はてなキーワード: 心の問題とは
当たり前ですが、勤労意識というのは
「しっかりしろーー、覚悟が足らんーーー、働こうとしないお前が悪いーー」
であがるものではありません。
経済の売り買いというのは、基本的に「これをしたことで、儲かるだろう、状況が良くなるだろう」という「期待」によって支えられています。
端的に言えば、近年の日本で女性は、労働して、報われるという経験を得ていないのです。
景気が良いときでさえ、男性に比べて大して報われていない経験を、日本の女性は体験し、学習しているわけです。スウェーデン等とは違い。
これをすれば、よりよい結果が得られるという学習に基づいて、行動は発生します。
不景気で職がない男性に「ニートなのはお前の心がけが悪い。おまえ自身の問題だ」と言ったところで、なにも解決しません。
そもそも職がない、あっても搾取されきったブラックなものしかないのが根本の原因で、ニート化している人は、それをたっぷりと学習してきたからです。
そもそも「○○自身の心の問題」で社会現象を解決できたためしはまずありません。
構造やシステムを変えて、初めて人々の心の方がついてくるのです。
教育勅諭で心意気を学び、「ほしがりません勝つまでは」と唱えて育った人々が戦争に負け、飢えで今とは比べ物にならないほどの強盗・殺人に走っていました。
「○○の心構えが悪い」は、社会問題の原因ではなく結果です。
国の経済状況で心が変化するのは、日本人女性に限らず、全ての人間に当てはまることです。
であるがゆえに、まずはシステムを変えて、状況を変えていかないと、と考えているわけです。
勤労することで報われる学習を社会の女性全体が体感すれば、勤労意欲はそこで初めて発生するからです。
というか、DNAで勤労意欲の変化が起こるわけでもないのに、スウェーデン人と日本人との間で勤労意欲に差があるということは、後天的学習した内容に差があるのはほぼ間違いないでしょう。
それを、社会変化のせいで勤労意欲が下がるのはおかしいといわれても、どうなんだと。
むしろ、社会的に積み重ねてきた歴史が違うもの同士比べたから、結果が違うのであって、社会的にまねるべき部分はむしろ大いにあることの証左だと思います。
が、それが危険だといわれると、もう「女性の心意気が悪いんだ」という何の解決にもならない話にしかたどり着かないと思いのですが。
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20111125#p1
ぼくたちはつい○○○という社会現象と、「人々が離婚をしたがらなくなった」という一人ひとりの考え方や気持ちの変化に置き換えてしまうんだ。そして、そういうふうに問いを置き換えてしまっていることに気がついていない
ぼくは社会現象について、一人ひとりの心に原因があると考える直感的な理解を「心でっかち」な考え方と呼んでいます。いろんな社会現象を理解するために、とりあえずすべてを心の問題として置き換えるところから出発して、なぜそんな心の問題が生まれたんだろうと考えるやり方です。
多くの場合、「心でっかち」は、それほど目立たないかたちで私たちの常識の中に入り込んで、私たちが現実を見る目を微妙に曇らせてしまう。その結果、私たちは社会を正しく捉えることができなくなり、見当違いのやり方で社会問題の解決をはかるようになってしまいます。「頭でっかち」の典型は現場を知らない学者先生ですが、「心でっかち」の典型は、誰にでも受け入れられるようなもっともらしい「説教」を垂れ流している一部の評論家の人たちですね。とくに、現代社会の問題をすべて「心の問題」で説明できると考えている人たちです。
そして、これまで「心の問題」だと思い込まれていたことの多くが、統計的なイメージ操作や、「先入観を植え付けられることにより、みんなが雪崩をうって、その傾向を強めていくこと」によってつくられているのだ
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20111124/1322071507
なにが「俺たちの」インターネットを破壊したのかっていったら、そりゃ人数ですわね。ふつうの人たちが増えたっていう。「俺たちの」インターネットっていびつ極まりないもので、異形の人たちが奏でるあたまおかしい音楽を、それを求める人たちが必死で追いかけてたような、そんな時代があったわけです。真性さんマジキチ扱いされてるよ。なに言ってるかわかんないらしい。絶望的な社会不適格者が社会とのあいだで起こす軋轢のぎぃぎぃという音。それが聞こえない人たちがいっぱいいるらしいよ。びっくりだね。インターネットは変わった。
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2011/11/post-474d.html
知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどっかのトンデモ経済学者の奴隷だ。虚空からお告げを聞き取るような、権力の座にいるキチガイたちは、数年前の駄文殴り書き学者からその狂信的な発想を得ている。
いろいろと繋がってるなー。
トラバの反応がつまらん。もう少しわかりやすく書くべきだったか。反省。
肝心の問題についての議論はどうしたよ。「子供がうるさい問題」だよ。
このまとめだけだと「大人が子供に暴言はいて許されるか」問題じゃないか。そんな結論分かってる部分はどうでもいいんだよ。
未だにこの問題で万人に共有されている常識があるなら、問題なんてそもそもおこってないだろ?
