やっぱ匂いとか?
まずはおつかれさまです。大変でしたね。
博士課程は前人未踏の世界で、ある意味恐ろしい部分も多いと思います。
素人質問で恐縮なのですが、いま、M1とかに戻ったとして、もう一度トライしたらうまくいきますか。
それとも研究の大きなビジョンを得ることは全くなかったのですか。
別の環境だったとしたらどうですか。
答えてくださるとありがたいです。
がんばれぇー
勉強とは何か、何のためなのか、何かいいことがあるのか、どうやってするのか。これがわからなくなったことのある全ての人へ。
まず、勉強は「技能の習得」「概念の習得」の二つに分類できる。
「勉強をする」と聞いて大半の人が思い浮かべるのはこっちだろう。問題を解くために勉強する。テストの点を取るために勉強する。資格試験に合格するために勉強する。絵の描き方を勉強する。必要な目的を満たすため必要な技能を習得する。
大事なのは、意味を理解している必要なんてないってこと。例えば数学のテストなら、何書いてるか自分でわかってなくても求められている答えを書けばそれで正解する。意味がわかっている人との差はない。もちろん理解が必要なこともあるし、それなら必要なだけ理解すればいい。
人は、物自体を認識することはできない。何を見るときも概念を経由している。自分の知らないものは認識ができない。そんな「世界を認識するための概念を習得すること」が勉強だ。あるいは「認識の壁を破壊すること」と言ってもいいかもしれない。人一人に見えている世界には制限がある。その制限を壊すために勉強をする。
「勉強」をそんな二つに分類できたが、もちろんこの二つはお互い影響し合っている。実際のところ全く「概念」を理解せずに「技能」を習得することは難しいだろう。「技能」の習得という作業なしに「概念」を手に入れることは難しいだろう。
しかし、この二つは別のことだ。概念の勉強だけでは技能は付かないし、その逆も同じ。重要なポイントだ。
『勉強をするときは「技能と概念のどっちが目的で」「今はどっちを勉強しているか」。これをしっかり意識しよう。』
・「なんで勉強しなきゃいけないの?」
技能の習得と概念の習得でだいぶ意味合いが違う質問だ。技能の習得はどうだろうか。テストの点とか。いい大学行っていい就職先が欲しいならそりゃ勉強するべきだ。他にも、役に立つと思うならやればいい。技能を習得するだけの勉強なんてただのコツだし、そんなのが壁になって生き方が制限されるのは損だぞ。
概念の習得はどうだろう。こっちが色々難しい。この「勉強」は、それなりに生きる上で根本的にはいらないものだ。具体的に役に立つことはなかなかない。そして、楽しいことでもない。目的は知らないことを知ることだ。知らないものは自分にない概念なので、怖い。わからない。つらい。でも、する意味はある。思うに、これは一つの手段だ。例えば本を読むだけなら、誰でも手軽に、いつでもいくらでもできる。それで見える世界が少しだけ変わるのだ。もしかしたら、何もしないよりは楽しい世界が見えるかもしれない。たとえ見えなくても、役にも立たなくても、その勉強すること自体が生きる手段になってくれるかもしれない。楽しくなくても。
・勉強することって何を選べばいいんだろうか?
概念を勉強しろって言われても、何を勉強するのさと思うかもしれない。選定基準はこの辺だろうか。
「やりたいこと」「興味があること」「面白いこと」「役に立つこと」
なかった?勉強したいこととかない?
ならよかった、上記の基準は全部忘れてください。新基準がこちら。
「やりたくないこと」「興味がないこと」「面白くないこと」「役に立たないこと」
ここから選んでね!
知ろうと思う範囲に基準を持つのは制限にしかならない。その上で行動できる人間ならいいけど、「興味ないから」って言った結果として何もしないでしょキミ。なら、その制限を取っ払おう。ほんの少しでも興味を持てたらそれでいいし、なくてもいい。もちろん興味があるならそれが一番強い。
・ランダム性を持とう
知っていることだけ知っても勉強にはならない。知らないことを知るべきだ。
でも、知らない概念はそもそも認識できないので、選定候補にできないというジレンマがある。じゃあ、どうやって知らないものを選ぶのか?学生ならすっごい簡単だ。学校行くじゃん?興味ない授業があるじゃん?たまにはその授業をまともに聞いてみよう。これで知らないことを知れた。
学生以外でも、たまたま目に入ったものについて知ってみよう。目に留まった本を、手に取ればいいのだ。そういう意味では本屋と図書館は最強。
全てを自分から「勉強」にして、認識の範囲を広げていく。楽しい楽しくないを理由にして選ばない。こう書けば、生きる手段としての「勉強」、それなりにありな気がしてこない?
もちろん、概念の習得に絞る必要はない。自分は頭が悪いから…、英語は読めないから…、絵は全く描けないから…。技能がないことで、無意識に壁ができているかもしれない。
もし興味が少しでもあるのなら、いやなくても、その技能習得してみない?
・おわりに
勉強なんて世界を認識する一手段でしかないし、世界なんて認識する必要もない。
でも、自分の認識できていない”何か”が壁になって、そのせいで何もしないよりは、ひょっとしたら楽しいかもしれない。
それなりにやっていこう。
先輩と付き合い始めて2ヶ月。
先輩の同期の人に、最近彼表情が柔らかくなったね、話しやすくなった!と言われた。
なんかうれしい!
