ここまでネタバレに怯えるのってなかなか出来ないと思うんだ。
もう少しネタバレに怯えていたい。
その隙間の中で思春期の繊細で尖りきったささくれた神経の棘に包まれたハリネズミになって、その気持ちでエヴァを見たい。
まだ俺のコンディションはエヴァに追いついてない。
だけど、時間はない。
すぐに誰かがネタバレを始める。
見てきた人間が語る全て、語らない全て、生きること、その全てが。
尖ってきた。
あと少しで整う。
水曜?いや金曜まで引っ張る?
土曜まで引き伸ばせる?
極限まで心の奥から神経と恐怖心を引きずり出して恐怖心の塊になって、それを割り切ってしまう前の一瞬、その時、俺の体が尿意との戦いを始めるために腰を下ろす。
それをただ願う。
間に合うか?
間に合わないか?
俺に、あの頃の壊れやすさを取り戻してなお壊れないように早めに受け身を取らないことができるのか?
この気持ちを、楽しみたい。
友人のほとんどは大学院に進学していたし、当時付き合っていた彼女もまだ仙台にいたので、地震が起きてからみんなの安否がわかるまでは気が気ではなかった。
関東の人が「大変だった」みたいな話をするのを聞くたびに、その程度のことが大変だったとか言ってるんじゃねぇよみたいな気持ちになる。
震度7の揺れとか、携帯電話が繋がらなくて公衆電話に並んだとか、停電のなか星がすごく綺麗だったとか、そういった経験を聞くことはできても、どこまでも想像でしかない。
あの時仙台に居たかったという思いが少しだけあるまま、そんなことを誰かに言えるわけでもないので、そのまま10年が経った。
「復興支援」といったものに積極的に参加しているわけではないけれど、このモヤモヤがいつまでもあの震災を思い出させてくれるので、たまに石巻に観光に行ったり、遠野に河童を探しに行ったり、磐梯の温泉でゆっくりしたり。
そんな関わり方をこれからもできれば良いのかなと思っている。
"Chikatetsu" is not subway. It is the Tube or the Underground. Subway? Why are they talking about sandwitches?
すたんどばいみーどらえもん
努力厨がどう見るのかと書いてるのにアホなのか?
小学生の頃、近所の子のおもちゃ取り上げて返さないちょっとだけ遠い近所の子に「やめろ!バカ!」と言った瞬間
『お前にバカと言われる筋合いはない!』
という言葉が脳内に浮かんできた。すると、間を置かずその遠い近所の子は
「お前にバカと言われる筋合いはない!」
と、なんらかのアニメか漫画で見聞きしたであろうセリフ回しで俺に反論をしてきた。
中学生の頃、お母さんが銀行のATMで振り込みだか振り替え作業をしているのをじーっと斜後ろで待っていたら、隣のATMで知らないおばさんが振り込みだか振り替え作業をしていて、そちらのほうに視点を移した。画面の推移を見守っていると、
という名前が頭に浮かんだ。(正確には、そんな雰囲気の名前だっただけでもう覚えていない)
なんだそりゃ誰やねん。と片隅で思いながらもおばさんの操作を見守っていると、おそらく振込先の名前を入力していたであろう作業(もしくは、振込先の口座の名義が表示されるような作業)を終えたところで、タッチパネルには
という文字が映っていた。
大学生の頃は麻雀を打っていたときに何回かあったがあんなもんは選択肢が限られているゲームなので、直前までの迷いをただの直感と勘違いしていただけかもしれないので割愛。
というか、いちいち人によって保障の条件変わるのめんどくさいから、どんなにすごい保証人つけれる人でも
可能な限り保証会社にして貰う場合がみたいなこと言われた時もあったな
あれはどうなんだろう
自衛意識が強くてノーダメアピールのために、まったく問題ないって意見を表明しているんじゃないかな
「見せないほうが望ましい」くらいは彼らも思っていると自分としては信じたい
見せるのが「問題ない」とするのが「自衛意識高い」のアピールになるものなん?
見せないほうが望ましいと内心思ってるならたしかに実際には自衛意識高いのかもしれんが、
見せても問題ないって言うのは自衛意識高いのアピールになってなくない?
まともに書けないだけだろw
当初は、使途がせめてきてサードインパクトが起きるから、それを防ぐのが目的だったんだろうけど、Qあたりになるとなにが問題でどう解決するつもりなのかよくわからんね。
思ってるかどうかは関係ないので