はてなキーワード: 機構とは
アメリカの大統領選に関する新聞の記事を読んでいてふと思った。
アメリカの政治体制というのはダイナミックであり、国民主権なのだなと。
かえって日本というのは裁判所に限ればスタティックなのかもしれない。
その記事によると大統領が変わると、
アメリカの原理原則と憲法解釈は脅威にさらされるとのCMがあったとのことだ。
最高裁の判事は大統領が指名し、上院が認証することとなっている。
そのため、最高裁は大統領の思想がある程度反映されるということになる。
たとえば、銃所持の自由、中絶の自由、これらの判断は彼らが握る。
そのためにアメリカの「原理原則」が揺さぶられるということなのだ。
判事の任期は決まっていないためにそのスパンは10-20年となるのだろうが。
日本の最高裁判事は総理の指名に基づき、天皇が認証するということとなっている。
判事の出身母体は慣例によっておおむね決まっている。法曹界、学会、官界だ。
さらに言うと判事の7割は、裁判官、検事、官僚の出身者によって占められている。
こう考えると、日本はアメリカに比べ静的なのかもしれないと思った。
これは職階制と年功序列制の違いに帰するのかもしれない。
また、国民の意思はそう大きくは反映されないだろう。
慣例を変えるには相当な政治的労力を要することは考えるにたやすい。
また最高裁判事の信任投票によって罷免された事例はかつてない。
個人的には今、考えたような日本の体制であってもよいと思っている。
どう頑張っても過渡な人権論者によって最高裁の席が占められるということがないからだ。
保守。いい響きだ。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
どれだけ厳しい批判が寄せられているだろうかと恐る恐るみてみたら、好意的な反響が多く、胸をなでおろしています。
増田に書く理由としては、ひとつめ、専門外のことに長く関わるつもりがないこと、ふたつめ、連休の出先で手元に一冊の参考書籍もなく、HDDとネット上のソースだけを参考に書いたエントリなど、歴史を専攻したものとして、しかも専門外のものとして、とても胸を張って提示できるものではないこと、みっつめ、それゆえ、ホームに書いたら全て書き換えるほどの修正をせずにはいられないだろうが、その気力も時間もないこと、よっつめ、しかし、あれを「論文」とすることには憤りを覚えたので、せめて学問を知る人にはトンデモはトンデモであると伝えてみたかったこと、いつつめ、増田であれば上記の点をそれほど気にやまずに済むこと、このくらいでしょうか。したがって、私のエントリはいわゆる「ちらしのうら」です(文献表記がみにくいのもわざとです。すみません)。私はさくっと書き逃げする卑怯者です。内容がいかがわしいのも推敲が甘いのも全て私の責任です。でも、もろもろの言い訳によって逃げられるものではないですよね。ああ。
さて、前回のエントリでは、後半にさしかかったときにから睡魔に襲われ、最後は「藁人形叩き」ばかりになってしまいました。ようやく投稿できたと思ったら、字数超過で記事を分割せねばならず、つづきでは田母神氏の論文タイトルを間違えてしまいました。謹んで失礼をお詫びします。いろいろとミスがあろうと手をいれるつもりはなかったのですが、批判する論文タイトルの間違いはいくらなんでもひどいので、訂正します(ついでに「シンガポール華僑粛清事件裁判記録」後編のミスも直します)。これも後出しですが、原文が縦書きの漢数字は、横書きなので適宜英数字にしています。
では、気をとりなおして「藁人形叩き」ばかりをしていたところに補足してみたいと思います。最後に与太話の蛇足ですが雑感を述べてしめます。
しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
(前回と同じく、はてな記法による引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)
第2次世界大戦開戦の時点であっても、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどが自治領化・独立した例がありますね。フィリピンでも独立を前提とした自治領政府が成立していましたね。
また、どちらかといえば植民地統治体制の比較の話ですが、自治・独立とまではいかないまでも、現地の住民を支配機構に採用していく次のような例もありました。
「1920年代より英国はビルマに赴任するICS〔引用者注:インド高等文官の略称〕に英国人のみならずビルマ人も採用すべく方針を変え、その結果1939年末の段階で、ビルマにおける全高等文官のうちビルマ人は32.8%を占めるに至った」(根本敬「英領期のビルマ人高等文官(ICS/BSC)とタキン党」『東南アジア史学会会報』63、1995年、17ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004924657)
それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。
1940年代において、宗主国が疲弊し、植民地の独立運動が高揚したのは確かなことでしょう。ただし、歴史学の領分は、「もしも」を考えるというより、その過程をつまびらかにして、それぞれの要因や重要性を検討することにあります。
まず、開戦の詔書には「東亜ノ安定」「世界ノ平和」「万邦共栄」「東亜安定」「東亜永遠ノ平和ヲ確立」という表現はありますが、肝心の戦争目的を述べている部分は、あくまで「今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切の障礙ヲ砕碎スルノ外ナキナリ」(「御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日・米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」1941年12月8日、アジア歴史資料センターレファレンスコードA03022539800。引用部分の漢字は適宜新字体を用いました。センターホームページの検索バーに左記のレファレンスコードを打ち込めば該当資料のページへ飛べますhttp://www.jacar.go.jp/)ということであり、「アジア諸民族の解放」、「植民地の解放」、や「独立」といった文言は一切ないことを指摘しておきます。文面上はまさに自存自衛の戦いをうたっており、解放の約束は明文上ではなされていません(ちなみに、みればわかりますが「八紘一宇」もないです)。では、実際、アジア諸国にどう接し、現地住民はどう対応したのか、前回は文献名をあげただけのものから少し引用しておきます。
「ビルマは1943年8月1日主権を有する独立国家となったが,真の独立を求めるビルマ人にとってそれは,’’偽の独立’’,’’メッキの独立’’にすぎなかった。ビルマ人は,独立が’’空虚’’であることを知っていた。この当時の日本人に対するビルマ人の態度は,「愛していなくても我慢して接吻する」ようなものであった」(大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、360ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf原文の注の番号は引用者が削除しました。以下の引用文でも同じ)。
「日本の『朝日新聞』は、この作戦について、「皇軍航空部隊の空襲は一見、印度民衆の苦難を一層増大せしめるかに見えるが、爆弾の雨の中に、皇軍の印度独立運動に対する無限の慈愛と支援が含蓄されている」と書いていた。まことに「含蓄」の深い論評だったと言うべきであろう」(中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要(東京大学)』151、2007年、190ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf)。
「本稿では不十分ながら、日本の大東亜共栄圏=アジア主義のプロパガンダが、そして、その大枠の中で動いたチャンドラ・ボース等の活動が、インド社会との接点を持てずに、空回りしていたことを明らかにしえたのではないかと思う」(前掲中里論文、195ページ。ボースたちについては、197ページの注6、200ページの注22、202ページの注26、208ページの注80も参照)。
インドネシア、フィリピン、ベトナムの抗日闘争について、詳しくは論文本文を読んでいただきたいのですが、結論としては、
「要するに、東南アジア諸国の反植民地・民族独立運動は、太平洋戦争と日本の侵略によって生じた情勢やその他条件を、主体的、積極的に活用して日本に対応し、戦前に比して飛躍的な成長を遂げた。そして、このことは、戦後における東南アジア諸国の民族独立運動の高揚や民族独立の達成の決定的要因となった。この意味において、太平洋戦争と日本の侵略は、東南アジア諸国の民族独立運動史における一大転換点であったということができよう」(谷川榮彦「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」『法政研究(九州大学)』53(3)、1987年、395ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870原文にあった傍点は除いた)。
以上でつっこみの補足は終わりです。現下の情勢については特に言及しません。
