はてなキーワード: 相対主義とは
ポップカルチャー評論家宇野常寛「ARBはいかにもな90年代Jロック(キリ」オレ「ARBは80年代なんだが」宇野「ぐぬぬ」http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/237067
この人達勘違いしてるよ。宇野氏はポストモダニスト。歴史実証主義への深刻な懐疑が
思想形成の根底にある。
何故彼がこんな挑発的な主張をしたかといったら、歴史実証主義が現代ではもう「無力」だからだよね。
ポストモダン・フェミニストの上野千鶴子は、従軍慰安婦・南京大虐殺論争に加わった時、
なんとウヨク修正主義者を実証的に批判する吉見義明らを批判した。
上野曰く「南京大虐殺はなかった」と主張するウヨクも、あったとするサヨクも、実証主義を使って
そんな土俵でウヨク批判に実証主義者は無力すぎる。それを第三者が見たら、
「ウヨクもサヨクも同様に確からしくない」という印象を持つでしょう。
重要なのは、過去を生きた人の身になって想像しようとする気持ちと、物言わぬ「痕跡」の声に
戦後生まれのアジア人が、日本軍に殺害された被害者の声を想像して代理できるように、
宇野氏も70~90年代当時を生きた日本人として「ARB」を受容し、語ることができる。
ARBを聴いて「いかにもな90年代Jロック」「いかにもな「虚構の時代(by大澤真幸)」のロック」と感じた
彼の感想は、1個の体験的事実であって、この印象を他人が抹消することはできない。
物知り顔で「あの時代の空気は~」って説教垂れる老人は、自分の感じた空気感が正しいと
独断している事がタチが悪い。偏った体験とセンスを持つ1人でしかなくなんの根拠もないのに。
個別の事実よりも、全体として過去がどのような感じであったかを再構築する想像力が重要でしょう。
相対主義の世界で、ロックやアニメといった個々のコミュニティを正当化せずに、
色んなコミュニティを見て周り、その上でニュートラルであろうとする誠実な意思が必要でしょう。
閉じたコミュニティからの偏見剥き出しの批判に意味はないでしょう。
正しさは正しくあろうとした人物を、未来の人々が正しく判断するでしょう。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1679541.html
http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html
Sexy Zoneも、Not yetも流行ってないし、会話ですらその単語を聞いたことがない。
多分、会話にそれらの単語を出すときには説明が必要となるだろう。
それは別に流行ってない訳じゃなくて、そういったのに興味がある奴が俺の周りにいないだけだ。知り合いのツイッターで話題になってないだけだ。
結局流行ってるもの、常識とされてるもの、普通とされてるものが、それぞれのクラスターで違うってだけの話だ。
俺は去年帰郷して兄弟と会話したときにRadioheadとか宇多丸とかいう単語自体が通じないことに軽く衝撃を受けたが
そういったことはありふれてる。ちょっとくらい前に話題になった「サイコ2割問題」とそう変わらない話だ。
だから、テレビで「~が流行ってるんですよ」とか聞いても、そりゃどっかで流行ってるのかもしんないなと毎回思う。
ほんとに流行ってんのか知りたくなったら、データをどっかからググって調べるくらいすればいい。
思ったより流行ってたり、流行ってなかったり、意外な層に流行ってたり、やっぱり流行ってなかったりする。
ここ最近、韓国関連のことが流行ってますよとテレビで流れると、脊髄反射のかのように毎回ネットでは反発が起きる。
「そんなの流行ってない!」だとか「そんなの普通じゃない!」とか「そんなの常識ってことにするな!」とか。
で、これはマスコミに対するネットからの批判意識として、3%くらいは評価・共感できるものかもしれないが、97%くらいはうんざりする。
「流行ってますよなんてそもそも謳うからいけないんだ!」なんて言うのかもしれないけど
逆に、結局この人達はマスコミが担っていた「普通」や「流行」や「常識」に対する信頼を持っていた人たちなのかもしれないという気がする。
オーソリティに対する信頼とでもいうべきだろうか。
「普通」も「流行」も「常識」も、クラスターによって違うということがもはや「常識」だってことはちょっとネットを眺めれば分かるだろう。
それに従って、「普通」も「流行」も「常識」も壊れてしまった。
マスコミ、メディアが担保していた共同体幻想みたいなもの、一億総クラスター幻想がそれらを作り上げていたし、それが崩壊してしまったのだから。
じゃあ何がマスコミを殺したのだろう。
一億総中流的なものから格差社会という流れもあるが、当然ネットがマスコミを殺した。
