はてなキーワード: なぜ人を殺してはいけないのかとは
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141009/k10015277221000.html
この事件のことを言っているのだと思うんだが、これ議論の余地あるか?
なぜ人を殺してはいけないのか(なぜ人権を侵害してはならないのか)レベルからの疑問なんだろうか。
これは「人間」の次の2つの側面を同時に見ようとするから難解になるんだと思う。
単純に個別に考えてはどうだろう。
「殺してはいけない」のは、社会集団を構成する人間。相互保障の社会では、自分が殺されないために、他人を殺してはいけない。
普段、私たちの社会には"生物であり社会集団である人間"しか目にしていないから考えが及びにくいが、「生物であるが社会集団でない人間」というものがある。
その場合、社会を構成していない人間に基本的人権はない。自然権はない。社会を構成するアンドロイドには基本的人権に準ずる権利がある。
なぜ人を殺してはいけないのかについて答えられる大人がほとんどいないという記事を読んだ
道徳的に、倫理的に人殺しはいけないことは当たり前なのだが人殺しについて考えることをしていくと「戦争では人殺しは正義」というものにいきつく
哲学の根本に容赦のない徹底さというものがあるが人殺しの正当性について状況によって異なるというのはこれ以上ないほど整合性がある
要は人は必要に応じては人を殺しても良いという「解」になるらしい
しかし人は人を殺すだけの理由を持った時、人を殺しても良い状況の時に人を殺しても良いという因数分解のような理論的な解にはどうしても違和感がある
なぜなら人は人を殺すだけの論理や計算式が成り立っていても計算式自体に罪悪感や自尊心や道徳心にこそ迷いを感じるからだ
人は必要に応じれば人を殺しても良いなどという答えなどどうでもいい
NEVADAちゃん2世事件を受けて、はてブ界隈では「なぜ人を殺してはいけないのか」議論が少しだけ盛り上がりを見せている。
http://www.open.sh/entry/20140728/1406552151 とか http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2014/07/29/092214 とかがホッテントリ入りしてるし。
だけども、そんなのは大昔から議論されてきたわけで、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」とか「リヴァイアサン」とか「社会契約法」なんてのは中学や高校の社会の教科書の最初に載ってる。
なぜ人を殺してはいけないのか?→自分が殺されるのが嫌だから、みたいな話に近いかもね
結局は、なぜ契約に従わなければならないのか?または、なぜルールに従わなければならないのか?っていうところに帰着する話だと思うんだけどな
なぜ人を殺してはいけないのかとほとんど同じ話になるけど、カンニングの場合は、契約がからんでくる点と他人の不利益が相対的に小さい点が少し違う。
別に揶揄するわけでも何でもなく、素朴な疑問。
ある種「なぜ人を殺してはいけないのか」議論に通じるものもあるが、気になった。
何の疑問の余地もないだろう。
特定の知識や技術を習得することが目的の学問で、その成果を計っているのに、全く無関係の別の技術で対応しているから問題なんだ。
カンニングを習得する学問で、本人が「カンニングの技術」が高い事を売りにするのなら良いが、そうじゃないだろ。
目的に対して手段が無意味なのが問題なのだから、「なぜ人を殺してはいけないのか」だけの設問では無意味。
人を殺す目的とセットでなければ、手段の正当性は語れない。
ある種「なぜ人を殺してはいけないのか」議論に通じるものもある
なぜテストが必要なのか→必要な知識を持つか確認するため
なぜ知識が必要なのか→国や社会の発展のため
なぜ国や社会の発展が必要なのか
「母親としてあるべき愛情が見いだせない」「自己の欲望や幸福を満たすためには子供の命を犠牲にしても構わないという、母親としては考えられない自己中心的で身勝手極まりない動機」懲役14年
http://gospel.sakura.ne.jp/wikiforj/index.php?%C2%DB%BB%F9%A4%CE%BF%CD%B8%A2%C0%EB%B8%C0
404 Blog Not Found:なぜ胎児を殺してはいけないか
partygirlの日記 - 妊娠中絶は悪なのか?を、ちょっとしつこく語る
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/partygirl/20060622
ポストモダンについてはよくわからないのですが、ポストモダンは「グローバルに『正しい』ことは(ほとんど)存在しない」と帰結するという理解で正しいでしょうか?そうすると、捕鯨のみならず、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな問題についても「ほとんど全ての文化において人を殺してはならないとされているから、グローバルにも殺してはいけないように見えているだけだ」という結論になる?