さて、今回のエントリ執筆の目的としては、可能な限り速やかに「論文」が論文になっていないことを示すことでした。大事なのは「内容」とおっしゃるのは結構ですが、学問的に批判可能な形式(もちろん既存の研究にとらわれない革新的な独自形式でも、読者に史料を提示できればかまいません)をとらないものは、「無敵な人」の独自な「歴史観」の告白にすぎないでしょう。それに価値を認めるのは個人の自由ですが、学問や教育の場に持ちこむのはお門違いです。そのような姿勢では、いつまでたっても歴史学における扱いはトンデモのままですよ。もちろん、大学や研究所にいる専門家でなければ歴史の話をしてはいけないということではないです。「昭和史論争」を引き起こしたのは歴史研究者ではありませんでした。しかし、自己の見解を教科書にのるような通説となさりたいのであれば、専門家と同じ舞台に立ち、その批判に応答しなければならないでしょう。「つくる会」はその舞台に立つ気はないと宣言した結果どうなっているでしょうか。今なら学術雑誌に投稿しなくても、インターネット上でいくらでも長文の論文を発表できますよね。
一般に、歴史研究者は、四年生大学で専門的なトレーニングを受け、さらに修士課程二年間、博士課程三年間以上を費やして史料を読み込み論文を紡ぎだしています。それでも、個々の論文の結論で言えることはささやかなことです。また、研究会・学会・書評などの形でお互いに切磋琢磨しています。それぞれが広範な史料に目を通しているからこそ、個々の研究がその時代の歴史像のどこに位置づけられ、どの部分がその時代の特徴をよくとらえられているかを議論できるのです。自分の個別研究が歴史研究の大きな流れのどこに位置づけられるのかをとらえるため、歴史を学ぶ標準的な手順としては、まずは先達がエッセンスを詰め込んだ教科書、概説書を読み、そこから主要な研究文献やレビュー論文、目録等を漁って研究史をたどり、そこで用いられている史料を読み、先人の研究の妥当性を検討したり自己の問題関心を追求していくのです。木簡のように新しい史料が見つかったり、機密文書が公開されたりして史料が増えれば、それがどのように従来の見解に修正を迫り、新たな知見を付け加えるのか議論します。そのような積み重ねのなか、通史は更新され、教科書の記述も変わっていきますが、このことをもって歴史は定まりないものだから最新の研究成果も独自研究も変わりないということは的外れでしょう。それはかえって科学としての歴史学が機能している証拠にほかなりません。
さて、歴史学者全体がイデオロギー的に偏向している、現行の教科書は自虐史観・マルクス主義史観に基づいているという「つくる会」の主張もありますね(それでいて『国民の歴史』のように、専門家の研究から剽窃したりするの会員もいるのは厚顔無恥ですね。参照、尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書、2000年、あとがき)しかし、戦後長く標準的な高校教科書として採用されてきた山川出版社の『詳説世界史』の執筆者には林健太郎(故人への敬称は略します)が含まれていました。日本史にしても伊藤隆氏が編者であった『近代II』を含む、『日本歴史大系』山川出版社、1984-90年、が、受験前に初めて読む通史だった私などには、学会の主流がマルクス主義史観など妄言にしか聞こえません。岩波だから駄目などという意見も見ることがありますが、最新の『岩波講座世界歴史』岩波書店、1997-2000年、では、古代・中世・近世・近代という時代区分はもはや採用されていません。そもそも研究の場では、評価は自分の目で確かめてから下すもので、事前に確定できるものではないのです。
「いずれも〔引用者注:本文でふれられている臼井勝美氏、酒井哲哉氏の研究のこと〕,侵略の時間的連続性〔引用者注:満洲事変から日中戦争へ〕を,陸軍の遠心性,すなわち現地機関の好戦性や暴走に帰さない画期的な研究であった」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、67ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
「日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する」なんて本質論は、学界ではなされていませんよ。人事面でも、システム設計・運用面でも、上部の問題は大きかったですよね。私みたいなものにも自衛隊に信頼できる友人はいますので、余計に上が軍の失敗を反省するそぶりもみせないのは問題と感じるわけです。
最後に、余計なお節介でしょうが、歴史学入門、史学史についていくつか参考文献をあげておきます。ご興味のある向きは手にとられてみてはいかがでしょうか。
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年。(CiNiiの定額許諾を契約している大学関係者は、下敷きとなった論文をDLできるかもしれません。私は今DLできる状況にないので保障はしません)
小田中直樹「言語論的転回と歴史学」『史学雑誌』109(9)、2000年。
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0002622266
歴史科学協議会編『卒業論文を書く―テーマ設定と史料の扱い方』山川出版社、1997年。
今まで述べてきたような研究の積み重ねに対し、自説の根拠もまともに示さずに自分の意見を広めたいと主張する行為がどういうものか、一度お考えになっていただけたら幸いです。
また見苦しい長文になってしまいました。最後まで読んでくださった方に感謝します。
(追記)さすがに人名の誤記は看過できないのでミスを修正しました。
(再追記)引用文の出典が抜けていたのも直しました。すみません。
(再々追記)直ちに答えられるトラバをいただいたので応答します。ホロコーストの研究の進展について次の文献を参照してください。
芝健介「ホロコーストとニュルンベルク裁判」『史論(東京女子大学)』55、2002年。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008575897
知ってるとは思うけど、どうにもならない場合、「学生支援機構」から緊急奨学金をもらう、という手がある。http://www.jasso.go.jp/saiyou/kinkyu/index.html
いまさら中退なんぞしたら、自分もどん詰まりになっちゃうんだから、泥をすすってでも卒業すべき。
陰ながら応援してるぞ。
http://d.hatena.ne.jp/nightshift/20081016/1224155161
これね。私も出来にくい体質だけど、なんともいえない気持ちになった。
好意的に捉えるのであれば、結婚してから出来ないほうがプレッシャーというのはかかるだろう。だからお互いに踏み切れないんだ、と言い逃れできるように結婚しなかったという捉え方はできる。
出来にくい体質というのはすごい子供が嫌いだという人はどうなのかは知らないけれども、一度はわかったときにショックを受けるものなのではないかと思う。作らないじゃなくて出来ないってわかるって事は結構ショックだ。本で持って積極的に治療をするのを躊躇っているのであれば、結婚しないでいつでも分かれられる関係で、とすれば特に相手が子供好きな場合はそのほうがよいのだろうかと考えることもある。
ただ、私の場合だが、じゃぁ生でしていい?中だしするよ?といわれたらおそらく相当切れるとは思うが。実際にされたら別れるだろう。「子供が出来にくいからあなたと結婚は出来ない」というのを説得するために出す条件としては「じゃぁ子供作ろう。出来たら結婚しよう」もしくは「いなくてもいいから結婚しよう。結婚してからどうしてもほしいなら作るためにがんばろう」の二択があるけれども、前者の場合は「出来たならば結婚する」という十分条件でしかないので必要条件は真かどうか判別できない。一方で後者は条件がない。
たぶんなんとなく違和感が残ったのはそのあたりなんだろうなぁ。理屈ではないし、やっぱり出来にくいといわれたときのショックというのは男の人はあまり知る機会がないかもしれないが、女の人は比較的すぐに周期的な問題として出てくるし、だいたい10ヶ月胎児を体内に育む機構があるので理解できる人も多いのではないかと思う。
仕事でいつも使用しているブルームバーグ(通信社)からメールが来たので読んでみた。するとこんな文言が。
「お客様は一時的にお仕事とお仕事の間の空白期間に入られるご予定ですが、その場合でも、弊社のサービスは引き続き無料でご利用になれます」
つまり、クビを業者に告知させた、ということですね。
通信社だから、ニュース配信を行う会社なわけで、恐らく筆者はブルームバーグで記事を書く側(つまりブルームバーグに雇用されていた)だったんだと想像できる。
で、このメールがクビ通知。
(でも業者という第3者的なものは見あたらないが…)
ブルームバーグから見た「お客様」=筆者で、クビになること+クビになっても、ブルームバーグの配信ニュースを受信する権利(一般客向けサービス)は使えますよ、とそういう連絡をしてきた、という意味になるような気がする。
チェック機構全くないんだろうか。
一例として、カフェなどで読書をしている時に私の心に生じていた、尊大さの投影によるストレス・対人恐怖症の発症プロセスを示します。
1. 他のお客さんの会話が気になってイライラする。
2. しかし相手の否定的な反応への恐怖から「静香にして欲しい」とは言えない。
2. そのうち「私が読書をしているのになぜ静かにしないのか」と腹が立ってくる(そうするのが当然だ、との尊大な態度)。
3. しかしこれも相手の否定的な反応への恐怖から表に出せない。
5. 相手が尊大な態度で「うるさくして何が悪い」と思っているように感じる。
6. 自分が読書をしているのを知っていてそのような態度に出るのは「嫌がらせ」に違いないと思え、激しい怒りとストレスを感じる。
いらいら→相手怖いから無言→むかむか(俺の意見がアタリマエなのに)→相手怖いから無言
→むかむかしてられないから、相手がむかむかしてると思う事に→「サテンで話すのくらいアタリマエですけど?」と聞こえるように→嫌がらせ?
