はてなキーワード: 安保闘争とは
闘争だ。いまは闘争の時代なんだ。学生運動とか、安保闘争とか、運動母体が負け続けてきた闘争がまた激しく再燃しかけているんだ。
人々はインターネットを介して集う。演説は、なにも集会で行う必要がなくなり、どこであってもいつからでも、聴衆になることができて発言者になれる。
不鮮明な熱量は確かに大きくなり続けて、いつの日にか火山みたいに噴火するのかもしれない。大きな大きなうねりになれば、何かが変わって勝つこともできるのかもしれない。
運動母体が得る始めての勝利。仮にそれが実現したらどういう状態になるのだろう。勝者は敗者を虐げ、新たな秩序を打ち出すことができる。権力者になることができる。
もし運動母体が大勢に打ち勝つことができて、その後権力を握り得たとして、その権力を行使する主体は誰になるのだろう。
広がりに広がったネットワーク媒体だろうか。それとも旧来どおり中枢をなす人物たちによる統制なのだろうか。
侃々諤々としたネットワーク上の民意による体制が築かれたとしたら、なんだかSFっぽいなあって思う。
もちろん、個々人の判断を礎に据えているとは言え、その総意としてまとめ上げられた一個の意見が――とかなんとか考えたけど、法律も似たようなものじゃないねえ。
神様が生まれるかと思ったけど、そんなことなかった。いや、それとももうすでにたくさんの神様がいると考えてもいいのかもしれない。
違うか。ファジーなプログラムがあるだけか。超高性能なコンピュータマシンが、無数のプログラムを起動させているだけなんだろうな。
仮想現実。マトリックスの世界観。少し違うのは、コンピュータを形成しているのがその中で蠢いている無数の意思であることか。
私たちの総意で汲み上げられた倫理なり良識なりに、私達自身が縁どられて生きている。個体を律して、安定を育む。度を越すと、それらに縛られてしまう。
不思議な感じだ。同調圧力とか、空気を読むといったこと。あるいは偏見とか、典型的なものの捉え方というものを想像すると、無機質な無生物によって個人が支配されてるような気がしてくる。
法則と呼ばれるようなものって、だからやっぱり神様に近いなあって思う。神様の残り香見たな。そういうものによって私たちは支配されているし、自然だって規制されてる。
すごいなあ。でも、いつか根本的に常識を覆してしまうような、例えば星を継ぐものにあった大々的な発見があれば面白いなあって思う。そういうことがあってほしい。
ところで、星を継ぐものに書かれてた、新たな化合物の発見って、どこで回収される伏線なんだろう。あれだけ気になる。どういうことだったんだろう。
◎普天間糊塗策に欺瞞の構図
ttp://thenagatachou.blog.so-net.ne.jp/
散々「県民の民意重視」と煽っておきながら、普天間移転反対派が市長選挙に勝つと水をかける。これをマッチポンプ政治という。首相・鳩山由紀夫と官房長官・平野博文が口裏を合わせたように普天間移転の「現行案排除せず」を表明したことほど、国民を愚弄(ぐろう)する論理はない。名護市長選の結果は紛れもなく普天間移設が不可能に近くなったのであり、鳩山、平野はそれを知りつつ当面糊塗策に出たのだ。「欺瞞(ぎまん)の構図」が透けて見える。
恐らく練りに練った方針に違いない。鳩山が「我々はゼロベースであらゆる可能性を探る」、平野が「(選挙結果を)斟酌(しんしゃく)しなければならない理由はない」と発言した。あえて統一見解的に現行案を排除しない方針を表明したのは何故か。まず第一に排除したら県外移転か現状固定かしか選択肢がなくなり身動きできなくなる。次ぎに米国の「普天間移転が唯一の解決策」とする方針に反して、交渉に亀裂が生じる。とりわけ対米配慮の面では、“アリバイ”作りの側面が大きい。反対派が勝った困難な状況の中で、可能な限りの努力をしたという“演出”である。米国には普天間以外への譲歩を求める口実となる。
