紙が切れていて、しかたなくウォシュレットだけ使ったことがある。
さぞやパンツがびしょ濡れになる、と思いきや。これが意外と濡れないものなのだ。
濡れるには違いないが、それを肌に当てるのが不快なほど濡れるだろうか?
ウォシュレットで濡れる尻の面積など、洗った手に比べればわずかなものだ。
ウォシュレットを使って紙は使わない。そういう習慣の人がいても不思議ではない。
俺は拭くけど。
「もって(以て)」は "使って" の意味だから、以上と以下はそれを含むんだろ。
以外は "以ての外" だから、それの他すべて、ってことだろ。
あってるじゃん。
トイレの底に「ブツ」があったわけだが、ティッシュは2つどちらも三角折り(清掃業者がティッシュを新品に変えたらその証明として取る場所を三角に折る。つまり未使用ということ)されていた。
これはどういうことか。俺の前に誰かが利用していたことは自明だが、ティッシュは使われていない。つまり拭かずに出た?ウォッシュレットだけ使って?そういうことでしょうか
やったー!
嬉しいわね!
だけど、やっぱり300の道は厳しいわ!
つくづくそう思う。
日々鍛錬よ!
私の原点はそこにあるんだもの!
頑張らなくっちゃって思うわ!
諦めないもの勝ちよ!
このるんるん気分に浸っている場合ではないわっ♪
前もっておにぎりも買っちゃいました。
まあ、悪くないわねって感じかな。
ごくごく美味しいわ!
すいすいすいようび~
今日も頑張ろう!おー!
俺には生きる大義名分がない。
はたらく大義名分もない。
人生にも、仕事にも、何にも誇りを持てないし、ましてや誇らしげに語れる大義名分などない。
よしんば大義名分と称して何かを語ったとしても、苦し紛れの付け焼刃にしか聞こえない(=本意としては響かない)であろうことは容易に想像できる。
毎日が充実しすぎていてしかたないなんていう人のほうが少数なのだろうが、それでもここまで無為な生き方しかしていない自分が恥ずかしくてしょうがない。
アニメ、ドラマ、マンガなどで、通勤や通学の方法が回によって違うのが気になって仕方がない。
場面によって、電車に乗っていたり、バスに乗っていたり、自転車をこいでいたり、歩いていたり。
グループが帰り道で別れるときの組み合わせが、回によって違っていたり。
普段は自転車だけど、雨だからバス。普段はバスだけど、運動不足解消のために歩く。
こういったストーリーならば気にならないんだが、何の説明もなく、バスの中の話が必要だからとか、誰かと誰かの会話シーンが必要だからとか、そんな意図が見えると失望してしまう。
車はお金がかかるというけど、実際に持ってしまうと意外となんとかなる。
東京や大阪などの都市部は車がなくても問題ないし実際に家賃と駐車場だけで莫大なお金がかかるけど、
他の地域だと生活できないほどの維持費はかからないんじゃないかな。
田舎なんて給料も安いし物価が安いわけでもないのに車がないと生活できないから買う気もないのに買わきゃダメなんだけど、まあでもなんとかなる。
家に鳥がいるんだけど(オカメとセキセイインコ)あいつら顔を見てくれないんだよね。
顔っていうのを認識してないのかな。
手は突いてくるので顔より手ばっかり見てくる。
飼い主だとちゃんと顔を見て認識してくれるんかな。
都市化とネットの普及に伴ってだと思うんだけど、人が世界を認識するときに、ただでさえ視覚が9割とか言われてるところに、「言葉」がさらにねじ込んできて、それ以外の感覚がないがしろにされすぎなのね。人間も世界も、本当はもっと臭い。
男だって割引券使ったりの人多いだろ