→ストレスから、周りのみんなが嫌がらせしてるように聞こえるように
「投影」は、自分が思っていることは相手も思っているだろう、という「共感」の逆バージョン。自己が特殊ではないという防衛機構。
(共感は、相手の思っていることは、自分にも判るというヤツ)
今日の値動きはどこの市場も大波乱だったが、特に壊滅的と言っていい値動きを見せたのが韓国市場。
ウォン相場は市場開始からウォン暴落の様相を呈し、最終的には1268.0 +44.9 (+3.67%) で「収まった」。
この状況に対して、韓国通貨当局は日中のドルをあてにする以外の方策は実際にはない。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=105609&servcode=300§code=300
既に去年末に宮澤構想をベースにして東南アジア諸国通貨状況安定のために設置が合意されていたアジア通貨基金があたかも新たに状況改善のために新合意がなされたかのように韓国メディアは伝えているが、この機構は東南アジア諸国が対象であり、韓国は救済される側ではなく救済する側であることが前提になっている。
この構想が今回の韓国金融危機に対応するためのものであるかのように言うのは明らかにミスリードであり、誤報であるのだが、しきりに韓国メディアがそれを言うのは、「これにすがるしか有効な手立てがない」ことの表れである。
韓国の経済危機については、一切触れない、報じないのが日本のマスメディアの常なのだが、今朝、読売新聞が財務省幹部の話として、韓国政府のいう、ウォン状況改善のために日本政府が何らかの合意をしたことはなく、その意思もなく、会談の予定もないことを報じた(これについては中国も同様の姿勢であることは既に明らかになっている)。
つまり韓国通貨当局やメディアがアナウンスしていた「日中韓の合意」は捏造であったことが明らかになったのだが、この報道を受けての韓国市場、韓国通貨ウォンの大暴落の直接の契機となったと見てよいと思われる。
作業しなきゃいけないのは分かってる。でも就職活動と自分ひとり食べていけるだけのお金を稼ぐこと、単位をとることは両立できないんだ。
なんて自分は無能なんだろう。役立たずなんだろう。消えてしまえばいいのに。いなくなってしまえばいいのに。なんでこの人自殺しないの? 酸素とか無駄じゃない? 10年後困るから今就職活動しろっていわれても、今稼がなかったら困るのは再来月の自分なんだよ! 誰が来月の私の食費や電気代や通信料払ってくれるのさ? 10年後困るから今動けって言われても、今何かすると10年後の自分が存在しねぇんだよ。そりゃあできない言い訳だけ並べてれば幸せだろうさ、でもじゃあ現実問題再来月の入金のない生活なんかできないわけで、もう卒業したらホームレスとかそういう人になるんだろうなぁと思う。
両親は頼れないしさ。絶賛宗教と浄水器詐欺にドンはまり中だし(よって金はあってもこっちには来ない)、おばさんは乳がんで闘病中(よって金はない)、祖父母は借金まみれだし、誰か就職活動終わるまで生活費払ってくれないかな。もっとかわいければスポンサーくらいついたのかもしれないけどさ。いいよなぁ普通の家庭に生まれた人は、心配することが自分のお金のことじゃなくて色恋沙汰でさ。それでも真剣なんだろうけどさ、うらやましいよやっぱり。
さて、現実問題どうするかね。マジでアイロンをかけることもできないぐらい金はないし、助けてくれるひともいない。大学の支援機構も親の年収だけ聞いて「帰れ」といわれる。市役所も同様。
今ひところして百万もらえるならマジで誰か刺してる。そういうレベル。誰か助けて。助けなくてもいいや、哀れんでくれ。そしたら明日も働きに出られるから。誰か私のことを気にしてくれるんだって都合よく脳内変換して生きていけるから。
2008年09月28日 ocs 増田 LLFutureでも語られてたけど、RoRは進歩が早すぎるという暗黒面があるらしい。http://www.ey-office.net/public/LLFuture2008.pdf
進歩するのはいいんだけど、互換性が軽視されてるってのはどうなんだろう。リンク先読むと、互換性はない、古いバージョンはメンテされない、サーバーのリブートは毎日と書いてある。要するに枯れるまで触らない方が安全ってことか。
2008年09月28日 ezookojo 特定の記事が書かれた当時の手順のままで動作しなければならないRailsかわいそうです / とか言ってるとオフィシャルのREADMEやガイドページだったりする
一人ツッコミやってるので、補足するのもなんだけど。ダイアログの手順が少々変わったくらいでうろたえている訳じゃなくて、指定されたサイトから最新のパッケージをダウンロードして、そのパッケージにとって正しいと思われる手順を実行したら、動かなかった。
2008年09月28日 dbfireball 増田 Railsすごいよ!って言ってた去年あたりだったら、マジで10分でした。そこから色々アップデートされてその通りにやってもできないっていう状況。
参考にしたのは10分で作るRailsアプリfor Windows。やっぱり互換性がなくなってるんだ。
2008年09月28日 takeshiketa takeshiketa RoRラブな俺だけど、同意。RoRは導入コストで語るんじゃなくて、手になじんだ後の生産性で語るべき
うーん。ラブな方も現状については同じ意見。手になじんだ後の生産性ってのは一見わかる気もするけど。作った後のメンテナンスは誰がやるんだろう。導入コストは低くないと言ってるみたいだけど、互換性軽視の開発が続く中で、デベロッパの手をなじませ続けるラニングコストはどうなんだろう。
2008年09月28日 FTTH # |ω・)…… ハイハイハイ俺も云いたいです!! RoRの機構使うよりSQLベタ書きの方がポータビリティもメンテナンス性も良いと思います! バックエンド意識しないでいいようなアプリなんてどうせその程度です!!