つながりあえる環境、「真実」を知れる環境、簡単に島宇宙を形成できる環境、それが可視化される環境がマスコミを殺した。
かくして、「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も、クラスター別に存在することになった。
それに人間は耐えられるだろうか。
「ほんとう」の「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も存在しないことに耐えられるだろうか。
だから、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じて生きることになる。
ニーチェは「神は死んだ」といった。
「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が。我々はみんな神の殺害者だ」と。
「我々が信じていた真・善・美なる価値基準や権威を根底において担保していたものは、滅びてしまったのだ」と。
日本人からしたら、「で?www最初から死んでるしwwwつか日本には八百万いるしねwww」ぐらいのもんで
なんで、そんなことに大騒ぎしたのか分からないところがある。
だけど、「メディア・マスコミが死んだ」というのはそれくらいの衝撃が日本人にとってはある。
その影響がじわじわと色んなところで見える。
「みんな」が思ってる一つだけ存在する「普通」や「流行」や「常識」が死んだ。
お前が言ってる「みんな」って「普通」って「流行」って「常識」って何だよってことになる。
それこそ一神教から八百万の神への改宗という衝撃が実は起こったんだということがじわじわとわかってくるだろうと思う。
その過程では、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じることにしたり、
そのクラスターにおける「真実」を盲信して他のクラスターを攻撃したり、クラスター別に違うモードを使い分けたり、
クラスターの中で、あるいは他クラスター同士で「ほんとう」を定めるために対話したり、クラスターを彷徨ったり、
反動として、確固としたオーソリティや序列や権威を求めて、何かに忠誠的になったり、他者に攻撃的になったり
すべてのクラスターに通じるものとして「ほんとう」のことを提唱したりすることが、日常的なこととなるだろうし、すでになりつつある。
表面上は、まとめブログによって、youtubeの再生回数によって、徐々に「大衆」における「普通」や「流行」は担保されていくことになる気はするが
その根底では、価値観を担保していたものの崩壊が徐々に起こっている。
スピリチュアルでも、自己啓発でも、ノマドでも、愛国心でも、ライフハックでも人生の指針となってくれるものを求めている。
これらの価値観でも、宗教でもなんでもそうだが、人生の指針となってくれる価値観を求める欲望は消せないし、否定すべきでない。
すべての価値観をクールじゃないと否定したあとに待っているのは、ニヒリズムか退廃と決まっている。
「ほんとう」の価値観を求めて、匿名のコメントで殴りあうことがこれからもネット上では続くだろう。
それは価値観の衝突とも呼べるかもしれないし、対話とも呼べるのかもしれない。
たとえば、東大とFラン、どっちも違ってどっちもいい、とはならないだろ。
やべえええええよく分からんがやべえええ俺YABEEEEEE
逃げちゃ駄目だって価値観と逃げていいっていう価値観がぶつかりまくってる
悩んでると何も出来ないフリーズしちゃう
うおおおおおおおおまじでどうしよううううううううう
働きたくねええええええええええええええええ
働きてええええええええええええええええええ
<わたし>の比類なさ半端ねえええええええ
同時に俺ほどちっぽけなものはねえええええええ
やべえええええええええええええ死にたい
でも生きたいいいいいい
訳分からん
訳分からんことだけは分かる
もうどうしようもない
どうにかしたい
どうにもしたくない
何もしない状況がたまらなくいやだ
でも何かをしようとすると途端に逃げようとする
逃げようとするとそれをとめようとする
止めようとするとストレスが溜まるうううう
やべええええええええええええええもうやべええええええええええよおおおおおおおおおおおお
そういった諸々全部くだらないけどくだらないっていうのも一つのモノサシだ。
価値観なんて糞だ「べき」なんていらないってのもモノサシの一つだ。
作品の倫理性をうんぬんするよりも、ふたばの批判的分析をしたくて仕方がない擁護派の習性というものは興味深いですな。
それはともかく、(ふたば民から見ての)梅ラボの侵犯もまたひとつの文化として捉えようぜっていうサイテーの相対主義は許しがたいね。
お前それ正気で言ってんの? 文化を一方的に搾取した掠奪者の横暴を片目で見ながら、「ふたば民はもっと寛容になれ」ってどういうこと?