そう!先輩は見た目がチンピラっぽいせいで色んな人に誤解されてるけど、笑顔はめちゃくちゃ可愛いし、困ってる人と猫を放っておけない優しい人なんだよ〜
あ〜でも先輩の可愛い笑顔がみんなにバレたらちょっとイヤだなー
って先輩に言ったら、私のおかげで良い方向に変われてる気がするって感謝されたから、やっぱりうれしい!
超Happy!
シテイルの社長さんの声がイメージと違って少し驚いた。いやまあどんなイメージなのかと言われてもアレですけど、パスワードがkogaidanの人とか任天堂の岩田さんみたいに意外と高い声の人の声を初めて聞くと驚いてしまう。
周囲の誰にも話せないので、誰も見ていないかもしれないが、ここにツラツラと書く。
出来の悪い駆け出し研究者の戯言だが、誰かが聞いていてくれたら嬉しい。
身バレは怖いので、専門分野は伏せさせていただく。
正確には、まだ微修正や製本作業があるので、学位授与は2ヶ月ほど先だが。
ブラック気味の所属研究室からも抜け出せるし、次のポストも任期付きだが決まっている。
結婚、の予定は無いし恋人も居ないが、ずっと放置していたプライベートも少しは充実できるだろう。
しかし、実際に終わってみて、期待したような達成感や開放感は全く無い。
それどころか、非常に後味の悪い悔しさばかりに捕われている。
あまりに虚しく、情けなくて、もう3日ほど布団から起き上がれない。
私の博士論文は、とても酷い代物だった。
「3年(あるいは5年)間の研究の集大成」ではなく、「研究者としての第一歩」にもならず、
非常にせこく、下品で、信念が無かった。
こうなったのは当然で、自業自得だ。一貫した研究をやって来なかったのだから。
博士課程の研究とは、(人によっては修士課程からかもしれないが)
「1つの大きな研究プロジェクトを立て、試行錯誤しながら遂行する」
博士課程において(おそらく)一番重要な、「1つの大きな研究プロジェクトの構築」が出来ていなかった。
長期的なゴール設定も無いまま、目の前の課題に盲目的に取り組み、とりあえず日々忙しいからと慢心していた。
なまじ、目の前の課題は山ほどあったので、散発的にでも小さな成果が出れば、研究したつもりになれた。
本当は「個々の課題が、より大きな研究計画の中で、どう位置づけられるか」こそが重要だったのに。
私は問題の本質から目を逸らし続け、そのまま博士3年の後期まで至ってしまった。
10月後半、いよいよ問題から目を逸らせなくなった時、私の目の前にあったのは
「複数の、脈絡ない研究課題の、小さな成果の寄せ集め」だけだった。
個別の成果だけでは小さすぎて博論にならないし、全体を包括するストーリーは存在しない。
分かりやすい業績(論文等)が出ている話を掻き集めて、後付けでゴールを作った。
つぎはぎだらけの代物に、博士論文とタイトルをつけて提出したのだ。
元々興味があった話題は、切り捨てた。十分な成果が出ていなかったから。
私のこれを博士論文と認めて良いのか、自信が無い。
なんて、取り返しのつかない事をしてしまったのだろう。
恥ずかしくて、情けなくて、泣きたいのに涙も出ない。
それでも、博論の提出条件(論文数など)に適っていたから、私は合格を頂いた。
私のこの学位は、半分以上「お情け」で与えられたものだと思う。
これを誇れるだろうか。
博士号とは何だろうか?
「自分が一人前の研究者であり、1つの研究プロジェクトを完遂させられる人物である」
お情けで頂いて良いはずがない。
恥ずかしい。悔しい。
それでも、頂いた博士号を返却する気はない。(もっとも、取り消し以外でそんな制度は無いが)
見切り発車で学位を頂いてしまったのなら、これから「博士号」に見合う人物になるしかない。
しかし、なれるだろうか?
私なんかが、3年かけて1つの研究プロジェクトも成し遂げられなかった人間が、この先一人前の研究者になれるだろうか。
いっそ、怠けていたら幸せだったと思う。
少なくとも、怠けた故の失敗なら言い訳ができた。本気を出せば良かったのだ、と。
私は、方向性の正誤はともかく、言い訳の余地が無いくらいには必死に頑張ってきた。
その結果がつまらないものだったのだ。一体どう受け止めれば良い?
努力したからえらい、結果よりプロセスが大事だ、なんて言えるだろうか?
私は言えない。
私は非常に、信用できない奴だ。
でも私には、こんなに信用できない自分くらいしか味方が居ない。
今後も、この胡散臭い研究者もどきを信じて、地道に努力を重ねるしか無い。
そうして度々、期待を裏切られては失望して、潰れて、また立ち上がるしか無い。
他に、私に選べる選択肢など無いんだと思う。
自分に失望した分、他者を失望させてしまった分、この先結果を出していくしかない。
一人前の研究者に、なれるか自信はないが、なろうと努力するしかない。
結果はすぐには出ないから、きっとまた暫くは、挫折感や敗北感とのにらめっこだ。
失った期待や信頼は、一朝一夕には取り戻せないし、そう簡単に一発逆転は起きない。
また1つ、恥を上塗りしてしまった。
しかし、挫折や敗北から這い上がることだけは、幸か不幸か慣れている。
博士号に見合う研究者たるべく、今回の反省点を、今後に繋げていこう。
私はきっと自分に甘いし、世界は私に甘くないから、今後もっと苦しいだろう。
それでも、頑張る。
3日も泣いて寝込んだ。