はてなキーワード: 文体模写とは
たしかにこれは似てる。
じゃあ俺もひとつ書いてみるかとエディタを引っ張り出してきた。どれだけ似せて書けるもんかな。これをご覧の方もやったらいいんじゃないんですかね。んで、最終的には全世界の人間が「仰向けに寝転んだところに幼女のおしっこを浴びたい」などと発言するネット空間を目指すのはどうでしょうかね。だめか。
といっても元の文章がうまくて書くことがない。「おすそわけ」の部分はまさにそのとおりだなと思う。あと「原初的な感動」のとこ。俺自身、人生がクソみたいな状況にあっても誰が読むわけでもない言葉をエディタにたたき続けてきた。今も紙とペンがあればなにかしら書いている。それは呪いだ。ずっと昔、今から見ればゴミでしかない俺の文章をたまたま何人かが見て奇跡かなにか知らないが、面白いなと笑ってくれた。そんな呪いだ。そのときの胸にこみあげたなにかが、たぶん元の文章で言う「原初的な感動」なんだろう。まあ俺にはこれ、感動であり呪いとも思えるんですけどね。
でも、「読んでもらえる」ということだけですばらしいのは紛れもない事実。ただこれは「読む」だけじゃない。俺にとっては文章だが、ブログにのっけるのは絵でも写真でも動画でもいろんな形がある。内容だって万人に役立つライフハックネタだとかでも、アニメの画面からかぎ取った幼女パンツの香りの考察だとかでもなんでもいい。読んでもらう、見てもらう、聞いてもらう、それでなにかをおもしろがったりしてもらう。中身に巧拙の差はあるだろうが、それが俺の理解できるブログの形だ。
だから、炎上とかを狙って人目をひくことが理解できない。良い悪い、でなく俺個人が理解できないだけだ。イケダなんとかさんは名前をよく聞くし、文章も何度か読んだことはあるはずだが覚えていない。なので、イケダさんのことでなく炎上だとかのこと、元の文章で言うなら「付加価値」を利用して人目をひくこと全体に言及する。しかし元の文章のこの言葉選びはうまいな。
で、俺はそういう付加価値による集客で文を読ませることが理解できない。いったいその文章でなにをどう楽しませたいのか、それが俺には見えないからだ。
というわけで元の文章と俺は同意見で、「んじゃあ俺が書く意味ねーな」となった。だけど、それでもなにかしらをひねり出してでも書かなければならない。でないと、あれを書いた人に対してなぜか申し訳ない気分になってしまうのだ。これは私情であり、今読んでいる人たちには関係ないわけだが、可能なかぎりには超うまいカレーを作るつもりであるので、楽しんでいただけるとうれしい。俺がうれしい。
さて、上に書いたように理解できないわけなんだが「分からない」で終わるのも面白みがない。
で、無理にでも考えてはみたのだが、「ブログというものの意味が今と昔では違う」という、手垢がつきすぎて誰も口にしないレベルの結論しか浮かばなかった。そりゃそうだ。俺の「ブログ=文章をのせる場所」なんて認識がもはや少数派の思考でしかないのだから。
現代で求められるブロガーは、ブログに書いた文章を介して多くの人間に影響を与えられる書き手だ。もちろんその中身が面白ければそれに越したことはないが熱心な読み手との交流といった付加価値で影響を与えてもいい。twitterで仲間を広げる、セミナーで弟子を集める、オフ会で友達を増やす、そうして輪を作ってその中に文章を投げる。
勘違いしている人も多いが、その輪に投げられた文章は実に「面白い」のだ。笑いのプロが真剣に時間を掛けて考えたネタ以上に、仲間の間で次々に産まれるバカ話が面白かったりする。炎上なんてものも、身内だと武勇伝として熱く語られる。その「面白さ」には優劣も貴賤もない。プロだろうが素人だろうがだれかを楽しませるのは同じ。むしろ「面白さ」を生み出そうとする情熱も能力も、仲間向けのブロガーの方が高いこともある。外部から見ればなにひとつ面白みの感じない文章であろうと、仲間の嗜好にあわせきった珠玉の文章だったりするわけだ。
俺は、優れたものにはなにかしらの熱意があると信じている。ただむやみやたらに暑苦しいだけでなく心地よい熱意。そうした熱意のこめられた文章はやはり人目を強くひく。
だが、新しいブロガーのその熱意は文章だけに注がれているわけではない。だからダメだとかいいたいわけじゃない。彼らは外部から見えるブログの文章ではなく、彼らとその読み手がつながる世界を面白くすることに熱意を注いでいる。彼らはまぎれもなく誰かを明確に楽しませているのだ。
だとするなら、俺がイケなんとかさんとかのブログを見て、「なんも役に立つもんねーな」と外から言葉を投げたところで、彼らの世界にはなにも届きはしないのだろう。だからまあ、関わるだけムダとも言える。てか、批判している側の人間も意外と中に入ってしまえば楽しめるかもしれない。世の中には交流の力も文章の質も並外れて高く、あふれる熱意でとんでもない規模の「内輪」を形成しているブロガーもいるだろう。そういう人間になら、俺は素直に感心したいと思う。
