鬱じゃなくて躁鬱なのでは、躁鬱は統合失調症と並んで不治の病というブコメがあったので、
そういえば躁鬱って不治なんだっけ?どうなんだっけ?と不思議に思った。自分の思考整理と記録のために書き残す。
なまえをかくしてたのしいにっき。
■誤診期
「誤診」と書いたが、診断確定の難しさは他でもない私が知っているので、「誤診」よりもイメージの良い、精神科医の名誉を傷つけないワードがあったら教えて欲しい。
時期:十年前~七年前
症状:元々パワフルで仕事人間、しかし分配された家事はきちんとやる母であった。共働きフルタイムだったが、食事ははおいしかったし、稼ぎもそれなりにあり、仕事も好きだった。趣味があまり無かったが、車は嫌いではなく毎日の通勤に乗っていたのでストレス発散の手段はゼロではなかったと思う。
母は突然、朝起きれなくなった。仕事に行けなくなった。
涙を零すとか不満をぶちまけることはなく、全てのことに無気力になってしまった。
休職期間が切れ退職扱いになるまでの一年はあっという間で、家族(父、増田を含む兄妹二人)は通院をはじめとした外出に抵抗を示す母を引きずって病院に通いながら、減った収入を補填すべくがむしゃらに働いた。
診断:鬱病。加齢によりが少し体のある器官のせいで、全盛期に比べ仕事の効率が目に見えて落ち、生きがいだった仕事への活力が失われたことが原因ではないかとの意見。
まだ地獄ではなかった。
時期:六年前
症状:何をするにも無気力で食事を採らせるのも一苦労、10キロ以上体重が落ちほぼ寝たきりの状態だった母から、仕事中の増田に電話がかかってきた。
内容は「お前を大富豪にするビジネスプランを考えた。今すぐに実行しろ、金は私が出す」。
我が家に金なんてない。
妹に対しては「お前を玉の輿にのせるプランを考えた。」という電話があったらしい。
その後、仕事中に着信が1分1件ペースで入る。
躁鬱に対する知見が全くないので家族はパニックに陥り、全員が仕事を早退し家に帰ると、見違えるほど元気な(元気すぎる)母がいた。
・投資用マンションの契約をしようとする(一番やばかった、本当に手付け金が帰ってきてよかった)
・キッチンをめちゃくちゃにする
・アドレス帳のすべてに電話を何度も何度もかけまくる(母本人の希望で疎遠にしていた人含む)
・テレビを壊す、壊れたからといって過剰に大きいサイズのテレビを買う
・そのほか高額なものを買いまくる
・「私の考えた最高のビジネスプラン」を話しすぎて、喉が切れて血が出る。血が出てもまだ話すので、口元からずっと血が垂れ落ちている
などなど。今から考えると「自殺をこころみる」が含まれていないのは、本当にラッキーとしかいいようがない
診断:「わたしの鬱病は治った」と言い切る本人をなんとかだまくらかして病院に連れて行くまで半月、その間に家の中は大惨事。様々なもののクーリングオフ、迷惑をかけた方々へのお詫び行脚に明け暮れる。
医師は「躁鬱の波が長いタイプ。鬱が最初に来てしまったので、診断できなかった」とのこと。
なんと躁鬱に効く薬と鬱に効く薬は全く別で、医者も家族も効くわけもない薬を無理やり嫌がる母にのませていたのである。「効果ありませんね~」じゃねーよ、とこの時は思った。暴れるのを抑えるための措置入院を経て、三年間見たこともなかった名前の薬に変わる。
■回復期
時期:五年前~
症状:正しく躁鬱の薬を処方されてからはかなり早く、措置入院は1カ月、その後はテンションの上下自体はあるものの、順調にその波はおさまっていった。勿論きちんと薬を飲むか等、かなり細かく監視の必要はあったが、「鬱だな」「躁だな」と判断出来るようになったことで、家族全員がだんだんそれぞれのパターンでより刺激しない接し方を覚えていった。
また、この頃、自分が通院する必要性について自分でやっと理解できたように見えた。激しい鬱期は被害妄想が強く、躁期には「治った」と思いこんでいたため。
少しずつ少しずつ安定した生活習慣を取り戻し、知り合いのツテで仕事にも一部復帰。(突発的に休む可能性がかなり高いにも関わらず専門性の高い仕事に復帰させて貰えたのは奇跡としか言いようがない。復帰後の職場の皆さんには、今でも、母も自分も頭が上がらない)仕事をするようになってからは、自己肯定感が増し、安定している頻度が増えたように感じた。働くことはプレッシャー増であると考えていた自分には意外だった。
■寛解期
時期:三年前
診断:「寛解」
精神病には、基本「全治」はないという。
骨がくっつきました、とかと違って明確な基準がないため。
が、家族から見ると、一度病気を経た母は少し罹患前より変質しているようにみえた。9割5分、記憶のままのマトモな母だが、やはりどこかしら違ってしまったことがあるように感じた。
私が好きだった母と全く同じものは、もうどこにもいないかもしれない。それは少し寂しかったし、それこそが「寛解」と「治癒」の差かもしれないと感じた。再発のリスクは、限り無く少ないが、ゼロではない。
■最近
おまけ。
寛解から三年たってようやく、「あのころこうだったね」等の振り返りを当人含めてできるようになってきた。妹は良く「玉の輿に乗る方法」の話をして笑いをとっている(※妹は未婚)。
もしかしたら病気になるまえの母はストレスを押し殺していて、本当の母ではない=今の母が本当の彼女の姿なのかもしれないと漸く思うことができた。確かに、記憶の中の母よりもほんの少しだけセンシティブである。
でも我が家はこれを乗り越えられてよかった。家族みんなが、自分のストレス閾値を考えられるようになり、出来ないことを頑張りすぎないようになった。そして家庭の外でも、頑張り過ぎようとしている人に優しく出来るようになった。人間的成長ではなく、壊れたらより損失が大きいことを身を持って知ったからである。
結果、皆母のために暫くの間キャリアを犠牲にはしたが、最終的には職場での評価はあがった。
振り返ると家族の中に三人働ける人間がいたこと、子供二人はまだ未婚で家族以外にかける迷惑が最小限で収まったこと、そして三年の膠着期間を経たとはいえきちんと正しい診断がおり寛解に至れたこと、様々な幸運に助けられたんだなと思う。
かなりベストに近い形だとは思うが、それでも躁に転じたとき二段回目があるのか、この先もっともっとおかしくなるかもしれないという底知れない恐怖ははかりしれない。母がどうこうというより自分だっていつかは、ああなってしまうかもしれないと恐ろしかった。
周りにもし近い状況になっている人がいたら情報共有したい経験ではあるし、我々のように幸運が重ならなかったとしても、何からのセーフティーネットで患者や家族がなんとか生きていける社会であればいいなと思う。
ここはお前の日記帳だ