はてなキーワード: サイドとは
株式会社ウェブマネーはwebmoney.co.jp、webmoney.jp、webmoney.ne.jpといったドメインを使用している。webmoney.jpでチャージの手続きをした後、他のサイトからウェブマネーを使おうとしたら、ログイン画面のドメインがwebmoney.ne.jpだった。
その時は複数のドメインを使っている事を知らなかったのでフィッシングかと思って、証明書を確認するなど余計な手間がかかったし、何より不安で仕方なかった。
だから、ドメインを統一すればいいのに、と思って下のメールを送ってやった。
御社ではドメイン名としてwebmoney.co.jpやwebmoney.jpも使用しているようですが、
ログイン画面のドメインがwebmoney.ne.jpになっている場合があります。
どれか一つに統一することはできないのでしょうか。
そうしたら、「ドメインを一つに統合する予定はございません。」という返事が返ってきた。
こっちは統合する予定の有無を聞いているんじゃない。ユーザが混乱しますよ、統一した方がいいですよ、と教えてやったのに。
思うに、株式会社ウェブマネーのサポートセンターは、ユーザのフィードバックを開発サイドへ伝えるインセンティブがないか、マイナスなのではないだろうか。つまり、ユーザに「混乱とか、知らねーよ。変える気ないからこのまま使えよ。」と返事をするのは楽で、開発やマネージメントに「ドメインが複数あることで混乱するというユーザがおり、改善の余地があります。」と報告するのは苦痛なのではないか。フィードバックが有効だと判断されたときは、サポートセンターの担当にもポイントを与えるシステムがあればいいのだが。
ウェブマネーのサポートセンターの返答が気に入らなかったので書いてみた。後悔というか、どうでもよくなってきたけど公開する。
小沢秘書の起訴で今回のどたばたも一つターニングポイントを迎えた。
だいたいの見立てはこの人と同じ
http://anond.hatelabo.jp/20090324094857
検察の一部が暴走したというのが、大方の見方。
しかし「野党」の党首を挙げて一体何がしたかったのか。
はじめに騒がれた陰謀論をその後の動きと合わせてまとめると
時々「どんな風にプレイしたらそんな事が分かるんだ?」と思いたくなるような情報(しかもガセではなく正確)が載ってたりするんだけど、あれってやっぱり開発サイドの人がこっそり書き込んでたりするんだろうか。それとも実は海外のどこかでおおっぴらに公式発表されていて、それが回り回ってコピペされてるだけなのか。
たとえばPS3用ソフトで神ゲーと賞賛する声もある「アンチャーテッド」。
このソフトは、特定条件(特定の武器で敵をxx人連続で倒す、など)クリア事に「報酬」と呼ばれるポイントが加算され、それが増えていくといろいろなボーナスが得られるシステムなのだが、その中に「赤いTシャツ」という項目がある。これを達成すると、主人公の着ているシャツのデザインが変わるというもの。
その条件が「ゲーム中、ポーズメニューから「ボーナス」→「報酬」→「主人公」を選択し、←・→・↓・↑・△・ R1・ L1・ □の順に入力する」というもの。
こんな条件って、最初から知ってる人しか達成しようが無いよね?
もしそれがなく迂回献金そのものが本丸だった場合、官邸主導の国策か検察主導の青年将校状態かはともかく何らかの政治的意図で小沢をツブしに掛かったということが否定し難くなるわけで、検察としてはそういうのは絶対避けたいはずだから、仮に証拠がろくに集まらず起訴まで行けない無理筋になりそうでも腹括ってあっせん利得で秘書引っ張ると思ってたんだがなぁ。
秘書の起訴はおそらく免れないだろうし、こんな微妙な時期にわざわざ動く以上は検察も相当な準備と覚悟をしているとは俺も思う。なので3番目「秘書があっせん利得で再逮捕」が一番無難な落としどころなんだろう。
しかしそうなると小沢サイドは、秘書が小沢の地元で小沢の名前を笠に着て好き放題やっていたのを小沢当人が知らなかったと言い張らざるを得ないわけで、小沢の監督能力(笑)だの任命責任(笑)だの説明責任(笑)だのが火を噴いて結局代表辞任(と政治生命終了)が不可避な状況に変わりは無いよね。
先日「腐女子をめぐる状況」をまとめてみた。
「お前の主観ばかり書くな」と怒られたら泣こうと思っていたら、反応自体が薄かったので安心した。
読まれるか分からないけど、ブコメに幾つか返しておく。
mkd5 mkd5 オタク ヒロインに対して「頬を染めた」のでもアウトなのかなあ/最近流行りの「おとこの娘」もホモ死ねって言われてるんだろうか 2009/03/18
やっぱり男だったから「キモイ」となった気がする…、どうかな。
「おとこの娘」近辺はよく知らないけど、女性オタ向け動画の中で「ショタ系」は男性からの視線が甘い印象。
明らかに女性オタが女性向けに作ったもの(やおい・BL的な意味ではなく。ややこしい)にも、男性からの好意的なコメントが結構ついているのを見かけた。
女性による男性なりきりコメントの可能性はあるが、少なくとも今や男性オタによるショタ消費はやおい・BL消費に比べれば割と「アリ」な感じじゃない?
男性のBL消費が今後、もし広まることがあるとしたらショタ系が鍵かも。
natukusa natukusa 最後のコメントは「腐文化の知識はあるが嫌悪している男性」からのものである可能性があるよーな/同性もしくは同類からのものだと判断した根拠が欲しい 2009/03/18
申し訳ない、ちょっとよく意味が取れない。
特別「同性もしくは同類から」と限定したつもりはなかったよ。
(そういうふうにとれる文章を書いてたら重ねて申し訳ない)
というか男でも女でもどの立場の誰があのコメントしてようと、言いたい事は変わらなくて「頬を染めた男性キャラ単体の画像」に反応するなら、それは「BL表現がキモイ」「腐文化がキモイ」ではなくて、女オタクの欲望そのものへの嫌悪なのかなと。
「男も見てるアニメのキャラを、勝手に一部の女共が自分らのモノみたいに扱うのキモイ」
「男を可愛いvとかいってキャーキャー騒ぐ女を思い浮かべるとキモイ」
っていう感覚を持って批判してるんではないかと感じたと言いたかった。
nodada nodada 腐男子ってわりと堂々としている気がする(イメージ。根拠無し)<www でもクィア(ゲイバイ等)としてバレるリスクも考えると個人差大きいかも。腐抑圧への批評は未だに弱弱しいと思う。 2009/03/19
腐男子には腐女子とは違う抑圧があるだろうなーとはぼんやり思っている。
関係ないけど男女区別しないやおい・BL愛好者の呼称ってないのかな。
「腐抑圧への批評」…私みたいなバカにも読めつつガツンとしたのが読みたいなー。
前エントリをまとめたのも「腐女子がおかれてる状況って変じゃね?」と自分が感じたからで。
ただ感じてることが上手く言葉にならないので「とりあえずまとめてみた、という感じ」にしかならなかったな。
自分の中にもある「差別の構造」をちょっとでも自覚して変えていけたらと思ったんだけど、その先が出てこない。
圧倒的な腐女子の絶望の前に、安直な事が言えないという気もするしな…
ちなみに私の立場は「男女カプ派」とでも分類されるであろう女オタ。
今でこそやおい・BLに特別不快感を持つ事もないが、昔はかなりやおいに苦手意識があった。
私の当時いたジャンルは殆どがやおい派で、男女ものやってる人はほんとにほんとにほんとに少なかった。
やおいに萌えられない自分に後ろめたさっていうか、取り残されてるというか、輪に入れない感がすごくあった。
「男女カップリングの方が、原作に準じてて正統派なはず(?)なのに、何で腐女子たちの方が多数派でえらそう(?)なんだ!ウゼェ!」とか、自分だって妄想全開で似たようなもんなくせにね、思ってたよ。
「私の好きな男性キャラを勝手に汚された!」とかも、多分思った事があった(若かったんですよ…)。
今はそうは思わない。
変化の理由を説明するのにも時間がかかるから、書かないけど。
もし誰か腐女子が一人でも「腐は叩かれても仕方ない」と感じてるとしたら、それはちがうよーと言いたい。
そんな内面化では自分と自分の好きなものを守れないよ、何か違う方法を探そうよーと言いたい。
隠れるのも方法だけど、それは方法の一つに過ぎないし、それに捕われ過ぎなくてもいい筈よーと言いたい。
「やおいなんかキモイ!」って思ってた事を、偏見だったな〜って思い直す人もいるよって言いたい。
でもなんか、そういうのも腐サイドからしたら基本的にいい迷惑っていうか、「何にも分かってねーくせに」「こっち側の人間になりきれねーなら黙ってろ」と思われそうな感じもあって、だから決して「腐女子のため」に前エントリをまとめたわけでも何でもなく、単に自分のもやもやを「なんか変だ」を表現したいだけだったんだがまとまらんので寝るわー。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090316-00000006-ykf-ent
麻生太郎首相は15日、NHK番組「総理にきく」に出演、ゲスト出演した演出家のテリー伊藤氏のするどい突っこみにタジタジとなる場面がみられた。「普通、『総理にきく』は無難な質疑で終わるケースが多い。あそこまで突っ込んだやり取りをするのは異例だ」(ベテラン議員)という声もあがっているが、いったいなぜなのか。
[フォト]ツッコミにタジタジ? NHK「総理にきく」の本番直前の様子
テリー氏は首相就任以来しばしば指摘されてきた漢字の読み間違いについて、「しゃべりの脇が甘い」と突っ込み、「一国のトップなのだから、事前に振り仮名でも振っておけばいい」とアドバイス。首相は「ぱっと見るものだから間違える。もう少し原稿に目を落とすようにしないといかんというのは反省としてある」と殊勝顔で反省するそぶりを見せた。