うるさいと感じた時、どう対応すべきか、それについて受け手側はどう受けるか。
どうやれば一番衝突時のショックを減らせるかというクッションの構築とか
どうすればスムーズに話がススメられるかっていうプロトコルの設定が礼儀であり常識の役割だろ?
全然できてねーじゃん。この状態で「常識」を語るのって、そりゃお前の意見の押し付けに過ぎねーだろうが。
というかさ、何これ。
gnt カスが。お前の心の平安と、子供が歌う自由を天秤にかけるつもりかよ。
誰であろうとも「子供が歌う自由」を制限していいはずがない。公共? 迷惑? クソ食らえ
子供に寛容を通り越して子供様憐れみの例状態になってる奴とか見ると何考えてんのか分からん。
子供は犬か。なん歳児を想定してるんだよ。そして、そもそも抗議の自由しか無いとか何考えてんの?
禁煙ファシストに飽きて、今度は子供様ファシズムに傾倒中なの?ナチなの?死ぬの?
どうせこういう子供の味方みたいなコメ書く奴に限って、しつけやら教育の行き届いてない厨房にはマジギレするんだろうがよ。
まず子供でも何でもバスで歌うのはありなのか? 無しだと思わないか?
で、基本的にはだめだけれど、子供だから許してやれよって話になるなら、線引きが必要だろ?
「子供」なんて曖昧な言葉でいうなら、そりゃ成人するまでこどもだぜ?親にとっては、そいつは一生子供なんだぜ?
「子供だからゆるしてやれ」っていう曖昧な理屈付けは百害あって一利なしなんだよ。
基本的に教育はその親がやらないといけない。
その親は教育の指針として、ある程度社会で合意がとれた条件を参照する必要がある。
んだから、そこで他人ごとだからといって「子供だから許してやれ」みたいな曖昧な話をしてるのは馬鹿げているにも程がある。
そういう無責任な発言を大人がしていると、参照するべきものがない親はそれぞれにマイルールを適用してしまう。
よそに対しては大人だろうが子供だろうが容赦なく厳しいくせに、自分の子には甘甘みたいな間違った親が今の時点でも沸きまくってるだろう?
いい大人が自分に責任がないと思って、「子供」というものを曖昧に捉えて、無責任になんでもありの状態を作っちゃダメだろ?
それはまず親にとっては途方に暮れる様なことだし、最終的には子供にとっても良くないよ。
だいぶ悩んでいるご様子ですが…
26歳だったらまだまだ悩んで猶予期間を過ごしていい時期だと思います。
結婚を視野に入れて恋愛について考えるとき、女性は高齢出産となる35歳迄がひとつの区切りだと言われます。
男性なら子供を大学卒業させるまでは在職していたいと考えると37歳が目安です。
安易な言葉に聞こえるかもしれませんが、人の心の問題の多くは「時間が解決してくれる」というのは本当です。
私も、人には言えない辛い恋の思い出があります。とても苦しい時期もありました。
でも、時間が経つ中で徐々にその気持ちはやわらいでいきました。
的外れ。加害者側は営利でやってる。訴訟リスクと自分達のビジネスが天秤に掛かってる。
反省とやらを求めたところで、自発的に自分達の不利になる謝罪文を出してくるわけないだろう。
心が縮こまるもクソも、とっくに心の問題じゃないだろうに。
訴えて下さいというところまで来ているんだから。自発的に後退できるラインを越えてるんだろ。
結局の所、被害者側の望むとおりの謝罪を強制的に引き出したいなら、法に訴えて処理するしかない。
名誉毀損の判決で謝罪広告を命じた例もある。どの程度内容への注文が通るかは、知らないが。
しかし、ソラノは最初の出方を間違えたな。こういうときに自分の言葉で語ろうとするのが間違い。
この手の謝罪文はテンプレがいくらでもあるから、謝ると決めた時点でそういうのを漁るべきだった。
そして上司に話を通した上で被害者側にも送り、先に同意、言い方は悪いが、言質を取るべきだった。
議論がしたいわけじゃないけど共感が欲しい人は専門家に頼った方がいいな。心のうちを開放することで心理的負担を和らげる療法か何かがあるでしょう、多分。オープンな場所で共感を得ようとすれば、反論が待っているし弱者の立場を利用して言論封殺すれば公益に反する。共感できる人だけでSNSとかのコミュニティ作るという方法もあるけど、その方法には疑問が残る。共感できる人間だけの閉鎖的なコミュニティはコミュニティの倫理観が一般社会の倫理観から離れていく傾向にあるからだ。しかも精神的に不安定な人を集めるわけだから負の感情をより強める結果になりかねない。そうなると専門家によるカウンセリングと「共感を元にしたコミュニティ」の折衷案として、専門家付きの支援団体が一番効率いいのかな。
専門家といえば、多くの偏見を含んでいる可能性を自覚しているが、専門家が共感のコミュニケーションに引っ張られていないか心配だ。被害者じゃない多くの人は、被害者か専門家の意見を聞くことで犯罪被害への理解が深まるのだけど、私はテーマが心の問題になると難しいと感じる。専門家も共感をベースにした説明をするだからだ。共感できた場合は大抵個別具体的な共感なので応用が効かないし、共感するから精神力が削られる。共感できない場合は全然心に残らないかあまりに押し付けがましいときには反発を生む。多分抽象化や一般化が足りないのだと思う。
