はてなキーワード: 「生きる」とは
ttp://www.ustream.tv/recorded/18060735
このラジオ、辻村深月も西尾維新も読んでるからすごい楽しめました。ついでに、これ観てて、瀬戸口廉也作品と比較したくなった。
他にも禁書外伝とかRetakeとかいろいろあるけどとりあえずは瀬戸口。
・・・と思ってたけどごめんなさい。案だしすらもうまく出来ないで途中挫折。
誰か私以上にもっと詳しく読んでる人がいる筈なので、その人にお願いしたい。id:dodododさんとかに期待。
どの本もすぐに絶版なって、Amazonは高値つけてしまうので、話せる人がおらんのやー。寂しいんやー。
どちらも「壊れた人=世界から決定的にずれてしまった人」を描こうとしていると思う。
違いは、その壊れた人のどの部分を、どのように描いているのか、かなぁ。
瀬戸口作品では、西尾維新の「前」と「後」が語られることに重心が置かれているような気がする。
(って、これ西尾維新読んでないとわからんよね。下書き段階なので分かる人だけわかってください。ゆるして。)
「暗い部屋」においては、「少女不十分」の少女が作られていく過程を精緻に描くことが中心になっているようにも見える。
「Carnival」もゲーム版では「前」段階が描かれる、(そして、7年後を描いた小説版では「後」が描かれている)
「ドッペルゲンガーの恋人」は「世界とずれてしまった少女=恋人」をそばで眺め続ける男性が主人公で、
ここでも、「前」部分、つまり西尾作品みたいに「そういうものだ」と割りきるのではなくて、
「少女」の形成過程や、彼女がどのように考えているのか、を遡って理解していく作業が描かれる。
まぁ、「真ん中」部分=ズレを認めて、それを前提に生きることを決心してからの生き様を描くこと、
これは意図的に避けられれいるのかというとそういう訳ではない。
ただ、その描かれ方は、西尾維新が期待を込めて読者を送り出した先とは思えないほどキツい。
「PSYCHE」においてはこの「本質が変化してしまった人間」を主人公として、その日常が淡々と描かれる。
常人には耐え難い光景なのであるが、主人公は幸せそうにしている。読者としても物語にシンクロしないと読んでて苦しくなる。
「犬憑きさん」においても、冒頭から千石撫子と神原駿河のダメなところを足したようなキャラクターで始まる。
絵はすごい可愛いのだけれど、やはり描かれているのは異端者のギリギリの生活だ。
「SWAN SONG」とか「キラ☆キラ」は語るときりがないので、完成版でかければいいかな、と。
あと、西尾作品は、壊れた人は、その代償になにかしらの力を持っている事が多い。
力を持たない、「壊れた人」を「ただの、無力な絶対的な弱者」として少女を描いたのは多分「少女不十分」が始めてなんじゃないかと。
一方、瀬戸口作品は「犬憑きさん」と、「CARNIVAL」の学、それから「ドッペルゲンガーの恋人」の主人公を除き、すべて無力である。ただ弱いだけ。
そして、この3つにしても、途中で力を失うか、ソレ以上の強い力に屈服させられることになる。
基本的に、異端者は世界に見つかったら押しつぶされるしかない。常に逃げて、隠れることにしか活路を見いだせない。
それでも負けを理解した上で世界に堂々と喧嘩を売ったのが「SWAN SONG」で(このあたり第三勢力を形成する球磨川禊くんに通じるものがある)
それでも人とつながって行きようとしたのが「キラキラ」で、
「ドッペルゲンガーの恋人」にいたっては、自分たちのことを世界に認めさせようと働きかけるところまで来た。
ずっと瀬戸口作品を見てきた人間としては、ついに個々まで来たかと感慨深いものがあるけどこれはまた別の話。
あとなんだろ。西尾作品は、世界より人の方が好きだって発想なんだけれど、
瀬戸口作品はどんなに冷たくされても、世界=自分たちに厳しくて冷たい社会 が好きで、それを肯定できないんだよな。
まぁ瀬戸口作品の場合、殆どにおいて、主人公は家族を拒絶するので、その代わりとなるものを求めざるを得ないという事情がある。
瀬戸口作品の場合、エロゲ出身ということもあり、その応えを男女の結びつきに求めるのだけれど、
これが「同レベル同士」であるがゆえに、共依存的な関係になって、現状を打破する爆発力を持たないというのがある。
この図式を崩したのも「犬憑きさん」あたりからで、「ドッペルゲンガーの恋人」はかなり壁を越えたカンはある
あと、西尾維新の場合は、作品を読み終わった後、未来が開かれているような印象を受ける。
つまり、世界と向き合う、という部分が重視されており、ある程度結末は「生きる」という方向性で固定されている気がする。
瀬戸口作品の場合は、なんというか、あくまで登場人物の間の対話というか綱引きが大事になってるというか。
お互いの間で思う存分対話ができたならそれで満足で、その結果がどうかはそれほど重要じゃないと言うか、むしろ負け戦が多い。
つまり、綱引きをしたときに、西尾作品の場合は、「生きているものが強い」「頑張って生き抜いてきたものが、弱いものを引っ張る」というカタチになる。
あくまで結果論であり、阿良々木暦とか見てればわかるように、無敵のヒーローみたいな存在を想定しているわけじゃないがうーむ。
ここあとで説明するのか・・・?
