はてなキーワード: 隅田川とは
「やばい とても分かる。」の人です。
年代や境遇の違う人と仲がいいのも、何かで職場の人に知られると叩かれるかも。だけれど、そこは華麗にスルーして生きた方が楽しいです。ええ、絶対に。
かくいう私も、年代や職業が違う人とばかり仲良くなっていく自分に
(私は何か間違っているのでは? おかしいのでは? 同世代からハミゴにされるおかしな挙動をしているのでは?)
と疑問を抱いたり、苦しんだりしました。
ついでにいうと、40代半ばの何年か、自分たちにこどもが居ないのでこどもが居る人ともうまくいかないという思い込みがありました。そのために、子ありの人を自分から避けてきていたなとやっと認められるようになりました。
枠を自分で決めたら、自分が嫌がった「話題が限られてる人」と同じなのよね。だめじゃん、自分、と。
とりあえず、違うっていうことを拒否する文化がある場所がある、ということは、こちらの努力では変えられません。梅雨が日本にあるように、いちゃもんフェスティバルは季節の風物詩だと思って眺める程度に。
もしかしたら風物詩をみて、あなたが孤立しているだのなんだの言う男性社員が現れるかもしれません。違うことを拒否する文化の激しさ・拒否される側のつらさを述べたところで、なかなか理解されないことは、今回のコメントを見ても分かるのではないでしょうか。今回のが元増田さんが爆発気味の愚痴をぶちまけたからそのやり方で反感を買った、とも見えますが、じゃあ丁寧に書いたら理解してくれたかといったら、多分違うでしょう。
その辺は「隅田川の花火」と「それに伴う電車の混雑」みたいな関係です。
すいている路線に乗り換えて、自分と同じようにいろんなことを面白いと思っていて一緒に楽しめる友達や仲間がどこかに居るんだわ~と、放浪しましょう。お互いに。
日本人はとりわけこの傾向が強いのだが成功術や幸福術に対して猜疑的と言えるほどに否定・反発する風潮が広くみられる。
また、より一般的な話になるが現代人に広く見られる傾向として、絶対的価値観に対する無条件の反発のようなものも広くみられる。
ひるがえって、近代科学が知識人たちにもたらした仮説思考とは、集めた情報、持ちうる情報から検証を重ねて一定以上の確率で正しいと推論される主張を「さしあたり」支持するというものである。
だから、何もその主張を絶対的に支持するわけではないが、「さしあたっては」絶対的に支持しているような「素振り」をとっている、と言えないこともない。
そういったものに対しても、「自分の考えを正しいと信じて疑わない」「自分以外はみんな間違ってると思ってるよアイツ」みたいな言い方を平気で出来てしまうのである彼らは。
いわば、絶対性アレルギーとでも言うか、「絶対なんて絶対ない」から感じる滑稽さに近しいものを感じざるを得ない。
むろん、彼らも絶対的に絶対性を否定しているわけではなく、あくまで「素振り」であると断じてしまうことは簡単である。
しかしながら、素振りであるにしても、幸福術に対するアレルギー反応を観察していると、これは人生簡単にいく方法なんてないから簡単な方法を否定しているといった人生の構造そのものの難しさにだけ帰着できる問題というより、
もはやこれはアレルギー反応を起こす人々に特有な精神性に問題があるのだなあと私は考えるのである。
バイト先の近くのローソンに過剰なサービスを提供するありがた迷惑な店員がいるのだが、最初それは店側の意向なのかと思っていた。
通常おかしな店員がいれば他の店員が注意したり客が苦情を申し立てたりするはずで、とっくに修正されているはずであるから、店側の方針と考えるのは自然なことである。
だが、その店に通い詰めるにつれて、明らかにその店員だけ特殊であることに気づき、これは誰も注意しないだけなんだと判明した。
すると不思議なのが何故注意しないのかである。その店員がおかしいと思っているのは俺だけなのか?いやそんなはずはない。では何故注意しない?
