ラストシーンが期待通りのものじゃなかったっていうのが大きいね。期待外れと言うか、それまでの文脈にそぐわないラストというか
しかしそれでも俺は『あの花』に対してある種の好意を抱いてもいる
というのも、『あの花』という作品がある特定の人々を傷つけるようなシロモノであるからだ。
「傷つける」ということは一体どういうことなのか? ということはこの場では一旦後述に回すとして、まず、『ある特定の人々』が一体何を指すのか、について言及することにする。
『ある特定の人々』。それは誰か?
スタッフだ
特に、中心的なスタッフであればあるほど、あの作品によって多かれ少なかれダメージを受けているに違いないと私は思っている
何故なら、あの作品がいわゆる商業用ジュブナイル作品であるのが一つ。そして、もう一つはあの作品が失敗作だからだ
あの作品は商品であると同時に、ある種の内的な息遣いというか、核となる生命力のようなものを欠いた作品だからだ
あの作品において核となる生命力が欠如していることは、そもそもの作品のコンセプトを省みれば一目瞭然である。
というのも、あの作品のコンセプトが如何なるものかと言えば、
“何か特別な力を持っていない虚しい人間でも(まあ霊視のことはさておき)、人生を肯定するに足る思い出なり価値なりを享受できる”
ということに尽きるのである。
つまり、『あの花』はその基底となるコンセプトから言っても、中心的な何かを欠いた、ある種の虚しさを湛えた作品であるといって差障り無いのだ。
ただ、ドラマツルギーとは往々にしてそういうものだ。それ単体ではさしたる価値を持たない物事の羅列が、ある種の偶然によって価値を持つようになるのは、ドラマツルギーの特徴だ。
私は別に、そのようなドラマツルギー全般のことを空虚なシロモノだと言って否定しているわけではない。
しかし、あのスタッフたちは、特にその中核的なスタッフたちは、あの作品によって生み出されたドラマに、どれほどの価値を感じているだろうか?
『あの花』とは、その程度の作品だ。
しかし、私はそれ故に、その不甲斐ない出来の故に、『あの花』にある種の魅力が芽生えるのを感じるのだ。
それは、あの作品が製作者たちのジュブナイルを、多少なりに切り売りした形で生み出された作品だからである。
そして、そのように思い出を切り売りしてまで作った作品に、あの程度のドラマ性しか付与できなかったということが、恐らくは中核的なスタッフの心をえぐり、ダメージを与えているからである。
ジュブナイル――つまりは彼らの思い出そのもの――というものを、はした金の為に切り売りして、そして結局あの程度のドラマしか作れなかったという事実は、恐らくスタッフの中の数人の、ナイーブで温かく息づいていた部分を傷つけたことだろう。
そしてそのような失敗作としてのダイナミズムを持っているからこそ、私は『あの花』に対して好意を抱いているのである。
スタッフの方々、貴方達の後悔はすぐに貴方達本人によってさえ忘れられてしまうだろうが、しかしそのひとときの味わいが甘美であることには、間違いあるまい。
http://anond.hatelabo.jp/20120207002438 以前同タイトルの文章を書いた者だが、あれから色々と考えてみた。 それによって、『あの花』という作品に対する根本的な理解が進んだかもしれない...