はてなキーワード: ピュロスの勝利とは
とある場末の喫茶店。分煙化の潮流が激しくなる中、そこは地元の喫煙家にとって未だ憩いの場であり続けた。
しかし、にわか雨に嫌われた市長が、その店に緊急避難したことで事態は急変する。コーヒーよりもケムリが優先された空間に市長は眉をひそめた。嫌煙家ほどタバコに暗い情念を抱いてはいない。それでも健全であろうとする身の上が、「何か言っておかなければ」という衝動へ駆り立てた。
そんな市長に対し、店内の空気は冷ややかであった。その店を利用している客たちは普段“わきまえている”者が多く、それぞれ喫煙について一家言ありつつも享受している集まりだ。対して、市長の意見はあまりにも周回遅れだった。ウンザリした客たちは、この場において自分たちの喫煙が正当な権利であると主張することにした。それに加えて、市長の展開する議論が如何に古くさく、偏狭に満ちているかも指摘したのである。
論理武装を整えている数名と、杓子定規な竹輪しか持っていない市長。どちらが煙に巻かれるかは火を見るよりも明らかだった。タバコ一本が吸殻になる間もなく、市長は逃げるように店から出て行った。こうして店内は以前の雰囲気を取り戻したが、所詮これがピュロスの勝利でしかないことを彼らは分かっていた。
それからしばらくして、この町に「禁煙法」が制定された。つまりタバコの全面禁止である。何とも極端な政策だと思うかもしれないが、市長のやることとしては日常茶飯事の範疇である。市長は善良で行動力のある為政者で有名だが、同時に無能で単純な政治屋としても有名だ。
地元の風土も考えず風力発電所を作ったり、「足が不自由な人を抑圧する」として公共での二足歩行を禁じたこともある。そんな市長を椅子に座らせ続けているのは自分たちなのだから、この程度で驚くようでは市民は務まらない(言い訳させてもらうなら、候補の中でこの人が一番マシだったんだよ)。
それに今回の場合、一般人たちの反応は概ね好意的といえた。なにせ自分たちの世代はタバコの有害性について耳たこレベルで教え込まれている。公共での分煙化も推し進められている真っ只中だったので、喫煙というものに社会的な有意性も、政治的な優位性もないと考えるのは自然の摂理といえた。市長のやることを訝しげに思いつつも、ほとんどの人はとりあえず賛成派だった。
一部、ヘビースモーカー達による署名活動やデモ等が小規模に行われることはあったが、せいぜいその程度。かの喫茶店の客たちも、この状況を心静かに受け入れていた。
禁煙法ができてから数週間ほど経つと、なんとも不思議なことが起きていた。タバコを禁止しているにも関らず、なぜか喫煙者は以前よりも増えてしまったのである。理由は色々とあるが、ひとつはタバコの定義について詰めが甘かったのが大きい。
そもそもタバコは植物であり、それを原材料にしたもの全般がタバコといえるのだが、市長はこの辺りの知識が乏しく、一般的に普及している紙巻きだけを禁止したのである。実際は多種多様であり。蚊取り線香のように炊くものや、ガムのように口の中に含む物などがあった。中には舐めたり、吹いたりするものもあるのだが、市長はそのことを知らなかった。
厄介なのは、そのほとんどが普及していた紙巻きタイプより“重い”という点だった。紙巻きタバコの代替として使用し始めた喫煙者たちが、より深刻な依存症を患ってしまったのである。
それから何とか定義し直しても、今度は企業とのイタチごっこが待っていた。再定義されても、その度に企業はわずかな隙間を抜けて新たな“タバコのようなもの”を作り出す。特に煙屋が発明した「臭そうで臭くない少し臭い草」は革新的だった。どうすればこれを禁止に出来るかは、今なお思考実験として人気である。
そして取り締まりの問題もあった。何度も再定義するせいで現場の役員は対応しきれず、時に無用なトラブルに発展することもあった。結局、後手に回り続けるしかなかった市長は痺れを切らし、企業そのものに圧力をかけることで流れを止めたのである。
しかし、この選択は逆効果だった。既に喫煙行為は有名無実化している状態であり、市場に出回らないのなら個々人で賄おうとする動きが活性化したのだ。“タバコっぽいもの”を密かに楽しむ人が増え、時にはそれを売り叩こうとする者までいた。栽培そのものは禁じられていなかったため、取締りが後手に回りやすかったのも大きい。
「第一次タバコ自作ブーム」の到来である。このブームを最も苦々しく思う者たちがいた。政府に圧力をかけられたタバコ企業と、それに属する元組合たちだ。タバコの販売ルートは組合で決まりが存在していたのだが、禁煙法でそれが丸ごとなくなってしまった。それをいいことに私腹を肥やす人間が跋扈しているのだから、元組合の者たちは不満を募らせる。
そこで彼らは一念発起し、対抗すべく新たな組合を結成した。「サクリムケ組合」はこうして誕生したのである。組合は市場に出回る粗悪品を排除し、よく出来たタバコを作っていた者はスカウトして組織を大きくしていった。
当然、サクリムケ組合の統制を快く思わない者も多かった。そういった者達で立ち上げられたのが、悪名高き「シューリンガン互助会」である。こちらは烏合の衆の過激派であり黒い噂が絶えない。サクリムケ組合とはしばしば小競り合いが発生しており、そこに役員が介入した日には収拾がつかないことも珍しくなかった。
この頃になると、非喫煙者の間でも「禁煙法は失敗だったのでは?」という意見が蔓延し始めていた。撤廃されるのは時間の問題といえた。いま思うと、あの喫茶店の客たちが妙に冷静だったのは、いずれこうなることを予期していたからなのだろう。
