「なぜ人を殺してはいけないのか」を含む日記 RSS

はてなキーワード: なぜ人を殺してはいけないのかとは

2014-09-05

なぜ人を殺してはいけないのか」という青臭い設問

これは「人間」の次の2つの側面を同時に見ようとするから難解になるんだと思う。

単純に個別に考えてはどうだろう。

「殺してはいけない」のは、社会集団を構成する人間相互保障社会では、自分が殺されないために、他人を殺してはいけない。

普段、私たち社会には"生物であり社会集団である人間"しか目にしていないから考えが及びにくいが、「生物である社会集団でない人間」というものがある。

その場合社会を構成していない人間基本的人権はない。自然権はない。社会を構成するアンドロイドには基本的人権に準ずる権利がある。

相互保障外の敵国の兵隊は殺してもよい。いや、自国国民を殺す恐れがあるなら積極的に殺すべきだ。

では、社会を構成することが期待されるが期待されていない胎児堕胎は、どう考えたらいいんだろう。

2014-07-29

哲学人殺し

なぜ人を殺してはいけないのかについて答えられる大人がほとんどいないという記事を読んだ

道徳的に、倫理的人殺しはいけないことは当たり前なのだ人殺しについて考えることをしていくと「戦争では人殺し正義」というものにいきつく

これはものすごく哲学的

哲学根本に容赦のない徹底さというものがあるが人殺し正当性について状況によって異なるというのはこれ以上ないほど整合性がある

要は人は必要に応じては人を殺しても良いという「解」になるらしい

しかし人は人を殺すだけの理由を持った時、人を殺しても良い状況の時に人を殺しても良いという因数分解のような理論的な解にはどうしても違和感がある

なぜなら人は人を殺すだけの論理計算式が成り立っていても計算自体に罪悪感や自尊心道徳心にこそ迷いを感じるから

人は必要に応じれば人を殺しても良いなどという答えなどどうでもいい

人は人を殺すという論理に人は耐えられないから人を殺してはいけないのである

はてなーの議論は教科書劣化コピー

NEVADAちゃん2世事件を受けて、はてブ界隈では「なぜ人を殺してはいけないのか」議論が少しだけ盛り上がりを見せている。

http://www.open.sh/entry/20140728/1406552151 とか http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2014/07/29/092214 とかがホッテントリ入りしてるし。

だけども、そんなのは大昔から議論されてきたわけで、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」とか「リヴァイアサン」とか「社会契約法」なんてのは中学高校社会教科書最初に載ってる。

なぜ教養のある高学歴が集まるはてなー教科書劣化コピーなんてやってるんだろうか。

みんなが好きな技術言葉で言えば四角い車輪の再発明だよね。

人を殺してはいけない理由とかいう話

http://www.open.sh/entry/20140728/1406552151

中学生思考停止レヴェルのバカがいたから書く。

なぜ人を殺してはいけないのか?→誰も意味が答えられない(ドヤー

と言ってるだけの中身のない文章なのだがまず前提がアホ。

物事にそもそも絶対的意味なんかあるわけ無いのに

何鬼の首取ったかのように当たり前のこと言ってんの?

社会的通念の意味なんてのは社会運営していくのに

不都合に"なりそうだから"と共有認識を持たれたか

禁止する程度のもの。人が簡単に殺される社会では

仕事生産性も、人材再生産性も担保できない訳だ。

まりそんな社会に害をなす奴は殺してもおっけー★ローヤだよー★

というのが、死刑な訳だ。

俺の話で難しすぎるなら小学生でも理解できるキノの旅でも読めばいい。

あぁ馬鹿ドヤ顔ってなんでこんなにムカつくんだろうな

2013-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20131101085508

こういう「それを信じている人がいるから」って意見をよく見るけど、ごまかしにしか思えないわ。

じゃあ周囲に誰もいなければお守りを切り刻めるのかよ。

なぜ人を殺してはいけないのか」って質問で「法律で罰せられるから」って答えるやつに似てる。

「罰せられない状況でならおまえは人を殺せるんだな?」と尋ねたら、

「絶対に罰せられないという保証がない」とか「そんな状況はありえない」とか言って逃げるんだよな。

「別の角度からの冷静な意見を提示する賢い俺」を気取ってるだけの机上の空論だろ。

2012-09-13

http://anond.hatelabo.jp/20120913165824

感情論宗教意識を除外して考えると、たとえば出生後の人間殺人罪なんかも根拠レスなっちゃわないかね?

