「アメリカン・ニューシネマ」を含む日記 RSS

はてなキーワード: アメリカン・ニューシネマとは

2019-07-23

天気の子を絶賛しなきゃいけない空気が嫌 ※ネタバレあり

はぁ?セカイ系東京滅びてるじゃん

東京より女取った若者青春甘酸っぱさ?新海誠監督サイコー

2年で首都機能移管して、呑気に船で移動するとか無いだろ。資産価値落ちまくって死にまくった奴居ただろ。国内市場もやばかっただろう

アメリカン・ニューシネマ的な将来への不安とかが描写されていれば良かったのに、なんで未来希望あるみたいな表情しているの?そもそも都民も「水没したけど何とかなったわ」みたいだし

この映画を絶賛しているのって現状に不満があって、それを主人公投影して、(当人たちには)ハッピーエンドを迎えた事でストレス解消しているヤベー奴しか居ないんじゃないか

なんにせよ、良く分かんないけど映像綺麗で良かった。って層を引き込んで興行収入挙げれているんだから名作なんでしょう。世間的には

2019-03-11

レンタルビデオ

ツタヤっていつからあったんだろな。小学生の時はもうあった? 本格的に通い始めたのは高校かなって気がする。

新宿はワクワクしながら通った。宝の山というか、探そうと思うと新宿に行くしか選択肢がなかった。

アメリカン・ニューシネマ溝口とか増村保造とかの邦画タルコフスキーとかソクーロフウォン・カーウァイ

昔のスラップスティックコメディPFF系のインディーズ、なんでも見たな。

恵比寿も大きいんだけど新宿よりちょっとしゃれてて、駅からも遠いし金持ちセレブって言葉まだなかった)が

車で借りに来るイメージ

あとは早稲田駅前の名画座(というレンタルショップ)、高円寺オービスあたりも独特の品揃えで会員証持ってたな。

ネットフリックス、便利なんだけど俺の好みを忖度してくるあの感じがとても嫌だ。

俺は知らないものを知りたいだけなのだな。

2018-12-18

今日も女は男性誌侵略

女尊男卑設定コンテンツコミカライズで登場 

 

刀剣乱舞週刊少年サンデー本誌でも掲載予定

 