さらにテリー氏が「秋葉原で人気があって、実際首相になったら『まさかこんなに支持率が下がるとは』という本音はないか」と直球で切り込むと、首相は「あんまり子供の時から好かれる性格じゃありませんでしたから」と自虐気味に笑いを誘った。
衆院解散・総選挙の時期についても「しゃべってください」と迫られ、「テリーさんに乗せられないようにしないといかん。(景気対策などもあり)今の段階で5、6月と言える状況ではない」と、夏以降とも受け取れる発言を行った。
政治部記者の質問には逆質問で応戦し、記者を困惑させることもあった首相だが、この日はテリー氏の質問や叱責にも真面目に対応していた。
テリー氏起用の理由についてNHKは報道各社に、「各局の番組に出演、視聴者の関心の高いテーマについて積極的に発言しているため」と説明、官邸サイドは「『首相の持ち味を引き出せる人物』という観点からテリー氏が選ばれた」(政府筋)と話している。
実際に見てたけど、この記事のタイトルを読んで「え、また別の番組に出てたの!?」と素で思ってしまった。明らかにタイトルがおかしい。
読売が全文を載せてるけど、
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090315-OYT1T00666.htm
――(テリー氏)総理大臣はその国で一番優秀な営業マンじゃないといけないと思う。麻生さん、5回の外遊で6億円ぐらい使っている。それだけのコストパフォーマンスどうなってんだと思うが。
首相 今、似たような質問は国会でも出ましたんで。少なくとも例えば去年の11月、G7をG20にしてワシントンで緊急金融サミットをやったが、あとストロスカーンというIMF、国際金融機関の事務局長(専務理事)をやっている人は日本だけを名指しで、日本のおかげで今回の金融危機が、ということを宣言文で言い、そして感謝状を日本に出すというようなことは、新聞に言っても載ることはない、残念ながら。事実ですよ、これ。事実だが、載ることはありませんから。
本業がテレビ屋のくせに、この件を完全に無視して次の話題に逃げるテリーの腰抜けっぷり。「結果を出してもお前ら報道しねーだろ」って遠回しに言われてるってのに。
――(テリー氏)メタンハイドレートってご存じですよね。日本の近海にある地下資源だが、石油に変わる第3の二酸化炭素も少ないエネルギーだと思うが、定額給付金の2兆円を本当だったらこっち側に使ってほしかった。
この記事を書いた記者の配慮か何か知らんけど、実際の放送でテリーは「メタンハイドレート」を「メタンハイドロイド(ト?)」と何度も言い間違えてたんだよね(麻生は正確に言ってた)。それでいて漢字の読み間違いがどうたらと「意見」をのたまうんだから笑えてくる。
ま、所詮はタブロイド紙って事か。
http://d.hatena.ne.jp/wiseler/20090303/p1
主張:
・マジコン販売禁止では不正コピーはなくなるどころか,より被害は悪化する
・ゲーム業界は「断固たる禁止」ではなく,異なった道を模索すべきである
背景:
・マジコンとは
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%de%a5%b8%a5%b3%a5%f3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%82%B3%E3%83%B3
平たく言えば,ゲームソフトの不正コピーや,不正コピーしたゲームをプレイすることを可能にするもの
・カジュアルコピーの氾濫
各種雑誌での紹介,口コミなどにより,「タダでゲームが遊べる機械」として一般的に認知され普及
誰でも簡単にマジコンを入手でき,容易に不正コピーされたゲームを取得できた
特に必要となる専門知識が無かったのが普及の最大要因であると考えられる
・法的手段によるマジコン禁止措置
最近では,販売前から任天堂正規のゲームが不正に流通するなど,売上げに深刻な打撃を与えかねないところまできている
それを見かねた任天堂やスクウェアエニックスなどゲーム業界各種は共同で,
マジコンを輸入・販売する業者に輸入販売の差止めを求めて東京地裁に提訴,販売差し止めの判決がなされた
http://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2008/080729.html
「ゲーム・プログラムの複製物が、起動可能となるため、(略)極めて大きな損害を被っており」
と示しており,少なくともこの文章から素直にその目的を受け取ると,
マジコンが普及することにより,ゲーム全般の売り上げが損なわれることを阻止したい
ということになる.
では,なぜその手段として,「マジコンの販売差し止め」を選んだのか
結論から言えば,「一番コスト対効果が見込めるから」だと私は考えている
売り上げ被害阻止の方法はいくつか考えられるだろう
・アップロードしているユーザを著作権侵害で訴えるなどして辞めさせる
など
おそらくこれらも並行して行っていくつもりであろうが,
まずは,マジコンの普及を止めることが最も効率がよいと考えたのだと思う
大半の人は技術を持たない.パッケージ化されたもの=マジコンと不正コピーが用意されて初めてその技術を用いることができる.
マジコンしか方法を知らない人にとっては,マジコンが入手できない=不正にプレイすることができない,になるからだ
しかしながら,これでめでたしめでたしとはならず,まだ問題は残りつづける
なぜなら,ゲームの不正コピー自体はこれからも存在し続けるからだ
既製品としてのマジコンを奪われたとしても「タダで遊べる」という魅力がある限り
他の方法(エミュレーション,自作マジコン,闇ルートからのマジコン取得)で不正コピーゲームを遊ぶ人はいるだろう
2 それでもマジコン(エミュレーションソフト,マジコン設計図?)を作り,売る人がいる
リーガルリスクがあろうとも,1のような人を対象とした儲けがある限り,闇ルートを確立して売る人は残る
3 だからこそ不正コピーを作成する人がいる
1,2のような不正コピーが求められる環境が整うからこそ,不正コピーは残り,増え続ける
これらの問題は,ハードウェアの改良や法的処置などで改善されることはあっても,
リバースエンジニアリングや不正利用者とのいたちごっこであり,根本の解決はない
結局のところ,ゲームを不正にコピーする輩がいる限り,完全にこの問題を解決することはできない
さらに悪いことを言えば,その被害が確認できないという状況に陥る可能性がある
今までは,マジコン大手が一般のお店でマジコンを販売することが許されていたので,良くも悪くもその状況は理解しやすかったが
闇ルートが横行すると,大手が出所を隠蔽し,出回っている数や性能などが把握できなくなってしまう
そのため,ハードウェアの改良,法的処置というパッチすら当てられない状況になりうる
といって手をこまねくわけにもいかないので,異なる解決策を模索してみよう
先ほどのハードウェア改良などは,いわば強硬策である
この方法ではよほどの画期的な改善が無い限り,いたちごっこに陥る.
では,逆にもっと柔軟な策はないだろうか
先ほどの理由1,2をもう一度見てみよう
なぜ不正なことをしてまで遊びたいかといえば,「タダ」だからである
2 それでもマジコン(エミュレーションソフト,マジコン設計図?)を作り,売る人がいる
1のタダで遊びたい,という心理につけこめるから,儲けることができるのである
強硬策は,マジコン販売禁止などの方策で,無理やり両者を切り離そうとするものである
そうではなく,1にとって魅力的な,代替を示すことで,両者の関係を解消できないか
完璧な技術・法的根拠によって,違反者0となる仕組みを作るのではなく
ある程度ととのった仕組みを作ることで,違反するためにはちょっと手間暇をかけないといけなくして
メリットがあまり感じられなくすることで,ゲーム業界が儲けを確保できる程度に違反者を減らせればいいのではないか
かなり突拍子の無いことを提起しているようだが,順を追って説明する
これが可能な限りやすくなればよく,究極的にはタダになれば最高である
さて一般論として,ものを安くするには,中間のマージンを減らすことがよいことは周知の事実だろう
では,ゲームソフトにおいてそれを実現するにはどうすればよいか
単純に考えれば,メモリーなどの物理的なモノを売るのではなく,デジタルデータのみを,直接販売するのがもっともよいだろう
そこで,ゲーム会社と購入者との購入契約を,任天堂公式のマジコンが承認するという形を取るのはどうだろうか
この契約はDRMのように(例えば)任天堂において一括管理されており,正式利用者にはサービスを提供し,
不正利用者を発見した場合には,ゲームができなくなるなどの処置を施すようにする.
ゲーム業界としては売り上げ動向の把握も容易になり,開発計画も立てやすくなり,ゲーム価格は適正なものになると考えられる
参考までに,同様の取り組みをPCで行っているSteamを紹介させていただく
http://ja.wikipedia.org/wiki/Steam
物理的なものにこだわらない仕組みであれば,体験版も可能であるし,
MMOなどで取られているような,基本無料,拡張課金という提供も可能である.
場合によっては,広告などをうまく活用して無料のゲームも提供できるかもしれない.
あるいは,知り合い間ではゲームデータのコピーを許容してお試し期間内にはタダで遊べる,などできるかもしれない.
ある程度の(ゲーム業界に利益がもたらされるような)制約をもうけながらも提供すること である.
さて,以上が私の主張であるが,ここでは視点を変えて,公式マジコンを用いたアマチュア開発の可能性を示唆する
PCにおいては,ゲーム会社が作成するようなプロのゲームのほかに,一般者が必ずしも営利目的としないアマチュアのゲーム開発がされてきた.
その出来は様々であり,ものによってはプロにも匹敵するようなゲームもあり,ときに,ゲーム会社から正式に販売されることもあるほどである.