酒鬼薔薇事件のとき犯人セリフに触発されて「なぜ人を殺してはいけないのか」が盛んに論争されたけど、

論理的には、出生後であれ出生前であれ、「人を殺してはいけない理由」なんて無いんだよ。

2010-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20100906144649

結局は、なぜ契約に従わなければならないのか?または、なぜルールに従わなければならないのか?っていうところに帰着する話だと思うんだけどな

なぜ人を殺してはいけないのかとほとんど同じ話になるけど、カンニング場合は、契約からんでくる点と他人の不利益が相対的に小さい点が少し違う。

http://anond.hatelabo.jp/20100903221841

カンニングがなぜダメなのか?

別に揶揄するわけでも何でもなく、素朴な疑問。

ある種「なぜ人を殺してはいけないのか」議論に通じるものもあるが、気になった。

常識だから」「学校の規則だから」とかの答えで通常は十分だろうが、説明しきれてるとは言えない。

何の疑問の余地もないだろう。

特定の知識や技術を習得することが目的学問で、その成果を計っているのに、全く無関係の別の技術対応しているから問題なんだ。

カンニングを習得する学問で、本人が「カンニング技術」が高い事を売りにするのなら良いが、そうじゃないだろ。


目的に対して手段が無意味なのが問題なのだから、「なぜ人を殺してはいけないのか」だけの設問では無意味

人を殺す目的とセットでなければ、手段の正当性は語れない。

正当防衛死刑の執行、凶悪犯罪者の制圧など、殺人が許されるケースもままある。

2010-09-05

http://anond.hatelabo.jp/20100904132741

「人を殺してはいけない理由などない」を書いた増田だが

「人を殺してはいけない理由などない」というのは、

「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いを発する人に対して、

「それは○○だからだ」と言ったところで

「なぜ○○なの?」「それは××だからだ」「なぜ××なの?」……

無限後退に陥る。

だから原理的には説明できないという事だ。

にも関わらず殺人を禁止するルールは成立する

という事を書いている。

殺人を肯定する意図で書いたものではない。

なぜ人を殺してはいけないのか」と問う人間道徳倫理を説いても無駄(な場合もある)という事は書いているかもしれない。

2010-09-03

http://anond.hatelabo.jp/20100903230056

ある種「なぜ人を殺してはいけないのか」議論に通じるものもある

なぜカンニングダメなのか→テスト意味がなくなる

なぜテストが必要なのか→必要な知識を持つか確認するため

なぜ知識が必要なのか→国や社会の発展のため

なぜ国や社会の発展が必要なのか

という、なぜころ問題と同じ、風が吹けば桶屋が儲かるロジックという意味ですか?

http://anond.hatelabo.jp/20100903221841

ある種「なぜ人を殺してはいけないのか」議論に通じるものもあるが、気になった。

そうではなくて、どちらかというと「なぜサッカーでは手を使ってはいけないのか」と似ている。

大学側は「当大学卒業した者は、一定程度の能力を有する」と外部に宣伝している。その宣伝羊頭狗肉とならないよう講義カリキュラム試験制度を整備している。それが効を奏すれば、企業なり世間なりが大学を評価してくれるため、入学希望者が集まり、大学運営が成り立つ。

カンニングはそのような大学努力を無にする行為。大学カンニングを認めるということは大学自己否定そのものだから。

カンニングがなぜダメなのか?

別に揶揄するわけでも何でもなく、素朴な疑問。

ある種「なぜ人を殺してはいけないのか」議論に通じるものもあるが、気になった。

常識だから」「学校の規則だから」とかの答えで通常は十分だろうが、説明しきれてるとは言えない。

この疑問をきっちり理屈が通るように答えるにはどうすればいいんだろう。

twitterにでも書こうかと思ったが、議論がめんどくさいので増田に書く。

2010-07-21

[][][]なぜ人を殺してはいけないのか



母親としてあるべき愛情が見いだせない」「自己の欲望や幸福を満たすためには子供の命を犠牲にしても構わないという、母親としては考えられない自己中心的で身勝手極まりない動機」懲役14年

