はてなキーワード: 胸が熱くなるなとは
ここすきなときに使う
お風呂のシーンで使う
やりすぎ注意
ゴクゴクする人たち
ゴクゴク民に対するレスポンス
何でもするって言ったときに使う
主に「何でもするって言ったよね」に対して使う
尺が足りないときに使う
下卑た笑いが適切なときに使う
イケメン主人公に倒されるキモくて雑魚いやられ役キャラをリスペクトしている
お前入ってなくね?のツッコミ待ち
何かが見えそうな時に使う
見えた時に使うのは厳密には間違い
茶化している
訳知り顔だが実は何も知らない
実際には存在しない
胸が熱くなるなをもじっている
今日も一日がんばるぞいって言って欲しいときに使う
(ドン引きしていたのは男の子だけど、◯◯ドン引きで草がテンプレ化している)
許可も得ずに終わってるんじゃあない、という憤り
テンプレの発生について
・似たようなシーンが多い事が重要
・サムいと思われたら消えるので割と頻繁に消える、でも書くのは自由である
・基本汚いが、あまりに汚いとテンプレを上書こうとする人が現れる、謎の節度が存在する
テンプレについて所感
・楽しい
・悪ガキのノリなので大っぴらにやると恥ずかしい
設えられた感情のレールの上を、誰もがその通りなぞれるとは限らない
喜ぶときには喜び、悲しむときには悲しむ方が楽しめるが、読解力など様々な要因でそのレールから外れてしまう
その時にテンプレのボケやツッコミがあるとリズムが生まれ、意識を引き戻してくれたりする
例えば「そうはならんやろ」「なっとるやろがい!」あたりなど端的、無理筋な展開も気にならない
汚い
俺はむしろ、古文を読み現代語について考察する度に、現代語の過渡期的性質、つーか、英語などの言語システムを取り込んだ近代以降の日本語の「成熟して無さ」をひしひしと感じて歯がゆい思いがする。
これは、単純に翻訳などのケースで生じる問題だけど、たとえば"You should die."をどう訳すかって時に、漢文なら「汝可死」だから、古文でも「(なんじ)死すべし」でOKなんだよね。ところが、これを現代語に翻訳するとなると、「死ねばいい」「死んでいい」「死んだらいい」「死んだ方がいい」「死ぬべき」「死ね」「死ぬ」…
と多彩な表現になってしまい、しかもそれぞれ微妙に異なるニュアンスで受け取られてしまう。ついでに言えば、ここに語尾が「よ」「ね」「の(ん)だ」「んだよ」「んだよね」「んだね」……等々付くと、更に表現の可能性やニュアンスの違いは増える。(※)
これは日本語が繊細で微妙な表現を可能にしているというレベルを通り越して(ほとんどの人はこのように多彩な表現を可能性として使いこなしたりしていない)、単純に相手に真意を伝えそこねるコミュニケーションリスクを生んでいる。このように現代語の表現がピタリと定まらない原因は、たとえば言文一致の推進、翻訳文体の流入、詩的言語の日常語化など様々な要因があると思うけど、いずれにせよ結果は見てのとおりだ。要するに、現代日本語は、言語として成熟していない、不完全な代物だ。
昨今、ケータイ小説から始まって、ネット文体、ラノベ文体やなろう系がかなり日本語をシンプルにアップデートするべく頑張っていると思うので、個人的にはそれに期待したいところなんだが、それでも一般化まではまだ百年単位で時間がかかるだろうな。そして、それ(新しい成熟した日本語)が成ったあかつきには、現在目にする多くの「日本語」は過渡期の産物として一部の古文研究家の独占するところとなり、地域、社会的位置や身分を問わない「2000年代初頭の日本語」が集積する増田は過渡期の日本語サンプルとして広く用いられる基礎資料となっているだろう。そのときこの文章を読む人にこそ、俺が言いたかったことが大体伝わるだろうと想像すると胸が熱くなるな。