一般社会に犯罪被害者心理の理解を求めるのなら、一般社会の倫理や常識、法律を根拠に論証した方がアンチを産み難いだろうから長期的には共感を得ようとする方法よりも効率いいんじゃないかな?犯罪被害者の生の声やそれを消化し切れていない専門家の話は感情的エネルギーが多すぎてマスに発信するにはあまりに危いと思う。
先月末より3年つとめたバイトを辞め、就活に専念することにした。
正社員でプログラマとして勤務したい、そう思って仕事を探しているが、「無理じゃないか?」という疑念が常につきまとう。
自分は既に28歳。
大学は4年目に入った瞬間に退学し、そのまま21歳でプログラマとして就職。
いや、正確に言えば大学生の頃から鬱で通院していたか。
その後も2回、履歴書にも書けないような期間プログラマとして再就職をしてみるが、あえなく挫折。
しばらく養生し、病状がよくなってからコールセンターでバイトをする。
バイトとしては給料も良く、また実家暮らしをしていたため、1年ほどで完全に治った。
だが、病気としての心の問題は解決されたが、社会に生きる人間としての心の問題は―――
それと決してコミュニケーションは上手ではない。
病気が治った後もずるずるとその場にとどまり、3年たってしまった。
特にスキルを磨いたとかそんなことはしていない。
経験も浅く、ブランクも長い。そんな人間を、誰かがそう簡単に雇ってくれるとでも―?
いっそ派遣の仕事にさっさと行きたかった。例え中身がクソでもカスでもキャリアにはなる。
仮にうまくいくような内容であれば、万々歳。
だが実家暮らしの弊害で、自分の状況を理解しない親がそれに反発していた。
ようやく半年ほど前に説き伏せるも、今度はバイトの契約内容、「辞める際は1ヶ月以上前に事前申告する」という部分がネックとなり、
「すぐに来て欲しい」という派遣会社側の要望に応えることができず、誘いの電話に断りを入れることが続く。
そんな日々を過ごし、ようやくバイトを辞めるよう事を運ぶことが出来た。
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無駄に文章が長くなってしまった。
今までは、不安だった。
今はただ、不安だ。
これからも不安だろう。
だが日々は流れていく。
最期にホント、わがまま言っていいのなら学校には以下のことをお願いしたいです。
http://anond.hatelabo.jp/20101023073241の続き。
3年生は本当に弱点だらけです、社会に出て行ってちゃんとできるという保証は私取れません。
だから、メンタルヘルスマネジメント(III種)と秘書検定ぐらいは必須にして良いのではないかと思います。
クラスメートと言う視点で見て残念ながら就職・進学どちらにも脆弱性が見えますから。
7・5・3現象と言うのが有ります。これは中卒で7割、高卒で5割、大卒で3割の3年以内の離職率と言われています。
そもそも今大学も殆どが赤字で、学生の心の問題なんて見る余裕が無いと思います。
この国は急速なグローバル化、長期安定雇用型社会から成果主義への急速な社会変化で物凄く高卒者には苦しい時代の上に、1回ドロップアウトしたら這い上がりにくい状況が有ります。
だから、みんなには私のように心の病気での休職→解雇→長期の心の病気の治療による社会離脱を経験して欲しくないし
マナーなんて今の時代「持っていて当たり前」と言う状態で昔のように会社が教えてくれるわけでは有りません。
だからしっかり学校で学ばせる必要性が有ると私は痛切に感じております。
本当はクラスメート一人一人に言いたいことが有りますが、さくっと。
Nさん、よくノートを貸していただきました。貴方のノートはきれいにまとまっていて努力家であるのが良くわかりました。
貴方の誠実でまじめで努力家と言うのは本当にすばらしい才能です。
自分ではよく否定しておりましたよね。でもそれは物凄くいい点なので誇りを持っていってください。
努力家であるこれが生きていくうえでとてもとても大切なことです。
Tへ、リスカはやめなさい。歌・音楽の才能を折角持ってるのにもったいない。後ダイエットは20歳から。
20歳になったらプロテインダイエットとかをしながら運動をしていくと良いと思うよ。
あとZを殴るのは控えめに。Mに殴られたら「嫌だ」とちゃんといいましょう。
大切な友人とはいえ言わないと分かり合えないのが人間です。「人間はエスパーではないのですから」
Mへ、貴方には大変きついことを言います。
後ラケットなどで人を殴るのはやめなさい。せめて殴るなら手のひらにしなさい、自分にも痛みが返ってくるから。
でも殴られた方はそれ以上の体と心の痛みを感じてるってのは覚えておいて欲しいです。
そして、かかわりたくないといってもああするほか無かったのはTが「自殺方法を私に聞いてきたこと」を隠すためでした。
私正直、このことを貴方に1:1でつたえれなあったのが重たくて苦しかったです。
Tが死んでから遅いのです。
友が死んだ後、自責の念で苦しむのは自殺のSOSを聞いた人なのです。
