はてなキーワード: つるかめ算とは
そうやって採用をおこなってきたところで、採用時に地頭のいい人だと思って採った人のその後の貢献度が高かったという実績が長年積み重なってきたから。
企業だって馬鹿でもなければ簡単に生き残れるものじゃないんだから、多くの企業が長年やっていることには相応の意味があるんだよ。
ただし、増田の思っている地頭はちょっと変で、動物喩えの巧さとかは普通は地頭とは言わないと思うよ。地頭はそこでは見ていない。
あと、つるかめ算とかも、習ってそれが巧くできるだけの人は地頭がいいとは言われないと思う。ガウスが等差数列の和の求め方を一瞬で思いついたように、つるかめ算式の考え方を自分でぱっと思いついた人は地頭がいいとされるだろうけど。
たとえば、連立方程式や三角比などを使えば誰でも機械的に解ける問題を、つるかめ算や補助線などを使って小学校範囲内の知識で解くことが「賢い」とされるようだ。
大学入試に関しても、入試評論家とでも言うべき何の役に立ってるのかよく分からない人たちがいて、大学入試が易化すると学力低下がどうのこうのと嘆いている。
他にも、たとえばホワイトカラーの職業の入社面接で「自分を動物に喩えるなら」みたいなトンチの応酬が行われていて、それで合否が決まるのなんか、先進国では日本くらいのものだろう。
もちろんこれには何の科学的根拠も無い。
学校の入試ではそれまでの課程の勉強の習熟度を計る問題を出すべきだし、企業の採用においては応募者のスキルや経験や入社後の配属の希望などを問うべきだ。
こんなことは常識で考えれば誰でも分かりそうなものだが、いい年をした大人の多くが「地頭信仰」を持っている。
本当に異常なことだと思う。
・つるかめ算が解けない
・家に呼ぶ友達がいない
・将来に希望が持てない
・覚えたものが脳に定着しない
・この国も10年後にはマシになっていると思えない
・そのうち何者かにはなれると考えられない
・走れない
・覚えられない
・すぐ分からない
・知らない
・何も知らない
・俺にはもう何も残ってない
・せめて時間だけでも残っていればといつも思う
・今から動き出せばまだ間に合うと信じられない
・同い年なのに高卒から入ってきた人間が既に15年選手なのを見ると今から1年生としてどこかに入れるとは思えない
・子供の頃からちゃんと頑張ってきた人間は同い年で20年選手25年選手だと思うと……もう怖くてどこかに新しく加われるなんて思えない
・年齢ぐらいどうにかなるなんてもう思えない
・学校で習ったことすら覚えてなくて体力も記憶力もないし適応も出来ない人間がどこか別の業界に30から入ることが可能だなんてもう信じられない
・他人に人生を切り開く手助けをしてもらえるような人種ではあるのかも知れないなんて思えるはずがない
・なにも出来ない
・もう生きること自体が出来なくなりそうだ
・どうしようもなくなってもカーチャントーチャンが飯と部屋ぐらいは用意してくれるなんて甘ったれたことはもう言えない
・もうなにもない
僕はずっと「プログラミングはむしろ文系なんじゃね?」と思っていた
プログラマーに必要な才能は一般的な文系理系のイメージからすると、むしろ文系だと思う
前者は読解力であり、後者はボキャブラリーとか処理能力とかサービス精神が大事だと思う
プログラミングにおいては、前者は理解する力であり、後者は実装をどれだけ分かりやすく簡潔にするかって事になると思う 職業プログラマーにはどちらも大事な能力だ
でそっから色々調べるようになり、つまり文系も理系もクソもないな、という事になって、結局その境って、思考をどこまで略するのか、そんな事にしか過ぎないなと思った
理系は苦手なので…っていうのは、事象を略しすぎている表現に拒否反応が生まれるからだろう
つるかめ算と言われると、理解しようという気が起きるが、連立方程式と言われると、知らんがなとなる
最近Twitterで話題の、重力波をわかりやすく解説してみたみたいなのを見ていて、まぁ、よく分かんなかったんだけど、でもそれがコードの中に出てきたら僕はまだ分かる努力を最大限にするような気がする
やぁ、元増田だ。
どうやら、本当にわかってない人達がいるようだね。
http://www.suzaku-s.net/2007/12/kosei-kyouiku.html
http://anond.hatelabo.jp/20071214154638
円環的時間に子どもを閉じ込める、というのは、どういうことか。個性を育てる教育とか要らないとか、ゆとり乙とか、そういう話じゃない。
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/blog/node/1870
ある方からのタレコミ。小4のお子さんが学校で長方形の面積を横×縦で計算したら減点された。学校に問い合わせたら,担任にも教務主任にも縦×横が正解と言われたとのこと。横×縦でも同じになることを自分で見つけたならば褒めるべきところを減点するようでは,創造性を伸ばすなというようなもの。
こういうレベルの話だ。俺は30年くらい前に小学校の作文授業で、「習っていない漢字」を書いたことによって減点された(日本語としては間違っていない。ただ、「まだ教えていない」ことだけを理由に×をつけられて減点された。理由も明記されていた)。「ゆとり」時代にカリキュラムにあったかどうかは知らないが、「つるかめ算」を意図しているであろう設定の問題で、空気を読まずに二元連立方程式でさっくり解くと、×になる。あくまでも、つるかめ算の操作を暗記して再現するのが算数のテストの答え方だという。ちなみに、ちょっと気の利いた学習塾などに行くと、さっくり解いたあとで求められる操作に数字をあてはめておくといいことぐらいは教えてくれる。このほうがまじめに空気を読むよりは速い。でも、答案用紙に連立方程式の痕跡は残しちゃいけない。
学習指導要領をどう弄ろうが、これが日本の公教育のスタンダードだ。
毎年、「あまり代わり映えのしないこと」(これ自体は、初等・中等教育では、ある程度はそういうものだろう)を教えつづける、という円環的時間の中にいる教師が、生徒を育てるのではなく、自分の授業が自己完結し続けるという循環の材料として子どもを使うという構図だ。その中において、教師の授業の「上を行く」子どもの行動は、夾雑物として扱われる。
一見、「創造性を育む」ようなお題目の内容であっても、「どのような流れでどのような形の解答にたどりつくか」ということが、教師の想定範囲に留まることが求められてしまう。そして、これは個々の授業内容に留まらず、どういうカリキュラムを学校として提供するか、という学習指導要領などの作成にも反映されているし、さらに敷衍すると、社会形成の全てにわたり、よくみる若者カルチャー叩きの構図と重なっていく。文化として、別に良くも悪くもない、というか、どうでもいいことが、単に老人の分からないということだけで罪悪視される。
モンスターペアレンツ叩き事例をよくみると、茶髪やピアスといった、それ自体は正直どうでもいいことについての「生活指導」に対する親の異議申立てが混じっていたりするよね。もちろん、それは自身が茶髪であったりピアスをつけていたりする親への叩きにもなっていたりする。
あれ、小学校の時つるかめ算みたいな△□であらわすのなかった?
2×□ + 3×△ = 260
5×□ + 2×△ = 380
・・・。
あれ・・・??
ちょっとマジ計算。
2x+3y=260
5x+2y=380
x=(260-3y)/2
5(130-3y)+2y=380
650-13y=380
13y=270
y=270/13
・・・俺の時代だったらこれが整数になったんだがな。
2x+3y=260/1.05=247.619...=248
5x+2y=380/1.05=361.904...=362
こういうことか?
5((248-3y)/2)+2y=362
5(248-3y) + 4y = 724
1240-15y+4y=724
11y=516
y=516/11
・・・。
わかった!!
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