個人情報を明らかにしたくないという理由で自分のブログには書けないので、ここに書かせてもらう。
現役京大生だが、今回の入試不正問題で感じたことを書く場がほしかった。
自分が思ったことを書きつづるだけなので、論理とか矛盾とかあまり気にせずに書く。
だからもし読んでくれる人がいれば、あまり重く受け止めず読んでほしい。
2度ほど誤報もしたマスコミは馬鹿だと思ってるが、逮捕は正統だと思っている。
でもそれは、自分も京大入試を経験したってのが大きいのかもしれない。
4大学の中では同志社も受験したが、俺が書きたい話にはあまり関係ないので今回は触れない。
受験当時の俺は、とにかく京大に行きたい、京大以外の大学には行きたくないと思ってた。
今になって振り返ると、そこまで京大にこだわる必要なんてないだろって自分でも思うけど、当時は京大しか目に入ってなかった。
その理由は話すと長くなるから、要点だけ書くけど、
俺は高校生の頃、高校がすごく不自由な場所だと感じていて、とにかく息苦しいし生きにくいと日々思っていたので、
おそらく「自由の学風」で「放任主義」、おまけに「変人が多い」と噂の京大に入りさえすれば、自由が手に入ると信じきっていたんだと思う。
(これは今になって思うのであって、当時はまだそこまで自分を客観視できていなかったけども。)
現役で落ちたときは悔しい思いをしたし、受かってた滑り止めには行かず、浪人することに決めた。
浪人のときは、aicezukiもそうだったようだけど、センターで点がとれず、D判定だったときは、追い詰められた気持ちになった。
俺は模試でもD判定のことが多くて、二次試験で挽回できる見込みも低かったし、受かる自信はほとんどなかった。
それでも上述のように、京大へのこだわりは異常だった。
滑り止めも受かってたけど、京大に行けないなら死ぬと決めた。
センター試験後に決めたというと語弊があるかもしれない。
心の中で、可能性としてずっと考えていたものを、確信に変えたという方が正しいだろう。
(余談だが、だから俺は、aicezukiが自殺の方法を質問していた日時がセンター2日目終了後だと知って、ものすごく納得したし共感した。)
二次試験までは、勉強の間、ノートの余白に「死にたい」と書きまくっていた。
二次試験が終わった後、合格発表までは、後期試験の勉強の傍ら、遺書の下書きや自殺方法を真剣に考えていた。
そして迎えた合格発表の日。俺は受かっていた。
その瞬間のことは今でも鮮明に思い出せる。
自分の番号を見た瞬間、涙がグワッと溢れてきた。
そして、「あ、俺、生きてていいんだ」と思うと、涙が止まらなかった。
俺は信仰心とか全然ないんだけど、そのときだけは神様から「死ぬな、生きろ」って言われたような気がした。
それまで死ぬことしか考えてなかったのに、いきなり「生きる」という道が目の前にバーッと、それこそ白い強烈な光みたいに開けてきた。
なんだかこれ書いてる今も涙出てきた。あのときほど強く「生きよう」と思ったことはない。
今だからこんな風に言えるけど、俺は京大入試に文字通り命をかけていた。
俺の例は極端かもしれないけど、京大に限らずどこの大学でも、入試を受ける一人ひとりに、いろんな思いがあると思う。
そしてその思いは、極論かもしれないけども、実際に入試を体験しないとわからない部分もあるはずだ。
「追い詰められていた」っていうのは、カンニングの理由にはならない。
追い詰められてる人間なんていくらでもいるし、俺やaicezuki以上に追い詰められていた受験生もたくさんいるはず。
京大入試の特異な点は、試験を受けるほぼ全員が第一志望だという点だと思う。
