品薄マーケに乗って きなこ黒みつ と みたらし胡桃 食ったわけだよ
アイスの中にもちが入ってて、雪見だいふくか!ってツッコミを一応入れておいた
まあ、そんな大差はないわな
ただ、きなこはモチに合うし、黒蜜のアイスってのがモチに合うから
そりゃあ、そこそこうまいんだな
モチだけ食うとコレみたらし団子だと思うんだな
そりゃそうだよ
ダメなんだこれ
みたらしが強すぎる
みたらしの味ばっかり
甘じょっぱい
バニラの甘さが加わるとなんかしょっぱさがちょっと強調されるのかな
つらい
まずくはないと思う
これらの新聞の表向きの『メリット』は、子供が時事ネタに強くなったり、読解力が付くことである。
そのため、中学受験を考える家庭で、これら子供新聞の購読率が高い。
(そのためか、中学受験コーナーがあったり、進学塾の宣伝もある。)
でも、難関校を目指す子供なら、中学年の間は兎も角高学年になると、
(子供新聞じゃない)大人向けの普通の新聞くらい、読解する能力は身に付けている。
そういう家庭において、父親の読む日経新聞・朝日新聞・読売新聞を、子供に読ませるか?
少なくともウチの家庭では、読ませたくない。
多分ウチの子なら読解できる能力はあるが、でも読ませたくない。
それは何故か?
さらに社会面に『●●市で婦女暴行事件発生』とか『強盗強姦事件の裁判で・・・』みたいなニュースが遠慮なく並んでいる。
そういうニュースを子供が目にして、『強姦って、なに?』と質問されるのが、親としては非常に『避けたい』のだ。
子供向け新聞なら、『強姦』『レイプ』『援助交際』『慰安婦』というニュースは、取り上げられなくなっていて、『安心』できる。
テレビやら新聞やらが、東日本大震災振り返りシフトに入っている。
被災地の今も伝えられている。
復興への道程は今どのぐらいか、という切り口のものを多く見かける。
地震のあった年には、まだ、たまに、以前と同じ町には戻らない、とか、
元々緩やかに消滅に向かっていた町の、消失が突然訪れたんだという論調も見かけたのだが
最近はそういうのもあんまり見かけない。埋もれてるだけかもしれないけどさ。
東日本大震災の被災地が復興する、というのが、どういう状態を想像しているんだろうか。
その辺のイメージが、イマイチ良く見えてこないのが、何ていうか偽善的で気持ち悪い。
震災の半年後ぐらいから去年の始めぐらいまで、ボランティアで、ある町に、2月に1度通っていたのだが
地元の人と話していても、そういう「どういう状態にまでしたいのか」と言うイメージが伝わってこなかった。
そういうもんなんだろうか。そのように、ある程度共通のイメージを持たぬまま、カオスに詰み上がっていくのかな。
それはそれで、悪くない感じもしないでもないけれど。
自分も経験があるし、むしろその主催者側に立ったこともある人間だけど。まちづくりのセミナーや企画イベント自体は良いと思うよ。いろんな立場の人たちを巻き込んで、定期的にやっていくべきだとも思ってる。
いろんな人たちの目線から、地域の課題が掘り起こされて、それをどう解決していくかの意見を出し合い、実現できそうなものは実際に実現するように動く、というのが、こうしたセミナーの本質だと思っている。
初めて会った人たちなのに「今日からあなたたちは仲間です」とか「私たち最高!」みたいな雰囲気。
イベントの最初と最後に「チェックイン」といって意気込みとかを一言ずつ輪になって言ってみたり。
「原体験を自分に聞いてみて、それが本当にやりたいのか考えよう」とかメンタルトレーニングみたいな感じ。
いろんなまちづくり系のセミナーに参加したけど、こんなことは経験ないな~。どんな講師(ファシリ)がやってるのか分からないけど。でも、そんな講師にぶちあたったのであれば、あなたの怒りも分かる気がする。自分も次は参加しない。
その場で思いついたアイデアなんかが、他の人のアイデアと積み重なっていって、その場限りで盛り上がるのはよくある話なんだけど、参加者がアイデアを出しっぱなし、言いっぱなしで、「あー楽しかった」で終わってることが多いし、それじゃまったく意味がない。
まちづくりセミナーや企画イベントを盛り立てる側がやらなきゃいけないのは、場で出たアイデアを具現化して、最終的には参加者自らが実現・実行させることで、「自分たちがこの地域のまちづくりにきちんと参画しているんだ」という課題認識と行動を植え付けること。ここに、業種や立場、年齢や性別を超えた地域活性化(この言葉嫌い)やまちづくりの基礎がある。
だから、「それが本当にやりたいのか考えよう」とか言って、せっかくのアイデアをすべてぶち壊しにするような進行をする時点で、何か違うと俺は思うんだよね。
その採点する先生の心情や価値観で答えが左右されかねない質問とかでてくるでしょ。
それを時折行うことがある
しかして、その人の悪口や軽口に殊の他、傷付いた振りをするのだ
無口になり、「いや、いや」以外の言葉を発さず、目を見ず、下を見つめ、表情は微笑か無表情を保つ
人の雰囲気を読むのに長けている人ほど、気を使ってくれる
あるいは、そういう振る舞いを見るのが楽しいのだろうか
こちらこそうるさくしてごめん(´・ω・`)
なんでみんな働いてるんだろう、とよく考える
生きるために働いてるんだと言われるとなんで働いてまで生きたいのかと思う
多分働くのも生きるのもそんなに苦じゃないんだよね?
自分は今のところ働かなくても生きていけてるからこんな甘ったれたこと言えるんだけど。
もし働かないと生きていけない状況になったら自分はどうするんだろう…
もし病院に行ってお医者さんに病気じゃないと言われたらもうどうしていいかわからない
昔はもっと社交的だったのに、とは思うけど
いつからこんな考え方になったんだろう
親に申し訳ないといつも思うけど、恨みみたいな気持ちもある
嫌なこともつらいこともしたくない
そういうことか。怒ってごめんね
授業にするっていうことそれ自体はいいんだろうけど、現在の小中学校教諭にマイケル・サンデル並の教育能力を求めなきゃ意味がないとも思う。
例えば船に乗ってるときに事故にあって、自分は浮いてる木につかまってれば救助されそうなとき
近くからその木をめざして泳いでくる別の人がいたときに逃げたり追い払ったりするのは画一的に評価すれば道徳的に悪=不正解なのってことになちゃうじゃんね。
口先では「自分が溺れても他の人を助けます」なんていくらでも言えるんだし。
日本人は建前と本音の使い分けが上手だから実際にそうなったときに「そうはいっても自分の命って大事でしょ?」とか笑顔で同意求めるのかもしれないけど、それって道徳の授業にする意味ないじゃん。
つーかただの受験科目か推薦のための点稼ぎに落着いてただの天下り先が増えるだけじゃん。
どうせ道徳を授業にすんなら、行為のどこが正しくてどうしてそう考えるのかっていう論理とか哲学とかの分野に踏み込まないとお偉いさんの言ってるような効果ってのぞめないんじゃねーの。
要するに、無駄なことやめろって言いたいだけだけど。
仮に嫌なことがあっても、不特定多数が見られる場所では言わないって奴多いだろ