はてなキーワード: オバQとは
セクスィーさでは、オバQのほうが上の気がする。
なに言ってんだあたりめーじゃねーか
詳しくは押切蓮介先生の「ピコピコ少年」シリーズもしくは「ハイスコアガール」をご覧ください。
たいしてファミコン詳しくもなく熱中した形跡もない、普通に「友達と一緒にやってた」程度のヤツが、当時の小学生でも知ってた様な知識を分かってないまま極めてヌルいブログなんか書かれたら、もう歯痒すぎておれはファミコンロッキーの名にかけて必殺五十連打で摘発せざるを得ないのだ。
言っとくけどな、当時は「クソゲー」なんて概念は存在しなかった。おれら子供たちがソフト1本手に入れるためには、誕生日やクリスマスなどの
「好きなものを買ってもらえるイベント」という子供にとって命よりも貴重なチケットを費やし手に入れるしかなく、そんなふうにゲットした大切な大切なソフトは、面白いかそうでないかにかかわらずそこから数ヶ月のあいだ向き合わなくてはならない課題であり、問答無用で消化しなくてはならない「カルマ」のようなものだった。
たとえオバQが呆れるほど思い通りに動かず左手の親指の関節あたりが真っ赤に腫れ上がろうとも、スーパーモンキーと三蔵法師ご一行が耐えられないほどの歩きの遅さであろうとも、「明日こそきっともっと先のステージへ進めるはず」と、ヒリヒリする親指をフーフーしながら眠りにつくしかなかったのだ。
あの頃、あれをクソゲーなどと呼ぶ者はいなかった。あくまでそれは「難しいゲーム」なのだ。我々にはそれをクソゲーと呼ぶという発想自体がなかった。
その理由は、あの時代のファミコンに命を燃やしていた子供たち全員が、「新作ソフトの中からおもしろいソフトを選びだすことの難しさ」を知っていたからだ。
過去に出た、誰かが既に持っているソフトはそいつの家でやらせてもらえばいい。それは反対に「誰も持っていないソフト」を自分が持つことで友達にもやらせてあげることができることも意味する。
「誰も持っていないソフトを買い、みんなで楽しむこと」
コミュニティーの一員としてのそういう責務を当時の子供たちは皆が理解し、皆が抱えていたのだ。
少しファミコン雑誌を読んだ程度では到底そのゲームの実態なんか把握できない、そんな状況で「誰も持っていないソフト」を選ぶというのは、
それはつまり、先行きの分からぬ投資をするということに他ならずある種の冒険、チャレンジであった。その投資に成功して皆が面白いと感じるソフト持つこと、皆にそのゲームをやらせてあげることによっておもしろいゲームを掘り当てた「成功者」として称えられるだけでなく、そのおもしろいゲームを皆にやらせてあげることによる皆からの感謝とプロップスの上昇を勝ち得る、おもしろいソフトを持つことそれはすなわち「資産を持つこと」と同義だったのである。
新作ソフトをゲットしたはずの友人が翌日教室で左手の親指を真っ赤に腫らしながら「昨日買ってもらったソフトがすごく難しいやつだった」と言ったらそれはつまり、「クソゲーを掴んでしまった」という意味だ。
しかし我々は、彼がそのソフトを選ぶまでにどれだけ吟味し熟考を重ねたか知っている。だからこそ「難しすぎるゲーム」を掴んでしまった時の彼の気持ちを思うといたたまれない気持ちになると同時に、明日は我が身であることを噛み締めるのだ。 そんな状況で誰が彼を貶せようか。彼はれっきとした戦士なのであり我々はお疲れ様という労いの意味を込めて彼に静かに「でもおもしろそうだね、今度やらせてね」と言葉をかけるので精一杯なのだ。
我々は皆そういう悲しい過去を乗り越え、そしていまファミコン警察として生きている。たまに厳しいことも言うかもしれない。しかしそれはより深くファミコンを愛して欲しいという一心からの言葉だ。