これらアマチュアによるゲーム開発は,プロによる「完成度」が求められるゲーム開発のオルタナティブとして重要な役割を果たしており,
荒削りではあるが,未知の可能性を秘めた原石がそこには確かに存在する.
専用ハードで展開されているゲームにおいても,このアマチュア開発の「可能性」を取り込むことはデメリットにはならないはずである.
しかしながら,現状の,非正規なマジコンによるアマチュア開発では,この可能性の発見,原石の掘り出しは難しい.
これら開発は正式に許可されたものではないため,ひそかにやらざるをえず,日の光を得ないからである.
その上,マジコンが販売禁止になったので,これからさらに闇ルートへと隠されていくわけである.
そこで,公式マジコンによる,正式なアマチュア開発への門戸開放である.
門戸開放とは,公式マジコンという技術提供だけではない.一般利用者への開発物提供の場を与えることも含めたものである.
ただし,アマチュアによるゲームをプロによるゲームと同等に売り出すことは意図していないことを注意されたい.
アマチュアが勝手にゲームを販売し始めたら,いわゆるアタリショックなどで知られるようなゲーム自体の質の低下を招きかねない
無法地帯を作るのではなく,ゲーム業界が管理可能な範囲で自由に作ってもらうようにする.
敢えて誤解を恐れず言うと,ニコニコ動画などのような,
アマチュアが作り出したものだと一般利用者が理解してくれることを前提としたアマチュア特区である.
作り出されたものの中から,特に優秀で可能性のあるものに対しては,正規ルートによる販売を促進するのだ.
最後にまとめると,必ずしも法的根拠による厳しい措置は,すべての解決の道とはならず,負の連鎖に陥る可能性がある.
任天堂その他ゲーム開発会社には,より柔軟なシステムづくりによって,利用者にとっても,開発者にとっても利益がもたらされるよう努力を望む.
その可能性として,じゃあ思い切って公式マジコンもありじゃね?と思った次第です.
id:wiselerの日記 http://d.hatena.ne.jp/wiseler/20090303/p1 を見て,伝えたいと思われる意図を自分なりに代弁してみた.
議論の練習ということで,必ずしも私本人がこのようなことを強く切望しているわけではないので誤解しないでもらいたい.
あくまで別の視点として,本論には一切登場させずに論じることで,議論の軸をぶらさないようにしたつもりである.
また,余計な,自分が知りえる知識を出すのではなく,必要性が無い場合は論じなかった.
マジコンの歴史,詳しい仕組みは説明するだけ長文になり,理解の妨げになる.
原文が文章構成として一貫性が欠けるものとなっているのは,主観による言葉を多用しているのに,その主観がいちいちぶれるからである.
具体的には,
「アマチュア開発者にとっての死刑宣告」「アマチュア開発者の封じ込め」
消費者視点
「任天堂にとって良いこと尽くめ→我々消費者が任天堂のような企業利益の視点で考えなければならないのかはなはだ疑問」
主観で書くなら,自分の立場を(少なくともその文単位における主観を)はっきりさせた上で,その主観からぶれないこと.
いろいろな利害をめぐる話を書くなら,客観性をもった言葉に徹すべき.
結局,言いたいことがわからない.
はっきり言わせて貰うが,これは議論云々以前の問題である.
いずれかの立場から,何が問題であると感じており,結論として何を言いたいのか.
「私はマジコンがなくなると,利用者はタダでゲームが出来なくなるので困ると思います.」
あまりに幼稚な主張だが,これは何が言いたいのか明確である.議論も可能だろう.
発言のよしあしではなく,この域にすら達していないことが問題なのだ.
であり,
ので,ご留意を.
ただ,せっかくのコメントですので回答をば,させていただきます.
枠組みとしてはご指摘通り,同じだと思います.
正直に言えば,私もその点を元ネタに対して突っ込みたいくらいです.
とにかく自分で言える範囲の主張としては,もっとオープンにしてみるということです.
質云々はそんな気がしますが,まったくオープンに展開してない状態で,所詮アマチュアは・・・って言えないはずですよね?ってことですね.
少なくとも現状のDSでは,まともなゲームは一律数千円かかるのが現状です.
数百円程度のお手軽価格で簡素なゲームなら,わざわざ違反してまで手に入れなくなると思います.
(DSiはアプリ購入があるとかないとか 時代は変わったと思いますが)
今までの歴史上,オフィシャル以外でまともなのがない,というのはごもっとも.
ただ,繰り返しになって恐縮ですけど,公開の場が無かったのは一つの要因じゃないでしょうか.
近年の利用者が,「モノ」に対する価値を失いつつあるのは,このデジタル社会での宿命でしょうね.
じゃあどうやって,ゲームメーカーは生き残っていくのか.その答えが,
おっしゃるとおりのサービスへの対価を払うというシステムへの移行なのだと私も思います.
exactly そのとおりだと思いますよ.
それを元ネタに対するブックマークでは,「不正コピー撲滅の第一歩」と表現された方がいたのではないかと思います.
(元ネタ側はそうではないと再反論していますが・・・)
ただ,元ネタ側をフォロー?すると,訴訟のときのゲームメーカーのコメントには,法的処置をさらにとっていく,という
強硬な態度を見せていますので,本文のような指摘をさせていただいた,という体です.
マジコン業者はともかくとして,利用者にとってもゲームメーカーにとっても,もうちょっと平和的な解決はないのでしょうかね
長文ゴメンナサイ&目的の書物じゃなかったかもしれませんね.
ぶっちゃけていえば,「以上,本題」以下が本題のつもりの文章です.
メリットデメリットというのは,メーカーサイドがわざわざアマチュアに門戸を開けることについてでしょうかね.
ここも敢えて誤解を恐れず言えば,ニコニコ動画を経営するニワンゴにおけるメリットデメリットと似たようなものだと思います.
敢えて大手任天堂が危険を顧みないで行うほどのイノベーションではないという話であればそのとおり.
ですが,それは人それぞれの考え方ですので,ね.
大体合ってる
綱領なき「選挙集団」 政策は二の次?
昨年10月下旬、民主党の若手衆院議員、長島昭久は国会内の廊下で同党政調会長、直嶋正行に詰め寄られた。
「あれはどういう意味なんだ」。数日前、長島は衆院テロ防止特別委員会でソマリア沖の海賊対策で海上自衛隊艦艇による民間商船の護衛を首相、麻生太郎に提案していた。自衛隊の海外派遣につながることを懸念する直嶋が、長島に真意をただしたのだ。
長島は、安全保障はじめ国家の根幹にかかわる基本政策で路線が異なる国会議員と同居する同党の実態を思い知らされた。
「長島案」にとびついた政府・与党はトンビが油揚げをさらうごとく、ソマリア沖への海自派遣をとんとん拍子で決めた。
民主党は平成8年に旧社会党と旧新党さきがけの一部が合流して産声を上げた。10年には民政党、民主改革連合などと合流し、15年に代表、小沢一郎率いる自由党と合併した。しかし、党の追求すべき理念や目標を明記した基本文書たる「綱領」をまとめたことがない。
10年の合流直前に当時の民主党の枝野幸男、民政党の岡田克也、新党友愛の川端達夫ら政策担当者が合併に向け基本政策の調整を行ったときのことだ。「綱領をつくるのはやめよう」と切り出した枝野に異論は出なかった。結局、「最低限の共通項」(同党関係者)を確認する「基本理念」を作成するにとどめられた。
もともと結党の原点は、自民党に対抗する二大政党の一角となるための「プロジェクト政党」だった。このため、民主党はいまも憲法や教育、安保、外交など足並みのそろわない基本政策は事実上、棚上げにされてしまっているのだ。
政権を担う政党として、あるべき国家像をどう描いているのか-。最後のとりでの基本理念でも「地球社会の一員として、自立と強制の友愛精神に基づいた国際関係を確立し、信頼される国をめざす」と書かれているだけだ。
党中堅はこう言う。「原則を言い始めるとバラバラになる。理念で集まっているわけではなく、何が何だか分からない政党だ。綱領なんかない方がいい」
綱領なき政党のひずみは、個別政策の一貫性のなさに如実に表れている。
終身刑創設、永住外国人への地方参政権の付与、人権侵害救済機関の創設…。民主党の基本政策を網羅した「政策INDEX2008」について党内の保守系議員から「第2社会党とみまがうような政策が並んでいる」という批判も聞こえてくる。
小沢の変化も激しい。小沢は平成5年に上梓(じょうし)した自著『日本改造計画』には、規制緩和や自己責任、「小さな政府」を志向する政策を打ち出し、少子高齢化の到来に備え、消費税率を10%に引き上げ社会保障費に充てるべきだと訴えていた。
ところが小沢はいま、「国民の生活が第一」と唱え、消費税率の「現行5%の維持」や「子ども手当」と農業者戸別所得補償制度の創設など社会的弱者に配慮する政策を掲げる。かつての持論は吹っ飛び、「バラマキ」路線をひた走っている。内政だけではない。
「第2次大戦において歴史、民族、言語、文化などまったく異にする2つの国が死力を尽くして戦い、戦いが終わると太い絆(きずな)で結ばれた。その太い絆が日米安保条約だ」
日米同盟について『日本改造計画』でこう力説していた小沢は、米国が主導するテロとの戦いに背を向け、「米国の極東での存在は米海軍第7艦隊だけで十分だ」とまで言い放った。
11年に小沢が党首を務めていた自由党が自民党との連立を組む際にも、小沢の変化を象徴する出来事があった。関係者によると、自民党サイドが事前に「自由党の安保政策はのめない」と小沢に通告したら、小沢は「いいよ」とあっさり受け入れたという。
新進党時代に小沢と一緒に行動をともにした自民党閣僚経験者はこう振り返る。「小沢の口癖は『公約は膏薬(こうやく)。張り替えれば効き目がでる』だった」。友党の国民新党代表代行、亀井静香も「小沢にとって政策はアメのごとしだ」と指摘する。
「民主党は政党ではなく『選挙集団』。小沢にとって政策は二の次だろう。100年に1度といわれる世界不況の中で、このまま政権交代となれば国民は小沢に白紙委任状を渡すようなものかもしれない」
※2chの基盤検証スレより転載。古い順。基本的に新しい物ほど故障率が低いと推測されている。
