はてなキーワード: formula 1とは
いわゆるフェミニズムの思想潮流の中に自分を位置付けられるほどは勉強してない。
F1公式の発表は以下だ。
we feel this custom does not resonate with our brand values and clearly is at odds with modern day societal norms. We don’t believe the practice is appropriate or relevant to Formula 1 and its fans, old and new, across the world.
「私たちは、この慣習が世界中の、これまでのそしてこれからのファンにとって適切だとは思わない。」
この台詞を言わせたのは「フェミニズムの圧力」「騒ぎ立てた人権屋」なのか?
どうも私にはそうは思えない。
間接的にはあると思う。
つまり、「modern day societal norms」の醸成に影響しているという点において。
ここからは憶測だが、F1公式の考える「modern day societal norms」にしたがった自分達のあり方が何なのか、というと、
性別と年齢とに関わらず誰もが参加できる「the glamour and spectacle of the Grand Prix」なのだと思う。
客層を限定するメッセージを発しすぎるという判断なのではないか。
(女性だって美しい女性を見るのが好きだと感じる人は多いだろうが、単純にターゲットの問題だ。)
こう考えているブコメが多数あったが、私はそうは思わない。
認めないのは
「性的魅力を、本人の自由意思に基づかず要請されたり搾取されること」で、
目指す理想の世界は
「その人の性的なことを、社会による強制や圧力を一切感じずに取り扱える世界」
だと思っている。
現にセックスワークに従事する女性の権利擁護はフェミニズムの範疇だ。
たとえば性行為を対価にお金を稼ぐ自由は尊重されてしかるべきだと思っている。
もちろん、若さと美しさを披露することで対価を得ることも当然、市場原理に保証されてしかるべき自由だ。
フェミニズムが、それらの行為自体を悪と見なしているように見えるのは、
それらが本当に自由意思で行われているか、疑わしいことがあるからだ。
たとえばセックスワークに望んで従事している、と笑顔で言い切る人がいたとして、
その影には本当にたくさんの要因が含まれることがある。
それはわかりやすいものを挙げてしまえば貧困であり、教育であり、環境であり、
その人個人の性体験であり、社会的な「性的魅力の取り扱い」に関する要請であり、
そしてそんなカテゴリワードが意味をなさないほどに、個人のいりくんだ感情と生育かもしれない。
そこに明確な線引きをすることなどできない。
フェミニズムの名のもとにずかずか入り込むことは許されない。
それでも、その人になにかを強制するものがもし何かあるならば。
もしあるなら、ひとつでもなくなってほしいと願わずにはいられない。
それが起きる社会についてかんがえるし、
それをさせている何か、誰かがいないかと考える。
私にとってのフェミニズムはそういう、自由と抑圧について絶えず考え悩む姿勢のことだ。
私は、私個人の経験から、性にまつわることの有形無形の「自由意思以外」を感じとってきたので
理想の世界があればいいのにな、と思っている。
私は「その女性が、自ら望んでグリッドガールとして働くこと」それ自体には一切の批判はない。
だが、同時に「グリッドガールという役割を作り出す社会そのもの」には疑問を投げ掛け続けると思う。
逆にいうならば、グリッドガール自身が、自分達の美しさと若さがブランド価値に寄与するのだと堂堂と言ってくれるなら、
そしてそこに内面化された抑圧ではなくて彼女たちの自由意思を信じることができるなら、
多いに祝福すると思うし、私が本当に望むのはそうした社会だ。
「それしかできないかわいそうな女性が仕事を奪われた」という構図で話したがる人がいる。
まず第一にこの話が「人権団体」の働きかけによるものだとはどこにも書いてないし、
第二に、グリッドガールは「それしかできないかわいそうな子達がようやく得た仕事」ではない。
彼女たちが美と若さを売り物にするための市場がひとつ消えてしまったのは事実だ。
グリッドガールを夢見ていた女の子がいたら気の毒だとは思うが、
小人プロレスの都市伝説になぞらえて語るものでもまたないのではないか。
だが同時に、グリッドガールは弱者ではない強者だ!ともいえない。
「美しさを競い続け、選ばれ続けるために努力し続け、そしてその先に待つものがなにか」という問題について踏み込むとき、
そこには「誇りをもって美しさから対価を得ていたのに、フェミニストに仕事を奪われたかわいそうなグリッドガール」という弱者像とは別の
「美しさを対価にお金を稼ぐことの苦しさと弱さ」は浮かんでくる。
美しいグリッドガールと嫉妬に歪んだフェミニストが叩きあうという構図をお望みのかたはたくさんいるようだった。
フェミニストは「男性=強者」から「女性=弱者」を守りたいと叫んでいるのに、
ほんとうはグリッドガールを抑圧する「強者」なのだ!という転倒の痛快。
そこにあるのは、普段「社会と女性」の構図でフェミニズムが叫んできた構図のパロディである。
フェミニストという醜いモンスターとグリッドガールという美しい虐げられた弱者ならば
自分達に関係なく、そして美しく弱いものを心置きなく応援できて、
普段から気にくわなかったフェミニストたちを存分に叩けるのだ。
きっとさぞ楽しいのだろう。
だから、特に声明には書かれていないフェミニストは引きずり出され、
さらに関係が疑わしい「人権擁護団体」(誰なのかはよくわからない。架空のそういう人たち)を叩き、小人プロレスを引き合いに出している。
そういう人たちがたくさんいる。
グリッドガールがなくなることが正しいとおもうか?
わからない。
わからない。
けれど確信しているのは、上記のようにみにくいプロレスを望む人の声にのせられて、ファイティングポーズをとる必要はないということだ。
私は、できれば自由について話したい。
自由について、美しさや若さや性を売る自由について、その価値と市場について、それが売り手にとって苦しみをもたらさないための社会について。
それがいくつもいくつも積み重ねられて、次の「modern day societal norms」の話ができることを真剣に望んでいる。