なになに、それが『成長の一過程』だって? は? 文化の脆弱性とか知ったかの意味分からんことをほざくお前が望む文化のあり方に従うことが成長?
ふざけんなよ、エスノセントリズムもたいがいにしろ。
日本で始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。
シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。
ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範と市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範の適用の仕方を検証している。
サンデル教授はこれまで社会規範の適用されてきた社会に市場規範を適用するという最近の風潮を危惧している。
それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。
そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会の幸福への試金石になるかもしれない。
宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授はコミュニタリアン(共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手に定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。
つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義、自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。
NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授は功利主義、自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義と権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。
5章以降のカントの示した人生観やロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。
人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。
自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語を解釈している。
自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、
物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。
そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアンの正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。
サンデル教授は功利主義、自由主義、共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。
フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。
(フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])
目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。
自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。又、これは、「マズローの欲求段階説」とも称される。
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である。 自己超越者(transcenders)の特徴は
1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
9. 聡明である
10. 多視点的な思考ができる
11. 外見は普通である(very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
(自己実現理論 :wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])
フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的を認識することが重要であることを示しているように思える。
相対主義と言っても学術的な話じゃなくてもっと日常的な意味でね。要するに『人それぞれ』というセリフが好きな人の話。
料理や映画、ファッションの好き嫌いなど日常レベルの相対主義は多いけど、音楽というのも相対主義がリアルに実感できる分野だと思う。自分の好きな音楽は、徹底的に他人の好きな音楽と一致しない。例えば俺は高校時代にロックにハマったが、比較的メジャーなこのジャンルでさえ、クラスで音楽の話をできるのは一人しか居なかった。ずいぶん熱心に布教もしたが、効果は皆無だった(枕に顔押し付けて足バタバタさせたい過去)
ところで、友人に話し上手でモテる男がいるのだが、その男はノイズミュージック周辺のマニアックな音楽をよく聞いてる。ノイズくらいマニアックなジャンルは少ないだろうが、彼の周りには彼に影響されてノイズを聴き始めたという女の子が結構いる。俺には結構な衝撃だった。『そんなもの布教して、なんで大丈夫なの!?』初めて路上に出る初心者の運転をハラハラ見守ってたものの、結果的に無事故無違反の完璧な運転をみせつけられたような、複雑な気分。
しかし今ならば納得出来る。結局、彼が布教に成功したのは布教するのに充分な洗脳力を持っていた、というだけのことなのだろう。それはルックスだったり、表情だったり、声のトーンだったり、相手の話を聞く態度などが関係してるのだ。高校時代の俺はここを誤解していた。こんなに素晴らしい音楽なのだから布教できて当然だ、と。極端に言えば布教できるか否かに、音楽自体の魅力は関係ない。成功している新興宗教の教義を手に入れたからといって、演説をした上で何万人もの信者を洗脳することは、ほとんどの人にはできないように。
逆に言えば相対主義的な言説の好きな人間は、他者を洗脳する力のない、社会的弱者であるといえるかもしれない。言ってしまえばコミュニケーション力などというものは、いかに他者を洗脳できるかという能力である。幸せそうなカップルだって多かれ少なかれ、強者が弱者を洗脳してる関係である。だから『人それぞれだから』のような相対的な言説を多用する人は、本当に対象自体がマニアックすぎる場合(例えばスカトロ)もあるが、他者を洗脳する能力に乏しい社会的弱者である、という可能性も多々あるのではないか?
これが「少々動揺してるだけ」って頭オカシイだろお前w
でもお前だけじゃなく結構居るよ、頭オカシイ奴。
習慣的にそれを繰り返すうちにナンセンスなほどメクラじみた反応が染み付いた人、これが結構いる。
元々この手の人達の動機って、
相対主義と言うか
「世間はヒステリックに騒ぐから、それより賢い私達のとるべき反応は~」
っていう視点だったんだろうと思う。
あとは、問題性を指摘することが誰かの欠点や失点の指摘に繋がりかねない場合に
「世間は安易に差別性を含んだ声を上げるから、それより賢い私達は~」
ってなる。
政治や外交で言えば、ちょっと周辺国家が野心的なこと仕掛けてきた時に
明らかに喧嘩売られてる、もしくは観測気球を上げられてる場合でも、
「相手はそんなつもりはない、過剰反応はよくない」ということを決まり文句のように言う。
これを見て「売国奴」「スパイ」「花畑」って罵る声がよく出るけどそうじゃなくって
http://anond.hatelabo.jp/20100922170211
心配してくれてありがと。
なんで誰も望まないような男が三人も増えるんだ?