さらに政治姿勢として問題なのは、「失政批判」となって政権を直撃することへの“逃げの一手”の側面だ。国会論議などへの予防線だ。鳩山は昨年まで「名護市長選の結果も見て」「名護市民の思いを斟酌」などの発言を繰り返しており、沖縄県民に間違ったシグナルを送り続けた。これが寝た子を起こした結果となり、反対派をにわかに勢いづかせたのである。まさに自縄自縛の失政であり、一自治体選挙が国家の安全保障を左右する事態を招いてしまったのである。政権内部に「負けた方がやり易かった」という驚くべきコメントがあるのはその辺の事情を物語っている。参院選挙に向けて安全保障問題で自民党を利する結果も招きかねない。
このような事情を背景に当面を糊塗する策として現行案排除せずの方針を表明したのだ。本気でそう思うなら何故市長選挙の前から発言していなかったかということだ。しかし実際に排除せずに普天間移転を実現できるのか。いくら鳩山でも地元市長からノーを突きつけられて、移転を強行できるとは思っていまい。もし強行しようとすればまず社民・国民両党が離反して、連立は崩壊する。民主党内も確実に割れて分裂状態になる。そして普天間移設反対闘争が現地と中央で大きなうねりを見せる。反対闘争は安保闘争に次ぐくらいの規模になる可能性もある。このような背景があるにもかかわらず「ゼロベース」「斟酌しない」発言を繰り返しても誰が信用できるか。まさに浮き上がるのは当面糊塗の欺瞞性のみである。
社説から新聞世論をみれば朝日が「県外探しを加速せよ」毎日が「辺野古反対の民意重い」と現行案反対。読売が「それでも辺野古移設が最善だ」産経が「首相は政治生命をかけて地元を説得せよ」と現行案推進だ。国論は真っ二つに割れた。すべて鳩山のせいにするのを「唯鳩論」というが、やはりこればかりは鳩山の優柔不断、首相としての素質のなさが招いた結果
と言わざるを得まい。
今月13日の産経新聞「産経抄」では白洲次郎の言う「プリンシプル」の例として、60年代末の安保闘争について白洲が提起した「自分のふところ勘定だけで防備すればいくらかかるか」という視点を挙げている。
また暗に、フィリピン人不法滞在一家問題で、他人のパスポートで入国した両親を強制送還すること、ならびに公立高校における授業料滞納者に卒業証書を渡さなかったこと、もプリンシプルの例としている。
産経抄でのプリンシプルの訳は「原則」。ちなみに旧白洲邸の公式サイトでは「信条」という訳語を当てている。
さて。
2009年の今を生きる私が白洲次郎の口を借りて話すならば、と考えてみる。その場合、日米安保のプリンシプルとしたいのは自国の防衛費の額ではなく、東アジアの平和だ。今日本から米軍が去れば、或いは逆に今後十年の滞留を決定すれば、それが東アジアの平和にどう貢献できるのか、といった軸だ。平和以外どうでもいいと言い切ってもいい。
また不法滞在の話に関しても同様に白洲を気取って言うならば、どうすれば皆が幸せかという話でしかない。不法滞在が横行しそれによる犯罪の増加があり、という状況は幸せではないし、2万人の同情的な署名を集める人を法にそむいたという理由で強制送還する社会も幸せに暮らせる社会だとは思わない。
授業料滞納問題も同様。なぜ授業料滞納が問題かといえば、それを認めて滞納がはびこれば公立学校のシステムが崩壊し、教育の機会が減ることで私たちが不幸になるからだ。なぜ卒業証書を渡さないことが問題かといえば、やむを得ぬ事情で授業料を滞納した人が、それが理由で卒業できない社会はやはり不幸な社会だからだ。
つまり、私にとって白洲次郎のプリンシプルとは、原則ということばを使うならば「大原則」とでも言うべきものだ。翻って、産経抄の言う「プリンシプル(原則)」は「小原則」だ。規則であって、プリンシプルではない。皆が幸せになれないから悪なのではなく、法を守らないから悪なのだ、という主張は視野が狭く、内向きだ。
13日の産経抄は白洲を引いたりすべきではなかった。白洲は愛国者であろうが、産経によく見る内向きの愛国者ではない。内向きの論理だけでケンケンガクガクやっている新聞屋たちを外国人的な視点で見て、もう少しプリンシプルに注目したらどうだ、と言ったのがまさに白洲であった。
友人が「うつ病」になった。
俺は「うつ病」という表記が何だか嫌いだ。
鬱と書いた方が内実を表している気がする。「憂鬱が極端になった状態」だろ?