ポータビリティもメンテ性もべた書きより劣るフレームワークって…。
幸いITのプロじゃないので他人ごとなんだけど、RoRで業務サイトを構築している人が居るってのは、少々寒気がする。肝が据わってるのか、想像力がないのか、それとも俺が思っているよりずっと人月って金がかからないのか。
これを読むと一応納得できる。バカとかいう表現には少し問題はあるような気もするけど、主な内容としてはd:id:Apemanが、d:id:HALTANのホロコースト批判を認めているということだから。せっかく認めているんだから、もう少し素直に書けばいいと思うけど、これは個人の勝手というかそういう芸風なのかもしれないのでまあしょうがない。
いやバカだねぇ…。私は5月の時点から、「ホロコースト」だけを特別扱いせずに「ポル・ポト」その他についても同じ基準を採用する主張なのであれば理解できる、ってずっと言ってるわけよ。にもかかわらず、「ホロコースト」が出てキルト「恐ろしい」とか「声高に連呼」などと言いがかりをつけるくせに、「ポル・ポト」とか「関東軍」についてはマンガのようなダブスタを披露してるのがHALタンなのよ。私は一度たりとも「左翼批判のためにポル・ポトを引き合いに出すのはけしからん」とか「官僚機構批判のために関東軍を引き合いに出すのはけしからん」なんて言ったことないんだから。ちゃんと首尾一貫してるだろ? 首尾一貫してないのは、なぜだか「ホロコースト」だけ」が許せないと言うお歴々なんだよ。
おおよそはこれで納得したけれども、わずかな疑問が「たとえ」に関すること。つまり「ホロコースト」はたとえでは無いということは何度も強調して主張されていたこと。
「ポル・ポト」や「関東軍」はたとえ、d:id:hokusyu風に厳密に言うとアナロジーとしてのたとえとして使われているもの。だから「たとえ」として使われたものと、「たとえではない」と発言者によって主張されたものを 別の物として扱うことが首尾一貫してないとはならないのではということ。
これは「ホロコーストとポルポトと関東軍 」にも書いてあるけど。
ホロコーストの参照が、ポルポトや関東軍呼ばわりと違うのが「たとえ」であるかどうかという点。後者はたとえとして使われているもの。別の言い方をすれば比喩やアナロジー。ホロコーストに関してが「たとえ」ではないというのは、そういった主張が本人によってなされているから。それがたとえの意味としてはおかしいという批判が一部にあるにしろ、本人の主張は尊重すべき。
d:id:hokusyuはアナロジーとしてのたとえでは少なくとも無い、と限定した意味で使用していることを説明しているのがさすがに頭が良いところ。とはいっても、○○では無いということは言っても、それでな「何である」のかについては書かないのが不親切。まあこれも頭の良い行動ではあるんだけど。
最後にもう一度。
d:id:Apemanが、ホロコースト批判を受け入れたということは、評価すべき。
俺は半年前までWindowsXPのデスクトップを使っていた。
PSPでネットするのに、このWindows機に対応したWi-Fiとかいう変なUSB(BUFFALO WLI-UC-G)のWi-Fi親機端末を買ってインストールして、ネットにつなげていた。
こんなの→http://buffalo.jp/products/catalog/network/games/psp/ →http://buffalo.jp/products/catalog/network/wli-uc-g/
でも、Windowsはいい加減うんざりしていたので、年末にMacに買い替えた。
そしたら!この変な親機(BUFFALO WLI-UC-G)、ただでさえUSBポート一個消費&変なソフト常駐(AOSSルーター?ソフトみたいなの?)してムカついていたのにMacには非対応になっている!!
→http://buffalo.jp/products/catalog/network/wli-uc-g/index.html?p=spec (XPとVistaのみだとさ@買う前に確認しましょう)
で、その時に、ふと最近のMacはAirMacとかいうなんか無線LANとかできるような機構が入ってるらしいと聞いたのを思い出した。
もしかして、それで変な周辺機器買わなくてもAirなんとかでPSPがネット接続できるんじゃね?と思った。
「mac wifi psp」でググってみると参考サイトはすぐに出た → http://ponpokorin.exblog.jp/3882175/
でも、このサイトは残念ながら、俺の使っているMacと参考用に貼られている画面が微妙に違う。(基本は同じだけど)
そして何より繋いでいるのはPSPじゃなくて、DSだったことが違っていた。
だがしかし、原理的にPSPでもできないはずがなかろうと思い、差分はテキトーに読み替えながら挑戦したら何もつまづくことなくできてしまった。
というわけで記念として、自分用メモとしてこれを書き残す。
MacでPSPをネットに繋げたい!と思った人は是非参考にしてほしい。って、フツーはこんなん読まなくてもできる人ばかりだろうけどさ。。。
何となく動いたからいいや、みたいなメモなので参考にする人は自己責任で。
DNSって何?って聞かれても俺も知らない。何で動いたかは知らない。
まぁ、最低限のこととして、パスワードが12345であるとか書いたりしてるけど、ここは読み替えれよってことで。
でも意味解らん人はとりあえず12345って入力しとけばいいんじゃないのかな。(笑)
※最初は本当に12345で試した馬鹿です。ハイ
不思議。
「全ての段に2名ずつみっちり乗ることは想定されていない」って、そんなんデパートや大型店の新規開店なんかで普通に見られる光景のはずなのに今まで問題にならなかったのが不思議。
「エスカレーターは1段のステップに2人が乗ることを想定している」らしいけど、重量制限って130kg/段らしいじゃん。80kgと50kgの夫婦が手荷物持って並んで乗るだけで突破しちゃうよそれ。
しかも重量オーバーになるとブレーキ利かずに空転しちゃうって何よ。
今回のアレ、すごい速さで逆走してるじゃねえか。
重量オーバーになっただけでこんな事故になるのに、安全機構がこんなにザルだなんて。
今までそんなん全然知らなかったぞ。
エレベータみたいに、エスカレータの利用者にわかる形で重量制限表示してあったっけ。
ビックサイトだけじゃなく、日本中の混雑店舗の従業員のどれだけがこのこと知ってたの?
普通の横幅のエスカレータに大人(デブオタ)3人詰め込むなんて物理的に無理だろよ。それを既成事実として報道するのが不思議。
どう考えても設計と啓蒙に問題あるっぽいのに、エスカレータ屋を全く叩こうとしない大手報道屋さんが不思議。
誰が誰を守りたいんだろう。
胸糞悪い。
AIが人になる時はたぶん感情をもつ時ではない。自己複製時により環境に適応した個体を複製できるようになったときである。*1
僕たちは感情なるものを勘違いしている。感情なんて機械的なものだ。AIで感情を実現しようとしているのが間違っている。感情の存在意義は環境に適合する時により多角的に最善なる(自身の経験と知識から、言い換えればろくな知識と経験がない奴はより原始的な感情に従う。いわゆるDQN)選択を選択するための補助機構にすぎない。*2その最善なる選択は適応度を上げるものでなくてはならない。感情は実現するのはない。しかし付随するものである。
故にAIのみで感情を実現することはできない。もし誰かがAIで感情を実現したと言うなればそれはただのシミュレーションであり感情ではない。感情っぽいものだ。
もしAIが他者、いわゆる人類、の干渉なしに自己複製を通して進化を実現したときAIは感情をも実現させフランケンシュタイン・コンプレックスの悪夢が実現するわけである。
*1自然淘汰と進化は違う。進化はnondirectionalであるが、自然淘汰は自然に適当とするという意味においてdirectionalである。機械が自己複製で進化を実現すれば必然的に自然淘汰は発現するはずである。
*2たぶん感情が何たるかは個々人の考えによるんじゃないかと思う。僕にとって感情はfitness*3を上昇させるために経験と知識と原始的欲求の三つから決定されるものだと思っている。
*3fitnessを上昇させる手段が何たるかすらもそれは経験と知識によって決定させる。ファッションのよってセックスアピールを上昇させたり、地位を得たり、共同体に属する行為さえ単にfitnessを上昇させる行為に過ぎない。人がどのような戦略をとるかは経験、知識、遺伝的傾向など多角的なもので予測できるものではない。
百万回繰り返された例の件について書いてみるよ。あ、タイトルは必要ないよね?このタグだけ見ればわかるものw
総評:とにかく微妙というか、中途半端につかいにくい。いまだにPerlが生きていたり、Rubyにキャッチアップされてるのも納得の出来。これがLL界を制覇したらPerlよりうっとうしい。
http://d.hatena.ne.jp/isayama/20080720/1216562529
