殺した獲物の肉をそのままにしておくと、
体温の残りで微生物がどんどん繁殖して生臭い肉に変質してしまうので、
狩ったその場で、まともに血抜きもしないで内臓だけとって、すぐに焼いてたべるだけなら、
なんか「人を叩いて笑いを取るな」的なことを言う人いるけれど、みんなあれ、お尻を叩かれるところで笑ってるの?
そういう瞬間もあるにはあるけど、ほとんどが「笑ってはいけない人を笑わせようとしている人のネタ」に笑っているのではないの?
「笑ってはいけない」「笑ったらお尻叩かれる」っていうのは、おもしろさを演出するための制限なわけで、そういう意味では、松本人志がAmazonでやっている「ドキュメンタル」も同じ構造になっていると思う。
死にたくない!
食わなきゃ死ぬけど
手伝ってくれない子の不親切さに泣いていた
狩猟の本を読んで思ったんだけど、肉は獲物の内蔵を抜いて、流水などにつけて冷やしたあと解体して食べるんだよね。
モンハンは倒した獲物の肉を冷水につけることなく、そのまま食べている。なろうの小説でも獲物を冷水につける描写は見たことない。あるとしても超少数派だ。
自然と触れ合うことが久しい今、食肉の解体を義務教育で復活させようではないか。まあこれは言い過ぎだけど、飼っているニワトリを捌くのは昭和なら珍しい話ではなかったのだから。
人と会うどころかすれ違うのも視界に入るのも辛くなったのだが,眼鏡をかけるのを辞めるというとびきり素晴らしい解決策を見つけた.
視力0.1の,恐らく世間的には使いものにならないと評価される眼球を使って世界を見ると,人が人ではなくなるのである.
よくわからない何かが街を歩いているだけなので,うっかり誰かと目が合ってしまうこともなければ自分に対する視線も気にせずに済む.
おかげで車椅子で街に出ることが増えた気がする.あの視線を感じずにいられるのは本当に心地よい.
似た境遇の方がいたらぜひとも試してみてほしい.
http://lite.blogos.com/article/269629/:embed]
荒川区のゼロ歳児保育が酷すぎる件について(駒崎弘樹) - BLOGOS(ブロゴス)
家庭の事情が多様化する中で、一律17時まで、というのはあまりに柔軟性がないからだ。
あなたの生育歴なんぞ知らないし、親子の絆のために預かるのは17時まで!もおかしい。
それはおかしい。
しかし、私はこの記事のエビデンスというキーワードにひっかかりを覚えた。
この記事の筆者は保育に関連するNPO法人の方であるようだが、いわば現場の方がここでエビデンスというキーワードを持ち込んだことに違和感を感じるのだ。
逆にエビデンスさえあれば、一律17時でも問題ないのだろうか。
3歳に満たないこどもを預けて働くことに風当たりが強かったのは過去の話である。
しかしいろんな現実や環境から、こどもを預けて働くことに社会の理解は広がった。
それは保育の現場の努力であり、過去の母を中心とした親たちの努力の結果だろう。
だからこそ思うのだ。
「預けて働くことのこどもに対するリスク」にちゃんと目を向けてはどうか。
#保育園入れて のハッシュタグを見たときも感じたことだが、好きで家庭から「長時間」離れたいこどもは少ない。
(あえていないとは言わない)
夜遅くまでお迎えがこない、これはストレスになりうることは素人でも想像できる。
「親子の絆がー」といわれたとき、
家族で過ごす時間の大切さは、どんな家庭で自覚した方が良いと思うのだ。
そのために奔走するのは必ずしも母親でなくても良い。父親でも祖母でも良い。
考えて話し合って、それでも19時まで必要となるならそれで良い。
3歳までは専業、が「正義」だった。
勿論今では違う。
しかし、フルタイムでこどもを遅くまで預けることが「正義」でもない。
そこをどうか履き違えない社会であってほしい。