青年誌もどんどん女化 モーニング・ツーはほぼ女性

2018-10-31

ハズキルーペ菊川怜セクハラだという議論

進んでいくと性的表現が完全排除となり、その後再びアメリカン・ニューシネマのような波が来るであろう

2018-08-07

検察側の罪人

出演者でなんか盛り上がっているが、こんな作品映画化して欲しくなかった

アメリカン・ニューシネマな内容の映画ジャニーズで動員するとか、もうテロじゃん

映画館出る時に憂鬱な気分になる映画とか、ミニシアターくらいでやっていれば良いんだよ。正義を問いかけるなって訳じゃない、金払う客の事を考えろ

こういう作品は周りに多数の娯楽作品があるから成り立つわけで、少女漫画原作青春映画アニメじゃ全然まらない。結果、邦画は暗くてつまんないって流れになる

まだ空飛ぶタイヤの方が良い。キムタクが出ようが嵐が出ようが、オチが暗いんじゃ駄目なんだよ。最低でも相打ち、出来れば勧善懲悪。弱りきった邦画には王道必要なんだよ。

余韻を含む映画邦画が復活してからどうぞ

2013-12-25

映画史勉強について

まず「アメリカン・ニューシネマ」ってムーブメント60年代後半から70年代にかけてあったことを知りましょう。くわしくはググれ。そんで代表作とか一通り観ろ。

その元祖たる『俺たちに明日はない』はフランスゴダール勝手にしやがれ』のパクリとまでは言わんけどそれに近いものであるということを知りましょう。

次にゴダールは「ヌーヴェルヴァーグ」というフランス50年代後半から60年代にかけての運動旗手であったことを知りましょう。

とりあえずヌーヴェルヴァーグについてはゴダールトリュフォーの初期代表作をググってざっと観ましょう。ゴダールは難しいので分からないならそれはそれでいいです。

ヌーヴェルヴァーグイタリアにおける自然主義の影響がすごいので「ネオレアリズモ」でググって適当代表作を観ましょう。

ヌーヴェルヴァーグは他にハリウッド黄金期やヒッチコックを高く評価していたことを知りましょう。

というわけでジョン・フォードハワード・ホークスビリー・ワイルダーウィリアム・ワイラーフランク・キャプラあたりのオーソドックスハリウッド黄金期の名作を純粋に楽しみましょう。

ヒッチコックは『逃走迷路』『見知らぬ乗客』『ロープ』『裏窓』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』あたりでも観ましょう。これらがどうすごいのかはググれ。

ヒッチコック技法1920年代の「ドイツ表現主義」の影響がすごいのでF・W・ムルナウ吸血鬼ノスフェラトゥ』とかフリッツ・ラングとかローベルト・ヴィーネ『カリガリ博士』を観ましょう。ググれ。

ムルナウの『サンライズ』でモンタージュという技法の巧みさを知ったところでグリフィスの『国民の創生』とかエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』あたりでも観てへーって思っておきましょう。