コードネーム (読み方) | 概要 |
---|---|
Xenon (ゼノン) | 初期型(本体裏16.5A表記) |
Xenon (ゼノン) | 中期型 HDDサイドのメッキ処理の省略・底面や上部、コントローラー灰色部ラメ処理の廃止 |
Xenon (ゼノン) | 後期型 GPUヒートシンク追加+CPU/GPUチップがはんだ以外でも固定化 |
Opus (オーパス) | Xenon修理専用、HDMI端子が無い事以外はFalconに準じた内容 |
Zephyr (ゼファー) | HDMI端子追加+GPUヒートシンク追加 |
Falcon (ファルコン) | 初期型 CPUが65nmに変更(本体裏14.2A表記)+ACアダプタが175Wに(ものによっては203Wもあり) |
Falcon (ファルコン) | 後期型 メモリチップ数半減+さらに消費電力減少 米で発売済みの60G版がこれ |
Jasper (ジャスパー) | GPUが65nmに変更(本体裏12.1A表記)+ACアダプタが150Wに(ものによっては175Wもあり)+アーケードのみ256MBのMU内蔵 |
Valhalla (ヴァルハラ) | 2010年以降? CPU・GPUともに45nmに変更・統合? |
スターオーシャン4発売 「綺麗なだけのRPGとは訳が違う!」
スターオーシャン4 Xbox360用「スターオーシャン4」【AA】が19日に発売になった。製品情報では『SF+ファンタジーの世界観。壮大な世界の起源となる物語』・『爽快感あふれるリアルタイムアクションバトル』などを謳っていて、ソフマップ本館では『スターオーシャンが好きすぎるスタッフが声を大にしてオススメする 綺麗なだけのRPGとは訳が違う!』とかだった。
秋葉原のゲームショップの店員が感じる「前世代機ソフトとの差異」というのが一般人にどの程度認識できるのかという問題もあるけど、それを差し引いてもSO4は「綺麗なだけのRPG」から脱しているとは言い難かった。
昨年同ハードで発売された「テイルズオブヴェスペリア」「インフィニットアンディスカバリー」「ラストレムナント」にも言える事だけれども、開発サイドの「RPGとはこういうものだ」という思想が旧態然としているように思えてならない。身も蓋もない言い方をすれば、グラフィックに妥協さえすればPS2でも作れそうなゲームばかりだった。
まあ、PS2時代に長く支持されてきただけに、そういった方向性自体を否定するつもりはないけれども、不振が続く日本国内での挽回を目指すタイトルとして適切だったかどうかは少々疑問符が残るラインナップだったように思う。こういう時こそ、他の競合ハード(Wii、PS3、そしてPS2)には絶対に真似できない!というような方向性のゲームを打ち出すべきだったんじゃないだろうか。
おそらく、固定ファンの多い人気シリーズの続編でコアな層を取り込む事をXBOX360の「仕切り直し」の第一歩となる予定だったんだろう。しかしそのコアな層そのものが、既にPS2的なアプローチで作られたゲームに飽きてしまっていたように思う。それと新規ハードを購入させるというハードルの高さが重なって、PS2時代の前作の半分以下にまで売り上げを落とす事になったのではないかと思う。
本体発売から3年4ヶ月ほどが経過しているXBOX360だが、その間に10万本以上売れたソフトはたったの10本しかない。ソフトラインナップや本体価格で不利なはずのPS3ですらその倍以上はある。Wiiはさらにその倍近い40本弱。
特にこれら4本のRPG群は海外展開を強く意識したタイトルだったはずだが、しかし海外でもそれほど売れたというわけでも無い。1000万台以上普及している北米ですら日本の売り上げの2倍にも届いていない状態。
ここ1、2年でXBOX360に傾倒したメーカー側が「仕切り直し」を迫られるのは不可避だろう。これから参入を考えているメーカーにも重い意味を持つ数字になってくるような気がする。
http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733
を読んで、なかの人から見て考えたことをまとめてみます。
ちなみに私は地方国立大学の複合領域系(文系とも理系ともどちらとも言いにくい)の准教授です。今年は卒修論それぞれ数本ずつ指導しました。
退学届けを提出されたriywoさんお疲れ様。
一応の大学人としては退学なさったのは残念とも思いますが、むしろ他の学生と違う選択を積極的に行ったその勇気に敬意を表したいと思います。(余談ですが、お金払って来ているのに、教授会で承認されないと退学できない仕組みってヘンですよね。893や新興宗教じゃあるまいし。)
上記エントリに関連してコメントさせていただくと、大学人としては、大学が「学問」の府であるというのは絶対に譲りたくない主張です。しかし、その一方でほとんどの大学の目標の1つに、高度な職業人を輩出することが上げられていることから、就職予備校という役割があることは社会的に見て当然のことではないかと思っています。
もっとも、常々私はこの議論の前提がおかしいのではないかと思っています。その前提とは、「学問」というのは崇高なもので、民間でのお金儲けとは違う。というものではないかというもの。教員をしていると常々思いますが、本当の意味で社会から必要とされていない研究は研究とは呼べません。その意味で全ての学術研究は何らかの社会的意義があり、社会的なコスト負担を伴って推進されるべきものです。ただし、その性質上そのリターンの回収が困難なので税金を使って基礎研究をやる必要がある。つまり公共財的な性質を持っているというだけの話ではないかと最近思うようになりました。
その点では、大学の教員も立派な普通の職業であり、大学も1つの産業セクターであることは間違いないです。そのために、少なくとも自分が価値あると思っている研究を推進するために、世の中の大学教員は(自分のポストも含めて)必要な資源(金、人、もの)をかき集めて成果を出すために必死になっているのです。公的な資金を使う事が多いというだけで、本質的な構造はビジネスと変わってないのです。その意味では、博士課程は研究者のための職業予備校みたいなものです(余談1)。
そのように書くとまるで私が学問を貶めているかのように思うかもしれませんが、もちろん人類の利用できる知識、認識を増加させる学問という行為はかけがえのないもので、かつ人間にとって根源的な欲求であると思っています。そのおかげで貧困をはじめとした様々な社会的問題を解決してきたのが人間の歴史だと思っています。
しかし、その一方で、何が何でも学問こそが唯一の価値であり、その他の様々な産業セクターより優れているという考え方は私は持ちません。小売業も金融業もそれぞれ社会で固有の価値を持っています。それと同じようなレベルの産業セクターだと思っています。もっとも、このような認識を一般の大学人は認めにくいでしょう。それはどの産業セクターも同じだと思いますが、自分たちのやっていることは他と比較して特別な価値があると考えているものです。
その点で、大学人が研究を神聖視するのは当然です。ただし、やっかいなことに大学というのは、優秀な能力と意欲を持った若者層を教育する機関でもあるのです。当然、教育課程を通じてその若者たちに学問のすばらしさを説きます。そして、場合によっては学問のすばらしさをわかってない学生にも研究上必要な作業の協力を得たりすることも多いのですね。その背景には大学で優秀な研究者が大学以外の民間企業の環境を知らない事も遠因になっています。(余談ですが、就活指導をする教員が通常の就活をしたことがないような事例はいくらでもあります。)
それがしばしばいわゆるソルジャー問題として噴出したりします。もっとやっかいなのは多くの(特に理系の)研究室で、学生に対して教員の持つ権限が専制的だということです。教員の取り替え(研究室変更)もなかなかできない。人間同士なのだから、相性の悪いことも一定の割合で発生するとは思うんですが。そこで、様々な問題が発生する原因にもなります。特に、先生の指導に根本的に問題がある場合は、若者の有為な数年間が残念な期間に成り下がるリスクがあります。なので、特に大学院(研究室といった方が適切か)の選択は慎重に行って欲しいものです。
反面、学部から大学院への進学は極めて容易になってきています。成績がそこそこあれば、無試験で進学できる制度を採用している大学が多い。特に学生が研究に対する意識や、自分の人生についてのしっかりした考えを持てないまま、3年冬の就職か?進学か?という選択を迫られたときに、もう2年のモラトリアムを延長するつもりで進学する学生が後を絶ちません。これは不幸の始まりです。
しかし反面で教員にとって、進学してくれる学生は一緒に研究をすすめていく上で重要なパートナーです。場合によっては箱入り娘よろしく、専門分野以外の世間をあまり見せないようにする、一方で研究のすばらしさのみを説き続け、研究活動に全ての資源を投入するように誘導している教員も散見されます。特に理系では伝統的に就職活動に時間を取られないよう、大学(教授)推薦による就活を主体にしているところも多いのではないでしょうか?もちろん推薦にも一定のメリットはあるのですが、推薦先を決定する権限を持っている教員に(研究指導も含めて)過度に権力が集中しているのでは?という疑念を抱かずにはいられません。
個人的には、そのような権力が教員サイドに集中する環境にいる、(いわば「学問」という名の宗教的な組織にいる)学生が、もっと自発的に自分たちの人生や将来をよく考えた上で、大学のあり方について自ら対抗して欲しいような気持ちもあります。ですが、現状の学生の問題意識や行動様式を見るにそれは難しいことのような気もします。
それどころか、就活までの時間的猶予がある時期に、進路についてよく考えなさいと指導をしても、全く考えようとしない学生が多いのには困ります。(もちろん私個人の指導力不足も原因。)一例として、大学で勉強したこととその社会的な評価によって、生涯賃金ベースで数千万円は平気で変わってくると説明しているのですが、うまく伝わらないという問題を抱えています。結局のところ、適当に卒業すれば自分の人生何とかなると考えている節が見受けられるのですが。
http://d.hatena.ne.jp/next49/20090222/p2