はい。お見事な理解です。少々過激な書き方をすれば、『「正義」なんてものは文化的偏見の一種でしかなく、そこに普遍的根拠などというものはない。根拠が無い代物なんだから、「正義」を共有できないのも当然だ』というのがポストモダン以降の現代哲学の立場です。この30年くらいは哲学・思想・倫理といった学問では、ほぼ全ての立場が、この相対主義的な原則を出発点にしちゃっています。
「正しい」ことをもって問題を解決できたらもっと楽でしたね。
政治学では元々マキャベリ以来の伝統があって「正しさ」に宣伝効果以上の意義を認めていなかったのですが、とうとう思想まで「正しさの実現」に肯定的価値を認めなくなっている(「正しさとは何か」とか概念の追求ならOK)のが現代です。政治学と現代哲学においては「正しいこと」と「実現されるべきこと」はあまり関係がない、というのがほぼ常識となっています。この立場は数多の実証研究と厳密な形式論理の展開により支持されているので、学問的には当面揺らぎそうにありません。
元増田です。どうもありがとうございます。
文化相対論主義に基づけば答えは出ています。「鯨喰ってもいいし、女性器切除も禁止されるべきではない」です。ポストモダンの哲学・倫理学がこの結論を支持します。
なるほど、文化相対論主義についてWebで見てみた限りにおいてはそのようです。
ポストモダンについてはよくわからないのですが、ポストモダンは「グローバルに『正しい』ことは(ほとんど)存在しない」と帰結するという理解で正しいでしょうか?そうすると、捕鯨のみならず、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな問題についても「ほとんど全ての文化において人を殺してはならないとされているから、グローバルにも殺してはいけないように見えているだけだ」という結論になる?誤解していたら指摘してもらえるとありがたいです。
そしてポストモダンの哲学・倫理学は同時に「倫理的に正しくないない主張だから取り下げるべき」とは主張しません。捕鯨問題をはじめとする文化衝突は、結局政治によるパワーゲームの論理で勝負がつく、倫理が無力な問題と思っていればいいでしょう。
「正しい」ことをもって問題を解決できたらもっと楽でしたね。
http://anond.hatelabo.jp/20081115115527
みんなが「殺してもいいじゃん」ってことにしちゃったら、危なくて町を歩けないからだよ。
だから、殺す人は非難されるし、捕まえられて他の人間と会えないところに連れていかれるんだ。
「殺すな、盗むな、侵すな」ってのは、どの国の法律にもある社会生活の基本なんだ。
だって、それを社会が許してたら、安心して町を歩けないし、安心して働けないし、安心して家に住めないから。
勉強は、バカでいたかったら、しなくていいよ。
「なんで人を殺しちゃいけないの?」
という質問にどう答えるかと言う話で一時期ネットが盛り上がっていた。
なんかタイトルどおりの考えが浮かんだので書いてみた。
今でも一日何万ももらえると噂の屠殺所。
屠殺は昔から忌避するものの一つとして遠くメディアから遠ざけられてきた。
牧場の牛を育てているシーンを流すテレビ番組はあっても牧場の牛を殺す番組はない。
動物たちはそれこそ人にしてみれば拷問のような状態で殺されるのだと言う
http://saisyoku.com/slaughter.htm
高校の頃、生物の時間、生物の先生に「生きる意味ってなんですか?」と聞いたことがある。
「生物学的には、個体の保護と種の繁栄ということになっている」
その先生はそう応えてくれた。
もちろん例外はあるんだろうけど、基本的に僕はその知見を支持するし、
人を殺す行為ってのは生き物であろうとする尊厳を壊す行為だ。
もしくは死ぬ確率を減らすために集団行動を取って進化してきたのが今残っている生物で
人間は同時に"文明"を持つことで自分たちを例外、もしくは特別だと思い始めたんじゃないだろうか。
別に「人を殺すこと」が絶対的な悪だとは言わない。
現代ではどこまでを人と呼ぶか、危うい例がたくさんあるだろうし、ある人を殺すべきもっともな理由もいくらでも取り繕える。(それが論理破綻していようとも)
ただまずは、生き物を殺すことを知ることからはじめてみればいい。
なんだか言葉じゃ説明しようのない何かを感じるはずだし、そうしてはじめて「なぜ人を殺してはいけないのか」が議論となりうるようになるはずだ。
「あなたは、あなたの魂に率直に生きるべきだ。いかなるときも先ず自分が満足できるように、行動するべきだ。個人主義といえば分かりやすいが、これはもっともっと自分主義な考えだといっていい。好き勝手絶頂に生きればいいといってもいい。人生を生きる中で、様々な選択肢が私たちに投げかけられる。その際に、本当にあなたが望む選択肢以外を選んではいけない。後悔するような選択肢を選んではいけない。そうやって生きていないから自分を愛せなくなる。魂が濁る。
絶対的な正しさ、というのがあれば、それは自分の心に率直かどうか、それ以外にはありえない。あなたはいつだって正しい行いをしなければならない。どうか魂に率直に、迷ったときは直観で、正しく生きて欲しいと思う。
法律を犯すことは確かに罪だ。法律で裁かれる。しかし、本当の罪とは、自分を裏切ることだ。盗みをはたらくことも、人を殺すことも、幼女を監禁することも、法律を犯すことは、はっきりって社会との関係の中で構築された罪でしかない。社会的制裁を受けることにはなるが、これは社会とあなたの関係であって、あなたとあなたの心の問題ではない。本当の罪は、社会から与えられるものではなく、自分が、自分の心が与えるものだ。社会的な罪は刑期を終えれば、あるいはお金を払えば許されるが、自分の心を裏切る罪とは一生拭うことの出来ない罪だ。許されることのない罪だ。