「もし、あなたが母親の胎内の胎児だった時に、中絶するから死んでくれと言われて納得できますか?」



胎児人権宣言

http://gospel.sakura.ne.jp/wikiforj/index.php?%C2%DB%BB%F9%A4%CE%BF%CD%B8%A2%C0%EB%B8%C0

404 Blog Not Found:なぜ胎児を殺してはいけないか

partygirlの日記 - 妊娠中絶は悪なのか?を、ちょっとしつこく語る

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/partygirl/20060622

親に内緒堕胎した。

2010-06-27

http://anond.hatelabo.jp/20100627182058

ポストモダンについてはよくわからないのですが、ポストモダンは「グローバルに『正しい』ことは(ほとんど)存在しない」と帰結するという理解で正しいでしょうか?そうすると、捕鯨のみならず、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな問題についても「ほとんど全ての文化において人を殺してはならないとされているから、グローバルにも殺してはいけないように見えているだけだ」という結論になる?

はい。お見事な理解です。少々過激な書き方をすれば、『「正義」なんてものは文化偏見の一種でしかなく、そこに普遍的根拠などというものはない。根拠が無い代物なんだから、「正義」を共有できないのも当然だ』というのがポストモダン以降の現代哲学の立場です。この30年くらいは哲学・思想・倫理といった学問では、ほぼ全ての立場が、この相対主義的な原則を出発点にしちゃっています。

「正しい」ことをもって問題を解決できたらもっと楽でしたね。

政治学では元々マキャベリ以来の伝統があって「正しさ」に宣伝効果以上の意義を認めていなかったのですが、とうとう思想まで「正しさの実現」に肯定的価値を認めなくなっている(「正しさとは何か」とか概念の追求ならOK)のが現代です。政治学と現代哲学においては「正しいこと」と「実現されるべきこと」はあまり関係がない、というのがほぼ常識となっています。この立場は数多の実証研究と厳密な形式論理の展開により支持されているので、学問的には当面揺らぎそうにありません。

http://anond.hatelabo.jp/20100627080121

元増田です。どうもありがとうございます。

文化相対論主義に基づけば答えは出ています。「鯨喰ってもいいし、女性器切除も禁止されるべきではない」です。ポストモダン哲学倫理学がこの結論を支持します。

なるほど、文化相対論主義についてWebで見てみた限りにおいてはそのようです。

ポストモダンについてはよくわからないのですが、ポストモダンは「グローバルに『正しい』ことは(ほとんど)存在しない」と帰結するという理解で正しいでしょうか?そうすると、捕鯨のみならず、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな問題についても「ほとんど全ての文化において人を殺してはならないとされているから、グローバルにも殺してはいけないように見えているだけだ」という結論になる?誤解していたら指摘してもらえるとありがたいです。

そしてポストモダン哲学倫理学は同時に「倫理的に正しくないない主張だから取り下げるべき」とは主張しません。捕鯨問題をはじめとする文化衝突は、結局政治によるパワーゲーム論理で勝負がつく、倫理が無力な問題と思っていればいいでしょう。

「正しい」ことをもって問題を解決できたらもっと楽でしたね。

2008-11-15

なぜ人を殺してはいけないのかって?

