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2016-01-17

手話言語条例・法について

手話言語条例というものがある。

知らない人も多いかもしれないが、日本の30以上の地方自治体で成立している。先日大阪市でも成立した。

https://www.jfd.or.jp/sgh/joreimap

ここまで多くの地方自治体がこういった条例を作っているのなら、国が手話言語法を制定してしまえばいいじゃないかと思う方もいるかもしれないが、国がやってくれないのである

一部の聴覚障害者関係者が制定運動をしているのだけれど、なかなか実現しない。

仕方ないので、地方から国を動かしたろということで2013年に鳥取県が制定したのであるそれから全国に手話言語条例が乱立し、世はまさに手話言語条例戦国時代状態になったのである

そんな手話言語条例・法について書いてみる。

とりあえず手話言語条例がどのようなものかを理解したければ、実際に条文をよんでみるのが一番だと思う。原典アタック

最近はいろんな手話言語条例が成立したので変わったものもあるが、ベーシックな原点の鳥取県手話言語条例でいいかな。

http://www.pref.tottori.lg.jp/222957.htm

23条しかないので、全文を読むのにも大して時間はかからない。法律に出てくるような難しい言い回しもないので簡単に理解できる。

最近は変わった手話言語条例を制定しよう(京都市観光客向けの手話言語条例とか)としているところもあるみたいだが、基本は大体この鳥取県条例と似たようなもんである

結局のところ、総合的に見て各地の手話言語条例に書いてあることの基本をおおざっぱにまとめると以下の2点のようになる。

手話を一つの言語として認め、尊重する

手話を普及させることで聴覚障害者やその関係者等の暮らしをよりよくする

 (具体的には、鳥取県の例でいえば手話通訳者を育成したり関連の事業者サポートしたり県民のための手話講座を開いてみたり小学校手話を教えてみたりしているようである。)

こうして見ると、①はあくまでも理念的なものであって、この条例本質は②にあるのだろうと思う人が多いだろうと思う。少なくも鳥取県のケースはそのようになっている。

しかし、一部の聴覚障害者にとっては①、つまり手話言語として認めてもらうことは②と同等、あるいはそれ以上に大事なことで、彼らの人生にとって極めて重要なことであると考えている。

手話言語である条例や法で認められたとしたって何が変わるのか?どうでもよくないか?」そう考える人もいるだろう。

なぜ、「手話言語」が大事なのか?

手話言語条例理解するにあたって最も重要ポイントである

しかし、そのことを考えるにあたって、まずは手話というものについて掘り下げなければならない。これは非常に厄介な問題なのだけれど、がんばって簡潔に説明してみる。

手話というもの世界中にある。アメリカであればアメリカ手話があり、韓国韓国手話、そして日本にも日本手話がある。

ここまでは普通言語と変わらない…のだが、日本手話は少なくとも2種類のものがある。(もちろん方言とかではなくて)

A日本手話 と B日本語対応手話 である。どう違うのか。説明する。

Aの日本手話一言でいえば、「日本語とは異なる、一つの独立した言語であるといえる。

私は言語学には疎いので言語定義もよくわからないが、重要なのは独自文法を持っているということだろう。

手話文法の具体的な説明は難しいが、まぁ英語に似ていると思う。

日本語の「私は  手話を 勉強 しています」という文を無理やり日本手話にしてみると、「私 勉強 している なに? 手話 です」とかそんな感じ。

実際にはこれを踏まえてこまかい表情や首の動き、眉の動きなんかも文法の一要素としてあるようで、日本語をしゃべる人間にとってはややこしいし難しいしわかりにくい。

手話言語学とか文化人類学とかで研究されているので、興味のある方はそこらへんの本でも読んでみるといいかもしれない。

とにかく、日本手話というのは聾者と呼ばれる人が使う独立した言語なのだ日本語とは違う言語。これが重要テストに出るぞーレベル

そして、Bの日本対応手話はどうか。「日本語文法手話単語をあてはめただけのもの」とでもいえばいいだろうか。

こちらは日本語でしゃべるのに合わせて手話単語を出せばいいので簡単に習得できる。

日本語で「私は 手話を 勉強 しています」と口で言うときにそれぞれの単語のところでその手話をだせばおしまい。表情や首の動きもいらない。楽ちん。

この手話日本語文法ありきのものであって、独自文法を持たない。言語学をよく知らなくても、それでは独立した一つの言語ではないということはなんとなくわかるだろう。

しろ、これは言語というよりは筆談ノートテイクのようなコミュニケーション補助のためのものと解したほうがいいかもしれない。

大学手話サークルとかはだいたいたぶんこっち。Aの日本手話をやっているところもあるのかもしれないが、そちらは難しいので手話勉強しようと思うと最初はこれを使うことになるだろう。

