「水槽の脳」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 水槽の脳とは

2023-01-18

anond:20230118013642

水槽の脳的な?

脳科学脳神経外科学計算機科学画像処理。よくわかんないけど色んな分野の専門家必要だな。わかってると思うけど、全てを増田一人で極めるのは無理だから仲間集めが重要。俺は生憎どれも専門じゃないか増田の力にはなれないが是非とも頑張ってほしい

2020-08-29

俺は形而上学的に世界であり、普通に息子っていう話

俺=世界

俺は世界のもの、というのはラリパッパな妄言のはずだけど、形而上学という考え方をかますと許されるんだから不思議なことだ。

例えば雷鳴。

雷が鳴る音を聴くとき自然科学としては、雷鳴という「客体」があって、それを俺という「主体」が感じる、という構図になるはずだ。

しかし、と考えてみる。

もしも雷が鳴っているその場所に誰もいなかったら、果たして雷鳴がそこに「ある」と本当に言えるだろうか?

雷が鳴り、それを俺が聴いている、という関係の一方で、俺という存在こそが雷鳴を生じさせていると言えないだろうか?

さらに、もう一段飛躍する。もし、俺こそが雷鳴の原因となるなら、雷鳴と俺を分ける必要は、実はないんじゃないか

「俺」が「雷鳴」を聴いている、のではない。

主語はない。主客の区別もない。

ただ「雷が鳴っている」。このとき、俺は俺であるとともに雷鳴そのものだ。

あるいは独我論。もしくは哲学的ゾンビのことを考える。

俺にとって、俺以外のすべての人間自我があるかは証明できない。

周りの人々はすべて俺の作り出した妄想かもしれないし(「水槽の脳」)、もしかしたら、意思のない人形であってもおかしくはない(理屈上、ということで、本当にそうだと思っているわけじゃない)。

「俺」は違う。

他者場合とは違い、そこに意思があるかどうか証明しようとして失敗するまでもなく、俺は自分意思があることを理解している。我思う…ってことだ。

そして、そんな俺はなぜか、この時代日本男性の体に「生じた」。これが一番わけがからない。

俺が生まれる前にも宇宙は当然存在していたし(一説には138億年前…)、俺が死んだ後も宇宙は当然続いていくが(こっちは一説には10100乗年後に「終わる」らしく、厳密に言うと、あらゆる運動がそこで停止するので時間意味がなくなるらしい)、特別な俺はなぜか、20世紀後半に生まれたいま30過ぎの日本男性だった。

自分ってものについてラディカルに考えると、要は自分に関するこだわりを強くしていくと、逆説的に、肉体としての自分が何者であるかは価値を失っていく。

俺は別に10年後にジンバブエの5歳の少女に生まれてもおかしくなかった。

50年前のニューヨークホームレスでもおかしくなかった。

(もしも)自分について俯瞰することさえ可能なら、アマゾンの猿でもよかったのだ。

誰であっても、形而上学的な「俺」の本質は変わらない。

でも、とにかく俺は日本の俺だった。たぶん理由はないんだろう。にもかかわらず、なぜ? という強烈な驚愕は消え去らない。

俺はこの世界において超超超…と超を100回重ねても足りない究極の特異点だ。

もちろん、俺以外の人たちだって、「彼らの世界」ではそれぞれが唯一無二のポイントになる。

でも俺はそれを、理屈ではなく想像理解することしかできない。

他者社会的尊重することは当然だが、彼らが結局、俺という世界の一部でしかなく、彼らが死のうと俺の世界は終わらないが、俺が死ね世界のもの消滅するという事実は、それとはまったく別のことだ(一連のこの辺は、永井均子どものための〈哲学〉』『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』にくわしい)。

そして俺は、ずっと両親との関係で悩んでいる。

こんな観念的で、浮世離れした形而上学に果てしなくぶっ飛ばされたはずなのに、血縁のしがらみに何十年もさいなまれている。

仲が悪いわけじゃない。

ただ俺も、母親父親も、うまいことお互いへの愛情を示せないでいるフシがある。

愛情がないのではなく、表現できないのだ。なんとなくだけど、バリバリビジネスマンだった二人が、乳児ときから長いこと俺の横にいられなかった罪悪感みたいなものが原因っぽい気がする。