2コンのマイクを使うのは有名どころではバンゲリングベイ、スターラスター、たけしの挑戦状、ゼルダの伝説などがあり他にもまだたくさんある。どうか覚えておいて欲しい。
面白いね。
オバQ:正ちゃんは兄弟の二人っ子、オバQは妹P子と弟Oちゃんとの三人兄弟、ドロンパ・U子・よっちゃんはおそらく一人っ子、ハカセも一人っ子、ゴジラは妹がいるらしい
パーマン:満夫は兄妹の二人っ子、その他のパーマンたちは一人っ子
21エモン:エモンは一人っ子、モンガーは不明、ゴンスケはロボットなので除外(同じくロボットのドラえもんには妹がいるのだが…)
↑ドラえもん以前
ドラえもん:のび太としずかは一人っ子、ジャイアンとスネ夫はそれぞれ妹・弟あり、ドラえもんにも妹ドラミがいる
↓ドラえもん以後
ポコニャン:太郎(ウメ星デンカの彼とは別人だろうが、ほぼ区別がつかない)は一人っ子、ポコニャンも一人っ子
キテレツ大百科:キテレツ・ブタゴリラ・トンガリは一人っ子、みよちゃんはアニメ版のみ兄がいる模様、コロ助はキテレツの創造物
世相の反映もあるとは思うが、F先生の黄金パターンである「すこしふしぎ」を活用するには、兄弟が居ない方が話がスッキリするというのもありそうなので、
んー、なんかこの話色々論じられてそうだけど
面白そうなんで絡んでみる。
まず、ロボットアニメではない派の言い分はこういうことだ。
ドラエモンは「愉快な人外」であるということ。これはオバQやハットリ君といった
同じ構造を持つ作品、「ケロロ軍曹」に留まらず「ラブやん」なんかも系譜に入ってくると思う。
つか、この系譜はあり過ぎて最早収集がつかない。人間以外のなにかがポンと現れて
現実と非現実との橋渡しになる作品は山ほどある。つか、これの始祖はドラえもんじゃないよね。
俺がふと考えた限りでは代表作はおそらく「ファウスト」だ。
要するに「愉快な人外」というのは、メフィストフェレス的なものなんだろう。
これが重要なのは、「通常の世界に住む主人公」を「非現実の世界」へ橋渡すこと。
この物語構造上の形式は「ロボットである」という事実よりずっと重みがあるだろうなぁ。
ドラエモンは「愉快な人外」であれば話が成立するけれど、「ロボット」である必然性には乏しい。
「鉄腕アトム」は最初から「未来」の話であり、「アトム」が現実と未来を橋渡しているわけじゃない。
ロボットである、というのはキャラクターにつけられた属性であり、「オバケである」とか「忍者である」と一緒で
物語の形式上の大きな意味を持ってはいない。だから、あくまで形式の話をすると
ドラえもんは「ロボットまんがではない」って結論になるんじゃなかろーか。
もちろん「ロボットである」ことに力点を置いて論議することも可能だろうし
ドラエモンがロボットであることから始まる系譜、あるいはそこにいたる系譜ってのも
頑張れば作って作れないこともないけれど。
あともう一つ。ドラエモンが「ジュブナイル」であるとか「ビルディングス・ロマン」であるって議論も可能だけど
http://anond.hatelabo.jp/20090918220903
自分のブログに書こうかと思ったんだけど、あまりにも球団の内面に触れることで、恥ずかしいのでこちらに書きます。全体的に「投手力必要ないじゃん」とか「投手力はファンを集めるためのものorセリーグ同士のランク付け」という論調が多くて「投手力の高いチーム」、いわゆる投手王国(笑)的なものの存在が軽視されてる気がしたので。
うちは敬遠もするし、炎上もするし、夏の甲子園や東京六大学野球や「週刊ベースボール」のチェックもそれなりにします。番長もいるし、常勝ではないけれど、おそらく外見上はそれほど弱小球団に見えないでしょう。
だけど、内面は立派に投手力の低いチームで、十分Bクラスです。
