ブロガー鷹野凌のブログ「見て歩く者」の著者が過去に漫画「ヨコハマ買い出し紀行」のアイコンを使用していたことはここでは追求しない。
問題なのは、ブログ「見て歩く者」の著者がGoogle+で漫画「ヨコハマ買い出し紀行」に登場するキャラクタの名前「鷹津ココネ」でGoogle+ページを開設し、そのキャラクタのアイコンを設定していることだ。
私は未だかつて、ここまでひどいブログ記事を見たことがない。
私だって、たまにクソ記事を書くことはあるけれども、ここまでひどいことは絶対にない。
泥棒が「泥棒は悪いことなんですよ」と語ることや、いじめっ子が「いじめをなくそう!」と語ることと何が違うのか、私には全く分からない。
「著作人格権の侵害は犯罪です」と語るブログ著者が自信の起こしている問題に無頓着であることは、知らなかったで済まされる話では絶対にない。
無断転載と著作人格権についてブログ記事で雄弁に語る著者自身の著作権意識が“その程度”だったということだ。
これは、ブログの読者にとって全くフェアな話ではない。
それはつまり「賠償は必要か否か」(賠償の問題)と「強制連行はあったか否か」(歴史認識の問題)は完全に独立した問題だということでしょ?
賠償の要不要を論点とした場合には「既に決着している」が通用する。
一方、政治家の「強制連行は無かった」発言およびそれに対する反発に関しては、「既に決着している」は通用せず、また別の議論が必要だ、ということでは。
はん?
まず俺は、
君の、
に対して、時系列が逆なんだよって説明をしてあげた。
これはいいよね?
その後言い出したように
君が単に、政治家が「強制連行は無かった」と発言すること自体が問題だと言いたいだけなら
1とか2とか言う必要なかったんじゃねーか
まあ例えばの話だよ……
なぜ北や西には触れないのか
末期がんの家族を看取って、自分も子宮頸がん2回手術した増田です。
その旦那みたいな人て結構いるもんだよ。入院や手術となると臆病になる男の人の話をいくつか聞いた。
うちの相方も、怖いからか入院中は見舞いに来なかった。心配してたはずなのに、何度言ってもこなかった。退院時に荷物持ちに来てくれたは来てくれたけど、傷口開くと困るからと言ったから来ただけかも。
本気で迷惑と思ってる可能性もあるけれど、怖い?から避けてる可能性もあるかもしれない。
別スレで家族の方が大変とか本人の方が大変とか言い張ってるスレあったけれど、どっちが辛いなんて比較できるようなレベルじゃない。どっちも辛いんよ。
むしろ若い子に囲まれると思ってる男は痛い目見るかも。
一番離れてるとこで15歳の年齢差とか距離置かれそう。
女は基本女同士で群れるし。ぽつーんと取り残される男とかいそう。
我々の心が表象する〈道〉という概念が、たとえば単純な位置を示すものではなく、いわゆる便宜的なものとして表象されていることには何か秘密があるとは考えれんかね?
まあ散歩でもしながら考えてみてくれよ
おまえの日本人観なんて誰も聞いてねーよ。
「水に流す」ことと「忘れる」は別物だよ。
すでに終わった事を、いつまでもグジグジ怨み節を言い続けるのは韓国人くさくて嫌いだね。
それが日本人だと思う。
それはつまり「賠償は必要か否か」(賠償の問題)と「強制連行はあったか否か」(歴史認識の問題)は完全に独立した問題だということでしょ?
賠償の要不要を論点とした場合には「既に決着している」が通用する。
一方、政治家の「強制連行は無かった」発言およびそれに対する反発に関しては、「既に決着している」は通用せず、また別の議論が必要だ、ということでは。
誤射バカの罪は「バカだったこと」。
「叩くな」なんて言ってる人間は1人も居ない
誤射を出さずには叩けないようなバカ以外がモンカマオッサンを叩けばいい
Yes→2へ
No→問題なし
Yes→問題なし
No→3へ
よく見かけるのは、政治家が「慰安婦が強制連行された事実は無かった」と発言して反発を食らうパターンなんだけど、
2のYESまで進んでいるとしたら、上記のような発言は問題になるよね?
問題にならない。
なぜか?
2の賠償は従軍慰安婦という話が持ち出されるより前になされているから。ずっと前に。
もろもろ全部、もし後から出てきてもその分もまとめてってことで、1965年に決着をつけたの。
2の謝罪・賠償・決着が済んでるのね。
実際の時系列的には2のYESのあとに1自体が持ち出されたわけ。
…もっとはっきり言えばさあ~
戦後20年、十分調査も申し立ても終わってるはずの年月を経て、
そこから更にン十年もたってから「従軍慰安婦があった!」「漏れてた!」
って言い出す韓国の異常性のせいで時系列が逆転してるだけだから。
勿論条約にそんな抜け穴は無いから、「漏れてた」を相手する義務は無いんだけど
それ以前に、なんでいったい、そんなことが何十年も漏れてたんでしょーね。
という書き出しで始めたいんだが
そうすることで、最短距離で目的地点へと移動できるわけだ
でも、僕は〈東〉っていう方向は本当は存在していないんじゃないかと思う
我々は便宜的に、〈東〉っていう言葉を使ってるだけなのだ、結局のところ
我々が道を行く時に、たとえば東を目指せば、毎回東京やらなんやら、いわゆる〈東〉にある都市に到着する
そういう風になってる
同じ道を辿れば、同じ場所に着く
でも、僕は時々、その常識が便宜的なもの以上のものではないんではないかとも思うのである
つまり、我々はいつも同じ道を通っているようで、同じように東を目指しているようで、実は全く違う道を、全く違う方角を目指しているのではないかと思うのだ
我々がそれを、「同じ道を、同じ方角を、辿っている」と認識しているのは、あくまで便宜上の問題でしかないんじゃないかと思うのだ
我々は毎回のように学校を目指し、あるいは仕事場を目指す。そして同じ道を通って行く。
でも本当は東なんて無いのだ、南も無い。毎回我々が同じ場所を目指したとしても、その方角は常に違うし、その道も常に違うものなのだ
いや、仮に裁判起こすとかいうことになったら被告席に立つのは誤射バカだから。
例えば大津イジメに憤慨したバカが同姓同名の別人を殴って重傷負わせたら、しょっぴかれるのはいじめっ子とか学校関係者じゃなくてその傷害現行犯に決まってるじゃん。
ん、日韓基本条約では何が解決されたの?