俺はもう30過ぎなのに…。

そんなの、もういいだろ…と思いながら、呆れている一方で完全に笑えないのは、たぶん俺もどこかで、彼らを許していないんじゃないか、という気がする。

もういいよ、父さん母さん、と言いたい。

というか、何も言わないでただ抱きしめてあげるのが正しい気もする。一度だけじゃなく、会うたびにそうしてやるのが正しい気がする。

そうしたいができない。俺たちの誰かが死ぬまでに、俺はそうしないといけないと感じる。

その一方で、三人でそろって食事しているとき、不意に、「この人たちはなんなんだろうな?」という気持ちになることがある。

話をしていて、特別難しいことをしゃべっているわけじゃなく、単純に俺と、頭の中を覗いてみるわけにいかない他者の間で、ちゃんと「会話」が成り立つことが奇妙でしかたがなくなる。

例えそれが両親であっても、「こいつらはなんなんだ?」 と思う。

俺の言ってることが、相手の言ってることが、お互いに本当にわかってるのかな? と思う。確かめようがない。なんとなくその場では笑って飯を食ってる。

形而上学家族への愛情と、どっちかがどっちかへの反発なんだろうな、と思っている。

本当は家族の一員の息子としてキレイに収まりたいけど恥じらいと恐怖心で叶わないために、極端な哲学に走ってごまかしている。

あるいは、心の相性としては形而上学世界の方が向いているが、どっぷり漬かるのが怖いせいで、家族に目を向けたくなる時がある。

若いときから、もう面倒だったから、どっちかに決定的に俺を方向付けてほしかった。

ベタベタしすぎるくらいまともな家族愛に包まれるか、SFチックなぐらい高純度な精神体になってしまたかった。

どっちかになれると思っていたがどっちにもなれない。たぶんどっちにもなれないんだろうな、というのが、最近薄々わかってもきている気がする。

2019-01-10

anond:20190110123943

夢回は再洗脳したけどそれでも打ち破った、って話の流れでしょ。

被造物=悩みが無いみたいな定義してるの? だったら全く同意できんわ。

生身の人間自由意思だって本能経験に縛られた限定的ものしかないし、俺もお前も本当は水槽の脳プログラム上の存在しかないのかも知れない。

コントロール存在することと自我がある、悩むってのは別の話でしょ。

2018-03-29

anond:20180329130934

こうして人類進化適応の結果として自室にこもり、VR世界にこもり、果ては「水槽の脳」を希求するようになっていくのであった。

まりひきこもり人類最先端にいると言えなくなくないこともないのだ! -完-

2018-03-25

anond:20180324204110

シュレディンガーの猫と、水槽の脳とかを一緒にするのはあんまりうまくない

物理学思考実験哲学思考実験って意味合いが全く異なるから

物理学的な思考実験なら、ラプラスの悪魔マクスウェルの悪魔が有名だし

アインシュタインの「光速で飛行しながら鏡を見たら?」とか

古くはガリレオの「落下中の物体を紐で接続したら?」とかもその一種だね

ブクマにあるアキレスと亀ゼノンパラドックス)とかもこっちに入ると思う

でも求めてるのは多分そんなんじゃないよね?

クオリアとかの話だったら、Wikipediaカテゴリ心の哲学における思考実験」に

主要なものは全部まとまってるから一通り読んでみるといい

とにかくタイトルシュレディンガーとつけちゃったせいで、目的としている情報収集に失敗してると思うよ俺は

追記

今見たらカテゴリ検索では

コウモリであるとはどのようなことか」とか「逆転クオリア」とかは抜けてるな

anond:20180324204110

伸びるかなと思ってたら伸びたな。

パラドクス哲学についての回答の1例を記す。

 

テセウスの船

ある物体オブジェクト)の全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき

基本的に同じである同一性アイデンティティ)と言えるのか?

これは「観測者」に定義依存する。

観測者が「テセウスの船であることを認めない」と主張した場合は、その観測者にとってその定義有効とされ、

別の観測者が「テセウスの船であることを認める」と主張した場合は、別の観測者にとってはその定義有効とされる。

そして広義的な定義多数決によって執り行われる。

この場合部品を置き換えられた結果の船を周知していながら関連者はテセウスの船である認識しているため、

これはテセウスの船であると言える。

ただし、これにはオリジナルテセウスの船自体主観性がないとする。

日常において構成物質が変わっているのにも関わらず同一個体として認識されているものは「人間である

物体としては焼け落ちた城を再建させた城についても同じことが言える。

この場合も周りの観測者が大阪城と認めるから大阪城定義できる。

 

水槽の脳

あなた体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか

正しい知識とは何か、意識はいったい何なのか・・・

これは仮定としては十分成立する。

反論として現代科学において脳にこのような仮想世界を作り出すために必要コンピュータを作り出すのは物理的に不可能だというものがある。

しかしこれは現実世界科学技術物理法則を元に論じられており、

水槽の脳実在する世界」においては別の物理法則や遥かに進んだ科学技術を持っているという仮定をするだけで条件をクリアできる。

映画マトリックス世界がそうであったかのように。

そのためこの世が仮想現実であるという主張に対して、完全な反論存在しない。

その説そのものが、科学的な進歩において何の有益性もないという科学者や論者がいるが、

その事実仮想現実論の否定とは結びつくわけではない。

 

哲学的ゾンビ

外面的には普通人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験意識クオリア)を持たない架空人間

哲学的ゾンビは存在可能なのか?なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか?