聴覚障害者の中でも軽度のものだったり、聾学校ではなく普通学校に通っていた人や中途失聴者は日本語の会話(口話)の補助としてこれを使う人が多い(と思う)。

ただし、この二つはきれいに分かれているわけではない。二つが混ざり合うこともある。

けれど、この二つは対立関係のような部分もある。Aの日本手話の話者によってはBの日本対応手話はまがい物である!という人もいる。

これを巡ってはかなり論争があるというかめんどくさい感じに聴覚障害者の中(聾者難聴中途失聴)で内ゲバっちゃってる。ここでは書かないけど。

とにかく、大事なことは手話の中でも日本手話というのは独立した言語であるということである

そして、言語があればそれに対応する文化がある。

私は言語学文化人類学もまったく勉強したことはないが、言語というのは文化と密接な結びつきがあるというのは間違いないだろう。

そして、上に挙げたAの日本手話という言語は「ろう文化」というもの形成する。そしてそのような文化圏にいる人は自らを「聾者」と名乗る。

逆にそうした文化圏に入らないような聴覚障害者を「難聴者」と呼ぶ、あるいは自称することがある。

(「聾者」「難聴者」の定義不安定で人によっては違うのだけれど、とにかくここではこのように理解しておく)

それでは、この「ろう文化」と聾者はこれまでの歴史においてどのように扱われてきたか

結論からいうとひどいものだった。マイノリティとして抑圧されてきた。

特に酷い例でいえば、彼らは日本手話という自らの言語を奪われることもあったのである

かいところはここに載っているが、(http://www.d-b.ne.jp/d-angels/sub4-3.html

日本社会において日本手話は役にたたない、要らないということで聾学校手話禁止され、口話(残存張力と唇の読み取りで頑張るだけ)を強制されたのである

その結果、上手に喋ることができるようになり、聞こえるようになった聴覚障害者がたくさん出てきたかというとそうではない。良い効果はあまり得られなかったのである

それどころか、生徒は学校で自らの言語をつかうことを禁止されたことに苦しむことになる。

手話を使えば手っ取り早く友達と楽しく会話ができるのに、不慣れで不自由口話強制される…。

手話を使えるのは、登下校等、学校外の時間だけ…。

手話を使ってしまうと、先生から厳しく叱られる…。

これは聾者と「ろう文化」に対する抑圧である

そしてこの抑圧は当時の生徒に大きな悲しみと怒りを植え付けることになる。

このことは「ろう文化」の名誉を著しく傷つけることになる。

そして、この抑圧が彼らを固く結束させる。自らの誇りある言語日本手話を守ろうと。

もうおわかりになると思うが、このような歴史の中でマイノリティとして抑圧されてきた事実に対する憤り、それこそが手話言語法制運動の原点である

いまいちからないなら例を考えてみよう。例えば日本語禁止されたとしたら。

敗戦直後にGHQ学校で「ジャパニーズ言語としてダメ!これからは君たちはイングリッシュをしゃべるんだ!ジャパニーズ禁止!」とか教える。

そんな感じだろうか。だいぶちがう気もするけれど。まぁ、でもすごく不快だよね。

日本手話マイノリティだったという点で日本語とは異なるので不適切な例だろうと思う。)

そんなことが実現したとは思えないけれど、とにかく大事なのは自分たち言語が奪われるというのはその言語文化に属する人間アイデンティティにとっては大いなる損失になるということである

ゲームでも「人は、国に住むのではない。国語に住むのだ。『国語』こそが、我々の『祖国』だ。」なんて言葉が出てきたしね(ルーマニアかどっかの思想家言葉らしいけれど)。

手話言語条例・法というのはそうしたろう文化に属するものアイデンティティ名誉の復活を意味するものでもある。

からこそ、手話言語として認めてもらうこと、それ自体に大きな意義があるのである

しかし、それが正しく伝わっているかというと微妙である

まず、手話言語条例の「手話」というのが何を指すのかという点で微妙である

例外はあるけれど、基本的にどこの条例手話というものがAの日本手話だと明記していない。

これは各自治体が二つの違いを理解していないということではない。

つの違いを理解した上でBの日本対応手話を使う難聴者に配慮しているという形になっている。

上にも書いたけれど、この二つは対立関係にあってものすごくこじれている。

から、片方だけを優遇してしまわないようにするという形にしている。

ちなみに、例外としては、埼玉県朝霞市の「日本手話言語条例」で、こちらは日本手話と明記している

https://www.city.asaka.lg.jp/uploaded/attachment/29886.pdfpdf注意)

『第2条 この条例において「日本手話」とは、手、指、体、顔の部位等の動きにより文法表現し、日本語とは異なる文法体系を有する言語のことをいう。』

という風に定義している。

しかし、こういった条例というのは、私の知る限りここしかない。

もっといえば、聴覚障害者自身でさえどうして手話言語条例を制定しようとするのか、そこの目的が人によってぶれている。

実をいうと、聴覚障害者の中で日本手話を使うろう文化圏に属する人間は少ない。多くは難聴者と呼ばれる人間だと言われている。

当然だが、こうした人たちは手話言語条例を「生活がよくなればいいな」ぐらいにしか捉えていない。

そして、聾者の中でも若い人は上述した日本手話歴史に疎い人も多いので、中にはも「生活がよくなればいいな」くらいにしか捉えていない人もいる。

もちろん、それが悪いわけではない。ただ、本来目的からずれ始めているのだ。

そして、結局のところ、世間(聞こえるひとたち)での受け取られ方というのはつまりだいたいこんな感じだ。

手話言語条例?これで聴覚障害者たちの生活がよくなればいいね!」とかそんな感じである

この受け取り方がまずいとは思わない、思わないけれど少し浅いというか、これでいいのだろうか。

聴覚障害者について知る機会もあまりないのだから仕方ないだろうとは思う。けれどもやっとするところである

というわけで、長くなったけれど手話言語条例・法について書いてみた。

何かの参考になればいいかな。

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