どうして投手を補強することを決めたかというと、自チームの戦力にものすごいコンプレックスがあったから。とくに、開幕当初は巨人を見るのも嫌だった。周りのチームは強くてたくましくて人気なのに、うちは開幕6連敗したから、よくシーレックスに間違えられた。「勝てない」ということは、あたりまえだけど「監督が悪い」とか「暗黒時代」と同レベルの単純なルサンチマンを生みます。そして、単純だからこそ根深い。わたしは勝てないチームが嫌いでしかたなかった。四国・九州アイランドリーグならAクラス入りもできるし、「勝てなくてもいさせてもらえる」ことを知ることもあるかもしれない。だけど、セリーグという狭い世界のなかでは、勝てないチームをどうしたって認めてもらうことができなかった。
だから、「勝てるように」なろうとした。単純な理屈です。
FAと外国人とトレードで、どんなチームもそれなりに戦えるようになるのはご存知の通り。たしかに「やっと3連勝した」と言われたこともあったし、パリーグのチームにやさしくされたりもした。
だけど、どんなに取り繕ったところで、もとから「勝てる」チームには勝てるはずもないんです。だって、彼らはもう育成がうまい。強くなるという事象を当たり前のようにして育ってきているから、それを疑うことも、悩むこともない。投手力はファンに認められるため? 相手チームに認められるため? なんて議論が無駄に思えるくらい、手足のようにピッチングスタッフを扱える、そこに不自然を感じないチームはあるのです。つまり、うちはどこまでいっても「強く」なれなかった。
そして、「順調な左肩上がり」と言われるようになった代わりに、ファンの人から逆の意味の呪詛を吐かれることもありました。
「ハマのファンヒーター」とか「レフトが神隠しにあった」「ベイス★ボール」ということが全部ネット受けを狙ってる、とか、ネタだと受け取る人。もしかしたら番長の運が悪かったのかもしれないけど。でも、そういうファンの人が少なからずいました(それなりに高レベルの試合だったからかも)。どうせ琢朗を放出するんでしょ、みたいな。要するに若返り(笑)なんでしょ、とか、改革なんでしょ、みたいな。
もちろん、ある程度仲良くなってチーム事情を知ってもらえれば、そういうことを言う人はいなくなる。だけど、今季初対戦でそう決めつけられることは、やっぱり苦痛でした。村田が好き(村田修一とか)って言っても、え、村田真一?みたいな。そういう些細なことでも、何度か積み重なると嫌気がさすものです。わたしは普通に、対等に、試合がしたかった。でも、そういうタイプのチームの人が対戦相手と認めるのは「隙のないチーム」で、うちではない。たとえそこからオバQ采配によって修正されても、第一印象で不利になることは変わらない。
じゃあ、どうすればよかったんだろう、って思います。投手力をつけることなんて目指さなきゃよかったのか? スタメンだけでサードジョンソン(笑)って馬鹿にされるくらいなら、と。
わたしは、投手力が低い=試合を壊さないことだとは思いません。もちろんそういうチームもあるんだろうけど、うちのようなチームから見れば、壊さないチームはそれだけクオリティスタートに自信がある、強いチームにみえてしまう(こういう常勝軍団の心理が本当にわからないので、よければAクラスの人教えてください)。うちは弱いから休養させてるだけなのに、監督を代えただけで「投手力の高い、強いチーム」だと思われる。どういうことなんだろう、って。
今はもう、そんなふうにリーグ戦の勝敗だけでチーム状況を判断するフロントは相手にしないことに決めたのでいいんですが、しこりとしては心に残っています。
でも、やっぱりフロントには言いたい。
「成績だけで監督を判断しないでください」