これに関しては解答不能である

人間とまったく同じふるまいをする、主観的意識を持たない哲学的ゾンビを作り出すために必要構成物質定義できないから、である

例えば魂と言われる霊的存在主観的意識人間のようなふるまいに必要不可欠であった場合哲学的ゾンビは成立しない。

魂の研究に関してはまだ発展途上の段階であり、最近になって発見されたクォーツなどのように、

仮に未だ見つかっていない法則や粒子が主観的意識構成する物質であり、必要な要素であった場合哲学的ゾンビは成立しないからだ。

まり主観的意識の有無が哲学的ゾンビの成立に関与するかどうかを科学的に証明できない限りは反論可能である

地球が平らであると信じられていた時代においては端にいくとその先に何があるか、という論議は成立するが現代では成立せず、

仮に魂の構成物質機能発見が終わった後にもまた、この問いかけは成立しなくなる。

私自身は魂がまだ未発見の粒子により構成されているという説が正しいと信じている。

 

スワンプマン

ある男が沼の傍で突然雷に打たれて死んでしまう。

その時、もうひとつ別の雷がすぐ傍に落ち、沼の汚泥不思議化学反応引き起こし、死んだ男と全く同一形状の人物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。

スワンプマンは死んだ男と全く同一の構造・見た目をしている。記憶知識も全く同一である

沼を後にしたスワンプマンは死んだ男が住んでいた家に帰り、死んだ男の家族と話をし、

死んだ男が読んでいた本の続きを読みながら眠りにつく。

そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

人格同一性問題を考えるための思考実験

こちらもやはり主観的意識構成する物質存在し、

それがコピーできないもの代替できないものである場合

全くの同一性定義上満たしていないことになる。

職場家族スワンプマンと元の男を見分ける術がないが、

これは素人が本物とよくできた贋作を見分けることができない程度の認識問題となる。

 

また、仮に最初落雷がある男に落ちずに沼に2度落ちた場合は、スワンプマンを含めた男は計3名となる。

しかし3名全員の主観的意識はそれぞれ別個に存在しており、

その点だけをくみ取ってもスワンプマンたちに同一性は成立していない。

よって沼にはじめて来た男とスワンプマンは同一存在ではないと定義できる。

 

哲学において同一性テーマが語られることが多い。

これは魂・霊的存在主観的意識科学において未だに解明されていないことを意味している。

科学的に解明されていない余地があるからこそ、思考実験バリエーションが多く組まれる。

また、観察者の能力についても、人類は正確に把握できていない。

そのため主体性意識を持つ存在認識定義について論じない、触れない哲学も多くみられる。

観測行為観測する者の不在では論じれない量子力学最先端物理学においては必要不可欠であり、

哲学が未だ観測者の能力機能性について、正確に学問体系に組み込めていないというギャップ引き起こしている問題だと考える。

2018-03-24

シュレディンガーの猫」的な面白い哲学思考実験教えて

こういうの好き。




テセウスの船

ある物体オブジェクト)の全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき

基本的に同じである同一性アイデンティティ)と言えるのか?



水槽の脳

あなた体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか

正しい知識とは何か、意識はいったい何なのか・・・


哲学的ゾンビ

外面的には普通人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験意識クオリア)を持たない架空人間

哲学的ゾンビ存在可能なのか?なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか?


スワンプマン

ある男が沼の傍で突然雷に打たれて死んでしまう。

その時、もうひとつ別の雷がすぐ傍に落ち、沼の汚泥不思議化学反応引き起こし、死んだ男と全く同一形状の人物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。

スワンプマンは死んだ男と全く同一の構造・見た目をしている。記憶知識も全く同一である

沼を後にしたスワンプマンは死んだ男が住んでいた家に帰り、死んだ男の家族と話をし、

死んだ男が読んでいた本の続きを読みながら眠りにつく。

そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

人格同一性問題を考えるための思考実験




他にもいっぱいあると思う、面白そうなのあったらおすすめして。

 
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