TやZはもちろん他の人を殴るのはやめてください。
絵がうまいのは本当のことなのですが、私からあれこれ言う必要はないと思うので。
Sへ、自分が知的障害とか言うのはやめなさい。たとえ他の人がそう思っていても努力家であるのは私は見てますよ。
できないと思わないでやってみて欲しいです、若いから多少の失敗はまだリカバリーできるから。
Zへ、理数系滅茶苦茶強いしコンピューター関連は間違いない進路と思います。だけどはだしは寒いから冬はやめましょう(^^;
ゲーム業界に働くといっても流石に女子高の廊下をはだしで颯爽と走ると言う過去を持った人は居ないとおもいます。
(トカゲソを食べて野生化するという伝説をもってる人は実際にいますが、それも漫画上のネタですから)
Kへ、Zを支えてやってください。TはZをなぐるしMもなので…
KぐらいしかZを殴らないで守ってくれる人が見つかりません。重たいでしょうがよろしくお願いいたします。
慢研部長へ。
部活の計画を先ず立ててあげてください。
後輩が苦労します。
イベント等に参加するときはちゃんとスケジューリングをすること。
確か古い記憶だけれども、太陽・光栄辺りはそういうのがあったはず。
後神奈川の猫のしっぽなども対応できる筈なので相談してみてください。
文芸部へ
原稿出せなくてすいません、うまく副部長として立ち回れなくてすいません。
そして2年間大変な学年のまとめを担任として行っていただいたのは感謝致します。
そして3年担任へ。
決して貴方のクラス運営がうまくいかなかったわけでは有りません。
1~2年担任のクラス運営の問題でも有りません。
ひとえに私の力不足です。
大人としての責務を果たせなかった自分の問題です。
あと、これを読んでる(とくに)女性の皆さんへ。
性犯罪被害にあったらちゃんと話しましょう。
いのちの電話でも、公的機関でもいいのです。女性が相談に乗ってくれるところへ。
後、即時にアフターピルをもらいに産婦人科に行ってください。判らなければ119でも良いと思う。
犯人を許せなくて苦しむでしょう。
でも貴方は悪くない。
私のような苦しみは味わってはいけないのですから。
書きかけの小説が出てきた。
恋愛ゲームなどで攻略される側の少女がヒロイン。でも、プレイヤー、攻略する側の男が、いつまでたっても来ない。なので、こちらから探しに行く、というものだった。姿を現さないプレイヤーを失踪人っぽくして、ミステリー風にするつもりだった、ような記憶が、ふわっとある。
はるか以前、「ときメモなどの恋愛ゲームが好きな人」のブログにはまっていた頃、書き始めた奴だった、と思う。
美少女ゲームとか、エロゲーとかが好きな人って、インテリが多い気がする。つうか、頭がいいプレイヤーと、そうでない人の差が激しい、というか。私が読んでいたブログは、インテリ男性が書いていたんだと思う。たぶん。大学のサークルが、などとブログのどっかに書いてあったし。
現在のレースゲームなどは、ドライブシュミレーターとして、自動車評論家からも高い評価を受けているものがあり、ゲームにもよりますが、ゲームが上手くなれば、実際の運転も上手くなる、そうです。クルマの事よくわかんないけど。
で。それでまあ、恋愛シュミレーションと銘打っているのに、ゲームのプレイを重ねても、恋愛が上手くなるように、ちっとも思えない、というのが、書き始めた動機だったような……
ああ。思い出してきた。
コナン(名探偵の方じゃなくて、ロバート・E・ハワードの方)みたいに、筋肉脳みそ男の主人公が、なあああんにも考えないで、あっちの女に手を出し、こっちの女に粉かけて、だったら、私も好きだ。ポテチ喰いながら「バッカでー」と笑いながらみる、みたいな。
美少女ゲームとかエロゲが好きな人って、頭がいいからか、例えば東浩紀について、どうのこうのと書いている人もいるんだけれどさ。
それゆえに、自分の中にある獣性、っていうのかな、そういうものが自分の中にある、ということから、目を背けている男が多いように見えて仕方がなかったんだ。その頃は。
の割には、「ヒロインを攻略する」というキモチ悪い言葉を平気で使うし。
んな言葉使いをするってことは、ヤンキーのように力で女を屈服させるのではなくて、頭脳を使って、でもやはり、女を屈服させるのかい、と思ってしまったのさ。
相手がいないから、仕方なくゲームを… という男だったら、まだ、わかりあえるような気がする。というか、「女の手も握った事もないのに何が『少女の内面が上手く描けてる』だよ、ばあか。あ。握った事がないから、内面しか語れないのね!」と、楽しくdisり合いくらいはできるような気がする。気がするだけ、だけど。しかも、向こうは楽しくない気がする……
でも、「現代思想からみてエロゲがウンヌン」とくると、自分の心の問題から目をそらすために、難しい事に逃げているような気がするから、私はダメだ。「お前がダメだからなんだというのだ」と、いわれてもダメなんです(><) 自分の中の触れたくない部分を隠すために、「思考停止」したくないんでしょ。あなたにとってのポストモダン(って、よくわからんけど)とかって、ただの逃げでしょ。違うの?
