はてなキーワード: ミッフィーとは
なにやら数日前から「The StarUp」というブログを書いてジャーナリストを名乗ったり、ベンチャー企業のコンサルタントなどをなさっている梅木雄平氏が世間を賑わせている。世間っていうか、主にインターネッツ界隈で。主にっていうか、インターネッツ界隈だけだけど。詳細や経緯は以下。
http://matome.naver.jp/odai/2137758747868416401
基本的に、問題になった記事は「ランサーズって会社に圧力かけられたよ!」とインターネットに告げ口をしているようなものだから、Twitterなどでまったく利害の絡まない第三者に散々叩かれるのもやむをえないかとも思うが、なんだか一歩引いてみると、彼が気の毒で仕方ないような気がしてくるのである。
以下の記事は氏が27歳の頃に書かれたものだが、ひどく幼稚だなという印象も受ける一方で、会社員であるということからくる苦衷のようなものが感じられて切ない。
Essay #1 サステイナビリティへの近道は自分らしさを追求すること
http://plumtrees.blogspot.jp/2011/09/essay-1.html
僕は3年以上のスパンで長期的に物事に取り組むのが苦手で
そして簡単に代わりが効かないことをすることを好む。
そう、時代は安藤ミッフィー氏登場前夜とはいえ、やれ起業だイットだ独立だIPOだフリーランスだノマドだキュレーションだという時代である。氏は周囲の優秀な人間が独立して成功する姿に大いに刺激を受けたのだろう。でもさぁ、起業して、氏のいう持続可能なモデルを構築することができる事業なんて一握りじゃんか。その辺のことは氏の目には入ってこなかったのだろうか。入ってこなかったんだろうな。
また、この辺なんか読むと、氏は非常に自己肯定的でもある。
Essay #3 地方出身者の方がライフスタイルセンスが良いという仮説
http://plumtrees.blogspot.jp/2011/12/essay-3.html
現実を直視する力と自己を冷徹に見つめる能力(地方出身者の方がセンスがないという意味ではない)がやや欠けていると考える蓋然性が高い、そういう氏が、組織から独立して個の力((c)本田△)で生計を立てようとなさっておられて、その勇気は評価されてしかるべきだが、端的にいって不向きだったのではないすかねえ。いろんなこという人がいますけど、勤め人だからってクリエイティブじゃなくてゲスで貧乏とは限らないと思うんですがね。この話題は神学論争みたくなっちゃいますけど。まま、そんなわけで、氏は昨今のノマド幻想、起業幻想の犠牲者のような面もあると思うんですよ。
氏については、以下のような記事のときにもボヤがあって、嗚呼この御仁はいつか盛大な花火を打ち上げるだろうと思った。筆者の好きなところだけ引用しておきます。
http://thestartup.jp/?p=6943
一定の読者はThe Startupに中立性を期待したのかもしれない。
情報を正しく伝える。それは他の誰かに任せておけばいい。
件の記事の「言論統制」もここでの「編集権の独立」も、氏が力んで使う言葉はことごとく使い方が間違っていて、ほんとうに心が温まります。
ネットを彷徨っていたら、自分が構想中の創作物とほぼ同じキャラクターデザインや設定、演出を使ったweb漫画を発見した。
これでは、自分の創作物がパクリで著作権侵害になってしまう、という不安が頭をよぎった。
色々なパクリ騒動を斜め読みしてきたけど、意識してなきゃ似るわけないと人事みたいに感じていた。
よく考えたらこのweb漫画じゃなくても、今世にある何かに自分の創作物がそっくりな可能性はあったわけで
精神衛生上、パクリや著作権侵害のラインとは何かを勉強しておく必要はあったのかもしれない。
で、色々検索して勉強したのだけど、なんというか曖昧なんだなぁと感じた。
ストーリーや設定は似すぎなきゃいいとか言われても、やっぱり似てしまうこともあるだろうし、
キャラクターデザインに至っては、ミッフィー訴訟やDob君事件など、これでダメなのかと思われるものを見つけてしまった。
あれでダメだと、萌え系のキャラなんか殆どが危険領域なんじゃないかと思う。
髪型や髪留めや髪の色、リボンや靴下ニーソ靴など、この手のデザインはほぼ汎用部品化されている。
服のデザインが最後の砦だろうけど、これも汎用部品化されているものが多く、例えば制服なんかは似ているものが多い。
しかしそれに関して何も動きはないということは、有り触れた人物デザインに関しては甘いのだろうか。
http://www.fukuinkan.co.jp/ninkimono/bruna/miffy.html
他社から出版されている本やビデオで、うさこちゃんがミッフィーとよばれていることにお気づきのかたがいらっしゃるかもしれません。うさこちゃんのもともとの名まえはオランダ語でネインチェ・プラウス。ネインチェは「うさちゃん」、プラウスは「ふわふわ」という意味です。ミッフィーという名まえは、うさこちゃんの絵本がオランダ語から英語に翻訳されたときにつけられた名まえです。
時期的には「ミッフィー」よりも「うさこちゃん」の方が古いのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9
名称 出典 日本での初出 由来 うさこちゃん 福音館書店刊行分など 1964年 訳者石井桃子による訳語 ミッフィー 講談社刊行分、テレビアニメなど 1981年 1960年にイギリスで英語訳版が発売される際に付けられた英語風の名前
道理で身近に「ミッフィー」で通じない人がいるわけだ。
人間との感情的なインターフェイスとして人型が優れているから。むしろそれ自体が決して人格を持つことがない人型の機械のほうが、所有者自身の感情や理想を映す存在として都合が良いこともある。アニメ絵や映画CGキャラクターは、目の表情を極端に誇張することで大勢の人間にストーリーと感情を誤解なく伝えるインターフェースとして機能しているし、ミッフィーのように小さい黒目と×で閉じられた口のデザインは、ミニマルな表現を採用することで、所有者自身の感情がそのキャラクターによって否定されないことを保障している。
もし自分自身の感情や理想が見知らぬ誰かに称賛されたなら、それは自分の存在価値を認められたのと同じような嬉しさだろうし、逆にそれを嗤われたなら、自分の人格そのものを否定されたような痛みを伴うだろう。人間がロボットや「人間未満の何か」を求めてしまうのは、動きの自由度や声の質感といった属性に対する興味というよりは、それが自分自身の複雑に絡まった感情を客観的に投影して整理したり、あるいは自分の感情や理想を誰かと共有することの困難さを乗り越えるための、一種のコミュニケーションツールとして機能するからだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20070725015707
ミッフィーじゃないウサギで、リアルとデフォルメの中間、と聞いて、シルバニアファミリーのうさちゃんを思い出したけど、それじゃちっちゃ過ぎるかな?
っていうか、ぬいぐるみでもないし。
子供の頃、自分は男なのにシルバニアファミリーにちょっとだけ憧れてたことがあったっけ。