はてなキーワード: 国家神道とは
スピリチュアリズムの本質は、「世間はわけのわからない力で動いている」ではない。
世界は、人間が思ったようにしか動かない、一見してどれだけ複雑であろうとも、全ての因果は自分に帰する、というシンプルな事実。
人間であれモノであれ見せかけの神であれ何がしかに依存させる構造を含むものは、全て嘘を含んでいる。
ちなみに、古今東西の宗教は、本質の部分ではだいたい同じことを言っている。
それでも世界三大宗教にしろ日本の国家神道にしろ、あらゆる宗教は、勢力争いの場、支配の道具としての側面が強い。
「わけのわからない・理解できない現実への不安」を支配や操作の道具にするのは、古今東西あらゆる局面での常套なのだと思う。
長い歴史を生き延びた分だけ、ポピュラーな宗教のやり口はまだクレバーなほうで、霊感商法然りカルトしかりマルチ然り。
粗雑な論理と手口でも、不安と無力感に嘖まれた人間は、ほんとうの自由を怖れて、自分たちに安易な現実を齎す他者に縋る。
が、それは実質、毒にしかならない。だけど気付かない。
憎むべきは「神の存在」ではない。
科学を修めて、まっとうに意味を理解した人は知っているように、探求の道程と、指し示す領域が異なるだけで、
科学とスピリチュアリズムは相反するものではない。憎まれるべきは、人に不自由を強いるものであり、不自由を己に強いる自分たち自身だ。
……はるか高みよりあらゆる執着から自由な姿で、幸福と愛に満ちてこの世界を見下ろす「何か」を、時折疎ましく思ったりはするけれど。
神とかスピリチュアリズムとか宗教とか、勘違いしてアレルギーに陥ってる人多いじゃん。
疑似科学に詐かれるのは、「『科学的』であれば正しい」「『科学』が全ての真理である」と(自己判断抜きで)思い込むからで、そんな捉え方だったら、
科学を信じることだって信仰と左程変わらない。それもタチが悪い種類の。神が居るも居ないも、判断できるのは自分自身だけだ。
居ない、と「理解している」なら、それはそれで問題が無いけれど、世界を規定しているのは常に自分自身だ。「科学的にそうだから」、ではない。
とかって書いてもなんか怪しい雰囲気に受け取られそうでヤだなーっていう話。
小学生の時聞かされた。
変だよね、こんなの。
遊郭としてたと言っても、すぐ前の世代ではなく、その前にやめて地主になって、それをある宗教に寄付して、無一文の状態になって・・・と色々あったらしい
その色々が続いてない事も無いから、こんな事を言ってくるのかもしれないが ( 精神的にいろいろあるからかもしれないが、別に親は生活やお金には困っていない。全然余裕なのに・・・ )
それにしても・・・・
昔から私に関する事だけ、洞察力が欠落したような事を平気で行う人だった
実の母親から、お前の幸せを願ってません と宣言されるようなものだし
普通の健全な家庭の特に専業主婦の人が聞いたら嫌がるようなことを好んで言う傾向もあった
(別にエロい事と言う訳じゃないです。エロい人ではないと思います)
言わなくて良い事実とか、厭世的になるような事とか
例えば、森村誠一氏の小説を読んで、なぜそんなものを読むのか聞いたら、「私は本当の事が知りたいもん」と言ったりされたりとか
森村氏は優れた小説家だと思うけど、年若い人が見ると、厭世的になったり人間不信になる可能性もあると思う。私に勧めてきたわけではないけど、こういう事も踏まえた上での答えとしては適当ではないと思う。
本当の事と言っても、小説はフィクションなので、本当の事が知りたいなら、ノンフィクションのドキュメントかルポを読むべきだと思うし。
言うとしたら、氏は、厭世観を持つような事実を扱いながらも、それだけではない深い何かがあるとか、それを超えたものもあるとか、何とか言えないものなのだろうか、と思う。
世の中にあるものを無批判に肯定的に受け止めるのではなく、時には皮肉や風刺も、クリティカルな思考をするために必要なように、社会の暗黒面を描くのもより良い情況を目指すためには、有効だとか、視点としては、そういう目も必要だから、とか何とでも良い言い方は色々できると思う。
しかし、彼女の場合はそんな事をわかって読んでいたのではないような気がする。
これは離れて暮らしている今もそうだが
どういう人間だったかと言うのが、チグハグすぎて思い描けないし、人に説明もできない。
これは父にも言える事だが。
それで、トラバはしてないけど、さっき書いた恋愛に夢が描けない話
これに繋がらない事もないわけだが
人様のお嬢さんを金にものを言わせて攫ってきて、性的搾取をしてきた先祖・・・と考えると、他人にそんな事をした人間の子孫は、恋愛なんてできない、と思いつめてしまった部分は、小学生だったので、少なからずあると思う。
小学生ごころにはきつすぎる。
ある程度、自己防衛的な思考や論理的な判断力が、育った状態でしかも安定した身分の状態の大学生くらいになってから、先祖の歴史として話すのなら、わからないでもないと思うが・・・
遊郭というのは、気になるから、何かの折に目に触れたものを読んだり、本を立ち読みしたりして、調べた範囲でも、摩訶不思議な構造になっている