彼らにとっては、恋愛は頭でするものなのだな。かわいそうだなと思う。同情はしないけど。偏差値が高いがゆえに救いがない、みたいな。だったら、まだモテない連中と傷のなめあいしてたほうがマシ……
と、妄想たくましく、よく知らない人達の事を、あれこれ思い浮かべて憤慨していたような記憶がある。しかも、そういうゲーム、した事がないのに。ああ、あの頃の私は若かった。今の私も、ちっとも大人には、なっちゃいないが。こうして自分の考えを文章にしてみると、我ながら思い込みが激しいというか、支離滅裂というか。
絶賛ほったらかし中の小説は、そのころ、なんとなくテレビで見た映画「プレデター」の影響で、壮絶なバトルの末、ラスト美少女は自爆する予定だった。私的には、完成させたくない小説である。
ただ、「権力的な手法」と言ってもいろいろある。むしろ内心の問題である以上、「差別はいけない」と教え込む規律訓練型の方法は有効ではない。「話題にすることを禁止する」というような環境管理型の権力の方が有効なのは普通に考えても分かるだろう。ただ、今の日本で政治的に後者の方法を取り得るのか…。右翼も左翼も一様に反対しそうだ。
「被差別部落の人を差別するのはいけないというのは分かるが、あなた自身はそういう人と結婚してはいけない」こう言われたというエントリーがあった。
http://anond.hatelabo.jp/20100904050444
実は、これ、金持ちと貧乏人の関係にもほとんど同じように成り立つ。
なぜ、最後だけが微妙なんだろう?これは結構大事な問題だ。実際、被差別部落による差別は、「建て前」を否定してる人ではなく、「本音」を唱える人によって引き起こされるのが大部分だと思われるからだ。
お金持ちと貧乏人の場合、他人に対する差別と自分の努力が矛盾していない…とみなされている。ここで「みなされている」というのは本当は微妙で、実は、自分がお金持ちになることで、他人からパイを奪っている可能性はある。しかし、資本主義社会では、この影響は社会的に無視されるので、建て前と本音は実は矛盾していない。
ところが、被差別部落の場合、建て前と本音が矛盾してしまっている。だから、建て前は良くて本音はダメということになる。しかし、そう言ったところで本音は本音だ。だから、被差別部落の問題は、教育とかプロパガンダと言った権力的な手法によってしか解決されないということになる。部落解放運動が依拠しているのはこのあたりの論理。
ただ、「権力的な手法」と言ってもいろいろある。むしろ内心の問題である以上、「差別はいけない」と教え込む規律訓練型の方法は有効ではない。「話題にすることを禁止する」というような環境管理型の権力の方が有効なのは普通に考えても分かるだろう。ただ、今の日本で政治的に後者の方法を取り得るのか…。右翼も左翼も一様に反対しそうだ。
小泉「あなたが入ると思えば入るし、入らないと思えば入らない」
民主党「総理は質問に答えていない。入るのか入らないのか」
小泉「あなたね、おやつかどうかは心の問題ですよ。あなたはどうなんですか」
安倍「入るかどうかは大事な問題で、適切に判断しなければならない」
民主党「総理は質問に答えていない。入るのか入らないのか」
安倍「入るかどうかで八百屋と駄菓子屋のどちらかに迷惑がかかるので慎重にならざるを得ない」
民主党「総理は質問に答えていない。入るのか入らないのか」
福田「そんなこと知りませんよ。あなたが考えてください」
麻生「なんで、そんなこときくの?」
民主党「総理は質問に答えていない。入るのか入らないのか」
麻生「今はもっと大事な問題がある。おやつごときに構っていられない」
小沢「それはあなたたちが先送りにしてきた問題じゃないですか」
自民党「総理は質問に答えていない。入るのか入らないのか」
10年以上、不眠に悩まされてきた。
だが腰痛を起こしたのをきっかけに、整体に通うになったら、眠れるようになってきた。
整体師に聞いてみると、体ががちがちで自律神経が休まらない体だったそうだ。
つまりこんな感じ。
体が凝る(1)
↓
自律神経が休まらない
↓
副交感神経が働かない
↓
眠れない/眠りが浅い(※)
↓
体が休まらない
↓
肩が凝り体がだるくなる(2)
↓
(1)~(2)の負のスパイラルに陥る
↓
やる気がなくなる
↓
何もかもが嫌になる
↓
心の病なんじゃないかと思い始める
↓
鬱になる
↓
自分は眠れないと思い込む
↓
何をしても眠れなくなる
↓
もうダメだ
睡眠剤は、眠れない/眠りが浅い(※)を対処療法的に解消するだけの物でしかない(のではなかろうか)。