あとまぁホークスとかに多いけど「スクリューボール・コメディ」っていうのがあるんだが適当にググってくれ。

コメディ映画史おいてはチャップリンとかマルクス兄弟とかバスター・キートンがその前の下地としてあるのは知っとくといいよ。

現代映画だとウディ・アレンとかかな。キートンは『将軍キートンキートンの大列車強盗)』『キートン探偵学入門』あたりはすごい。


他にもホラー映画史とか戦争映画史とかミュージカル映画史とか西部劇史とか「フィルム・ノワール」とかいろんな物差しがあるんだけど小休憩終了につきここまで。

そんじゃーね

2013-07-18

初心者向け西部劇映画10

一時期西部劇ばっか観てたんだけどまとめてくり~とかよく言われてたんでまぁ雑に挙げてみるかって感じで10分ほどで書いた。

西部劇西部劇マニアがうるせぇ分野だから文句はあるだろうけど,ロクに観てない人はこれを上から順番に追っていけばそれなりに文脈は追えるんじゃねーかなと思う。

駅馬車

古きよきハリウッド西部劇古典といえばまずこれ。

クライマックスにおける馬上の闘いが(当時の技術水準としては)大迫力。

赤い河

ハワード・ホークス監督による傑作。ジョン・ウェインの本格的な出世作でもあり,彼の役者としての方向性を決定づけた。

簡単に言えば牛追いの話なのだが,「カウ・ボーイ」がそもそもどういうものなのかよく分かると思う。

ちなみに都内のレンタルだと渋谷TSUTAYAくらいにしか置いてない気がする。廉価版は500円しないのでどうしても観たい人は買おう。

捜索者

ジョン・フォード×ジョン・ウェインの代表作としてよく挙げられるものひとつ

当時のアメリカ人視点における先住民への意識も読み取ってほしい。

遠景の撮り方などは『アラビアのローレンス』のデヴィッド・リーンスピルバーグも参考にしたとされる。

シェーン

まぁベタな名作。これを原型とした作品も多いのでとりあえず観ておけ的なもの

荒野の用心棒

セルジオレオーネによるマカロニウェスタン嚆矢黒澤明用心棒』の盗作として話題にもなった。

チープなセットに単純なストーリーハリウッドのヘイズ・コード下では不可能な暴力表現などが特色。

主演クリント・イーストウッドは以降西部劇における大スターとなり,本家ハリウッド西部劇にも影響を与えた。

続・荒野の用心棒

セルジオ・コルブッチ監督マカロニウェスタンの代表作としても名高い。

ちなみに『荒野の用心棒』とはストーリーキャストスタッフどれもまったく関係がない。

レオーネ以上に徹底的な娯楽志向で,歴史考証など本当に適当,とりあえず決闘がカッコよければよいという感じ。

この前タランティーノジャンゴを作ったが,それの元ネタがこれである

ウエスタン

レオーネ後期の代表作。

他の監督なら20秒で済ませるようなカット無駄に5分以上使ったりと,現代人にはちょっとしんどいくらいの長回しが大きな特徴。

配給もハリウッドであり,大予算がかかっているため「マカロニ」の趣は既になくなりつつある。

ワイルドバンチ

サム・ペキンパー監督

スローモーションと巧みなカット割が最大の特色。香港映画ジョン・ウーにめちゃくちゃ影響を与えた。ということは『マトリックス』とかもこれの系譜ってことになる。

アメリカ映画レーティング制になったため,暴力表現が解禁され血みどろの演出がなされるようになった。

ラストの破滅感は「アメリカン・ニューシネマ」というムーブメントにおける文脈からもよく語られる。

ソルジャー・ブルー

駅馬車』,『捜索者』などで見られるインディアンへの扱いを再考させられる作品。

ベトナム反戦運動とかそういう文脈でアメリカ人自分らのアイデンティティを見つめ直していたってことも念頭に置いて観るとよい。

ちなみに『明日に向って撃て!』や『やつらを高く吊るせ!』でもそうだけどこの頃から徐々に黒人兵も作品に出演するようになる。

許されざる者

イーストウッド監督・主演による「最後西部劇」。

古きよきハリウッド西部劇マカロニ,ニューシネマなどといった一連の西部劇史を包括する超名作である

ちょうどここらへんから彼も文芸性の高い監督と見られるようになってきた感もある。

早撃ちに対する保安官の話とか,イーストウッド自身が演じてきたマカロニへの挑戦でもあるよね。

本数の制約で挙げられなかったけどこれより前に作られた『ペイル・ライダー』も地味にとてもよくできています

2009-10-12

日本の進むべきは、緩慢な荒廃への道「友愛社会」ではなく、「ルサンチマンからの脱却 」をした、自立した個人が生き生きと活躍する活発な社会

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    ルサンチマン【ressentiment】(フランス)
    〔専門〕 哲 ニーチェの用語。

    被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。
    この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった奴隷道徳であるという。怨恨。

    *     *     *     *

結局私が何を語りたかったのか‥‥という答えが見つかった。結局わが友ニーチェが同じことを語っていたので、ああ、やっぱり実存主義者はそれを教えてもらわなくても同じところに到達するんだなあって思った。

私が云いたいのは、ルサンチマンから脱却なのだ。
私がどうしても好きになれないタイプ人間というのは、このルサンチマンに支配されている人たちなのだ。

そもそもどこからこの言葉にたどり着いたのか、それは『ロッキー・ザ・ファイナル』を見てからなのだ。
考えた、“なんで『ロッキー』は好きなのに、その後のロッキーシリーズはそれほど好きになれないんだろう‥‥?”
考えたあげく見つけた答えが「<悔しさ>がないから」だ‥‥。主人公の悔しさもそうなのかもしれないが、それ以上時作り手に悔しさ、シルベスタ・スタローンが全然売れなくって世間に認めてもらえなかった下積み時代の悔しさ。それが多分『ロッキー』からはにじみ出てたのだと思う。 その後は『ロッキー』のパターンだけが一人歩きしてしまったのだと‥‥と自分は結論づけた。
で、じゃあこの「悔しさ」っていうのは英語のどの単語にあたるんだろう‥‥と調べてみた。

ある出来事が悔しい場合は That's mortifying, That's vexing,That's regrettable...
自分が悔しいと思う場合は I'm frustrated, I'm shagrined, I regret...
でも、どれもいまいち違うような気がする。で、あっちこっち類語を探していたら ressentiment に出くわした。“これだ!!”と思った。

