はてなキーワード: 本間とは
全国でも稀な、瓦礫受け入れを断固拒否した市長として、ある意味有名な我が札幌市市長(大恥)ですが、
周りについていらっしゃる方々も(ある意味)凄い方ばかりです。。。
らと、定期的に札幌「市民」を元気にする為のセミナーやらゼミナールとかを開いておられたりします・・・・・。
ちょっと、公式のInformationをさらっただけでもこのあり様。
http://www.uedafumio.jp/info.html
こんな方ですが、2007年から勝ち続けていて現在3期目、2015年春には4戦目を本人が闘うか、別の候補を立ててくるかするのだと思いますが、
既に、↓のような水面下での闘いがあったり・・・
(要するに、唯一、奴に勝ち目がある自民候補の本間奈々氏を、地元の経済関係者ら伝いに別の候補者を推させて、上田の息のかかった奴と入換え、早々に潰そうとする流れ・・・)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/515747.html
ほんと、目の前で左巻きな方々の盤石たる横綱相撲を延々と観続けさせられてる身にもなってやって下さい。。。今回の都知事選ですら日本の地方選挙に置いて、どんだけまだマシな部類だったかというね・・・。(そもそも、左巻きの候補者しか出られない地域すら多々・・・)
ちなみに、ちょっと漁っただけでも上田さんのアレな話は枚挙に暇が・・・
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/51329026.html
http://blog.goo.ne.jp/mazuka2002/e/6cb6ed128c2a49291b48eeba0b7a8c28
http://anond.hatelabo.jp/20120207002438
以前同タイトルの文章を書いた者だが、あれから色々と考えてみた。
それによって、『あの花』という作品に対する根本的な理解が進んだかもしれない。
つまり、「案外あの作品のスタッフは、『あの花』のことを好きなんじゃないか?」という発想が俺の頭に浮かんだのである。
あの作品のコンセプトが如何なるものかと言えば、
“何か特別な力を持っていない虚しい人間でも(まあ霊視のことはさておき)、人生を肯定するに足る思い出なり価値なりを享受できる”
ということに尽きる
そう、あの作品のコンセプトには、ある種の虚しさというものが含まれているのである。
ここからが文章の本題なのだが、俺は、この虚しさというものが、作品の中で具体的な形を取っていることを発見した。
それはつまり、作中に登場するキャラクター、本間芽衣子の死である。
彼女の死が、『超平和バスターズ』の中にある種の空虚を生み出した。
そしてそれ故に、彼らは分解をきたす。彼女の死によって失われた何かが、彼らの強固な絆を分解させたのである。
しかし問題は、その空虚さとも言える部分こそが、彼ら『超平和バスターズ』の再会の原因にもなっているということなのだ。
分解していったメンバー達。彼らの中でもっとも強い喪失と、空虚を抱えていたのが、あの作品の主人公の一人でもある、宿海仁太だ。
彼の抱えていた喪失は計り知れない。そして、その喪失を埋め合わせるかのように、ある日から彼の眼前に本間芽衣子の姿が現れるようになる。
さて、ここからは別にそう多くの量の文章を紡ぐ必要はない。というのも、この文章におけるもっとも重要な部分は既に、先の部分で述べてしまったからだ。
つまり、『喪失によって、分解をきたしたメンバーが、更にその喪失によって、再び絆を取り戻す』ということだ。
物語の中心に空虚が据えられ、その空虚によって展開されるドラマ自体も拙いもの。でも、彼らが絆というものを取り戻したその深い原因には、彼らを分解せしめたその『空白』そのものが、当てはまっていたのである。
こういった物語の構造は、中々上手くできている部分ではあるだろう。この文章を通して俺が言いたいのは、そういうことだ。
であるから、スタッフも案外この物語を気に入っていたのかもしれない。というのも、まあ具体的なストーリー自体は少々拙いものであるかもしれないが、しかしその物語の構造そのものは、やはり評価するに足るものであるかもしれないからだ。
その喪失。喪われた空白部分にこそ、『あの日見た花』は咲き得るのかもしれない。
単語を構成する文字を間違えるのはありえない、「ねこ」をネカとは間違えようがない、というのはわかるけど
「だわ」って単語じゃないよね?
助動詞の一部「だ」と終助詞の「わ」に分けられるものじゃないの?厳密な用語は知らないけど。
「だは」と書く人々は、きっと「は」と「わ」の働きの違いが頭に入ってないんだと思う。
もともとは、数年前に「ほんま(本当に)」を「本間」とあえて変換するのが若者の間で流行ったのと同じように
あえて間違った表記にするのがカッコいい、みたいにして始まったのではないか?と私は推測しているんだけど
今となっては「だは」はアタマの弱い人を見分ける指標みたいになってるのが面白い。
それとは話がズレるけど、カギカッコを正しく使えない人が結構いるのが気になる。
・その時父が「そうだよな」と言ったんですけど と書くべきところを
・その時「父がそうだよなと」言ったんですけど (カッコの中身にセリフ以外も入れちゃう)
・その時父が「そうだよなと言ったんですけど、~・・・・ (カッコを閉じない)