だから(※)が解消されても、そもそもの原因である「副交感神経が働かない」という部分の解消にはなっていない。
したがって睡眠剤の服用は一時しのぎにはなっても、根本的な原因は解消されず、不眠が治らなかったのではないかと思う。
(自律神経失調症にしても、心の入れ物である体の不具合が治らなければ、どれだけ薬で対処しても、根本解決にはならないような。
一方整体に通うことによって、体の凝りがほぐされ、自律神経の動きが回復し、副交感神経も働くようになったことで、不眠が解消されたように思う。
ということで、不眠とか鬱って、心の病と思われてるけど、そもそもの原因って本当にそこなんだろうか、と疑い始めてる自分がいる。
精神が参ってしまう根本原因は、必ずしも心や気持ちといった曖昧模糊としたものではなく、
「身体の不調」という物理的な原因であることが多いのではないだろうか。
色々くよくよ悩むことが多いと思うけれど、そういうときって睡眠不足だったりしない?
それに気持ちが重くなるときって、大体、肩が凝ってたり、体がだるかったり、首が痛かったり、頭が重たかったり。
ということは、逆に考えれば、「ちゃんと眠れて」「体が快調」であれば、気持ちも軽くなって前向きになれるってことではないだろうか。
もちろんそれだけではないかもしれない。
でも、もし不眠だったり、気持ちがダウンしてしまったら、まずは身体の不調を解消することを考えてみてはどうだろう。
簡単なところでは、ストレッチして全身の筋肉をほぐしたり、全身をマッサージしたりつぼを押してみたり。誰かに頼んで肩を揉んだもらうとか。
スーパー銭湯とかいって、大きな湯船に使って、体をリラックスさせるとか。
ただ、ほんとに深刻なら、多少の出費は覚悟しても評判のいい整体院を探して、通院してみることオススメする。
体バキバキやる系ではなく、体の奥の筋肉をじっくりとほぐしてくれるようなところがいいかも。
ここまでしてもダメなら(上記以外にも寝具など睡眠環境の改善も見直したほうがいいかも)、
初めて精神科や心療内科にいって、薬を処方してもらうとかでもいいのではなかろうか。
何より「薬に頼る」ことの後ろめたさ、敗北感は、結構心に響く。
なのに、眠れないから、欝っぽい、ということで、すぐに心の問題としてそちらに頼ってしまう人が多い気がする。
そして根本的な解決にいたらず、どんどん深みにはまっていく人が。
現に自分もそれになりかけてた。
テレビやモニタ、携帯電話など、目の疲れや肩が凝りやすい環境に囲まれる人が多いと思う。
最近「不眠」「鬱」で悩む人が増えているのも、実はそこなんじゃないかと。
音教は楽しいものだが、団員のマナーについて少し気になったことがあるので、ここに留めておく。要約すると、「目上の人が話す段になって座るのは失礼じゃないの?オケのイメージ下げてるよ?」ってこと。
いつもの段取りでは、我々は座った状態で卒業生の挨拶と校長のお言葉を聞くから、座ったままで頭を下げたりしている。
ところが、今日は少し段取りが狂って、卒業生の挨拶の後団員が一度立つことになってしまい、そのまま校長の話に流れ込むことになった。自分としては「あー、立ったまま話聞くのか。疲れるなあ」などと内心思っていたのだが、無論そんなことは表情に出さず、立ちんぼの覚悟をしていた。ところが、さあ校長が話を始めるという段になるや、コンマス以下全員座り始めたのである。「おかけください」などの言葉も、自分の耳には入ってこなかった。
そもそも、目上の人間が立って話しているのを聞く時にはこちらも立って聞くのが基本的な常識である。もちろん礼儀作法はその場の状況に合わせた適切な程度で運用されねばならないから、目上が話すとなった途端いきなり全員がかかとを慣らして立ち上がる、少年工科学校みたいなパフォーマンスは必要ないかもしれない。あくまで普通の大学生が普通の小学校に行っているだけなのだから。その意味で、普段の段取りは許容範囲内にあると考える。
しかし、元々立っていたものを校長が話し始めるという時に座るのは、さすがに許容しえないものだろう。積極的に「あなたの話すことは目上の方のものとして受け取れません」という意図を表明してしまっている。音教が「小学校から依頼されたものではなくこちらからお願いして開催させて頂いているもの」であり、「校長先生始め様々な方々のご尽力によって成立しているもの」であるなら、その校長先生からお言葉を賜るなどという時には、通常より一段格上の礼儀作法を取るべきであるはずなのだ。それにもかかわらず、通常でさえ容認しえない態度を取るとはどういう了見なのだろうか、まったく理解しがたい。
