージに、どうしても違和感を覚えてしまう。自分より不幸な人を見て気づか”された”幸せは、本当の幸せと言えるのか?もし幸せという状態があるとするならば、それは相対的ものではなく、絶対的ものでなくてはいけないはずだ。

2年前に早くして亡くなった母へ。

あなた人生が、他の誰にも邪魔されることなく、幸せものであったのなら嬉しい。だってわたしは、あなたの娘であるというだけで幸せなのだから

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