在学生や受験生の人には申し訳ないし、今から書くことに悪意は全くないんだが、
早稲田や同志社ですら、東大・京大などの国立大志望者からすれば、滑り止めとしか見ていない場合も多い。
けれども京大は違う。ひやかしでもない限り、全員が並々ならぬ決意と共に受けに来る。
「京大じゃなかったらマスコミがここまで騒いでない」「京大は大騒ぎしすぎ」という意見もよく見るけども、この点を考えれば、京大だから大騒ぎになっているのは当然のことだと思う。
俺は、入試は人生に大きく影響し、人生を変えるものだと思っている。
けれどもそれは、「良い大学に入れば良い就職ができる云々」という意味ではない。
大学なんてものは、「どこに入るか」よりも、「入ってから何をするか」の方が重要だと思う。
特に、京大なんかだと、「京大に入ること」が目的になってしまい、
いざ入った後に何をしていいかわからなくなり、無気力になってしまったり、受験からの解放感が強すぎて、授業にも行かず毎日家でダラダラと過ごしてしまったり、という状況に入学早々陥る人も珍しくない。
就職活動でも、聞かれるのは「大学『で』何をしたか」ということだ。入るまでの努力の日々なんか聞かれやしない。
じゃあ俺が「入試は人生に大きく影響する」と思うのはなぜかといえば、
それは、「勉強の末、第一志望に合格した達成感」や「頑張ったのに第一志望には入学できなかった挫折感」を感じるという経験は、非常に大きなものだし、人間の生き方や考え方にも影響を与えるものだと思うから。
挫折感を味わった人は、その後奮起して、負けず嫌いな努力家になるかもしれない。また反対に、虚無的になり、努力を放棄する道を選ぶかもしれない。
入試での体験をどう受け止めるにせよ、その体験があることで、その人の人生は間違いなく深みを増すはずだ。
しかし、達成感も挫折感も、カンニングをし、他力に頼って入試を切り抜けた者には味わえないだろう。
もちろん合否という結果は出るのだから、ある程度の達成感や挫折感は得られるはずだ。
しかし、完全なる達成感、完全なる挫折感は、自力で入試にぶつかっていった者にしか感じることはできないと思う。
繰り返しになるが、俺は一個人としてはaicezukiの逮捕は妥当だと思ってる。感情論だと自分でもわかってはいるが。
このことについて、「カンニングを偽計業務妨害にするのはおかしい」という意見の人も多い。
実際に2chやTwitterでも、そのような議論が数多く見られる。
でも俺が気になることが、ひとつある。
それは、そのような議論をしてる人たちの中には、罪状について「業務妨害」「業務妨害」と、「偽計」の部分を略している人が非常に多いということだ。
俺は、このことに強い違和感を感じている。
「カンニングされたのは大学の監視体制が悪かったからだ、だから自業自得であり、業務妨害にはならない」という意見の人も多いのだけれども、
みんな「偽計」の部分の重大さを忘れているように感じる。
今回の件で真に重大なのは、「業務妨害」の部分よりも、「偽計」したという事実だと思うのだが。
「偽計」の省略され具合から見ても、みんなその点を忘れてるんじゃないだろうか。
でも、カンニングは罪に問われてもおかしくない行為だと信じているし、
もしカンニングを罪に問える適切な法律が現時点で存在しないのならば、早急に作るべきだと考えている。
なんかよくわからんけど怒ってるんだな。何を怒ってるのか全然わからないけど、真面目に読んでみるよ。
どうもしたくないよ。ただアンタの言い草に心底腹が立つだけだよ。
はっきりしてるよ、生 き た く な いんだよ。
関係あるよ。アンタが思ってるほど死ぬのは簡単じゃないって言いたいんだよ。そんなことも解んないの?