http://anond.hatelabo.jp/20081115115527

 みんなが「殺してもいいじゃん」ってことにしちゃったら、危なくて町を歩けないからだよ。

 だから、殺す人は非難されるし、捕まえられて他の人間と会えないところに連れていかれるんだ。

 「殺すな、盗むな、侵すな」ってのは、どの国の法律にもある社会生活の基本なんだ。

 だって、それを社会が許してたら、安心して町を歩けないし、安心して働けないし、安心して家に住めないから。

 勉強は、バカでいたかったら、しなくていいよ。

2008-07-06

人を殺したい人は屠殺所へいけばいい

「なんで人を殺しちゃいけないの?」

という質問にどう答えるかと言う話で一時期ネットが盛り上がっていた。

なんかタイトルどおりの考えが浮かんだので書いてみた。

今でも一日何万ももらえると噂の屠殺所。

屠殺は昔から忌避するものの一つとして遠くメディアから遠ざけられてきた。

牧場の牛を育てているシーンを流すテレビ番組はあっても牧場の牛を殺す番組はない。

動物たちはそれこそ人にしてみれば拷問のような状態で殺されるのだと言う

http://saisyoku.com/slaughter.htm

高校の頃、生物時間生物先生に「生きる意味ってなんですか?」と聞いたことがある。

生物学的には、個体の保護と種の繁栄ということになっている」

その先生はそう応えてくれた。

もちろん例外はあるんだろうけど、基本的に僕はその知見を支持するし、

人を殺す行為ってのは生き物であろうとする尊厳を壊す行為だ。

もしくは死ぬ確率を減らすために集団行動を取って進化してきたのが今残っている生物

人間は同時に"文明"を持つことで自分たちを例外、もしくは特別だと思い始めたんじゃないだろうか。

別に「人を殺すこと」が絶対的な悪だとは言わない。

現代ではどこまでを人と呼ぶか、危うい例がたくさんあるだろうし、ある人を殺すべきもっともな理由もいくらでも取り繕える。(それが論理破綻していようとも)

ただまずは、生き物を殺すことを知ることからはじめてみればいい。

なんだか言葉じゃ説明しようのない何かを感じるはずだし、そうしてはじめて「なぜ人を殺してはいけないのか」が議論となりうるようになるはずだ。

2008-01-11

なぜ人を殺してはいけないのか

・なぜ鯨を殺してはいけないのか

似ているようでずいぶん違う。

でも違わないのかもしれんね。実は。

2007-11-16

なぜ人を殺してはいけないのか

キーワード化されててワラタw

あ、いちおう書名として登録されてるのか。

しかし増田の中でもいくつかひっかかるのな。

なぜころ問答は永遠テーマ

2007-11-14

なぜ人を殺してはいけないの?

「あなたは、あなたの魂に率直に生きるべきだ。いかなるときも先ず自分が満足できるように、行動するべきだ。個人主義といえば分かりやすいが、これはもっともっと自分主義な考えだといっていい。好き勝手絶頂に生きればいいといってもいい。人生生きる中で、様々な選択肢が私たちに投げかけられる。その際に、本当にあなたが望む選択肢以外を選んではいけない。後悔するような選択肢を選んではいけない。そうやって生きていないから自分を愛せなくなる。魂が濁る。

絶対的な正しさ、というのがあれば、それは自分の心に率直かどうか、それ以外にはありえない。あなたはいつだって正しい行いをしなければならない。どうか魂に率直に、迷ったときは直観で、正しく生きて欲しいと思う。

法律を犯すことは確かに罪だ。法律で裁かれる。しかし、本当の罪とは、自分を裏切ることだ。盗みをはたらくことも、人を殺すことも、幼女監禁することも、法律を犯すことは、はっきりって社会との関係の中で構築された罪でしかない。社会的制裁を受けることにはなるが、これは社会とあなたの関係であって、あなたとあなたの心の問題ではない。本当の罪は、社会から与えられるものではなく、自分が、自分の心が与えるものだ。社会的な罪は刑期を終えれば、あるいはお金を払えば許されるが、自分の心を裏切る罪とは一生拭うことの出来ない罪だ。許されることのない罪だ。

しかし、迷うときもあるだろう。社会と自分の心に沿って生きることの間に葛藤が生まれることもあるだろう。それならばきっちり天秤にかければいい。傾いたほうが、あなたの正しさだ。

あなたが人を殺したいのならば、あなたとあなたの魂とに誓えるならば、家族親類友人社会的地位を失うリスクを考慮しても一切後悔することなく全ての責任を負うことができるなら、あなたは殺すという選択肢を選ぶことができる。つまりあなたは人を殺してもいい。

いや、それを選ばなければ、人を殺さないほうを選べば自分の心を裏切ることになってしまうならば、むしろあなたは、あなたとあなたの魂のために人を殺しなさい」

まあ、わかりきった答えだった。彼と話すということはそういうことだ。自分のことをプロテスタント系だという彼は牧師で、近所の教会に住んでいて、なぜか休日にはケーキの焼き方教室をなんかをしている。で、なんとなく私はケーキ教室に通っているのだ。

それにしても……この考えかたって、つまり、キリストすら正しくないときがあるということをいっているのだ。私がキリスト言葉に納得できなかったら、違うと思えば、それはそれが正しいというのだ。その正しさのみが絶対的な倫理の軸になりえるというのだ。法律道徳宗教すらも自分を律するものにはなりえないということだ。宗教をある部分では否定している宗教だなんて、なんだかそっちのほうが信用できそうと思った自分にびっくりする。