これは元の文でも書いたけど私にはよくわかんない。
ここがわかるかもしれないという意味で少なくともゲームは買うと思ってる。
バンナム様からしたらコアファンがゲーム一本買うくらいでは全然元が取れないだろうから
貢ぐって感覚はあんまりない。
素直に「こういう窮乏でどうしても○人をNPCにせざるを得なかった」って言ったなら、
これは思う。ならば批判はこの点にピンポイントに絞るべき。
まだ冷静になれないから仕方ないけれど、冷静になれないならしばらく待つ。
それは消費者に甘え過ぎってもんだろ。
以上とか以下の問題じゃないんだ。
与えられた状況で自分はファンとしてどうありたいのかって時に
今やってるような行為はちょっと変かな、って思うだ。
そんでもって「立ち去れない」時に、自分がどうしなきゃいけないのかって。
立ち去れる人はそれでもいいと思う。私はもう無理なので、じゃあどうしようって
腹のくくり方を考えてるわけ。
「あ、こいつらはどんな扱いしてもついてくる」
「あ、こいつらは何やっても金落とす」
「じゃあこいつらは蔑ろにして別の客層に目を向けよう」
うーん、そう感じたらやめるけどね。
ぶっちゃけるとさっきの記事で書いた曲芸と柑橘という2つの会社は切った。
私は諸事情考えて、別に愛がなくなったわけじゃないと思うの。
まぁそのあたりの見極めが本当にできてるかどうかは正直自信ないし、
私はもうちょい頑張ってみるよ。
ポストモダンについてはよくわからないのですが、ポストモダンは「グローバルに『正しい』ことは(ほとんど)存在しない」と帰結するという理解で正しいでしょうか?そうすると、捕鯨のみならず、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな問題についても「ほとんど全ての文化において人を殺してはならないとされているから、グローバルにも殺してはいけないように見えているだけだ」という結論になる?
はい。お見事な理解です。少々過激な書き方をすれば、『「正義」なんてものは文化的偏見の一種でしかなく、そこに普遍的根拠などというものはない。根拠が無い代物なんだから、「正義」を共有できないのも当然だ』というのがポストモダン以降の現代哲学の立場です。この30年くらいは哲学・思想・倫理といった学問では、ほぼ全ての立場が、この相対主義的な原則を出発点にしちゃっています。
「正しい」ことをもって問題を解決できたらもっと楽でしたね。
政治学では元々マキャベリ以来の伝統があって「正しさ」に宣伝効果以上の意義を認めていなかったのですが、とうとう思想まで「正しさの実現」に肯定的価値を認めなくなっている(「正しさとは何か」とか概念の追求ならOK)のが現代です。政治学と現代哲学においては「正しいこと」と「実現されるべきこと」はあまり関係がない、というのがほぼ常識となっています。この立場は数多の実証研究と厳密な形式論理の展開により支持されているので、学問的には当面揺らぎそうにありません。
それが誠実さってことだと思う。
だけどそれがbullshitの引き金になったりして。
最初はこの文章、さよならディスコミュニケーション、さよならフランクファート
そして、こんにちわ「人それぞれ」
そう書きだしてみるつもりだった。
だけどちょっと気が変わった。フランクファート読んだことなかったから読んでみることにした。
いくら衒学趣味でもちょっとくらいは真面目なところを見せたのだ。
フランクファートはアメリカの道徳哲学やってる人なんだけど、日本語訳されてるのは、on bullshitって本だけ。
邦訳は、ウンコな議論。
これは僕の独断。本文中では、おためごかしって言葉が使われてたりするけど、これはちょっと一般的じゃないだろう。
翻訳者の山形浩生は、ウンコな議論の具体例として、小泉元首相の、「人生いろいろ」という発言を例にあげている。
ウンコな議論は嘘を言っているわけじゃない。
ここで最初に戻るんだけど、「人それぞれ」もそうなんだ。
嘘を言っているわけじゃない。確かに人それぞれだ。
だけどそれは解答の放棄だ。
正解が何種類あるかはわからないにしても、全ての人が正しいってことはないだろう。