先日上記のnext49さんのエントリに大量のブクマがつきました。
同業者として、next49さんぐらい学生のことを考えてくれる教員に指導される学生はいいな等と、興味深く眺めていたのですが、私の疑問はなぜ自分で考える事ができない学生を無理矢理にでも卒業させてやらなければならなかったのか、またそうさせてしまう深刻な大学の持つ雰囲気です。
自分自身そのような環境にいますから、卒業論文以外の単位と内定先をそろえた学生に卒論で不可をつけることがかなり難しいことは百も承知なのですが。自分で考える習慣を身につけられなかった学生にもっと考える時間を与えることが望ましいと思うのですが、今の日本の大学のもつ雰囲気としては、無理矢理にでも卒業させようというところが多いです。自分の大学ですとそうなった場合指導教員が内定先にお詫びの連絡を入れる風習があるそうです。なぜ教員がお詫び?というのは不思議で可笑しいです。(自分はまだやったことがないですが。)
この問題はかなり根が深くて、大学の最短修業年限にこだわる学生と「(留学などの特別な事情がないのに)留年する学生は要領が悪い?」と社会が見なしていることが問題のように感じています。ホントかどうかわかりませんが、留年生が増えると文科省の評価が下がるということを同僚から聞いたことがあります。学生の学ぶペースはそれぞれで、遅ければ遅いなりにしっかり本質を獲得する可能性もあるのに、とにかく画一的な年限で卒業させようとする雰囲気が強いのは困ります。
優秀な学生も、学習内容の獲得に時間がかかる学生も、外部から見たら区別がつかないのが今の大学の現状ではないでしょうか。(もちろん社会が大学で学ぶことにそもそも期待していない(と考えている)風習も遠因でしょう。でも本当にそうなら、卒論が未了で卒業できない学生でも企業に採用して欲しいものです。)その点では、それに限らず、様々なところで大学教育の画一性が現場で深刻な混乱を招いています。文科省の大学設置基準をはじめとした時代にそぐわない規制が未だに現場を支配しているのが現状です。もっとも、文科省の責任になすりつけるのは不本意で、大学のなかの人のマネジメントが成功しているとは言いにくいという点も付記しておかないと不公平でしょう。
ちなみに、博士課程進学者の就職難が問題になっていますが、個人的には研究者というのはリスクの高い商売で、小説家に近いような印象を持っています。小説家が作品のセールスに失敗しても誰も同情してくれませんが、博士課程に進学したのに満足に仕事もないと文句を言う人が多いのは、博士課程という高学歴が社会的成功と線形の関係を持つと考えている人が多いのでしょう。実際には研究テーマも自由に決められるのだし、そんな単純なものではないと思います。もっとも、一度終の棲家に就職してしまえばサラリーマンですが。
http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10214351577.html
http://blog.livedoor.jp/dokuringo777/archives/532824.html
金融危機で話題になった「投資銀行のトップたちの報酬が妥当なのか」どうかについて、触れられています。確かに、世の中には多くのお金を稼ぐ人がいます。でも、同じお金を稼いでいても、まわりに認めてもらえる人と、そうでない人がいるのは事実です。なぜでしょう?というのが、上記2つの記事に載っています。そして、自分もこの件に興味を持ったので、書きます。長いのでパソコンで読むとよいでしょう。もし事実と明らかに異なることを書いているようだったら、指摘してください。よろしく御願いします。
結論から言えば、今回話題になった投資銀行家たちの報酬は「三方よし」に合致していないんじゃないか、ということです。自分も金融が悪だとは全く思いませんが、「彼らは社会に対して、本当に報酬に見合ったこと(社会にプラスになること)をしているの???」とは考えます。民衆サイドの中には、ただの嫉妬や無知で金融による儲けを批判する人もいるでしょうが、そういう人たちだけの主張ならこんなに大きく取り上げられることは無いはずです。スポーツ新聞のコラムに載るくらいです。冷静に「金融で儲けるのもアリだよね」という多くの人たちまで「この報酬はどうなの?妥当なの?」と感じているからこその問題なのではないでしょうか。
ところで、「三方よし」というのは、「売り手よし、買い手よし、世間よし」のことです。これを社是にする会社もありますね。簡単に言うと、自己の利益のみを追求するのではなく、相手や社会にもプラスとなるような取引を心がけるという近江商人の心構えです。Win-Winの先駆けです。この考えに則って(のっとって)考えれば、同じ稼ぎでも「三方よし」に当てはまる稼ぎと当てはまらない稼ぎでは、相手や世間からの風当たりが違うわけです。今回の「巨額報酬に対する批判」は、このあたりに原因があるのではないかと思うわけです。
「世間」の解釈は様々ですが、今回は日本的な意味ではなく広義の「社会」とします。
批判が起きるということは、「三方よし」の言う「世間」の考えと、彼らの年収とに大きなギャップがあったということです。大きなギャップが生まれるパターンは、(1)彼らの年収は適正で、一般事業に携わるわれわれ民衆の作り出した「世間」が彼らを過小評価している。(2)彼らは何らかの倫理的に適さない方法で稼いでおり倫理的に正常な感覚を持った「世間」がそれに気づいた。 ・・・の2パターンです。今回の批判は、この2パターンが同時に発生したと考えてさしつかえないのでは、と思います。どちらか片方に完全に非がある/ない、とは言い切れないからです。
(1)に関して言えば、われわれは彼らの業務内容を完全には把握していない、というのが事実です。もちろん本当の意味で完全に把握できたりしたら、「あの会社はヤバい」「AとBは、今度合併するらしいよ」という情報も把握できるということなので、それはそれで社会が崩壊するでしょう。
ただ、大まかに言えば彼らの行っている仕事は(ア)銀行業務(イ)運用業務/証券業務 に大別されます。きっと(ア)(イ)の合わせ技のような業務もたくさんあるでしょう。そして、(ア)を充実させるために(イ)が必要だったり、またその逆も然りでしょう。(ア)も(イ)も、現代のほとんどの企業がお世話になるサービスです。彼らが尽力したからこそ資金調達できたり、うまく合併できたりするわけです。そうやって元気になった企業が、われわれに良いサービスや製品を提供してくれるのです。その資金調達力や、陣頭指揮の能力、ノウハウ、合併時の財政的なテクニックのみではなくパフォーマンスの良い職場環境を生み出すためのコツなども心得ているはずです。また、彼らがリスクをかぶって証券化して広めてくれないと、事業のためにお金が必要な人(企業)は資金調達に困ります。そんなこんなで、彼らはあまたの企業のライフラインを構築したり太くする仕事をしていて、しかも世界的に見てそのような業界のリーダーであるので、彼らの報酬は妥当だとも言えます。製造業と違って、直接の生産設備は不要ですし。ITインフラはすごいでしょうが。
ただ、彼らは自分たちの仕事について多くを語りません。仕事柄、語れません。今回の批判は、彼らの「世間」に対する油断にしろ、しょうがないにしろ「説明責任を果たしていない、説明できない」ところに原因があるとも考えられます。収入の根拠を可視化しきれていない。プロジェクトやその他仕事で彼らの良い仕事を直接見たことのある人からすれば、今の彼らは「悲哀のヒーロー」に見えるかもしれません。
(2)に関しての代表例は、多くの方がご存知のサブプライムローンです。他にも多くの金融商品が生み出されては、時代の波に消えて行きます。その時代の移り変わりすら、彼らは利ざやとして稼いだり、損したりするのですが。そのようなエピソードが紹介されているのが、この本です。金融に詳しくなくても、面白く読めます。よく想像されるような、すばらしい人格者で、頭脳明晰で、経済学や数学に長けていて、でもネジの外れた投資銀行家たちがたくさん出てきます。
『市場リスク 暴落は必然か』リチャード・ブックステーバー (著), 遠藤 真美 (翻訳)
『鋼の錬金術師』という漫画で生み出された(もしくは有名になった)言葉に「等価交換」という言葉があります。無から有は生まれない、水は石にならないなどのいわゆる世の原理原則をひとまとめにした言葉ですが、当たり前のことながら的を射ています。多くの人たちが、前述した「この報酬はどうなの?妥当なの?」という疑問を持つのは、先のサブプライム問題がこの等価交換を破るようなモデルに見えるからであり、事実、破綻したからです。言い方を変えれば、その疑念を直接証明できなくても「三方よし」のガイドラインに引っかかった。これが、稼ぎへの批判の源泉なのではないでしょうか。
バブルの教訓と同じく、常に価値の上がり続けるものは有りません。どんなに良くても、横ばいです。不動産だけでなく、金融商品も同じです。時間や物理の概念が有効である限り、原理原則を超えて稼ぐのは不可能です。ここで無理矢理稼ごうとするから、金融が批判されるのだと思います。金融そのものは、「人間」でないとなし得ない、高度で理性の問われる概念/枠組みなのですが。
以上、長く書きましたが、先の高額報酬批判の原因は、(1)が2割、(2)が8割かなと個人的には思います。秩序ある経済が復活し、様々な産業が息を吹き返す(もしくは生まれ変わる)ことを望みます。わかりやすかろうが、そうでなかろうが、本当に「三方よし」を実践して金を稼ぐ人や企業は大規模な批判には晒されません。また、稼ぐ金に関わらず「三方よし」の概念は有効なので、自分も普段から強く心がけようと思います。
こんばんは。わたしは今日、SEとして、つまり障害を報告するプロという立場で増田に来ました。
もちろん、SEだけが障害を出すわけではありません。よく知られているようにPGもバグを出します。ディスク障害、ネットワークダウンのように、ハード屋やら電話屋もそれぞれがそれぞれの障害を出します。しかし、SEのバグは他の人たちのバグとは違います。SEがバグを出して道徳的と称賛されることはありません。それどころか、その障害が大きければ大きいほど、ひどい障害であればいっそう、顧客や上司からの批判が大きくなります。なぜ、そうなのでしょうか?