人の心の中にはルサンチマンが必ずある。そのルサンチマンを描いたくれる作品には親近感/臨場感を覚える。誰の心のなかにもある醜い部分だからだろう。
そして『ロッキー』はルサンチマンからの脱却を見せてくれた映画だということなのだ。
ロッキー・ザ・ファイナル』においても燃える台詞がある。

「 誰かを指差して、あいつのせいで俺たちが不幸なんだって言い訳はするな!」

ルサンチマンとは一言でいうなら<強者に対するひがみ>なのだ。強者が没落することを祈っているのである。
弱者にとって強者はそれだけで脅威なのだ。それだけで十分恨む理由になる。60年代には学生運動が吹き荒れた。権威あるもの、地からあるものをとにかく否定したい、アメリカン・ニューシネマと呼ばれるものもこの軸線上にある。だから私は大嫌いだったのだ。
その昔(いまもあるかもしれないが)アンチ巨人という言葉があった。これもルサンチマンから発生する言葉なのだ。私がアンチ巨人人間は嫌いだったのだ。

では何故、人はルサンチマンに犯されてしまうのか?
これはひとえに自分の弱さを認めたくない虚栄心から発生する。どんなに自分弱者だと認識しても出来れば真剣にそれを認識したくないのである。そのために別の理由を言い訳にして、それに一生懸命になることで、自分の弱さの認識から逃避するのである。たとえば靖国参拝問題

ルサンチマンに心を犯される人はこう考える。
もし自分戦争にいったら、怖くて何も出来ないだろう。みっともない自分をさらけ出してしまう。自分の弱さをさらけ出してしまう。それだけは絶対さけなければいけない。
そうだ、戦争に行くということ自体をなくせばいいんだ。その可能性をなくするのがが一番だ。
自衛隊海外派遣はけしから! ゆくゆく自分徴兵されるようになったらどうなるんだ! 惨めな自分をさらけだしてしまう。
靖国問題、そんなには自衛隊海外派遣につながる可能性がある。自分徴兵されたらどうするだ! 惨めな自分をさらけだしてしまう。
さあ、反対する理由をさがそう、宗教から引用しようか、それもと国連憲章か、いやいや小学校の時の◯◯先生言葉あった、
いや、それよりもさらに弱者をさがそう。戦争になって被害をつけるのはつねに弱者である。かれらを守るために戦争はすべきではない。
おお、なんだか調子がでてきたぞ。そうか、たしかにこれは良い考えだ、自分より弱いものを見つけてそれを守る言い訳にすれば、
自分の弱ささえも認識しないですむ。自分のほうが役立つ強者でいられる。自分の臆病さを忘れられる。
おお、なんとすばらしい、一石二鳥とはこのことだ。
でも、反対理由だけ言ってたら、臆病者の自分がばれてしまう、ここはひとつ賛成する理由も出しておいて公平性をアピールしておこう。
そうだ、pro & con 議論だ。それで自分プライドをなんとか整えて、それから反対すればいい!!
ディベートではこの pro & con システムがよく使われる。
<有利な点>&<不利な点>を出して、どっちが妥当か考えようという論法なのだ(私はこれが大嫌い)。

  こうしてルサンチマンに犯される人は、その思考の過程で、反対者となる決定権をもつ者=強者を憎むようになり、ルサンチマンに犯されてゆくのである。

すべての根源は自分の弱部認識なのだろう。
それを認識した瞬間同時に「自分の弱さを認めたくない!」って衝動にかられる。
そうなると認めないための理屈付けを脳みそが要求する。 言い訳として発生するのが、弱いもの探し→博愛思想。 しかし、権力のあるものによって構築された社会システムはこれを許さないんだ。 これを許されなければ、自分の弱さを認めるしかなくなる。

徴兵されて、「ぼく行きたくないよ~~~」ってその場にすわりこんで泣き喚が、憲兵たちによって自分大衆に面前を引きずられていくはめになる、そんな惨めな自分をさらけだしてしまう。ガラスプライドが卵のようにクシャってつぶされる。どうしても人を入れたくない自分の心の便所なのに、それを人目にさらされられてしまう。