難しい漢字だから、平仮名なのか?難しい病気なのだから、仕方ないだろう。
親友と言うほどではないから、詳しい理由とか、あまり踏み込んで聞けない。
まあそれもあって、いろいろ考えた。
こういうことがあってからテレビとか見てると、本当にうつ病ってのが社会問題化してんだな、と思う。
あるいは、問題化されてるのか。
クローズアップ現代でも、NEWS ZEROでも、どこでも野村総一郎氏が出てくる。
うつ病という病気が広く認知され始めたのは近年だし、そうなってくるとうつ病じゃなかった人もうつ病になる、ということも起きてくるだろう。
だから普通、増えてるなんてのはまやかしだ、レッテル貼りをしているだけだ、うつ病なんて昔からあるんだよ、という言説が聞かれる。
それはそうかもしれない。でも、そういう言説が起きてくるのは、「うつ病患者が増えると言う社会現象」の原因がわからないから、思い当たらないからじゃないだろうか。
ごめん、俺はやっぱうつ病患者は以前より増えてるってスタンスを取りたい。
件の野村総一郎氏は、原因をこう推測していた。
うつ病を患っている方は、おそらく社会全体の指導原理を求めているんです。どういう生き方をしたらいいか、ガイドが欲しいんですよ。だけど、そのガイドしてくれるものがない。(http://www.nikkeibp.co.jp/feature/080521_illness_01/index3.html)
まあ、俺はそんなの違うんじゃないか。って思うけどね。
ただ、社会現象として捉えたいってのは同じだ。
以上前置き。
キラ☆キラとか、みんなやっただろ?やってない?じゃあやった方がいい。
パンクってのは怒りなんだよ、ってことがテーマになってる、手ごろな作品だ。
俺は、この怒りってのが今の世の中に必要だと思う。
いや、言い方が違うな。
今の世の中には、怒りってものがないんだ。だから、こんな「変な」ことになってる。
後期高齢者医療制度の件でも、年金の件でも、ガソリン価格高騰の件でも、怒っているのはマスコミだけだ。
「社会に対して怒る」ってことが、今の世の中には、ない。沖縄の教科書抗議デモだって、朝日が人数水増しするくらいだ。
ある意味で、「『大きな物語』の喪失」が原因であるのかもしれないが、社会へ怒ることよりも、社会に絶望することが先に来ている。
糸色望が、絶望した絶望した言ってるけど、マジレスすれば、お前絶望してないだろ。ふざけんな。
安保闘争とか、学生運動とか、俺が生まれる前の出来事だ。だから、当時行動を起こした人々が何を考えてそれをしたのか、俺は知らない。
ただ、それってやっぱり、「怒り」だろ?
今は、消費税上げる、って言ったって、ああやだな、って諦めてるだろ?
俺は、何も考えずに増税反対、なんて言うつもりはない。必要だって思ったら賛成するさ。
ただ、理由とかよく知らないのが大多数の人間ってもんで、そいつらは知らないんだから、怒ったっていいんだ。
やっぱり、そこで、上が言ってるから従おう、って思ってんのか知らないが、諦めが生じてるはずなんだ。
怒りを持つ事ってのはエネルギーが要ることだと思う。だからかもしれないが、この日本社会は、明らかに「諦め」が支配してる。
それって、俺はやばいんじゃないか、と思う。
うつ病増加の原因。
俺はこれじゃないか、と思ってる。諦めの支配する現代社会だから、人はすぐ鬱になって死んじまう。
怒りを持ってたら、死ぬ気なんて絶対怒らないぜ。
で、ここまで書いたはいいが、俺は一番大事なこと、じゃあどうして現代社会が「諦め」に支配されてんのか、ってことをまだ書いてない。
告白すると、確証をもてるアイデアは、俺はまだ持っていない。
怒りに満ちていたはずの社会を知らない俺には、それを得る権利はない。
いくつもの理由が考えられる中で、ひとつだけ言うとすれば、やっぱ大戦かなあ、と。
終戦で、日本の持っていた(明治以降作られた)伝統的な家父長的社会が崩れた、ってのはよく言われている。
抑圧は誉められたものではない。しかし、抑圧の中でこそ、光る物が出てくる。そういう言説も、中世芸術の支持者とかによくあって、俺はその考えもありかな、なんて思っている。
終戦以降生まれた日本人、それは「抑圧」を知らない。
「抑圧」世代が主流でいて、かつ自由主義的な政府だった60年代、70年代というのが、一番「怒り」が現れやすかった、とも言えるだろう。
すごく解りづらい文章な気がするから、主張をまとめる。箇条書きだけども。
・うつ病ってのは本当に増えてる
・指導原理云々ってのは関係ない
・怒りが諦めに駆逐されてるのが原因(表題)
・その一因には、終戦による家父長的社会の崩壊がある
俺は、この社会に怒っている。
だからといって何も出来ないが、少なくとも諦めはしない。