音教に行った時の、団員の関係者に対する態度が悪いことが2年前にも問題になって、積極的に挨拶をすることが指示されるようになった。こちらの指揮者が「○大生の態度ってこんなもんなんですかね」と先方の校長に言われるという事態は確かに異常なものだから、それ自体は正しい。
しかし、積極的な挨拶もまた程度問題であって、大勢の関係者が並んでいる時に一人ずつに挨拶をしていく(ex:こんにちはこんにちはこんにちわこんにちはこんにちは)とか、先方は一人しかいないのに130人が次々と挨拶責めにしていく(ex:「「「「「「「こんにちは」」」」」」)ことが、礼儀作法として妥当かと言われると大いに疑問である。こんな挨拶を受けたら、僕は戸惑ってしまう。この様な場合は軽く会釈をしつつ(微笑みを交えたりしながら)通っていけばいいのではないか。
今回も「○大生は挨拶をしない」と憤慨している団員がいたが、重点の置き所が少し誤っているように思う。僕からすれば、挨拶を会釈で済ませて、元気で快活に行わないことよりも、目上の方からお言葉を賜る時に無礼にも座ってしまうことの方が、ずっと問題である。
これは、礼儀作法やマナーに関する基本的な考え方の相違に由来するように思う。先述の挨拶をしないことを憤慨しつつ、校長の話の前に悠然と座ってしまうような団員は、マナーを積み上げ式に考えているのだろう。即ち、「こうやって気持ちよく挨拶をしていれば、みんな僕たちの気持ちを理解してくれる、話の前にちょっとミスって座ってしまったからといって、みんな気分を害したりしないよね」というわけだ。自分の直感では、こう考えている人が周りには多いような気がする。
だが、相手のマナーの受け取り方は減点法であると考えた方が、実際的であるように僕は思う。人間誰しも、常にあら探しをしようと目を見開いているわけではない。だが、どうしてもあるものに対するマイナスの印象は記憶に深く刻まれ、そのもの全体を表現するようになってしまう。だから一生懸命挨拶したからと言って、一定水準(会釈するとか)以上のマナーを保っている限り加点はさほどされない、しかし何かマナーに反すること(校長の話の前に座るとか、相手に会釈もせずに素通りとか)をしてしまうと、一気に好感度が下がり、それが記憶に残るのだ。それまで気持ちのいい礼儀作法を守っていても、一度「えっ」と思わせてしまったらもう終わりである。キメるところをキメることが大切なのだ。
それゆえ極論すれば、人を気持ちよくさせるような振る舞いをしようと常に努力する必要はない。その代わり、人の気分を害するような振る舞いを決してすることのないよう、常に神経を張り巡らしているべきである(実際には、そうしていれば自然と人を気持ちよくさせる振る舞いに落ち着くだろう)。とにかく突っ込む隙を与えないこと、「えっ」と思わせないこと、これこそ演奏会などフォーマルな場での振る舞い方なのではないか。
特に今回は、コンマスが座ったために全員座ることとなった。オケの決まりではコンマスに従うことになっているから仕方ないが、その決まりを知らない外部の人から見たら、全員礼儀知らずと受け取っただろう。これは、一人や二人挨拶をせずに無視して通り過ぎるのよりも確実に大きなインパクトである。その点についても、今回の件は非常に残念であった。
2年前に問題となった時は、執行部が「二年生には社会的に適合しない行動が目立つ」として、我々は社会不適合者の烙印を押された。実際に僕は社会不適合者だから反論しがたいのだが、その僕でさえも「目上の方の話を聞く時には立って聞く」という事くらいはこうやって理解している。それに、僕も「面倒だなあ」と思いつつ立って聞こうとしているわけで、決して喜び勇んで直立不動にて拝聴しようということでもない。
要するに、こんなものは全てテクニックの問題なのである。数学の公式と一緒で、「~をやってはいけない」ということを知っているかどうか、それだけの話だ。「感謝の気持ちが足りないから」とかいう内心の問題ではない。だから、知らなければ知って、今後はそれを活かせばよい。
確かに、僕のマナー感が一世代古いのかもしれない。「我々の世代ではこの様なマナーはない」という反論も考えられる。しかし、問題なのは我々の意識ではなく、相手がどう受け取るかという点であり、これは妥当ではない。小学校の演奏会やホールでの通常の演奏会など、親世代が多数来場する場では、それらにあわせたマナーに沿って振る舞うべきだ。合コンの振る舞い方を問題にしているのではないのである。