しかし、迷うときもあるだろう。社会と自分の心に沿って生きることの間に葛藤が生まれることもあるだろう。それならばきっちり天秤にかければいい。傾いたほうが、あなたの正しさだ。
あなたが人を殺したいのならば、あなたとあなたの魂とに誓えるならば、家族親類友人社会的地位を失うリスクを考慮しても一切後悔することなく全ての責任を負うことができるなら、あなたは殺すという選択肢を選ぶことができる。つまりあなたは人を殺してもいい。
いや、それを選ばなければ、人を殺さないほうを選べば自分の心を裏切ることになってしまうならば、むしろあなたは、あなたとあなたの魂のために人を殺しなさい」
まあ、わかりきった答えだった。彼と話すということはそういうことだ。自分のことをプロテスタント系だという彼は牧師で、近所の教会に住んでいて、なぜか休日にはケーキの焼き方教室をなんかをしている。で、なんとなく私はケーキ教室に通っているのだ。
それにしても……この考えかたって、つまり、キリストすら正しくないときがあるということをいっているのだ。私がキリストの言葉に納得できなかったら、違うと思えば、それはそれが正しいというのだ。その正しさのみが絶対的な倫理の軸になりえるというのだ。法律も道徳も宗教すらも自分を律するものにはなりえないということだ。宗教をある部分では否定している宗教だなんて、なんだかそっちのほうが信用できそうと思った自分にびっくりする。
私は今年で五歳になる子供に「なぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれた。そして答えることが出来ず、とりあえず三日の猶予を貰った。そしてあれこれ悩んで、タイムリミットとなる今日、協会を訪ねたのだ。
私はこれを自分の息子に話すだろう。分かってもらえないかもしれないが、私は五歳になる息子を信頼しているのだ。それに、それ以上に私は、私の選択を信頼しているのだ。
たまたま検索でひっかかったブログに「なぜ人を殺してはいけないのか」というエントリーがあった。
http://thinkdeep.livedoor.biz/archives/13491218.html
ブログの題名は「考える力をつける」、内容は「考える力をつけて、物事の本質を見抜けるようになりましょう!」というもの。
しかし、僕はこの文章に「物事の本質」はないと思うのだ。
ただ、優等生的な「大人の答え」を書いているだけ。
これが「物事の本質」だというのなら、僕は「本質」なんてただのまやかしだと思う。
この文章を書いたブロガーは、質問に対してこのように書いている。
ある意味とっても正直な質問ですが、こういった質問をする人には、致命的な3つの欠如があります。
これが、僕が人を殺さない理由です。
(1)コミュニケーション能力の欠如。
嫌なことを自分がされたらどうなるかという視点が全くありません。普通、我々は幼少期から大人になるにかけて、友人関係の中で『他人の嫌がることはしない』という、社会で生きるうえで基本的な考え方を身に付けていきます。そういったコミュニケーション能力が決定的に欠如しているのですね。
(2)社会性の欠如。
人が人を殺しあうことが、公に認められる社会になったらどうなるかという、社会的に物事を考える視点が欠如しています。自分の視点しかなく、社会の一員という視点が全く無いわけです。
3番目として、イメージ力の欠如です。上記2つをイメージする能力もそうですし、人が人を殺しあったらどうなるか、どれだけ痛い思いをするとか、自分も危険な目に遭うとか、そういった自分以外のことについてのイメージ力が全くありません。
ブロガー自身が書いていることだが、これは非常に正直な質問だ。
「人を殺してはいけない」これは、世の中に規定された基本的なルールの一つだ。
そして、その理由はあまりはっきりと示されることがない。
だから、「なぜ人を殺してはいけないのか」なんてベーシックな疑問が出てくる。
このブロガーのような答えを返す識者は多い。
ただ、彼らの答えには、巧妙な言い逃れがあると思うのだ。
それは、「人が人を殺さない理由」と「人が人を殺してはいけない理由」を意図的に、または無意識に混同していること。
これは、卑怯な手だ。
そう、人は法律がなくったって、罰則がなかったって、そう簡単に人を殺さない。
僕だって、たぶん一生、人を殺すことはないだろう。
その理由は、上に書いてあるブロガーの答えと一致する。
ただ、それはこの「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには、何の答えも示さない。
もう一度書くが、「人が人を殺さない理由」と「人が人を殺してはいけない理由」は同一ではないから。
僕の考える「物事の本質」はここにある。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対し、それを問うた人間の資質を探っても、ただの逃げでしかない。
限られた時代の中で成立する一つの思想である社会や道徳を、この問いにぶつけても何の意味もない。
いや、「人が人を殺してはいけない」というルールそのものが、限られた時代の中で成立する、小さなルールでしかないという事を露呈するだけ。
本当に考える力を養いたいのなら、道徳や社会に惑わされず、その問いに正面からしっかりと向き合うことが大事なのではないかと思う。