にキレイにまとめららていて、また当方の耳に痛いことも進言してくださいました。ありがとうございます。
事実とか思いとか、「日立製作所」の問題か「官公庁のIT調達」の問題か、といった部分がないまぜになって単なる愚痴っぽい文章に終わっていますね。読み返すと。読者のみなさん、申し訳ありませんでした。
さて、内の組織や日立製作所を始めた大きな組織が急に体質を変えて、適正なIT調達と技術の適用がすばやく進むとは思えません。日本的なボトム・アップ式のゆるやかな改革の連続が、いつか壁を突き破ることにつながることになるだろうと思います。
私が担当ベースで粘り強く取り組むことは以下のとおりかと思います。
(1)日立のメインフレームの見積もりで高い、または前回購入時よりほとんど下がっていない点については徹底的に説明を受け、当方の組織に納得できるよう資料を提示してもらう。
・以前、ガートナージャパンの亦賀ヴァイス・プレジデントが「国産メインフレームの最大の問題は価格の不透明さ、そして、今後の技術のロードマップが不透明なところである」と言っていました。
この点を担当者として、勉強もしながら疑問点を洗い出して、ベンダーにぶつけ、友好的な交渉の後、適正な価格・構成で契約すべきでしょう。
疑問点の洗い出し(「なぜ」を何回も繰り返す)
・1プロセッサーあたりの処理能力は向上しているのに、IBMのように筐体統合(論理分割=LPAR)を推奨案とせず、メインフレームの台数が多い構成を薦めるのだろうか(秦野市のハード工場の維持のため台数出荷は押さえておきたいポイントなのか)
・1プロセッサー(50MIPS程度)で提供価額1億円を超えており、明細がないが説明をしてもらう。
プロセッサー単体=1億ではなくある程度パッケージ化された固まりなので1億円の大台になってしまうのだと思う。交代用プロセッサー、SVPと言われるプロセスを監視する機構、あとメモリ(4G)等いろんな部位があってこういった値段になっている。福袋のようにまとめて、1億とか言われると思考停止するので、ここは明細を出してもらい、サービスマニュアルでどんな働き、冗長性を持っているかを理解して価格交渉するべきですね(デカルト「困難は分解せよ」)。
・詳細な見積もり書の提出を日立が拒む可能性は大きい。これまでも数度にわたり交渉したが、先方は牛歩作戦でうやむやにしてきました。ここは企業対企業なので、いろいろ駆け引きもあるようですが、地道に交渉します。気の利く営業マンだと「今の時点では正式な紙としてお出しできませんが、口頭ベース未確定でメモをお取りいただいたということで・・・」と言って企業名の入っていない内訳メモを出して、こちらの気を揉ませることのないよう配慮するのでしょうが。
・CPU周辺部品の明細徴求
メインフレームは入出力用のチャネルと言われる部品も一個250万円ほどしてそれが、何十個と搭載する必要となるとすごい金額になります。昔メタルチャネルで、その次は光ファイバチャネル、そして最近光ファイバ多重チャネルと何種類かの接続機器が混在し見積もり金額が高くなるのです。周辺機器も順次、上位の接続規格にグレードアップしていけば、統合・集約ができるのですが、どうしてもレガシーな接続方法が残ってしまうのですね。パソコンに喩えるとUSBみたいなものですが、高いうえに融通が利かないのです。また、ここは日立独自の技術というよりIBMから技術供与を受けているみたいですね。日立物流のトラックから当該部品が入ったダンボール箱の荷下ろしを目撃したのですが「IBM ESCON」と堂々と箱に書いてありました。光多重チャネルは24多重まで可能であるので、数は減らせるはず、減らせないなら納得のいく説明をもらう。また、下位のレガシーチャネルは周辺機器の入れ替えの関係もあり1年も使わず廃棄といった勿体無いことがおこりそうです。
日立もグリーンITを推進しているので、自社検証センターや共同システムセンタでさほどクリティカルでない場所でセカンド・ユースして下取りすることは可能か聞いてみます。
最近CPU専用のプロトコル(日立ではXNFという)をTCP/IPに変換するホスト側のミドルウェアが実装され、サーバへのデータ転送はFTP転送で可能になりました。メインフレームには内蔵LANアダプターというギガビット・イーサーを搭載でき、またこれが2ポートついているのですが、1個200万円するんです。もっと高かったかな。それでサーバーと接続するのですが、普通、複数のサーバとやり取りするならば、中間にスイッチを置いてメインフレーム側のLANアダプターの数は抑制しますよね。
日立の技術者はめっきりネットワークに弱く、サーバと1対1通信をするため、相手のサーバの数だけ内蔵LANアダプターを買わせようとしているのです。メインフレーム側の仕様かなと思い日立のメインフレームXNF/TCPマニュアルを精読すると1つのLANアダプターに64個までのLANの設定定義が可能となっていました。でも「ネットワークは自分の専門でないから・・・」等々言って動きたがらないのです。しかし、ここはしっかりお願いをして、場合によってはネットワークに強いベンダーさんを読んで帯域制御なり、VLANなりの十分汎用化した技術を使って最適な構成をやってもらおうと思います。
他の日立のユーザさん、どうですか。ネットワーク接続で目茶苦茶原始的な接続設計で高いハードをたくさん買わされていませんか。こういうハードはロット生産なので本社から在庫があるので、少々言葉は悪いけど無知なユーザにはハードを売り捌けという指令が飛んでいるのかもしれません。
日立はこれを「AP保守料(サービス料)」と読んでユーザに契約させ、1ヶ月毎払いで年間数億円請求しています。当官庁のサイトには常駐のSEさん、ハード保守の人に100人とまではいかないけど、詰めてもらってその方たちには、その保守料とは別に人月ベースで人件費を払っています。このAP保守料は何か「本社への上納金」のような気がして仕方がないのです。すべてのユーザがお支払いしているのかも不明なので、いったいどういうものか質問してみます。ユーザサイド常駐SEがいて、それとは別に事業維持のため上納金が欲しい。けれど月々の活動明細は提出しない。資金使途は教えられないというのでは「みかじめ料」みたいですね。日本IBMさんではこの制度はないようです。
■他社への参考見積もり
日本IBM社に同等規模のシステムを構築するといくらくらいになりますか、ということで見積もりを取りました。
ハードの置き換えでなく、使用しているソフト料等のランニング費用を出してイニシャル×ランニングでトータルで参考値を提出してもらいました。
1ヶ月くらいかけて問診シートをもとに結構精緻な資料をつくってもらい日本IBM社には感謝しています。メインフレームは独自ハード、独自OS、独自ミドルといったところで、全面コンバージョンは非常に難しいところがあるのですが、IBMさんは「参考になれば」ということで、しっかりとした資料をまとめてくれました。
一番、移行に対してハードルが高いのは20年来使っているDBのミドルウェアとのインターフェースが互換性がないということでした。形式が違うため、DBのつくり、アプリケーションから参照するデータ・テーブルを全面改造するとなると、すべてのシステムをゼロから書き直すといったことが必要になり、今のこちらの体力では難しいという結果となりました。
しかし、IBM側もこちらのシステムのつくりを把握することができたので「ここの機能はオープン・パッケージにマイグレーションするといい」と言った提案は今後してくれるとのことでした。
印象的だったのは日立のように秘密主義、なにも説明してくれない主義とは違って、自分たちの技術に自信、誇りを持って的確な資料を短期間に纏め上げてきたことです。感嘆しました。また、非売品だそうですが、「IBM Zシリーズハンドブック」という、あまり専門的な知識がなくてもZシリーズのイロハが分かる日本語の参考書をくれました。これは分かりやすくて、熟読して「日立」には「これはどうなの」と言った質問をしています。顧客に見せるナレッジ・マネジメントという意味ではIBMの方が数段上のようですね。
メインフレームのプログラムは150種類くらいあって、個別に月々レンタルというかたちで使用料を払っているのです。ものすごく高いです。全部で70千万円くらいかな。価格体系も複雑で、またプログラム種類も多岐にわたり、理解が難しい。これなんかは提供側とユーザの情報の非対称性を「悪用」した「不安商法」といえるかもしれません。でも、税金が無駄に使われているかもしれませんので、頑張ってチェックしていかなければ。
■結論■
あまり、味方がいないので、体を壊さないようスケジュールを作ってこつこつ日立製作所との不公正な取引があれば理詰めで解消していきたいと思います。また、他の官庁、自治体で同様な無駄、過剰な契約をしていることがあれば、本当に必要なのか吟味して、全体として適正な方向に向かえばいいと思います。あまり革命は望んでいません。
http://anond.hatelabo.jp/20080711131347