しかしだ。こんなものは旧世代の人間のつまらない感情でしかないのだろうが、俺はただ寂しい。
文章一つで見ず知らずの誰かの心を強く揺さぶったときの、書き手としての感情。どこの誰とも分からない人間が書いた文章に腹がよじれるほど笑えた、読み手としての感情。それらは本当にかけがえのないものだったと思う。ブログの書き手とブログの読み手、ただそれだけでつながるようなブログはどんどんと消えるのだろう。SNSなんかが広がってこれだけ簡単に人と人がつながれる時代なのだから当然の流れだとは分かっている。
だが俺はそれでも思う。文章が自由に書け、それが誰かに読まれる。ただそれだけでもすばらしいことなのだと。
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とまあ書いてみたけど、私の文章で一瞬でも「もしかしてこっちが店長かな」とか疑ってくれたら幸い。(うーん、読み返してみたけど全然やった…)
私は底辺ブロガーなんで特定される心配はないけど、やっぱ店長はすごいな。元の増田を見返しながら書いたけど、見れば見るほど文体から店長っぽさが伝わってくる。
もしも他の人が文体模写で書いたっていうなら、それもまた超弩級の変態技術の持ち主だわ。
まあ、この文章は店長好きの気持ち悪いファンレターだと思ってくださいな。元増田を見かけて、うっひぃよおぉおおおんん!と喜びまくった勢いで書いた文章です。
今のはてなでは文章で読ませるってブログは少なくなりました。それは時代の流れで仕方ないことなのだと思います。
熱意が不特定多数に向けた文章以外、たとえばPV狙いの炎上や仲間内の交流だとかに注ぎこまれる割合が多くなったってだけで、「楽しませよう」「目をひこう」という気持ちにはたぶん変わらないのだと、私は信じています。
ぺらっぺらの内容の記事がホットエントリー入りしてイラッとくることもありますが、それも今のはてなの一つなんだと思います。
だけど、やっぱり私はまだ見たい。
交流系だろうが、炎上系だろうが、変態アニメペロペロ系だろうが、文書が面白ければなんだっていい。
私自身も微力ながら、でも自由気ままに、文章中心のブログを書きはじめました。(半分休止中ですが)
もっと見たいって言うなら、自分からはじめるしかないですしね。非力であっても。
だから、もしあの増田が店長だったなら言っておきたいことがあります。
そんな言葉なんて、まああればうれしいでしょうけど、本質的に求めていたものじゃないですよね。
批判にしろ肯定にしろ、書いた内容について真剣に言及されたいって思ったりはしないですか。
たぶん、今のままだと、増田に書くたびにそんな反応しか返ってこないと思います。
なので、ブログに腰を据えて、不特定多数に突き刺さるような文章を書いてくれませんか。
じゃないと、いつまで経っても「おかえり」で埋められる反応になるかなって思います。
そんなの寂しいんじゃないかなと勝手ながら思ってしまいました。
この増田を書いたのも、元の記事について、なにかしら踏みこんだ内容の反応を見せたかったからです。
あと文体模写はうまくいかない、という話。
うーん。「雑魚」ってキーワードはもろマルコ用語なのになあ(有名税ってことでひとつ>本物
「○○認定!」っていうのはまあ疑心暗鬼状態にいるとやりたくなるのはわかる。だって敵は少ない方がいいもんね。でも、そこは黙っておくのが得策。
確定的に書いちゃうのは下の下。だってそれ正解してても「だからどーした」的に何の得にもならないし。ただでさえ怒りで目が曇ってるところ、間違ってたら……ご愁傷様です。最低でも1人の味方候補が減りました。
今回みたいな「傍目からみて明らかな文体誤認」はさらに傍観者ボーナスが! みたいな。
えーと、とりあえず両方おもしろい人、というのが分かったのは収穫です。
ご要望通りおれはしばらく去ります。
こんなにおもしろい人がのさばってちゃ、おちおち注目エントリ狙いのネタも書いてらんねーw
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http://anond.hatelabo.jp/20080226185456
うわ。何かいろんな人が(道は違えど)同じ結論に達しつつあるようで。
ネットで知り合った「物書き志望」みたいな人の文章を読まされることが割とよくあるんだけど、あれって辛い。ほんと辛い。
気がつくとこういうのが多い環境にいるんだよなぁ。なんでだ。