あなたたちが「名将に限る」とかいう言葉で、暗に育成目的で選手を使うやる大矢を批判するように、わたしもそういうフロントを批判します。そして、成績で監督を判断しているのはいわゆるナベツネだとか、TBSだけじゃない。万年Bクラスや草野系男子を自認・自称する人も、逆の意味でたくさんベイスを傷つけているんだということを、わかってほしい。「補強に成功しているチームを支持する」ことを、「補強に失敗しているチームを批判する」ことに結びつけないでほしいと、思います。スターティングメンバーが派手でも、内面はあなたたちと同じように繊細で内向的なチームって、思ってるよりたくさんいると思うんだ。
そして「左投手を補強しないフロントのお偉方」たち。「そんな投手なんて恥ずかしくて出せない」、「スカウトはめんどうだからしない」なんて言葉で、あなたたちも人を傷つけていることがあるんです。だって、世の中には本気で、先発しないと打力を発揮できない(吉見的な意味で)人がいるのだから。補強をしなくても、トレードしなくてもそのままでいられるのなら、それだけで恵まれていることもあるんだよ、とわたしは思います。
「先発投手を間違えた時の気持ちも考えろ」って言ってるわけじゃありません。でも、こういうチームもある、しかもそう少ない数ではないということを、せめて知ってほしかった。このホームランがどれだけの人に届くかわからないけど、なるべくたくさんの人に捕球してもらえたら、とてもうれしいです。
今まで長文を書いたことがなかったので、ここで挑戦してみる。
まず、なぜ書いたことがなかったのかを考えると、書くネタがないからだ。
今もない。結局書けない。お終い。
ああ、ここで話が終わってしまうのは困る。挑戦にならない。
興味がないわけではないが、所謂嫌韓厨並みのことしか書けそうにないので、
テーマとしては取り上げない。
今で言うと、「秋」かな。
ということでテーマ「秋」。
秋といえばまず間違いなく読書の秋だ。
食欲の秋も捨てがたいが、食欲なんて年中あるので、
秋といえば、と前置きするのはおかしい。
食欲なんて人間の三大欲のうちの一つなんだから、
秋にかかわらず食欲はある。
いや、でも春のほうが睡眠欲に似合うな。
ぽかぽかして眠くなるもの。
ついでにおかしな人がわいてくる春には、性欲も似合う。
だからといって、テーマ「性欲の春」では
内容としてとても書きづらい。
このテーマは他の方に任せるとして、
読書の秋に戻ることとする。
本大好き。好きなだけ本を買いたいところだが、
そんな財力とても無い。
totoBIGでも当たれば買えるかもしれないが
そもそもあんなクジ買わない。
宝クジは買わなきゃ当たらないなんていうけれど、
買ったつもりで貯金したほうがよっぽどお金はたまると思うのだが。
こんな風に言うと、決まって「つまらない人だ」なんて言われる。
いいんだ。堅実が何よりだって言う自分の信念。
普通でいたい。
昔の偉い人は言いました。『普通が一番難しい』って。
普通の状態を保持するのは大変だ。
まず何を普通とするのかも問題だけれど。
可も無く不可も無く、でありたい。ありつづけたい。
可だけなんてありえないから。
だって現状は不可ばっか。
生きるって大変だよね。いまさらだけれど。
言われなくても、あたりまえだけれど。
先日、丹波哲郎さんが亡くなったけれど、
大霊界に里帰り、なんていわれていて
そんな言い方だと死がネガティブに感じられなくて
微笑ましい。(微笑ましいという表現はおかしいけれど)
かという自分は霊の存在を信じていない。
霊が見えた、なんていうと
目の錯覚なんじゃないのって思ってしまう。
目で見えるものなんて結局は人間の頭の中で作られているんだから。
結局は昔の人が考え出した存在なんじゃないかな。
全然長文なんて書けないね。
面白い文章を書ける人がうらやましい。
以上、練習終わり。