俺の言い草ってなんだ。意味分からん。別に腹を立てるのは構わないけど、意味が分からない。生きたくないけど死にたくもないし本当は生きたい?全然わからない。死ぬのは簡単じゃない?どっちだ。全然わからん。そんなに難しいなら何故こんなに人は死んでるんだ?日本では統計にあがってるだけで年間自殺者は3万人だっけ、そういうの関係ないか。君自身にとって、死ぬ事はハードルが高いってことを言いたいんだね。今を生きる事よりも死を選ぶ事がハードル高いって。じゃあ俺と何が違うんだ。俺が思ってるほど死ぬ事は簡単じゃないって言うけど、それは君にとっての話だろ。死へのハードルなんて、人それぞれ違うぞ。死への恐怖心が人によって違うのと同じぐらいに。あっさり死ぬ人は死ぬし、ずるずると死ぬ人は死ぬ。それぐらい知ってるだろ。君はたまたま死を目の前にしても生きたいと思った。それだけなんだね。わかったよくわかった。それで、俺が死を目前にしてもいないのに、死の恐怖を知ったように抜かすなと。死の恐怖なんて誰でも知ってるだろ。程度の問題で。やっぱり何が言いたいのかわからん。ぬるいって言いたいわけ?そ、そうですか。
アタシの主張ははっきりしてるよ。ただアンタがイヤな奴だってことだよ。
アンタが正しいとか間違ってるとか、マイノリティとかマジョリティとかどうでもいいよ。
ただアタシがアンタみたいのが心底嫌いだってことだよ。
いちいちそんなこと宣言するなよ。
何に腹を立てているのか全然わからん。君が言いたいのは、ただ俺に腹立ってるってだけなんだよね。それはわかった。なんでかはわからんし、何が言いたいのかもわからんけど、俺がここで匿名ダイアリー書いた事に腹立ってんのな。そんなことをいちいち主張されてもな。何とも答えようがないな。返答なんか求めてないだろうけど。そんでやっぱり何が言いたいのかわからん。腹を立ててる事はわかったが、まあそれさえ伝わればいいのか?俺の理解なんてのは求めてないだろうし。俺に死ねって言いたいだけ?まあ、それは、言えばいいんじゃん?
やっぱりあなたは「生きる」ことにも「死ぬ」ことにも真剣に向き合ってない。
ただ単純に「楽」だからだ。どうしてもそうとしか思えない。
真剣に向き合うってどういうことだ?説明してくれ。どういう意味で言ってるんだ?楽って何が楽なの。生活に苦労してないってこと?生活なんて、今の日本では高望みしなければなんとでもやっていけるよ。そうでないとホームレスなんか成立しないからなあ。それが楽してるって事?俺は別に楽してるんじゃなくて、何も求めてないだけだよ。求めるものが大きければその分努力も必要になるよね。君はいったい何をそんなに求めて、毎日大変な努力をしてるんだ?ただ生きるだけか?そんなに大変なのか?何がそんなに大変なんだ?俺には全くわからん。戦時中なのか?障害を持ってるのか?病んでいるのか?極貧なのか?外人か?いじめられてるのか?借金背負ってんの?差別するつもりはないけど、俺が元のエントリーでも書いてたように、「生命の危機に瀕している」人から同じ基準で俺を判断されたらそうなるかもな。俺は飽くまで俺を基準にしてしか言ってないから、君の立場は知らんし、君も当然俺の立場を知らん。甘いと思うかもしれん。それでむかつかれても、俺はなんとも出来ないし。俺と君とでは立場が違うから、としか言えない。ただ、知ってるだろうけど、自殺は富めるものや満たされている人間にもそれなりにいて、北欧でも多い。それは寒いからか。つまり、どの立場にあってもそれ相応の辛い事、楽しい事があって、どちらかに優劣をつけるのは俺は間違ってると思うよ。腹を空かしている人間が、悩める人間に腹を立てるのは筋違いだと思う。それぞれの痛みは、同じ死に向かうほどだとしたら、それは優劣をつけられるだろうか?
