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2020-07-22

anond:20200722144729

愚者迷宮」というwebラジオを聞けばいい。

F1パイロット奇人変人ばっかという切り口からおもしろエピソード満載でF1を紹介してくれる。

 

以下URLの「*F1Formula 1トーク*」部分にF1話をしている回がまとまってる。

https://ch.nicovideo.jp/haniwasan/blomaga/ar1527939

2018-02-03

いちネトフェミの思うグリッドガール問題

たぶん自分はいわゆるネトフェミで、

フェミニズム的な考え方に共鳴はしているが

いわゆるフェミニズム思想潮流の中に自分位置付けられるほどは勉強してない。

で、グリッドガール問題について思うことを語る。

そもそもフェミニズム問題なのか?

F1公式の発表は以下だ。

we feel this custom does not resonate with our brand values and clearly is at odds with modern day societal norms. We don’t believe the practice is appropriate or relevant to Formula 1 and its fans, old and new, across the world.

私たちは、この慣習が世界中の、これまでのそしてこれからファンにとって適切だとは思わない。」

らしい(特に英語に堪能ではないので間違ってたらすまない)。

この台詞を言わせたのは「フェミニズム圧力」「騒ぎ立てた人権屋」なのか?

F1運営組織はそんなに脆弱立場が弱いのか??

どうも私にはそうは思えない。

F1というブランドをどう運営していくかという考えのもとに

主体的に下された決断のように、私には読める。

じゃあフェミ関係ないっていうのかよ

間接的にはあると思う。

まり、「modern day societal norms」の醸成に影響しているという点において。

だがそれは必ずしもフェミニズムイコールではない。

ここを勘違いしているブコメ言及記事が多いように思う。

ここから憶測だが、F1公式の考える「modern day societal norms」にしたがった自分達のあり方が何なのか、というと、

性別と年齢とに関わらず誰もが参加できる「the glamour and spectacle of the Grand Prix」なのだと思う。

そのためには、美しい女性をずらりと取り揃えるという行為

客層を限定するメッセージを発しすぎるという判断なのではないか

それは、フェミニズム関係ない、単純な商業判断だ。

(女性だって美しい女性を見るのが好きだと感じる人は多いだろうが、単純にターゲット問題だ。)


フェミニズムは「女性性的魅力」を認めないのか

こう考えているブコメが多数あったが、私はそうは思わない。

認めないのは

性的魅力を、本人の自由意思に基づかず要請されたり搾取されること」で、

目指す理想の世界

「その人の性的なことを、社会による強制圧力を一切感じずに取り扱える世界

だと思っている。

現にセックスワーク従事する女性の権利擁護フェミニズム範疇だ。

私は、その人が完全に自分自由意思に基づいてするのならば、

たとえば性行為を対価にお金を稼ぐ自由尊重されてしかるべきだと思っている。

もちろん、若さと美しさを披露することで対価を得ることも当然、市場原理保証されてしかるべき自由だ。

フェミニズムが、それらの行為自体を悪と見なしているように見えるのは、

それらが本当に自由意思で行われているか、疑わしいことがあるからだ。

たとえばセックスワークに望んで従事している、と笑顔で言い切る人がいたとして、

その影には本当にたくさんの要因が含まれることがある。

それはわかりやすものを挙げてしまえば貧困であり、教育であり、環境であり、

その人個人の性体験であり、社会的な「性的魅力の取り扱い」に関する要請であり、

そしてそんなカテゴリワード意味をなさないほどに、個人のいりくんだ感情と生育かもしれない。

何が自由意思で何が暗黙の強制なのか、

そこに明確な線引きをすることなどできない。

フェミニズムの名のもとにずかずか入り込むことは許されない。

それでも、その人になにかを強制するものがもし何かあるならば。

もしあるなら、ひとつでもなくなってほしいと願わずはいられない。

それが起きる社会についてかんがえるし、

それをさせている何か、誰かがいないかと考える。

私にとってのフェミニズムはそういう、自由と抑圧について絶えず考え悩む姿勢のことだ。

私は、私個人経験から、性にまつわることの有形無形の「自由意思以外」を感じとってきたので

理想の世界があればいいのにな、と思っている。

仕事を奪われたグリッドガールについて

私は「その女性が、自ら望んでグリッドガールとして働くこと」それ自体には一切の批判はない。

だが、同時に「グリッドガールという役割を作り出す社会のもの」には疑問を投げ掛け続けると思う。

逆にいうならば、グリッドガール自身が、自分達の美しさと若さブランド価値寄与するのだと堂堂と言ってくれるなら、

そしてそこに内面化された抑圧ではなくて彼女たちの自由意思を信じることができるなら、

多いに祝福すると思うし、私が本当に望むのはそうした社会だ。

グリッドガール弱者なのか

小人プロレスにまつわる都市伝説になぞらえ、

「それしかできないかわいそうな女性仕事を奪われた」という構図で話したがる人がいる。

まず第一にこの話が「人権団体」の働きかけによるものだとはどこにも書いてないし、

第二に、グリッドガールは「それしかできないかわいそうな子達がようやく得た仕事」ではない。

しろオーディションを経て勝ち抜いた女性たちだ。

彼女たちが美と若さを売り物にするための市場ひとつ消えてしまったのは事実だ。

グリッドガールを夢見ていた女の子がいたら気の毒だとは思うが、

小人プロレス都市伝説になぞらえて語るものでもまたないのではないか

だが同時に、グリッドガール弱者ではない強者だ!ともいえない。

「美しさを競い続け、選ばれ続けるために努力し続け、そしてその先に待つものがなにか」という問題について踏み込むとき

そこには「誇りをもって美しさから対価を得ていたのに、フェミニスト仕事を奪われたかわいそうなグリッドガール」という弱者像とは別の

「美しさを対価にお金を稼ぐことの苦しさと弱さ」は浮かんでくる。


「殴られる弱者」のパロディで楽しむ人たち

美しいグリッドガール嫉妬に歪んだフェミニストが叩きあうという構図をお望みのかたはたくさんいるようだった。

フェミニストは「男性強者から女性弱者」を守りたいと叫んでいるのに、

ほんとうはグリッドガールを抑圧する「強者なのだ!という転倒の痛快。

そこにあるのは、普段社会女性」の構図でフェミニズムが叫んできた構図のパロディである

そして、その争いは「男性」でも「社会」でもない、

フェミニストという醜いモンスターグリッドガールという美しい虐げられた弱者ならば

自分達に関係なく、そして美しく弱いものを心置きなく応援できて、

普段から気にくわなかったフェミニストたちを存分に叩けるのだ。

きっとさぞ楽しいのだろう。

から特に声明には書かれていないフェミニストは引きずり出され、

さら関係が疑わしい「人権擁護団体」(誰なのかはよくわからない。架空のそういう人たち)を叩き、小人プロレスを引き合いに出している。

そういう人たちがたくさんいる。

グリッドガールがなくなることが正しいとおもうか?

からない。

F1判断は正しいものか?

からない。

スポーツにおける「添え物の女性」には価値がないとおもうか?

簡単には結論が出せない。

けれど確信しているのは、上記のようにみにくいプロレスを望む人の声にのせられて、ファイティングポーズをとる必要はないということだ。

私は、できれば自由について話したい。

自由について、美しさや若さや性を売る自由について、その価値市場について、それが売り手にとって苦しみをもたらさないための社会について。

それがいくつもいくつも積み重ねられて、次の「modern day societal norms」の話ができることを真剣に望んでいる。

 
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