結局導き出された結論は、誰もがそんな些細なことはスルーしているのだ。彼は法をおかしているわけでもなく、あからさまに害を及ぼしているわけでもない。ただちょっとウザイだけである。
仕方ないのだ、そういうキャラなんだから。たまには迷惑そうにする客もいるだろう。実際、おかしな顔で彼をにらんでる女性客を見かけたことはある。「なんだこの馴れ馴れしいヤロウは」みたいなw
だが、否定派の俺が見ても彼はイケメンだから注意する女性も少ないのかもしれない。結局、ハルヒじゃないが最初は「なんだこいつ」と思う人が多いだろうが
「まいっか」の精神で最大公約数的な答えに落ち着いているのだろう。思えば世の中にはGCMを計算してくれる既成のプロパガンダやプロパガンダ機能を有するサービス・機関があふれかえっている。
「こまけーこたぁいいんだよ」とばかりに様々な無数の懸念事項を隅田川に勝手に不法投棄し、東京の街は成り立っている。
表向きは綺麗に見せかけているが水中では足をばたつかせている白鳥のように、クローゼット突っ込み整理術のように、強引に人々の心のゴミを片付け、夢を見させる。
言うなれば、その延長に絶対性への拒絶反応や幸せに生きる方法に対する無条件な否定や猜疑的反発や神経症的激怒があるのだろう。
心のどこかでは幸せに生きたいと願いつつも、その思いは叶わないから「ゴミ」であって削除されなければならないのだ。彼らの中では。
そこで手っ取り早くゴミを片付けて(結局それは先送りしてるだけで片付けには成功してないのだが)夢を見させてくれる既成プロパガンダにしがみつく。
そしてテキトーに組み合わせて自分のためのつぎはぎだらけの不格好な体系をこしらえる。それが彼らの声帯なのだ。
なぜこれが深刻な問題にならないかというと人々はそれなりに幸せだと思い込むことが出来ているからである。いろいろ不平不満を表面では言いつつも、実は大して彼らは困っていない。
しかし、こうも考えられないだろうか?中には本当に困っている人もいると。あるいはまた、困ってはないがもっと幸せになりたいと願っている人もいると。
だから日本に生きる人たちは気をつけないといけない。自分がその該当者だとしたら現実から目を背けてインスタントなツギハギプロパガンダの夢を見るのは得策ではない。
そういった人たちが既成の幸福術を実践したところで、ツギハギプロパガンダの悪影響を強く受けてしまうから失敗に終わることが多いのだ。
そして明日には二の轍を踏むかもしれない人間が平気でそういった人たちをつかまえて、だから無理って言っただろと非難する。そういう構造になっているわけである。
科学を篤く信奉する我々は、彼らの永遠なるごっこ遊びを真似してはいけない。毅然とした大人の態度で、GCM計算から一歩置く必要がある。
絶対なんて絶対ないと言いながらGCMのトリコになってる彼らとは違う。科学者の言う相対主義とは、仮説思考であり、方程式の適用限界の確認である。
ほにゃらかほにゃらかだと念仏のようにとなえるだけではだめで、直接話法を使いなさい。「「おっぽれだからほにゃらかだ」と思う」と言わないとダメ。カッコつけずに括弧をつけろと高校数学で習っただろ?
雨後の水曜日。その日はやたらと、消防車のサイレンが聞こえていた。
何ヶ月かに一回来る、訳のわからない鬱の日がきた。
シャワーにあたりながら、このまま死んでしまえれば
ものすごくいいんだろうな、生まれなおしたいなと
思いながら、いつもと違う鬱状態をどんよりとしていた。
結局、自分は勇気が無かったから、死ぬことが出来ずに会社に向かう。
さっきまで、死のふちに立っていたと思い込んでいる人間が、
管理人に咎められるのを恐れながら、非常階段を音を立てずに降りる。
そこでは、普段聞いた事の無い黒電話のなる音。
正面には消防車、防毒マスクをつけたオレンジ色の服を着た救急隊員達がいた。
「この建物の六階で硫化水素が撒かれました。もし何か重大なことが起きたときのために
連絡先と会社を教えていただけますか」
冷静に答え、時間があまり無かったが、ゆっくりと玄関から出て行った。
建物の横で担架に乗せられて、酸素マスクをつけてぐったりとしているネクタイをしたサラリーマン。
この人が自殺を図ったのだろうか。しかし、ネクタイをしているし、違う人なのだろう。
黄色い走査線を超えて、角を二度曲がると、いつもの日常がそこにあった。
一線を越えた、本人はどこへ行ったのだろう。勇気のある人。
今後の生活するうえでのリスクを拒否してまで、実行できた彼が羨ましい。
真面目にマジレスすると。
1648年には幕府が隅田川以外での花火の禁止の触れを出しており、
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1717年には水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げている。1733年、……両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、それに合わせて大花火を披露し、これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われている。
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1889年2月11日の大日本国憲法発布の祝賀行事で、二重橋から打ち上げたものである。
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花火大会として1946年9月29日と30日に土浦市で開催された
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花火の消費は夏に集中しており、そのほかの季節はあまり需要が無い。これは、花火が川開きに使用されていた名残だといわれている。
http://anond.hatelabo.jp/20070226113632
隅田川越えた東へ一度来て御覧なさい。
本当の東京はとても貧しいということが良く分かります。
自分の在所だから悪口ではないので念のため。