これはあまり正しい表現ではない。
レンズのスペックは、口径比と焦点距離で表され、このうちの焦点距離によって撮影対象のフィルム(あるいは撮像素子)上での大きさが決まる。
焦点距離はmmの単位で表され、その数字が大きいほど、撮影対象が大きく写る。ズームレンズの場合、xxmm??yymmといったふうに広角側(視野が広く、対象物が小さく写る)と望遠側(視野が狭く、対象物が大きく写る)の数字が示されている。しかし、撮影対象がどの程度の大きさで写るかは焦点距離とフィルムもしくは撮像素子の大きさによって異なるため、ただ単に焦点距離を示しただけではわかりずらい。このため、各カメラメーカーでは「35mmフィルム換算時の焦点距離」をカタログスペックとして表記している(ここでの35mmはフィルムのサイズを示しており焦点距離とは関係ない)。
では、光学n倍ズームというのは何を表しているかというと、望遠側の焦点距離から広角側の焦点距離を除したもの、先ほどの例で言うとyy/xxの値を「ズーム倍率」とよんでいる。このため、同じ10倍ズームであっても、28mm??280mmのものや、35mm??350mmのものが存在することになる。
ここからは蛇足。
人間の視野はだいたい(35mm換算で)35mmのレンズと同じと言われていて、広角側の焦点距離が35mmとなっているデジカメもおおい。しかし、人間の視野は案外狭くて、風景を撮る場合には35mmでは閉塞感を感じることがある(人間は首振り機構により視野を拡大できるものね)。逆に遠くのものを撮る場合、たとえば運動会でトラックを子供が走っている場合には450mm程度、野鳥を捕る場合600mm程度ないと満足する画を撮ることは難しい。つまり、28mmから、もしくは35mmからの光学10倍程度ではあまり役に立たない。
個人的には、人にデジカメ購入のアドバイスをする場合、望遠側の焦点距離にはあまり拘らず、広角側の焦点距離をチェックし、なるべく28mm以下のものを選択するように勧めている。
いま、日本が警戒すべき「複合体」は、もちろん、米国のような軍産複合体などではない。既成その組織、既成の方針、過去の成功体験などを金科玉条とし、学歴に基づく自らの身分に誇りを共有する、官僚機構、日本銀行、経済界、学界、マスコミなど、あらゆるところにネットワークを張る複合体の人脈だ。
テレビ映像に出てくるような圧力団体や族議員は、その同盟者に過ぎない。「本尊」は目に見えない、匿名の存在である。まさにレーダーに捉えきれない「ステルス爆撃機」のような存在で、目には見えないが強大な力を持つ。
一時、勝ち組、負け組論が盛んだったが、彼らこそ「究極の勝ち組」である。なぜなら、大学卒業時点で「究極の勝ち組複合体」の一員としての身分を一度、確保すると、負け組になることはないからだ。「競争があるだろう」と思う人がいるかもしれないが、同期の競争といっても、本省か出先か、あるいは本社か関連会社か程度の差しかない競争であり、身分は保障されているのだ。
数年前、勝ち組といわれた人たちは、いま、どれだけ生き残っているか。市場原理に生きる人に永遠に勝ち組はいない。
というのも、彼らは「ステルス複合体」の外側にいるからだ。「ステルス複合体」の中にいる人のみが永遠の勝ち組で、彼らが身分を剥奪されるケースがあるとすれば、複合体を裏切ったときのみなので、身分を守るために「身内の論理」に絶対の忠誠を誓う。そこに隠蔽が偽装が発生する。「ステルス複合体」の中では政策論争が起きないのだ。
「中川秀直著:官僚国家の崩壊、講談社、2008年」には、今の日本を、おかしくした元凶が、霞ヶ関を中心とする劣化したエリート集団(ステルス複合体)にあることが、多くの実例を挙げながら挑戦的に書かれている。マンガ好きの次期首相候補の、日本を礼賛する安っぽい内容の本よりも骨がある。印象に残る部分拾い出して挙げると以下のようになる。
1.日本の庶民の勤労意欲や学習意欲の水準は非常に高い。しかし、日本のエリートの質は明らかに劣化していることは、海外で仕事をしたり、国際会議に出席した経験がある人は皆感じている。この問題には、真正面から取り組まなければ日本を覆う閉塞感を打破できない。真の公務員制度改革で日本のエリートを叩き直さなければならない。
2.身分と権益を今までどおり守ろうとするエリートたちは、国家財政に「もう無駄はない」と言い張り、「安心できる社会」「弱者救済」を御旗に、天下り先法人の存続などの自分たちの権益を守るための増税を主張してくる。増税の議論の本質は、経済成長にあるのではなく、劣化したエリートの延命のための負担を庶民に押し付けることを意味する。だから、庶民は怒っている。
3.「ステルス複合体」というのは、レーダに探知されないように電磁波を反射しない爆撃機(ステルス)を例えた、劣化したエリートたちの集団である。個人的にはメディアの表に立たずに目立たぬように、群れを組んで、自分たちの思うとおりに物事を進めようとする。失敗の責任を取るのが怖くてそうするのかもしれない。(箱物行政の大赤字、転売による莫大な損失の発生の責任を取らず、天下りにより莫大な報酬を得ていることは詐欺罪にも該当し刑事訴追の対象にもなると司法出身のテレビのコメンテータは言明している)
4.「ステルス複合体」が生まれた理由は根が深い。社会保険庁、食品会社、老舗の料亭などの隠蔽、偽装にも密接に関係している。身内の安全、利益を優先するあまり、組織外の人、仲間以外の人の信頼を裏切ることになる。日本の「村八分」の言葉に象徴される精神構造である。
5.小泉・安倍内閣で構造改革が進めば進むほど、権力中枢の抵抗はかたちを変えてますます激化していくと予想したが、不幸にも的中し安倍総理を直撃した。かたちは健康上の理由であったが、実状は「ステルス複合体」の抵抗であり、サボタージュや守旧派政治家を動かして政治をストップさせるような裏工作をした結果である。
6.日本が警戒するべき「ステルス複合体」が生まれる理由は、既成の組織、過去の成功体験などを金科玉条として既得権を守ろうとする集団が存在することである。長い人生のほんの一時期に、要領のよさだけで、親の言うとおりに塾通いや家庭教師で獲得した学歴や無意味な??種公務員試験で得た自らの身分に一生託そうとする人たちである。彼らは、十代後半の青春の悩みとか道草の経験とは無縁の人種である。彼らは群れたがる。官僚機構、日本の銀行、経済界の基幹産業といわれる企業の幹部、学会、マスコミなどあらゆるところにネットワークをはっている複合体である。東大法学部出身を核とするエリート人脈のような、大学同窓会を原点とする同質的人脈が身内共同体をつくっている。大学卒業時点で「究極の勝ち組複合体」の一員としての身分を確保すると、負け組みとなることはない。同期の競争といっても、本省か待遇のよい天下り先法人の幹部、大企業であれば本社か関連会社の幹部の差しかない競争である。仕事の能力・成果とは無縁の世界である。中小企業の経営者たちや多くの庶民は、その悔しさを胸にしまい、歯を食いしばって頑張っている。
7.日本の危機の本質は経済政策論争以前の深層部分にある。ステルス複合体=究極の勝ち組複合体が真の経済論争を拒んでいる。理論の問題でなく政治の問題になっている。格差だとか弱者救済とかの用語で経済論争の論点をはぐらかし、マスコミもそれに加担している。庶民とかけ離れた高給取りのニュースキャスターや司会者が格差だとか弱者救済と語っているのが空しいことを賢い国民は見抜いている。次の選挙は与党内のステルス複合体との戦いでもある。野党にもこの日本の危機を見抜いている人もいる。国民が一致協力してステルス複合体を崩壊させ、正しい政治、公正な社会を取り戻す必要がある。
「官僚国家の崩壊」っていう最近出した本の中にも、官僚機構などにネットワークをはる複合体の人脈を「ステルス複合体」と呼び、その「本尊」は学歴による優越意識に基づく大学同窓などの見えざるネットワークであり、たとえば、東京大学法学部出身者を核とするエリート人脈である、と書いている。
http://d.hatena.ne.jp/yumyum2/20080529/p5
<官僚国家>を牛耳る<ステルス複合体>の得意ワザはズル、ウソ、ゴマカシ。<医療>改革を<健保>問題にスリカエた。元財務大臣の塩川正十郎が「財政の都合ばかりを優先、人間味に欠ける」と批判、元総務会長の堀内光雄が「年寄りは死ねというのか」と「文藝春秋」6月号に寄稿。当然だ。
元自民党幹事長の中川秀直、近著「官僚国家の崩壊」(講談社)で「(ステルス複合体は)学歴(東大法)に基づく自らの身分に誇りを共有する。官僚機構、日銀、経済界、学界、マスコミなど、あらゆるところに巨大なネットワークを張る。この同質的人脈が『空気』をつくり、政策の『相場感』をつくっていく。彼らの醸し出す空気と相場感に反するものは『異端』扱いされるか、無視され、あらゆるエリート層に、予定調和的な言動を強いて、同質化圧力を加えていく」(23頁)と書く。日本を牛耳り、食いモノにしている。
「『ステルス複合体』に政策を任せると、日本は必ずや『日沈む国』となる」(中川・24頁)。