江戸時代とそれ以降での違いというのもあるし、江戸時代でも、遊郭というのとその他のものでは、だいぶ違ったようだった
病気で亡くなった江戸を描く漫画家の杉浦日向子さんは、このあたりちゃんと書いていた。(ただ地名を正確に書いてたというだけだけど)
明治以降国家神道として神道を流行らせたりする時に、その町のイメージが悪くなってはいけないという配慮からなのか何かはよくわからないけど、映画でも何かの作品でもその町を舞台にしたものは、江戸時代は心中モノが描かれたりしてたけど、今は全然ない。他の町も吉原以外は似たようなもので、特にタブーだかたというわけではなく、吉原が通俗的にそのような場所として有名だからわかりやすいからかもしれないが。( 江戸時代の吉原と今のとではだいぶ趣が違うけど )
有名な江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目で、伊達の殿様に切り殺されてしまう太夫の話がある。実話かどうかは定かではないらしいが、その太夫の死体が流れ着いた淵や、亡骸が祀られたとされている寺か神社もあるらしい。この話は、武士より武士みたいな形で亡くなってしまった遊女というところが皮肉なのだと思う。 創作だとしたら、こういう人身売買に誑かされて鼻の下を伸ばしている武士に対する皮肉もあったのではないかと思う。
遊女の腹から生まれた大名 で検索すると 23人もいたと記したページも出る
http://kkubota.cool.ne.jp/saihouji.htm
皮肉だ
江戸時代でも人身売買は悪いとわかる倫理観はあったと思う。わからないわけがないと思う。
それなのに、簡単に誑かされてしまう。
国家神道って王政復古の尻馬に乗った神職とおもに平田派の国学者たちがでっちあげたものだから、たとえば出雲派なんかとは軋轢を起こしている。寺院が幕府の出先という役割を負っていたために神職は僧侶に支配されていた。そのルサンチマンで廃仏毀釈なんかの過程で、かなり恥ずべき所行をした。このときの調子に乗った連中の行いは、実際、愚劣の一言に尽きる。
その後も権威を背景に持ってるもんだから、民間の神道思想家というのは、まあ、ひっどいもんで、碌なものではない。もちろん、廃仏毀釈が落ち着いて以降は、地方の神職たちは、別に普通で、非難すべきものでもないんだが、このあたりの民間のプロの神道思想家たちのイデオロギー的で誇大妄想的なことといったらない。
平田派の思想というのはキリスト教にヒントを受けた一神教的発想で神道を再編成したものだから、非常に観念的で神道の実際の伝統とは切れている。
現代の神道の問題は、皇室祭祀との関係から政治とも皇室という特定の家系とも縁を切れないこと。もっとも似たようなことは英国国教会にもいえるけど。
政治と宗教を分けなければならないというのは、必ずしも普遍的な真理ではない。もともと、政治と宗教は一体のものだった。
ただ、キリスト教とイスラム教や、新教と旧教の対立によって、弾圧や戦争が絶えなかった西洋世界から出た、約束事に過ぎない。
東洋の宗教は、仏教にしろ、道教にしろ、日本神道にしろ、基本的に多神教であって、他の宗教に対して寛容なものが多かった。だから、大きな対立は無く、「政教分離」という考え方は生れなかった。
「政教分離」というのは、キリスト教が偏狭、または未熟であるが故の方便に過ぎない。
日本では、開闢以来、祭政一致が当り前であった。戦後、有無を言わさず政教分離を受け入れさせられただけ。
政教分離については、以下の文書に尽されている。
例えば、
6 「信教の自由」に関する問題点
第二十条のつくり方は、かなり混乱を呼んでいる。「学問の自由」と同様に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」だけでよいのであり、あとは法律でつくればよい。「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」というのは、もとは国家神道のことを意図してつくったものだが、条文を正確に読めば、天皇制自体も、これに当たる。
また、第八十九条は宗教の範囲を制約して縛るものである。「信教の自由」の下に言うならば、政治的な宗教も、政治的ではない宗教も、当然ありうる。「政治は、宗教的なるものを、一切、反映してはならない」というならば、それは唯物論国家である。
要は、信教の自由と政教分離規定が矛盾している、というのが幸福実現党の主張である。憲法が禁止しているからこの種の主張をしてはならない、とするならば、同様に憲法第九条の改正の議論もできなくなる。憲法の方が間違っている(というか、憲法自体が矛盾している)と言うこと自体は、違法でも何でもない。
それから、
2 憲法は何を守ろうとしているのか
第九十九条の条文は、憲法遵守の義務は国民にあるのではなく、公務員及び公務員の上にある天皇や国務大臣等が守らなければいけないとある。つまり、憲法は、主として権力者から国民の権利を守るためにつくられたもので、国民を縛りつけて、自由にさせないためにつくられたわけではない。
憲法を守らなければならないのは、支配者の側である。一般国民が守る必要はない。仮に当選して、議員として働くことになれば、その行動に於て憲法を守る義務は発生する。ただし、考え方や主張までは制限されない。