それに対する私の答えはこうです。すなわち、致命的なタイミングで障害を出す、いってみれば、悪夢を現実にすることによって、SEはシステム投資の重要さを説き、新たな光でそれを照らすことができるのです。多くの場合、開発工程のほとんどを内製化し、正確にシステム化することは事実上不可能です。だからこそ、私たちはPGを隠れた零細企業からおびき寄せ、開発拠点へと運び、一見正社員の形に置き換えるのです。しかしながら、これで障害を起こした場合には、私たちのメンバーの誰が腹を切るのかを明確にしなければなりません。メインフレーム時代に現役バリバリだった時代遅れなPMを安全ピン代わりに上司の席に着かせることは、自分を身を守るのに必要な準備のひとつなのです。
そうは言いながらも、今日も障害を報告するつもりはありません。できる限り先延ばしにします。私が人力で運用フォローをしなくて済み、この時間に帰れる日は月に2、3回しかないのですが、今日はちょうどその日に当たったようです。
真実をお話しします。本社で、かなりの上の人たちから、障害を悟られぬようように、と言われました。ばれたら、私のマイナス査定(降格)を下すと警告する人さえいました。これはもちろん、メインフレーム周りでの激しい障害のためでした。基盤担当の報告では、バックアップの上書きで1000ファイル以上が消失し、その大部分は唯一無二の情報、つまり受注先マスタや売掛金データであったとのことです。
障害の知らせを受けた後、私は何度も自問自答しました。仲間がサーバルームでコマンドを叩き続けているときに自分だけオフィスへ来て、上司への報告書を書くことが果たして正しい行為なのか、今まで機器構成を説明する図が無くて今日初めて作られたことが悟られないか、一部のモジュールのソースと設計書が紛失しており機能を想像して丸ごと書き直さないとバグがつぶせないことをどう説明するか、と。私はもちろん、このような印象を与えたくありません。私はバイナリからの逆コンパイルには反対ですし、ヤマ勘でのプログラミングも支持しません。もちろん、先人の書いた設計書は見つかるはずもありません。
しかしながら、慎重に考慮した結果、最終的に障害を報告しませんでした。この判断の理由の一つは、実に上の立場の人が障害を報告しないようにと私にアドバイスをしたことです。おそらく、他の多くの技術者と同じように、私は上司に言われた通りのことをする傾向があるのです。「言うな」「考えるぞ」「で?」「黙ってりゃわからん」「マイクロソフトのせいにできんのか?」「お前は一言もしゃべるな」と言われると、特に役員の個室に呼び出され「警告」を受けると、それに従いたくなるし、考えたくなくなるのです。これはサラリーマンとして当然の「気質」かもしれません。技術者は普通のサラリーマンなのです。私たちは上司自身の口から出たことや、FW:が5個ほど連なったメールにしかすんなりとは従えないのです。
というわけで、私はここにやって参りました。遠く離れているより、増田に来ることを選びました。コンソールを見つめることより、PCを見つめることを選びました。皆さんに何も話さないより、話すことを選んだのです。ここで、非常に個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。それはコードを書いているときにいつも心に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、私の心の壁に刻まれているものなのです。それはこういうことです。
「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に壁の側に立つ」ということです。
そうなんです。その壁がいくら正しくなく、卵が正しいとしても、私は壁サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく労基署や裁判所というものが。しかし、もしどのような理由であれ、顧客の立場に立って正直に報告書を書く技術者がいたら、上司はその部下にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?
この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。納期前倒し、瑕疵責任、仕様変更、出精値引、SLA無視は高い壁です。これらによって押しつぶされ、徹夜し、心理療法を受ける非正規の下請けたちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。
しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。
私が報告書を書く目的はただ一つです。個々の下請けが業務を担当したエビデンスを集め、それに責任を与えることです。報告書を書く目的は、「システム」の網の目に自分の魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「外注先」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は、設計書への検印、テストの実施担当者の検印、ソースの最終更新者、リリース時の立会い責任者、打ち合わせ記録書の参加者などのエビデンスから個人を槍玉に挙げた報告書を書くことで、自分を守り、壁を守り、下請けを破壊することがSEの仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣にエビデンスを積み上げていくのです。
私の先輩は昨年、40代で亡くなりました。先輩はPGで、時折、SEをしていました。金融のSE だったとき、徴PGされ、中国のオフショアに送られました。先輩の隣のチームだった私は、先輩が昼食後に毎日、たくさんのお薬を飲んでいるのを見るのが日常でした。ある時、私は先輩になぜそうまでして働くのかを尋ねました。先輩の答えは、これまでデスマで散った人たちのために戦っているとのことでした。先輩は、顧客であろうが上司であろうが関係なく、残ったメンバーのために開発を続けているとのことでした。先輩が会議室でのレビュー中に焦点の合わない目を見開いたまま俯いている顔を見たとき、先輩の周りに死の影を感じたような気がしました。
先輩は亡くなりました。先輩は残りのメンバーが決して知り得ない仕様も一緒に持っていってしまいました。しかし、メインフレームの周辺に潜んでいたJCLの仕様の一部が既に転職していったメンバーの記憶に残っており、相手の迷惑を顧みずにばんばん電話で聞いています。以上のことはプロジェクト管理のことでわずかにお話しできることですが、最も重要なことの一つです。
今日、皆さんにお話ししたいことは一つだけです。私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目は見えてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。もし、私たちに勝利への希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。
このことを考えてみてください。私たちは皆、実際の、生きた精神を持っているのです。「システム」はそういったものではありません。「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。
これが、私がお話ししたいすべてです。
「自宅謹慎1ヶ月」、本当にありがとうございました。一旦は闇に葬られた私の報告書が形を変えて増田の多くの人々に読まれていることはとてもうれしいことです。増田の読者の方々にお礼申し上げます。私がここに来たもっとも大きな理由は皆さんの存在です。私たちが何か意義のあることを共有できたらと願っています。今日、ここでお話しする機会を与えてくださったことに感謝します。ありがとうございました。
ちょっと待ってくれ。
最初の考察で、
これは人それぞれ違うんだが、俺の場合、ケツ毛の分布は、ぽこちんに近いほうが密集している。逆側は薄い。
となると、ペーパーで肛門を拭く際には、密集サイドから、過疎サイドへペーパーを移動するのが理にかなっている。微量ウンコがケツ毛に付着しにくいという訳だ。
と言っているのに結論部分では、
という訳で、自分に息子が生まれたら、ペーパーを動かす方向は「肛門→ぽこちん」とすることにする。
それは、お前の息子は肛門側の方に毛が密集していると今から予測しているということか?