私は今年で五歳になる子供に「なぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれた。そして答えることが出来ず、とりあえず三日の猶予を貰った。そしてあれこれ悩んで、タイムリミットとなる今日、協会を訪ねたのだ。

私はこれを自分の息子に話すだろう。分かってもらえないかもしれないが、私は五歳になる息子を信頼しているのだ。それに、それ以上に私は、私の選択を信頼しているのだ。

物事の本質

たまたま検索でひっかかったブログに「なぜ人を殺してはいけないのか」というエントリーがあった。

http://thinkdeep.livedoor.biz/archives/13491218.html

ブログの題名は「考える力をつける」、内容は「考える力をつけて、物事の本質を見抜けるようになりましょう!」というもの。

しかし、僕はこの文章に「物事の本質」はないと思うのだ。

ただ、優等生的な「大人の答え」を書いているだけ。

これが「物事の本質」だというのなら、僕は「本質」なんてただのまやかしだと思う。


この文章を書いたブロガーは、質問に対してこのように書いている。

ある意味とっても正直な質問ですが、こういった質問をする人には、致命的な3つの欠如があります。

これが、僕が人を殺さない理由です。

(1)コミュニケーション能力の欠如。

嫌なことを自分がされたらどうなるかという視点が全くありません。普通、我々は幼少期から大人になるにかけて、友人関係の中で『他人の嫌がることはしない』という、社会生きるうえで基本的な考え方を身に付けていきます。そういったコミュニケーション能力が決定的に欠如しているのですね。

(2)社会性の欠如。

人が人を殺しあうことが、公に認められる社会になったらどうなるかという、社会的に物事を考える視点が欠如しています。自分の視点しかなく、社会の一員という視点が全く無いわけです。

(3)イメージ能力の欠如。

3番目として、イメージ力の欠如です。上記2つをイメージする能力もそうですし、人が人を殺しあったらどうなるか、どれだけ痛い思いをするとか、自分も危険な目に遭うとか、そういった自分以外のことについてのイメージ力が全くありません。


ブロガー自身が書いていることだが、これは非常に正直な質問だ。

「人を殺してはいけない」これは、世の中に規定された基本的なルールの一つだ。

そして、その理由はあまりはっきりと示されることがない。

だから、「なぜ人を殺してはいけないのか」なんてベーシックな疑問が出てくる。

このブロガーのような答えを返す識者は多い。

ただ、彼らの答えには、巧妙な言い逃れがあると思うのだ。

それは、「人が人を殺さない理由」と「人が人を殺してはいけない理由」を意図的に、または無意識に混同していること。

これは、卑怯な手だ。

そう、人は法律がなくったって、罰則がなかったって、そう簡単に人を殺さない。

僕だって、たぶん一生、人を殺すことはないだろう。

その理由は、上に書いてあるブロガーの答えと一致する。

ただ、それはこの「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには、何の答えも示さない。

もう一度書くが、「人が人を殺さない理由」と「人が人を殺してはいけない理由」は同一ではないから。

僕の考える「物事の本質」はここにある。

なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対し、それを問うた人間の資質を探っても、ただの逃げでしかない。

限られた時代の中で成立する一つの思想である社会道徳を、この問いにぶつけても何の意味もない。

いや、「人が人を殺してはいけない」というルールそのものが、限られた時代の中で成立する、小さなルールでしかないという事を露呈するだけ。

本当に考える力を養いたいのなら、道徳社会に惑わされず、その問いに正面からしっかりと向き合うことが大事なのではないかと思う。

それがどんなに反社会的であろうと、どんなに道徳から外れたものであろうと。

http://app.blog.livedoor.jp/thinkdeep/tb.cgi/13491218

2007-10-09

なぜ人を殺してはいけないのか?」のような疑問は誰でも抱いたことはあると思うんだ。僕はそうゆう疑問に対して「はぁ?そんなの当たり前だろ?」と答えてくる思考停止野郎が大嫌いだ。

あと、例え話をしているのに「そんなのありえないからwww」とか抜かしてくるバカヤロウも大嫌いだ。だからたとえばっていってんだろーがボケ

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