それをどうしても阻みたい、そして、それを強制してくる権力=力のあるものが憎い。 その強者に対する憎しみを「ルサンチマン」と云う。
そしてルサンチマンに犯された人は、自分にのしかかる不安を、自分世界を支配する強者のせいだとし、強者であるものをねたみ、それを憎み、ついには<強さ>自体を否定するにいたる。
遠い昔、確かに持っていた一番純粋自分<弱いままの自分じゃ嫌だ!強くなりたい!と欲する自分>を徐々に撲殺していくのである。

●脱ルサンチマンを果たしす人はどう考えるのか。
もし自分戦争にいったら、怖くて何も出来ないだろう。みっともない自分をさらけ出してしまう。自分の弱さをさらけ出してしまう。それだけは絶対さけなければいけない。
そうか、簡単だ。自分が弱いのだから、強くなればいいんだ。
強くなるにはどうすればいいのだろう? 簡単だ! トレーニングだ。
取り返しの出来る範囲で何度も何度も失敗を繰り返しながら、失敗しない自分をすこ少しずつ築き上げていけばいい。
そのためのトレーニング舞台はどこにしよう‥‥。
<注意>私はなんでもかんでも派兵賛成といっているのではない。取り返しの出来る範囲で何度も何度も失敗を繰り返しながら、失敗しない自分をすこ少しずつ築き上げていくため、にどれくらいがライン適切なのかを判断することが大切‥‥と思っている 。

そうやって少しずつ、日本という国が世界で働ける力を獲得していければよいな‥‥と。
ルサンチマンを果たした人には、pro & con 議論は無縁なのだ。やるべきことが決まっているのなら、有利な点は良い点であり、不利な点は克服すべき点であるので、これもまた問題とはならない
どんなに強くなろうともルサンチマンは誰の心にも在るののである。決してなくならないのだ。だからきちんと自分の弱さとルサンチマンの存在を認めよう。そしてその自分の弱さと戦おう

釈迦様は生まれたときに云ったらしい。
天上天下唯我独尊』=天と地の間において、何より尊いものはただ一つ、我である!と。

自分が救うべきは、どっかのクジラでも、トキでも、戦場で死んでいってる誰かでもなくて、
いつも今の自分に満足できてない、劣等感を感じてやまない自分自身だ
と。ここに答えを見いだそうしなければ、いつまでたっても弱いもの探しを続け、いつも真実に目をそらして生きていくようになる。そしてそのことに自分自身がそれに気づかないように、自分に必死に嘘をつきつづなければならない。それは自分自身にとって無礼だ。

この日本がなぜ、明治維新以降急成長を遂げたのか‥‥、それは多分日本という国民性においてルサンチマン率が低かったのだろうと思う。強きものを素直に尊べる純粋な心が日本の文化武士道のなかにあったのだと思う。
我々の社会は、やはり強者のためのルールで基本的に出来ている。どんなに弱者のためのルールに憧れても、心のどこかでそれを否定している自分たちがいる。たぶんルサンチマンがもつ毒性を我々の魂が知っているのだ。

確かに弱者のためのルール採用すれば一時的には心地の良い社会が国内に得られるかもしれないが、それでは競争力が奪われ、気がついたときには周辺祖国においていかれてしまい、相対的に国全体が衰弱してしまう
だから我々は強者のためのルール採用し、弱者を強化する方向性で社会を構築されているのだろう。

ルサンチマン - Wikipedia
敵との対比(実際の敵であることもあれば空想上の敵であることもある)において自己定義しようとする様々なイデオロギーである。
このようなイデオロギーでは敵(すなわち自分が無力である原因)が悪の元凶扱いされ、反対に、道徳的に優れているのは自分だとされる。
彼らは悪人だ、従ってわれわれは善人だ、というわけである。
あるいはまた、世界はどうしようもなく悪によって支配されている。したがってわれわれのほうが世界より優れている、ともなる。
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