結論部分は逆じゃないのか。
ところで女性の場合、仰せの通り衛星問題的に肛門側に向かって拭くのが合理的だ。しかしわざわざそんなことを考えるそもそもの理由は、ペーパーを持つ手を、
1.背中側からまわすか、
2.またの間から差し入れるか、
2大派閥があるからではないかと思っている。
1.の背中側から手を回す派の人の場合、膣側→肛門の方が力が入りやすい。よって自然に膣側→肛門となる。
2.股の間から差し入れる人は肛門側→膣側の方が力が入りやすい。よって自然に肛門側→膣側となる。
ただしこの考察も洋式便器か和式便器かでさらに変わってくる。
俺、31歳。
今日、気が付いちゃったんだけど、ウンコが終わった後、トイレットペーパーでケツを拭くよね。
で、ペーパーにウンコが付着する。ウンコが付着した部分を折り込んでから再チャレンジか、新規のペーパーでさらに拭く。ペーパーにウンコが付着しなくなったら、綺麗になったという事でケツ拭きは終了となる。
確認しとくけど、ここまでは間違ってないよな。日本の習慣としては。ウォシュレットなどはとりあえずここでは言及しない。いいよね。
たまに、最初のチャレンジでウンコが付かない場合もあるよな。これは妙に嬉しい。そんな事はさておき、通常は、2、3回とか4、5回で綺麗になるわけだ。
しかし、妙にしつこい場合があるよな。何度、拭いても綺麗にならない。非常に困るわけだ。それってどういう事かと言うと、概ね2つのケースがあると思うんだ。
1.ウンコが排出しきれてなくて、肛門のちょっと奥に残っている。ペーパーで拭く度に、肛門に少々食い込むペーパーがウンコに接触してしまい、ペーパーが汚れる。何度やっても奥にあるウンコに接触してしまうので、綺麗にするのは困難である。そのウンコを出し切る必要がある。
2.ウンコを拭く際に、微量のウンコが周辺のケツ毛に接触。肛門は綺麗になっているのに、ケツ毛が汚れているので、なかなか綺麗にならない。
以上、2つのケースがある。ここまで間違って無いよな。
上で書いた、1.についてはウンコを完全に出すしかない。
そして問題は2.なんだ。今までは前置きだ。これからが本題だ。
これは人それぞれ違うんだが、俺の場合、ケツ毛の分布は、ぽこちんに近いほうが密集している。逆側は薄い。
となると、ペーパーで肛門を拭く際には、密集サイドから、過疎サイドへペーパーを移動するのが理にかなっている。微量ウンコがケツ毛に付着しにくいという訳だ。
自分は、親からケツの拭き方について習った事を今でも覚えている。こうやってこうこうお尻を拭きなさいと。その時、自分は過疎サイドから密集サイドへパーパーを動かした記憶がある。母親はそれを見て、うーん、本当は方向が違うんだけど、男の子だから方向はどっちでもいいね。好きな方向にしなさいね。という事だった。当時、意味はわからなかったが、女性の場合は方向を考えないと不衛生であるという事だったんだろう。
しかし、しかしだ。その方向では、ケツ毛にウンコが付きやすいんだよ、母さん。あなたは間違っていたよ。
実は2.の状態がケツ毛付着による問題だとはケツ毛が生えてきてから気が付かなかったんだ。ついさっき気が付いたよ。
という訳で、自分に息子が生まれたら、ペーパーを動かす方向は「肛門→ぽこちん」とすることにする。
これを教えてあげれば、息子が無駄な悩みを抱えずに済むし、なによりペーパーの無駄が減り、地球に優しいという訳だ。
ここまで読む人もそうはいないだろうけど、もしあなたに機会があったなら、子供に教えるときは方向を間違い無いようにして欲しい。女の子は無論、男の子でさえ、方向は大切なのだ。
『2月14日、バレンタイン。
婦女子が、想いを寄せる男性に、チョコと共にその想いを伝える日。』
14日、男の子はドキドキしている。
靴箱を開けるその時に。
校門を出て友人と別れたその時に。
『2月14日、バレンタイン。
婦女子が、想いを寄せる男性に、チョコと共にその想いを伝える日。』
しかし、24歳の僕は、まったくドキドキしてません!
僕は知ってるから。勇気を出して言おう。
バレンタインは、存在していない!メディアがでっち上げた嘘っぱちさ!
事実、悩める学生時代から今現在を通じて、そんな風景に出会ったことは、ない。
2月14日、僕はいつもとても順調に家路に着く。
普段開かずの踏み切りさえも開いてる。
ifもしもこの世にバレンタインなるものが本当に存在するとしたら、1学年約150人余りの婦女子がいるとして、3学年通して×3倍。
そして世界は広い。世界中の女の子達が誰一人残らず僕への恋で悩んだことがないということになる。
もしこの天文学的に多い数の女の子が皆僕のことをノーマークだとするならば、逆に凄いよ?
信じられないっ!!』
ってな感じだよ?
そりゃ僕だって気付いてる。
の地元のツレ・・・
に昔殴られた学生・・・
にカツアゲされた少年的立場くらいだってこと。
と、とにかく!
バレンタインを信じないっ!!
し、信じたくないっ!!
あ、もう日付かわる。
ごめんなさいお父さんお母さん。
やり方次第では共存させられただろうけれども、明らかに共存不可能な価値観が大手を振って歩いてしまってるのが現状だろ。
「共存を訴えるフェミニズム」サイドの人間がそれをちっとも批判しないし(同類と認めた連中をきちんと批判できないのが彼らの構造的な欠陥だよな)。
titleと、content::encode中にhttp://anond.hatelabo.jp/を含まないこと
この条件ならY!pipesで出来そう。
本文はトラックバックツリーの様にクライアントサイドで取得する。
それとgoogle gearsを組み合わせたらどうかな?
先日のオーストラリア戦で感じたのはコンセプトとシステムの限界である。
前回のユーロでのスペイン、C.ロナウドやメッシー、カカ、ロナウジーニョに代表されるようにサイド攻撃重視のコンセプトとシステムは世界を席巻している。
サイドを制するものが世界を制すと言う言葉はもはや常識とまで言える。
報道ではアジリティ(笑)を活かした日本のサッカーなどと持ち上げているが、実は世界の流行そのままのコンセプトであることは多くの人が気づいているだろう。
それでも、このコンセプトに誰も文句を言わないのは日本にとってそれ以上のコンセプトが存在しないせいだ。
日本サッカーはこれまで、コンセプトとシステムに泣かされてきた。
主戦場であるヨーロッパで活躍する選手が少ない日本にとっては、流行遅れも大きな弱点であった。
加茂は当時流行したプレッシングサッカー(ゾーンプレス)をコンセプトとしたが、それに見合わないシステムを導入したことで流行に乗ることが出来なかった。
トルシエは、3バック&司令塔システムをサイド攻撃ガン無視超守備的5バック&司令塔システムに進化させたが、結局は4バック&司令塔システムにはかなわなかった。
ジーコは、スタープレーヤを並べることだけを考え、超時代遅れブラジル型個人技重視ボックス型中盤システムを構築した。「システム(笑)?自由最強!」だった。
オシムは世界で最先端のコンセプトとシステムを日本に残してくれた。
しかし、このコンセプトとシステムもいつ時代遅れになるか分からない。
その証拠に、このコンセプトとシステムは、もはや珍しいものではなくなっている。
全く日本独自のものではない。
なんて難しいことだろうか。
今のコンセプトとシステムそして選手であれば、昨日のオーストラリア戦がベストなのではないか?
今のコンセプトとシステムで行くならば選手がレベルアップするしかない。
それも、C.ロナウドやメッシー、カカ、ロナウジーニョに肩を並べるほどに。
小沢氏、クリントン長官と会談せず 関係者「別の日程が入っている」
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090212/stt0902122025006-n1.htm
民主党の小沢一郎代表は12日、16日に日本を訪問するヒラリー・クリントン米国務長官と会談しない方針を決めた。同党関係者は「別の日程が入っているため」としている。米国政府は、クリントン氏の訪日にあわせ、同党サイドに会談を打診していた。
ぶっちゃけこの会談には期待してたんだよね。特に最近の小沢って何考えてるか全然分からなかったから、ヒラリーにいろいろ突っ込まれてポロっと本音を漏らすんじゃないかとwktkしてた。
↑を書いた増田だが(信じる信じないは任せる)。なんか最近になって急に取り上げられてたので2年越しの補注。
http://metalsty.seesaa.net/article/113651104.html
『いや、私は河豚の肝を食べるなとは言わない。そういう食習慣を持った地方があっても良いとは思うが、それを得意げにブログに書く神経が不見識だと思う。』
2007年頃には既に大量に「どこそこで肝喰えたぜ!」って書いてるブログがあって
「おいちょっと待て! そんなにおおっぴらになって厚労省から指示が出たりして大分県の各保健所がガチでフグの肝を取り締まりだしたらどうするんだ! っていうか合法ってのは全くのデマだし!」
と考えたのが件の記事を書いた動機。だから文中ソースは大分県庁HP(pref.oita.lg.jp配下)に絞って
「お前等現状はあくまで違法なのが目こぼしされてるだけって認識しろ」
と喧伝したかったわけだ。ただ、強い調子で書いちゃうと
「違法のフグ肝出す厨店舗うZeeeeeeeeeeee!! 潰そうぜこいつらwww」
「カワハギの肝と区別がつくのか?」
「まあ、ソープみたいなもんよ」
ってやや婉曲に落としたわけ。や、実際にカワハギ(乃至他の魚)の肝出してる店もあるらしいですけど。
だから
『これはいくらなんでもひどいだろう、と思って厚生労働省にメールで問い合わせたんですが、5日経っても返信が来ません。黙殺か?』
まとめると、
ということで。このへんが肝喰う客としての節度だと思うんだ。
んで、余談ですが、何で大分県の各保健所が自主的に取り締まらないかって、そのへんもソープみたいなもんさね。
自分でふぐの肝喰いに行っててその店潰すような真似、なかなか出来ませんわな。ましておおむね安全(なノウハウが確立してるのもFAQにソース示してある)で摘発しなくても実害がなく、どこでもやっていて、しかも摘発したらふぐの名店が軒並み全て廃業する羽目になるとしたら。
ていうか「ふぐ肝の提供は違法」って明記した条例の検討過程で「肝喰えなくなるの? 罰されるの? マジで?」(大意)みたいなことがおおっぴらに行政サイドで審議されてて吹いた(現実には条例とか言う以前にどのみち食品衛生法上「黒い」)。(結論は「や、条例で司法罰があるわけじゃないですが食品衛生法上の行政処分として営業停止はありますよ?」(大意))
http://www.pref.oita.jp/13900/suishin/kakuho/kengi/h17/1/giji.pdf(の11~13ページあたり)
http://d.hatena.ne.jp/iris6462/20090201/1233457111
こことか、
http://d.hatena.ne.jp/FXMC/20090202/p1
こことかのことである。
批判するからには、ラノサイ杯のなにかが悪いと思っているのだろう。しかし、何度読んでもさっぱりわからない。
「なにが悪い」と主張しているのか、である。
たとえば上の記事では、大手サイトが紹介した作品に得票が集中してるんじゃないの?という疑いが挙げられているが、じゃあそれのなにがいけないのか?ということがどこにも書かれていない。
下の記事では、投票者がFXMC氏の言う「ラノベ論壇の人間」に限定されてしまうこと、ライトノベルを読むことと語ることに熱心である人々に限定されてしまうことに苦言を呈しているが、じゃあそれのなにがいけないのか?ということがどこにも書かれていない。
なぜだろう?