相対主義(つまり、人それぞれってこと)は何も生み出さない。
衝突も、議論も、止揚も、向上も、疑問さえも。
勿論それは日常生活をスムーズに送る上では必要なことなんだけど。
だけどその考えがウンコな議論を必要としない場にも入り込んでくるんだ。それはよくない。
言語は思考を規定する。それがビッグ・ブラザーがニュースピークを作った理由だ。
つまり、自由と言う概念が存在しなければ、人は自由について考えることをしない。
もし仮に誰かが自由について話したとしても、他の人はそれを理解できない。
ウンコな議論だってそうなんだ。ウンコな議論と真の議論を見分けられなければ、ある出来事に対して適切な理解をすることが難しくなるんだ。
ウンコな議論に慣れ過ぎていると、真の議論は乱暴で粗野なものに見えてしまうんだ。
大事なことは二つ。ウンコな議論かどうかを見分けること。
http://anond.hatelabo.jp/20100216195312
「野蛮」って語自体の意味合いはともかく、西洋近代の文脈とは少し離れた文化圏に属するぼくらは
元来野蛮人なわけですよ。そして、西洋人が我々に「野蛮人の国だな」と言ったとしたら
文化相対主義も知らない白豚がなにを吠えてやがる、と笑い飛ばせばいいわけですよ。
いいんですよ、そもそも野蛮人で。
それを海外の基準に合わせようと(それも、海外から来た洋服文化の文脈で)してみたり
挙句の果てに「海外から野蛮人と思われる」なんて危惧してみたり。
本音を言えば、多分スーツ着てるだけで失笑モンだと思いますよ、ぼくらアジアンですから。
でも、白人としてはこれ決していえないんですよ。
黒人差別同様、明確な差別になるから。黒人のダルダルファッションに対しても、白人は決して物申せない。
「だっせえ」と言うか、ちょっと皮肉るくらいが関の山で、それ以上は踏み込めないんですよ。
サベツになっちゃうから。まずこういう前提があることを認識した上で、
服を着崩したヤツが一人出て来たことを考えても、ぶっちゃけ何も起きないですよ。
スーツ着てる時点で彼らからしてみりゃ、おかしいんだから。
我々の国の文化として「着崩しはアウト」と認定するのはまぁ、内輪の問題だからどーでもいいけど
海外との対比で語るときは、そんなシンプルな図式じゃ語れないよねぇ。めんどいね。
もうみんな和服で行こうぜ。
いや、font-daさんの文章はやっぱりかなり読みにくいと思った。論旨がやっぱり不明確だし、あなたもそうだが、原典を読めばいいというスタンス過ぎる。
前提が多すぎて、カンタンに説明しろと言われても、という感じなのかもしれないが、だとしても、読め、という返しはちょっと、と思うよ。
1 ネオコンみたいな普遍主義も、文化相対主義的な及び腰のリベラルも、対象を「操作の対象」として受け身の客体としてしか捉えていない。
2 受け身の対象として当事者不在で忖度し、勝手に当事者を代表して議論している限り、その議論は自己満足的なものでしかない。
3 かといって当事者不在では意味がないという論点が、何もしないことを正当化するのでは、さらによろしくない。
4 だから問題なのは、具体的な当事者との接点を、観念的にではなく構築することと、現にすでに生じている当事者との関係(これから意識的に作る、企画された、是非を論じられている関係ではなく、すでに生じている、現在の、具体的な、進行形の関係)を精査することである。
とか、そういう論点とか、それから踏み込んだ論点とかもあるんだろうけど、こういうふうに要点を書くことはできるんじゃないのか。
あとこういう問題についてはぼくはfreezing pointのひとを信用してる。文化の問題が絡むからイコールではないが、引きこもり問題でも「介入」の問題は重いテーマだ。
文体で分かると思うけど、ぼくは本人ではない。
矛盾点
ニヒリズムの「真理が存在しない」とする信念に対する批判としては、もし"真理が存在しない"が正しいとすれば、"真理が存在しない"という主張自体が"真理"になり、自己矛盾に陥ることになる、とする主張がある。同じような反論は相対主義、論理実証主義における意義の検証可能理論にも浴びせられている。
