という書き出しで始めたいんだが
そうすることで、最短距離で目的地点へと移動できるわけだ
でも、僕は〈東〉っていう方向は本当は存在していないんじゃないかと思う
我々は便宜的に、〈東〉っていう言葉を使ってるだけなのだ、結局のところ
我々が道を行く時に、たとえば東を目指せば、毎回東京やらなんやら、いわゆる〈東〉にある都市に到着する
そういう風になってる
同じ道を辿れば、同じ場所に着く
でも、僕は時々、その常識が便宜的なもの以上のものではないんではないかとも思うのである
つまり、我々はいつも同じ道を通っているようで、同じように東を目指しているようで、実は全く違う道を、全く違う方角を目指しているのではないかと思うのだ
我々がそれを、「同じ道を、同じ方角を、辿っている」と認識しているのは、あくまで便宜上の問題でしかないんじゃないかと思うのだ
我々は毎回のように学校を目指し、あるいは仕事場を目指す。そして同じ道を通って行く。
でも本当は東なんて無いのだ、南も無い。毎回我々が同じ場所を目指したとしても、その方角は常に違うし、その道も常に違うものなのだ
こういう馬鹿な文系は文系コミュニティの中で自浄作用的に排除するようにして欲しい
我々の心が表象する〈道〉という概念が、たとえば単純な位置を示すものではなく、いわゆる便宜的なものとして表象されていることには何か秘密があるとは考えれんかね? まあ散...
なぜ北や西には触れないのか
まあ例えばの話だよ…… あと適当に〈東〉って言葉を使っておけば旧約聖書とか思い出して深遠な意味を感じてくれる人が出てくる気がしたから
「まあ例えば」の話のわけがない わざわざ書き出しを決めて始めたいとまで言っているのだ 「適当に東って言っといて箔をつけたい」が本命だろう みっともないやつだ、所詮「適当」...
また気が向いたら書いてよ。