「小泉内閣以来、自民党が進めてきた改革の本質は何か。基本的な図式はよく言われるように、『霞ヶ関対永田町』である。官僚によって、役人天国が形成され、今や、官僚が国政を操り、国を私物化しているという批判は、ある意味で正しい。官僚主導を本来の政治主導に戻し、国民のための政治に戻さなければならない」(舛添要一「霞ヶ関VS永田町」講談社・2頁)。参院政審会長2007年5月の刊行。正論だ。中川秀直も火山も同意見。
http://blogs.yahoo.co.jp/kome_1937/54679415.html
その中川氏は日本が東大法学部を中心とするエリート官僚たちに巧妙に支配されており、政治が官僚をコントロールできていないことが、日本の改革が進まない最大の要因であると主張し、改革に反対するエリート官僚たちを厳しく批判する。選挙の洗礼を受ける政治家は、政策の失敗に対して責任を追及されるが、官僚たちは、匿名のまま、政策を作成し、それが失敗に終わっても、結果責任をとることもない。政治家がいくら改革の旗を振ろうが、最大の既得権益者であるステルス複合体が改革を許すはずがない。彼らは官界を越えて、産業界、学界、マスコミまでを網羅した東大法学部人脈を通じて、相互に補完し合いながら、自分たちの力の保全を図っている。これが中川氏が日本の最大のガンになっていると断罪するステルス複合体の実態だ。
http://www.videonews.com/on-demand/371380/001321.php
ステルス複合体とは
「東大法学部を中心とするエリート官僚たちが、官界を越えて、産業界、学界、マスコミまでを網羅した東大法学部人脈を通じて、相互に補完し合いながら、自分たちの力の保全を図っている集団」
の事を差すようです。
私見ではそのようなゆるやかな連携は存在すると思います。しかし、本当に「ステルス複合体」が「抵抗勢力」なのでしょうか?そもそも、「新自由主義の導入=改革」に抵抗するのは国民国家の利益を考えると穏当な場合もあり得るわけです。
確かに、官製不況なる言葉に表されるように、近年は所轄官庁が所轄官庁であり続けるための政策が実行されて、民業の足をひっぱるような事態も起きています。また、膨大な公債が積み上がり、国家の財政事情は悪化しています。公務員給与総額を減らさねば、国家破産は避けがたい状況です。よって、キャリア官僚制度の弊害は存在することは間違いありません。
しかし、小泉純一郎こそが、財務省の族議員であり、なおかつアメリカの利益を代弁する外資族議員です。旧大蔵省理財局は財政投融資を通じて毀損しまくった郵貯・簡保を総務省(旧郵政省)に返し、なおかつアメリカに売り渡すことにより責任を逃れようとしています。その片棒を担いだのが小泉純一郎・竹中平蔵です。後期高齢者医療制度を導入したのは当の小泉純一郎です。後期高齢者医療制度の本質は竹中平蔵の言うところの「人頭税」の制度導入に他なりません。
結論から先に申し上げれば、殲滅すべきはステルス複合体ではなくて、清和政策研究会です。「官僚は政治にそよぐ葦」であり、昨今の悪政の源泉は売米政治を続ける清和政策研究会にあります。
http://wanwanlapper.seesaa.net/article/99881325.html
418 :名無しさん@3周年:2008/06/27(金) 02:06:05 ID:FVsDlK8i
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1145095961/418
2008.06.11 とんだ食わせ物!中川秀直著『官僚国家の崩壊』
暴論珍説メモ (38)
田畑光永 (ジャーナリスト)
しばらく前、自民党の大島理森国会対策委員長がテレビで「ねじれの丘」というのを歌って見せた。「今日も昨日もねじれの丘で・・・」と。
そう、今年の通常国会は初めからお終いまで(まだ終っていないが)、確かにねじれねじれで明け暮れた。自民党は要所で例の「三分の二」条項を使い、それではせっかく昨夏の参院選で大勝した甲斐がないと民主党は福田首相への問責決議案を出そうとしつつも、その後の見通しが立たずに逡巡しつつ日を過ごしてきた。いよいよ今日明日中に出すとか言っているが、さて土壇場でどうなるか、あの党のことだからなんともいえない。
ではあっても、国民からすれば、なんでも自民党の思い通りにはいかなくなったという意味で、去年、自民党を敗北させただけのことはあったのだが、駆け引きばかりが表に出て、国政を論ずるという点では「政治不在」という印象を免れなかった。
ところが、ここへ来て自民党内にいささか波風が立ってきたらしい。4日、総裁派閥の町村派で代表世話人を務める中川秀直元幹事長を囲む「中川勉強会(仮称)」が発足したというのである。現職総裁を擁する派閥はなるべく低姿勢を保って、総裁の任期を全うさせることに意を用いるというのが常識なのに、その総裁派閥の中で派中に派を作るような動きは異例である。
だから早速翌5日、同派の最高顧問である森喜朗元首相は派閥の総会で、「福田さんが今にも代わるのではないかと予測したような動きは、誰もしていないはずだ。我が派がいちばんやっちゃいけないことだ」(6日『朝日』)と苦言を呈したという。もっともである。
年金の騒ぎが収まらないうちに、後期高齢者医療保険でまたまた国民を怒らせてしまった自民党は、民主党の衆議院解散要求をなんとかしのいで風向きの変わるのを待つしかないというのが現状だが、すくなくとも「福田では選挙は戦えない」というのはコンセンサスになりつつある。といっても今の衆院議員の任期は来年の9月まで。あと1年ちょっとしかない。それまでに福田総裁の後釜を仕立てるとなると、すでに手を挙げている麻生太郎前幹事長がタナボタということになりかねない。
そんなにやすやすと政権をくれてやるわけにはいかないというのが、現職総裁派閥に身を置きながら、派中派をつくるという異例の行動に出た中川氏の胸中であろう。4日の初会合には同派の議員33人が出席し、そのほか秘書20人の代理主席(雲行きを見て参加しようという議員)があったという。相当な数である。
中川氏といえば、2000年に小渕首相が病に倒れた後に発足した森内閣で官房長官に就任したが、女性スキャンダルで無念の辞任に追い込まれたことは記憶に新しい(でしょ?)。それ以来、政府の役職にはつけず、もっぱら党で国対委員長、政調会長、幹事長を歴任してきたわけだが、謹慎ももういいだろうと表舞台に立つ決意をしたようだ。
その中川氏、最近「官僚国家の崩壊」という新著を出した。政治家が本を出すのは野心がある時が多い。安倍前首相が総裁選前に「美しい国へ」を出し、麻生氏が「とてつもない日本」を出した。中川氏のこの本も氏の政権取りへの信号弾なのであろう。
読んでみた。実は読み通すのが苦痛だった。題名のとおりわが国の官僚が政治家を手玉にとって政治を動かし、自分たちの既得権益にしがみつくのを痛罵している。防衛省、厚労省、国交省、財務省などなど、事務次官のゴルフ漬けから職員の居酒屋タクシーまで、お役人たちのすることに腹を立てていない人はいないはずだから、官僚を痛罵するのはいい。しかし、なんとも中身がうすいのである。
日本をウラで操る「ステルス複合体」などという新語を作って売り込んでいるのだが、話はあっちへ飛び、こっちへ飛びで、付き合うのに骨が折れる。しかも論旨はなはだ粗雑である。
例えば、自民党内には党人派と官僚派というグループ分けがあるが、現在は福田赳夫(現福田首相の父)以来の清和会の総理が四代(森、小泉、安倍、福田)続いているが、著者は「日本の順風の時代を担うのが官僚派であり、逆風の時代を担うのが党人派だ」とのべ、いかにも自分たちが今の日本を背負う党人派だと言いたげである。しかも、それ以前の党人派政権となると20年以上も昔の、1978年に退陣した福田(赳夫)政権までさかのぼらなければ存在しなかったと言い、「2000年の森政権の誕生は実に20年ぶりの政権交代であった」とまで言う。
こんな出鱈目な話はない。福田赳夫という人は大蔵省(当時)の主計局長まで務めた官僚中の官僚であり、その福田内閣の後に登場してきた自民党の歴代首相の大半、すなわち鈴木(善)、中曽根、竹下、宇野、海部、橋本(竜)、小渕の各氏はすべて党人である。官僚出身は大平、宮沢の二人しかいない。鈴木から小渕にいたるまでの各氏は、自身は党人でも官僚に牛耳られていたから「官僚派政権」だというなら、それはそれできちんと分析して見せるのがモノを書くということである。
もう一つ挙げよう。著者は道州制の支持者だそうだが、道州制を導入すれば国と地方の公務員が大幅に減るとして、現在の国家公務員30万人、都道府県公務員35万人、市町村公務員105万人、合計170万人が、それぞれ10万人、15万人、基礎自治体20万人の合計45万人になるという図表を大きく掲げている(257頁)。公務員がざっと4分の1になるというのだから、国民としては耳寄りな話である。しかし、この図表についての説明は1行もない。見落としたかと思って探してみたが、どこにもない。こんなものが本といえるか!