真理が存在しないに対するより高度な解釈として、「真理は存在するかもしれないが、それは実際には人間がアクセスできるものではない」とするのがあるが、この場合、ニヒリストがどうやってそれにアクセスしたかが問題となる。これに対して、ニヒリストは真理に直接的にはアクセスしていないが、「真理は人間の境界内において結局獲得できるものではない」であることを過去の経験により間接的に導き出しそのような結論となった、というのは理にかなった答えかもしれない。このように、ニヒリスト達は「真理は人間が獲得できるものではない」という前提から、彼らは真理を求める行為を無益と見なしている。
形而上的な概念である真理とは、その存在が認識されているからこそ存在するものであり、客観的な証明がなされなければ、存在すると言うことはできない。あらゆる真理が相対化される現代においては、少なくとも大多数にとっては真理とは存在しないものであり、ゆえに現代はニヒリズムの時代であるとする主張は多く見られる。
極端なニヒリズムとして、論理的な事柄の真理を人間が知ることはできないとするものがある。この場合、事実としてニヒリズムが矛盾に至ることは問題ではない。なぜならば矛盾は論理を受け入れる者に対して問題となるからである。
wikipediaよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%92%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
これが本当だとしたら、哲学って当たり前なことに無暗に小難しい理屈つけるだけの学問だと思うw
結論も当たり前だし…
諸君、私はニセ科学が好きだ
諸君、私はニセ科学が好きだ
諸君、私はニセ科学が大好きだ
水からの伝言が好きだ
ホメオパシーが好きだ
ゲーム脳が好きだ
インテリジェント・デザインが好きだ
教室で
テレビで
新聞で
物理学会で
家庭で
剥きになって否定する人間に「たかがテレビだ」と冷たく言う時など心がおどる
パナソニックがマイナスイオンをさらに進化させ、「ナノイー」を売り出した時など胸がすくような気持ちだった
極端な相対主義が好きだ
「信じるという意味なら科学も医学も宗教」と言い捨てる時など感動すらおぼえる
ベストセラーの10冊中3冊を血液型本が占めた時などもうたまらない
根拠もないのに「愛の存在は証明済み」と言い切るのは最高だ
偏狭な科学者がウェゲナーを否定し続けたのを
数十年のときを経て真実で捻じ伏せた時など絶頂すら覚える
毅然と抗ウイルス薬を拒み死んでいく姿はとてもとても悲しいものだ
諸君 私はニセ科学を 不実で厚顔無知の独裁者様なニセ科学を望んでいる
諸君 私に付き従うニセ科学好きの諸君 君たちは一体何を望んでいる?
更なるニセ科学を望むか
糞の様なニセ科学を望むか?
高潔で人の心を大切にし、祈るだけで地球上すべての問題を解決できる絶対者のようなニセ科学を望むか?
よろしい ならばニセ科学だ
だが、2ちゃんねるのようなひどいインターネットで科学教信者の猛烈な批判に耐え続けて来た我々には
ただのニセ科学ではもはや足りない!!
我々はわずかに小数
納豆ダイエットがやらせだっただけで「騙された」などと手のひらを返す連中に比べれば物の数ではない
ならば我らは諸君と私で総兵力100万と1人の善意のMLM集団となる
我らを忘却の彼方へと追いやり、他者の価値観を口うるさく非難する科学狂信者を叩きのめそう
髪の毛をつかんで引きずり下ろし 眼(まなこ)をあけて思い出させよう
連中に子供がいじめられるのは奴らが父親を嫌いなせいであることを思い出させてやる
連中にランドリーリングを使えば洗剤は必要なく地球に優しいことを思い出させてやる
ニセ科学には奴らの哲学では思いもよらない現代科学では説明のできない力がある事を思い出させてやる
1000人の真のビリーバーの集団で 世界をフォトンベルトのゼロ磁場で埋め尽くしてやる
「マコモ風呂 featuring EM菌」作戦 状況を開始せよ
征くぞ 諸君
相対主義って言ってみたかっただけ(満面の笑みで)