昨年のツアーで受付窓口業務をさせて頂いた時に思ったのだが、団員の中にはこの様なマナー意識が不足している方が、少なからずいるのではないか。窓口業務の中で唖然とするような行動を何回か目にした。
今年はどうなるか。僕も含め、みんなテクニックを一年でよりよく学んで、人の気持ちを害さない受付が出来るようになっているのではないか、そう期待していた矢先に今日の出来事である。
不安だ。
うーん難しいな。
心の問題だと思うんだが、男は相手に対してまったく心が動いてなくてもそれなりに気持ちよくセックスできるけど、女はそうでもないでしょ。
「2本目は逆転とか、誰かの点数とかに関係なく、自分の滑りをすることしか考えなかった。(ダブルコークが)決まらなかったら、どうしようもない。滑りのスタイルは出せたので、悔いはない。いろいろあったけど、最後まで応援してくれた人には感謝している。(服装問題の)影響は全くない。気にしていたらやっていられない。」
国母和宏選手の試合後のインタビューです。これは記事の引用だけど、実際にテレビで見ても、丁寧に受け答えをしてました。なんだ、普通に話せるんじゃん。悪態ついているように見えるのは、人当たりのいいコミュニケーションに慣れてないだけ、という感じ。
でもさ、オリンピックに出る人って、みんなが聖人君子で、品行方正でなければならないの?スポーツ選手って、みんなが人格者で、謙虚で礼儀正しく、愛想がいい人なの?
そんなわけないでしょ。オリンピックに出るというだけで、人格の完成を求めるのは期待しすぎ。オリンピックは学校の道徳の時間でもないし、生徒指導の話でもない。これらを「分けて考える」ことができなければ、日本は封建時代のままです。
今回、私が特に許せないのは、「彼を本国に召喚すべきだ」などと言い放ったコメンテーター。国母を一片も擁護しなかった彼の大学。世論に迎合して、彼に出場辞退を迫ったスキー連盟。
テレビ局はあのコメンテーターを使うべきではなかったし、大学は自分の学生である国母を守るべきだったし、スキー連盟は感情に任せた決定を下すべきではなかった。
結局、立場ある人で、彼を守ってみせたのは橋本聖子だけです。生意気だけど前途ある若者のために、深々と頭を下げることができた人は、彼女だけでした。試合後、橋本さんは「出場させた自分自身の判断は間違っていたとは思わない。」と言いました。当然です。橋本さんは、胸を張って日本に戻ってきてほしい。そして私たちは、それ以外の大人がいかに不甲斐なかったかを忘れるべきではないでしょう。
国母くんは決して日本という国を背負って、日本人のエゴを背負っているわけじゃありません。そんな下らないものを背負っているとしたら、あそこまで空高く飛べるはずがない。あの顔のケガをみてもわかるように、彼は自分の命かけて、自分のプライドをかけて飛んでいるのです。
国母"問題"は、私たちの心の問題です。私たちの中にある保守性や排他性に負けてしまった私たちの問題です。
考えてほしいのは、「公園にいるホームレスを不快に感じて、暴力で排除しようとしたら、それは正しいのか?」ということ。もしくは、「みんなが不快に思うからといって誰かをイジメたとしたら、それは正しいのか?」ということ。
正しいわけがありません。今回、国母に出場辞退を迫った人たちは、「ホームレスなら危害を加えてもいい」「みんなが不快に思うならイジメてもいい」という判断をしたのと同じです。
幸いだったのが、国母くんがそんな「下衆の差別心」に負けないくらい、突き抜けていたということ。「(服装問題の)影響は全くない。気にしていたらやっていられない。」というのは彼の本心だと思います。彼はアスリートとして、カウンターカルチャー代表として、本当に突き抜けていた。差別心をあらわにして彼に牙を向いた人たちは、見方を変えれば、彼の「悪さ」に助けられたのだと思います。
嫉妬心や、世の不良の身代わりとして罰を与えてやろうという復讐心からの行動は幼いし、醜いものです。今回、彼に制裁を加えようとした大人たちは、大いに反省してほしいと思います。自分の嫉妬心や復讐心を抑えられなかったこと。自分の差別心と戦わなかったこと。そして、個人の尊厳を踏みにじろうとしたことについてです。
道徳は時に、自分の差別心を隠して、気に入らない人を叩く道具になります。私たちは、自分の判断がそういった感情によるものではないのか、胸に手を当てて考えなければなりません。私たちの敵は、いつも私たちの中にいるのです。