ラノサイ杯は小説の人気投票をして耳目を集めて、知らない作品を紹介しあおうというイベントだと主催者がアナウンスしている。
1.その目的そのものが悪いのか?知らない作品に触れる機会を増やすなんてとんでもない!と怒っているのか?
2.それとも、目的のための手段が間違っている!と言いたいのか?このやり方で人気投票したって知らない作品に触れる機会は増えない!と怒っているのか?
3.あるいは、甚大な弊害が生まれる!と言いたいのか?kim-peace氏の睡眠時間が減るじゃないか、やめろ!と怒っているのか?
批判エントリを読んでも、なにを問題としているのかさっぱりわからない。
なぜこの人たちは、「なにが悪いか」を書かないのだろう?
ここから先は推測である。
この人たちの文章を読んでいると、理由は書いていないが「ラノサイ杯はこうあるべきだ」という理想像があるらしいというのがわかる。繰り返すが、そうあるべき理由はどこにも書いていない。そして、自分の中の理想像と、現実のラノサイ杯とでずれている点を挙げて、そこが問題だ、と言っている。何度も繰り返すが、それがなぜ問題なのかはどこにも書いていない。
前提が間違っていたのではないか。
これは、批判ではない。
そう考えると、すべてのつじつまが合う。
批判するべき合理的な問題点が挙げられないのに、自分の中の理想像と現実との齟齬についてあたかも問題があるかのように糾弾する文章をなんと呼ぶべきかについては、紳士的な表現がなかなか思いつかなかったので、ここでは触れない。
興味深いのは、主催者や傍観者が、「なにも問題が起きていない」にもかかわらず、「批判ではないが批判に見える文章」を読んで、あたかもなにか問題が起きているかのように錯覚していることである。これはじゅうぶん「問題」である。時間の無駄という甚大な弊害を生むからだ。
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2/4追記
ブックマークコメントによって、くだんのFXMC氏からの補足が入り、「なにが悪いか」についてのやや詳しい解説が入った。以下、引用である。
>私が指摘してるのは開放性と内輪性を無自覚に都合よく使い分けてる点。開かれた企画です! 票が偏ってます。そういうサイトが投票してるから当然。どうせ論壇の企画なんだからぶっちゃけろと
これだけの短いコメントから真意を読み取るのはなかなか困難だが、おそらくこういうことだろう。
これは2008年下半期ライトノベルサイト杯の企画説明から読み取ったものであろう。以下、引用する。
>本企画は、「はてなキーワード機能を使い、ライトノベル関連サイトの管理人がおすすめのライトノベルについて語る」ためのものです。
>ラノベ感想・書評サイトはもちろんですが、「サイト持ち&ラノベ読み」であれば誰でも投票できます。マンガ系でもゲーム系でも、ラノベに関する話題も取り扱っている方は是非投票して欲しいと思います。
>「あんまりラノベ読まないしなぁ・・・」→読書量を気にする必要はありません。
○「票が偏ってます。」という主催者の主張
これはおそらくkim-peace氏が『ベン・トー3』の帯に対して発したコメントのことだろう。
http://d.hatena.ne.jp/kim-peace/20090201/p2
>「母集団に偏りがあること」「順位付けを目的として開催しているわけではないこと」にも
>配慮をして頂けると嬉しいです。
>公開している結果をどう捉えるかは受け手の方にもよるかと思いますので、
>単純な「得票数順」以外にも「投票者別一覧」や「各種近似値グラフ」なども見て頂ければと。
(色々とそれっぽい単語でサイトを検索してみたが、これ以外には見つからなかった)
FXMC氏は「この二つの主張を使い分けている」という点を問題視している。残念ながらはてなブックマークのコメントは短いので、例によって「なにが問題なのか」「なにが悪いのか」については言及していない。
○「サイトを持っていてライトノベルを読んでいる人であればだれでも投票できる」という主張
この二つの主張を同じ人間が使い分けることに、なんの問題があるのだろう?矛盾しているわけでもないし、どこにも嘘がない。というか、使い分けているわけではない(矛盾していないのだから使い分ける必要はない)。
「サイトを持っていてライトノベルを読んでいる人」という母集団による投票なのだから、そのように票が偏るのである。当たり前だ。
したがってこれは、問題点ではない。
またしても、本エントリの標題である疑問に立ち戻ってしまう。なぜ「なにが悪いか」を書かないのだろう?
ここから先は、再び推測である。
冒頭に挙げたFXMC氏のエントリを読み返してみると、「ライトノベル論壇杯に改題しろ」という主張がある。さらに、興味深いコメントのやりとりが入った。
>hatikaduki 2009/02/03 11:25 偏向や内輪性も含めて「ライトノベルサイト」杯という言葉で表現しきってると思うんですけどね。
>耳障りが良すぎるのが隙につながるのかも知りませんが、「論壇杯」てのも不正確な感じが。
>FXMC 2009/02/03 21:03 「耳障りが良すぎる」をダブルミーニングで取っていいなら、その表現は完璧ですね。
>同じモノでもどこから見るかで違った姿が見えるものです。「私から見える像」をあらわす言葉としては【論壇杯】で十分。もちろんhatikadukiさんから見える像、個々の参加者の目に映る像、主催者の自己認識、全て異なります。ただ、あんまり見栄えのいい姿ばかり見てる/見せてると、勘違いしたりされたりしちゃうから、見たくないだろうところに私が鏡を向けてみせただけ。
>どのみち、私ごとき弱小サイト主が他人になにかを強要することはできませんので、あとは主催サイドや第三者がどういう判断を下すか丸投げです。
最初読んだときは「ライトノベル論壇杯に改題しろ」という主張はスルーしていたが、どうやらこのコメントを読むに、「ライトノベル論壇杯に改題しろ」という主張はかなりFXMC氏の主張のコアな部分であるらしい。まとめっぽい文章もあったのでこちらも引用する。
>私としてはね。分野別に分けるとか、細かい制度を改善したところで「中二病と内輪ネタが好きな論壇の人たちの内輪の企画」であることは変えようがないし、別に変える必要はないと思うのですよ。ただ、「中二病と内輪ネタが(略)の企画」が、【ライトノベルサイト杯】なんて御立派な看板をつけて、「開かれた企画ですよー」ってな建前で行われてることに、開かれたイベントという理想と内輪の馴れ合いという実態の乖離や、政治利用を許すスキがあるというだけで。だから「中二(略)企画」だと誰の目にも明らかなように、【ライトノベル論壇杯】なり、【ライトノベル平和賞】なり、勘違いも政治利用もしようのない名前に変えてしまえといっているのです。
どうやらFXMC氏は、ラノサイ杯に投票する人々は、様々な要素によって「中二病と内輪ネタが好きな論壇の人たち」に限定される、と考えているらしい。明記されてはいないが、kim-peace氏が主催する以上は、『平和の温故知新』を読んでおり、さらにkim-peace氏やその周辺の人々を嫌っていない人間、という層にも限定される、と考えている可能性が大きい。そして、こちらは明記されているが、自分のような人間は投票しづらい、とも書かれている。これのどこが「開かれた企画」なのか、とFXMC氏は糾弾しているらしい。
しかし、前述のとおり、kim-peace氏は「『サイト持ち&ラノベ読み』であれば誰でも投票できます」という投票資格について伸べているのであって、けっして「『サイト持ち&ラノベ読み』の総意をとります」などとは伸べていない。要するに開かれた企画という言葉はkim-peace氏発のものではなく、FXMC氏が独自に使ってこれに独自の解釈を加えているだけであり、「開かれた企画」云々に関するFXMC氏の言及はすべて無意味である。
すると、残るのは「ライトノベルサイト杯」という名称そのものへの批判である。
最後の推測は、こちらの文章から導いた。
>私のように「論壇外」のサイト主や、サイト持ちでない一般読者、さらにラノベ原作アニメだけ見てる人たちなんてのはまったく参加してない、論壇の方々による論壇のための賞で、これを一般化することは論壇の方々が主催してる限り不可能だ。全く真っ白な方が主催したとしても、それが受け入れられた時点で「論壇関係者」になってしまう。こうやって語っている私だって【親藩】【譜代】ではなく【外様】であるというだけで、この構造からは逃れられない。
>(皆さん、避けようがないトートロジーになってるの気づきましたか? ラノサイ杯は論壇関係者のための賞だ。投票した奴はみな論壇関係者だ。だって投票してるから。別に非難してるわけじゃなく、投票を集めるというやり方自体が「避け得ない構造上の問題」としてこういうトートロジーを発生してしまうのだ。任意投票の投票者は、必ず母集団に対して偏向を生じる)
(文中の太字強調は筆者による)
まとめると、FXMC氏の主張は次のようなものだと考えられる。
kim-peace氏のサイトを読んでいて、自分でもサイトを持っていて、企画に賛同して任意投票を行う人間のみの集団であれば、賛同しないサイト持ち、サイト持ちでない一般読者、さらにラノベ原作アニメだけ見てる人たちなどは参加できない。すなわち、
○「ライトノベルサイト杯」と題すると、「すべてのライトノベル読みから投票を集めている」との誤解を招くから、名称を変更せよ。
なぜ最初からこう書かないのか。疑問は再び、本エントリの題名に戻るわけである。