よく知られているように、中川氏は官僚の無駄遣いをやめさせ、なによりも経済を成長させることができれば、それによって消費税は上げなくてもやっていけるという立場である。消費税の値上げは避けて通れないとする「財政再建派」、とりわけその代表格である与謝野馨氏と対立している。前著「上げ潮の時代」以来、消費税値上げ不要論が中川氏の売りである。
本書でも中川氏は従来の主張を繰り返し、竹中平蔵氏の市場メカニズムによる改革路線を
大いに持ち上げて、その継承を打ち出している。それは考え方であるから、私には異論があるが、それはここでは述べない。私があえてこの本を取り上げたのは、日本の指導者たらんとする人間がその主張を書物という形で公にすることは大いに称揚したいのだが、それにしてはあまりにおざなりなものを持ち出してくるその傲慢さが腹に据えかねるからだ。
街頭演説や反対党との討論やテレビ番組では十分に考えを説明できないから本を書いてとことん説明するというのなら大いに歓迎だが、大衆にはいい加減なことを言っておけばいい、どうせ細かいことはわからないのだから、箔をつけるために本を出すという人をばかにした態度は許せない。そんな御託につきあう暇はないのだ。
中川氏の本だけを取り上げるのは不公平だから、次回はライバルとされる与謝野氏の新著「堂々たる政治」を紹介することにしよう。
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-370.html
注
ステルス(Stealth)とは、軍用機、軍艦、戦闘車両等の兵器をレーダー等のセンサー類から探知され難くする為の軍事技術の総称。
単にそれらの技術を取り入れて開発された兵器を指してステルスと呼ぶ事もある。「ステルス性」という言葉は「ある兵器がセンサー類からどの程度探知され難いか」という事を相対的に表す。ステルスの本来の意味は「こっそりとする」「隠れる」である。
裏付けも何もないというか調べてないのだけれど、お金の流れと思想を考えるとやはり腑に落ちないなにかがある。思いついたままに箇条書きにしてみた。
・核家族…拡大家族の方が分担などいろんな作業効率はいいのだけれど、核家族化して世帯数を増やした方が家や家具が売れる。
・保険…災害が起きたら怖いと煽ると保険が売れる。でも保険屋がもうけてるってことは保険をかける側が損してるってことじゃないだろうか。
・携帯…電話は家に一台でも事足りるけど一人一台持つスタイルを流行らせた方が売れる。
・メタボ…メタボリックとか肥満の危険性を宣伝した方がスポーツグッズやジム関係の需要が高まり健康グッズが売れる。
・癒し…疲れてないのに「疲れた現代社会」って言うと癒しグッズが売れる。
・髪の毛…はげるのが普通だけど薄いとかっこわるいって価値観を創ればカツラや育毛グッズが売れる。巨乳も同様のことが言える?
・化粧…しなくてもいいけどした方がキレイになれるし周りも反応はいいというのは否定しない。しかし、現在は小学生向けの化粧品もでてる。こういう市場の拡大とか、原材料費や人件費より宣伝費の方が大きいのを見ればなんかだまされてる気になる。
・医薬部外品…医薬品じゃないので確かな効果があるかはわからないけど、効果がある気がする。効果がある気がするとプラシーボ効果で効果が出てくることがある。だいたい売れてる医薬部外品の値段の大半は広告費と考えた方がいい。その額数百億。
・ペット・・・かわなくてもいいけど飼った方がペット関連商品が売れる。癒しとか言うけど生き物一匹飼う労力の方がよっぽど疲れる。
・自分らしさ…「オリジナリティ」「自分だけの」「自分らしく」をよしとすると、たとえば量産されたもの以外を求めることになる。するとオーダーメイドは基本量産より高い値段になる。オリジナリティなんて、人まねからしか生まれないし、創り出す力のある一部の人しか持つことはできない。二番煎じを受け入れた方が争いも少なくてすむ。
・コンピュータ…昔は大学に一台あればよかったのに、今はパーソナルでポータブルな時代。その方が出荷台数が増える。正直大半の人は使いこなせてない。
・教育…学歴社会とか学力偏重社会を煽ると塾や家庭教師の需要が増える。学校がたたかれるのは布石だと思ってる。
・食糧危機…これは微妙だけど、食料の値段の9割は輸送費。だからこんなに顕著に値上がりするわけがない気がする。
・石油…アラブ輸出国機構があと50年で石油が枯渇するって発表したけど、これ嘘やと思う。だってそういっておけば石油が高値で売れるんだもの。
・マイナスイオン…科学的に言えばマイナスイオンなんて存在しないか存在しても人体に影響があるなんて発表はまだされていないらしい。こんな話があって、ある国の歴史ある聖堂の泉の水を汲んでお金持ちに売りに行ったら「これは御利益がありそうだ」と言って高値で買ったという。聖堂に「この水は特別な水ですか?」ときくと「タダの水道水ですよ。飲んでも心配はないと思います。」って。いわゆる水商売ってやつで、タダの水なのに場所とかによってよくわからん価値が付く。
・スピリチュアル…占いもそうだけど、裏付けはないけど当たる気がするから、ってりゆうで本とか売れるし占い師に高いお金を払う。ちなみにアメリカでは占いはカウンセリングの手法の一種。水商売と似てる。
・環境…環境にいいって言っておけば環境にいいかどうか本当はわからなくても少し高いお金を払って環境にいいことした気になる。たとえば不買運動を起こしたとする。だいたい企業は慈善事業とか環境事業にもお金をかけてる者なんだけれど、不買運動によって企業は儲からなくなって、結果環境とか慈善事業にかけるお金から減らしていくことになる。環境技術開発にかけるお金なんかにも同じことが言える。酸性雨もフロンガスも最近は叫ばれない。温暖化は嘘じゃないかと思う。