あと、よく、幸福実現党が天皇制を廃止を主張しているとか言う話も目にするけど、そんなことは一言も言っていないですから。寧ろ逆で、天皇制はあった方がよいと言っている。
天皇制自体は、何らかのかたちで遺しておいたほうが、日本の国にとってはよいだろうと思っている。ただ、外国から見ると、誰が元首なのか、誰が意思決定をするのかよく分からない。これが、日本が外国から信用されていない理由である。「内閣総理大臣に元首としての責任がある」と明確にするか、大統領制を敷くなどの、意思決定者をすっきりさせないと、日本という国は信用されない。
しかし、戦後日本の「宗教」に対する偏見は、抜きがたいものがある。信仰というのは、本来、地上で最も穢れのない、美しいものであるのに、全く逆のイメージを植え付けられてしまっている。GHQは、日本人のその驚異的な精神力の源を、信仰の力によると考えて、その背骨を抜いたのだ。信仰を持つ人は洗脳されている、なんて思ってるかも知れないけど、洗脳されているのは、無神論者の方なんだよね。
神仏は蔑むものではない、尊敬すべきものである。神仏の声を伝える正しい宗教家も、尊敬すべきである。これが世界の常識だと思う。
なるほどなるほど。そうするとあなたはドイツ国民がたとえば「ナチスを讃えるうた」みたいな国歌を歌い続けていたとして、「過去の功罪を含めて継承することが責任を負うということだね」と納得するのかね? 少なくとも第二次大戦が終わった時点での諸外国の認識(というか事実その通りであったわけだけど)は、国家神道もナチスも同じようなものでありそのシンボルであるヒトラーも天皇も大して違わない存在だったわけだけども。
けれど、僕は逆にその為にこそ「国歌にふさわしい」と考える。
何を功罪とするかは人それぞれだが、それがひどく罪深いものだと思えたとして
「過去の功罪を振り返る」意味で国歌を変えるという選択は有りだと思うのだが、それは「過去の功罪を振り返っ」た結果でないとあなたは考えるのか? あるいは「国歌をそのままにしておくことこそが『過去の功罪を含めて引き受ける態度』だ」という主張は一般的にいって通用するものだと思うのか?
…というあたりを少し聞きたい。
なお個人的に自分は、日本は「その辺ごまかしてる」が、とりあえず「その辺ごまかしてる」ことを国民全員が自覚した上で、今のままでいくしかない、という立場である、と付け加えておく。
http://anond.hatelabo.jp/20070315211335
http://anond.hatelabo.jp/20070317102842
ソ連中国とか国家神道の大日本帝国とかヒンズー教のインドとか。
にもかかわらず、一神教のせいで戦争になるかのように言うのは偏見。
そうやってあなたみたいに宗教を攻撃したがる人がいるから争いが起こるんでは?
宗教法人なんてみとめなくても、精神の自由さえみとめておけば十分。心の中でそれを信じていればいい。洗脳で集団をつくる行為を、法的に保護する必要は無い。
信教の自由だけでなく、結社の自由だって憲法で認められてる。
税金の優遇は宗教法人が安いというより営利企業から高くとりすぎなんだよ。法人税なんか廃止したほうがいい。
皆が常識的に理解している程度の科学とは折り合いをつけろ。いつまでも古い考えをひきずって、何を頓珍漢な寝言を言うか。予言とかバカじゃねーの。
そもそも常識なんて多数派の思い込みにすぎないだろ。それと折り合いをつけるべきということなら、世界では一神教が多数派なんだから、あなたこそ一神教と折り合いをつけるべきなんじゃないの?
それに古い=頓珍漢というのも単純化しすぎ。科学理論だってながい年月検証を耐え抜いてきたものほど頑健でしょ。文化だって長い間続いてるのには何らかのメリットがあるからこそ。
夜の闇を恐れたり、自然災害のメカニズムがまったくわからなかった時代なら、それらに対する不安を解消するために、とにかく作り話で回答を作るのもわかるが、先人たちが積み上げてきた科学知識がある現代において、神の怒りが云々などというのは科学に対して失礼千万だ。
だからといって科学が万能だとは科学者ですら思ってないでしょ。科学知識を理解できる人ばかりでもないし。それなら作り話で不安解消できるならそれでいいだろ。
何をあがめようが個人の自由だろ。鰯の頭でもスプーン曲げでもすごいと思うなら素直に感動すればよろしい。
神はいない。それだけのことです。心の中で何かを信じるのは自由です。でも、団体に所属したり、集団で儀式を行ったりするのはやめましょう。宗教を問わず一般化したような行事はいいけど、特定宗教に限定した儀式はやめましょう。他宗教を排他した行為はすべて辞めましょう。教会施設には他宗教の神も祭って誰もが出入り自由にしましょう。
集会結社の自由ぐらい認めろよ。企業だって政党だって学校だって団体作ったり儀式したりするだろ。特定政党だけ特定企業だけで儀式をしたら駄目なら党大会も入社式も卒業式もできないだろ。それに宗教施設に限らず部外者立入禁止なのはよくある事。犯罪の被害にあったら君が責任取れるの?