そして某日、いよいよその時はやってきた。サクリムケ組合とシューリンガン互助会による大規模な抗争である。嫌煙家に「副流煙と中年ヘビースモーカーの方がマシ」とまで言わしめた激しい争いだった。禁煙法によって生まれた組織を解体させるには、禁煙法を失くすしかなかった。
これが禁煙法による大まかな歴史だ。喫煙問題が取り沙汰される度に、この出来事を挙げる人間は多い。その対象が如何に有害であっても、権利そのものを奪えば支障が発生する。その典型的な事例である、と。
だが、この出来事には裏事情がある。禁煙法を撤廃する代わりに、タバコの税率が大幅に上げられたのだ。そして、これは政府にとって予定調和だった。というより、タバコの税率を上げることこそ本命だったらしい。市長は人々の健康を願って「禁煙法」を提案していたが、政府の思惑はもっと別のところにあった。
税金を何とか工面したい、市民にもっと納めて欲しい状況。だが、税金には大義名分が必要だ。喜んで負担するとまではいかずとも、「仕方ない」と思える程度の理由がいる。かといって、あまり踏み込んだ話をすると国民は警戒してしまう。注意を逸らしつつ、実際に論じるべき問題から遠ざける必要があった。その条件を満たすのに、タバコは丁度よかったのである。
だからといって皆にスパスパ吸われても、それはそれで困る。不健康になって医療費が嵩んでしまっては本末転倒だからだ。タバコによって不健康な人間を増やさず、その上でタバコで儲ける。このパラドックスを成立させるには、タバコに対する問題意識を国民にしっかりと持ってもらう必要があった。義務教育でしつこく教わるのも、分煙化の潮流もその一環だろう。
それらを踏まえると、「禁煙法」なんていう突拍子もない政策が通ったのも納得がいく。本当の目的は、喫煙に関する問題意識の植え付けと、税金徴収の大義名分を手に入れるための物語作りにあったのである。喫茶店の客は、後にそう語っていた。
これを若い頃にやり過ぎてしまうと、いわゆる中二病だとか高二病だとかになりやすい。
かくいう俺も、これに片足を突っ込んでいる状態だった。
周りの人間がどうでもいいことに時間を費やしていて、それがとても愚かしく思えたんだ。
何の気なしにオススメの作品を聞いてきたり、作品一つの解釈で繰言を交わしたり。
意味のない議題に花を咲かせ、前提を共有しないまま漠然とした話を延々と続けたり。
問題にならない問題をあげつらい、ピュロスの勝利を追い求めて駄弁を繰り返したりしている。
皆が全く違う方向を向いたまま、形だけのコミニケーションを成立させているようだった。
その様相を冷めた目で見るなってのは、斜に構えたティーンエイジャーには無理な相談だろう。
勿論それはネットに限った話じゃあない。
むしろ現実の方が、その“エグ味”は尚さら際立っているかもしれない。
あれは確か、衣替えの時期だった気がする。
上着は絶対に必要ないけれど、長袖か短袖かというと悩む、そんな中途半端な気候だった。
そして俺はというと、その日の衣選びを失敗していた。
「……寒いな」
原因は、毎朝みていた情報番組だ。
そこで流れる天気予報は非常に信頼性の高いものだったが、問題はそれを伝える予報士にある。
いつもは中肉中背の男性がやっていたんだが、その日だけなぜか肥満体型の生物が予報士だった。
その時点で勘付くべきだったが、寝起きの頭では難しかった。
当然、この恨み言は八つ当たりだ。
デブの「短袖が丁度いい気温でしょう」を信じた俺に落ち度がある。
あの予報士と同じ体型の人間にとっては、少なくとも嘘じゃないんだから。
ここ数日の展開みてて思ったんだが、もしかして、このままやらかしてしまった方がいいんじゃないダロか。
彼の国の連中は、やれ空母だステルスだと元気いっぱいで大金注ぎ込んでいて、技術的にも次第に洗練されてきているし、格差の拡大とか色々あるにせよ、国力も順調に畜えてきている。対するこちら側はデモグラフィックに否応なくヂヂババ化しつつある上に、財力や影響力の点で、この先二十年・三十年と世界第二位だか第三位だか、そんなポジションに付けたままでいられるとは、残念ながら思えない。
もちろん、今のままやらかしても無傷で勝つどころか、ヘタすりゃ在留邦人に数千人の犠牲者が出る可能性だってあるのは承知しているが、ドンパチが避けられないのであれば、勝ち目のあるうちにケリをつけちまった方がいいんじゃないだろうか。
仮に、この先二十年ばかり先延べして、向こうさんが準備万端で出てきたときに(チベットで色々やらかして、昨日もデモ隊を見事に『コントロール』しつつ日本企業に焼き討ちをかけていた彼の国が、高々二十年でこちらのルールを尊重するような紳士的な国家に大変貌を遂げるなんてとてもじゃないが信じられない)、こっちがその上を行けるんなら先延べにも意味はあるだろうが、向こうが中華イージスと中華ステルスを装備した空母機動部隊を投入してきたとき、こっちが日の丸ガンダムやら衛星ビーム兵器でそれを迎撃できるようになっているとは考えにくい。
技術的アドバンテージがこっちにあって、勝てるうちにケリを付けるのと、アドバンテージが無くなるまで待って、民族浄化とか平気で出来る連中に負けるのじゃ、ピュロスの勝利の方がまだマシな気がするんだが、どうなんだろう。
ただ、今やって勝ってしまっても後腐れは出てくるだろうから、思いっきり悪辣に、時間をかけて工作を仕掛けて、彼の国がバラケるように仕向ける必要が出てくるんだろうなぁ。それはそれでやっぱり日本人に向いている作業だとは思えないから、なるべくそーゆーのが得意な人たちに任せるべきなんだろうな。