それはいいとして、俺は悩んでもいないし辛いわけでもないから、そんな俺が人の苦しみを代弁しているように見えてむかついてるって?そういうこと?そんなつもりは無いんだけどな。
自己弁護って、俺は誰に対して何を弁護すればいいんだ。俺は被告なのか?世間に訴えられてるのか?そんなことはないと思うけど、ただ自分の考えを書き綴って、まあそれ自己弁護って言われてもしょうがないか。よくわからないけど、同調する人がこんなにいるとは思わなかったね。それはそれでいいんじゃないの。甘やかすも何も、本人がどう思うかは本人次第だから、俺に言われてもな。
「生きる目的は何ですか」という問い自体には、
「生きることが目的に対する手段である」という命題が前提に含まれているよね。
日常なり自然の事象を描いたり説明するために言語なりロジックなりが生まれて構築されるわけだけど、
今度は逆に事象すべてにそのロジックを適用しようとするのは無理があったり間違っていたりする。
本来、体感する感覚や世界の事象こそが全てであり正しいはずなのに、
いつのまにかそれがロジックとすりかわって、ロジックに溺れていってしまう。
手段に「生きる」をあてはめたとき「目的」には何があてはまるのだろうか?という問い自体が
自然の事象には存在せず、ロジックの世界にだけある問いかけなのかもしれなくて、
それもそのはず、問いかけっていうのは「論理関係」でしかないのよね。
「生きる」という行為なり状態自体っていうのは自然の世界、事象の話であって、ロジック・論理関係の事象ではない。
「頭で考える」というのはすなわち「ロジックで考える」ということで、「答えを出す」も同様。
自然の事象である「生きる」に私たちの存在でもって肉薄するには、まずロジックの世界を離れる、
つまり頭で考えないということが重要なのかもしれない。
初期の話こそ魔獣とのバトルや星の戦士の秘密に関する話が多くを占めていたが、中期以降で前述の社会風刺やパロディが主体の、ナイトメアとの対決という番組の本筋は直接関係ない話が増え始める。
作中のプププランドにはコンビニ、自動車、テレビなどが存在し、これらが作品の世界観を現実世界に近づけている。
また、話によっては社会風刺を活かすために食糧不足、温暖化、オゾン層破壊、教育への不安、テレビ番組の情報捏造、捨てられたペットの野生化、 箱物行政など様々な問題がプププランドでも起こっているという設定になっている。
作中で取り扱うパロディのジャンルは多岐にわたり、映画「サイコ」「モダン・タイムス」「生きる」、文学作品「ドン・キホーテ」「1984年」といった有名どころの作品は余すところ無くカバーされている。
また、社会風刺と共にメタフィクション要素が非常に多いのも特徴である。
中にはアニメ制作を題材として現在のアニメ業界に対する批判を行う回もあり、「好きで(アニメーターを)やっている連中は給料が安くて済む」「こう言う(しゃべっているだけで絵が動かない)アニメは安く作れるね」(第49話)や「(3DCG技術の発達により)セルアニメーターは大量絶滅。アホ監督はのたれ死に」「夢より利益を上げなくては」(第89話)などの台詞がある。
生きる意味を定義した時、問題になってくるのは何に意味を見いだすか?その意味を確立させるプロセスはどういうものか?
ここに「産まれたことに意味はない」と考える思想がある。これは宗教的にも科学的にもある意味正しい解釈だ。
科学的に、今この自分が存在するのは親や今まで食べてきたものなどの関係性から、偶然細胞が細胞分裂を繰り返し、今の自分が存在しているにすぎない。
宗教的にも今の自分が絶対なる存在だとして定義できないという考え方がある。(一休さんのいう”この世はあの世にいくまでの一休み”みたいな話し)
しかし、この思想には続きがあって、宗教的にも科学的にも合致する続きの考えがある。
それは「なぜ存在するのか?」という疑問の答えは見いだせないが、「とりあえず存在するものは存在するもの」として、その「存在するもの」をどう解釈するのか?というところが問題になる。
つまりこれは、「なぜあるか?」ではなく「あるものを、どう解釈できるか?」という、その存在の働きを問う、機能の問題だ。
科学でいえば、重力などの「既に存在するもの」のパターンを読み解き、そのパターンが及ぼす影響、機能を”当てる”事が科学だ。つまり「既に存在するもの」を「どういうパターン(機能)で解釈するか?」という事が科学だ。
産まれてきた意味はない、しかし「”既に存在する自分”を、どういうパターン(機能)で解釈するか?」つまり「生きる意味はなんだ?」という問い。
この問いに、限りなく正解に近い答えが「人間は楽しむために生きている」という答えだ。
人間の生きる意味を定義した時、それは「楽しむために生きている」と定義できる。(別にこれはただの快楽主義じゃないですよ~きちんと定義できるんです)
この定義の宗教的な理由をいえば、概念的な自問自答がいくつも重なって、その末にでた結論として上記の定義付けをできる、と説明できるが、それはややこしいので、かなり乱暴に言ってみれば、単純に「そう思える理由(概念の検証)があるからそう思える」としか言えない。
しかし、その「そう思える理由」を、もっと明確に科学的に説明することが可能だ。
それは、自分、つまり人間の構造そのものが、そもそも「楽しむために生きる」作りになっているから、と言える。
重力が「既に存在するもの」として、今実際にペンをもち、それを手放したら、ペンは机に落ちる。重力はそういう機能を持っていると定義付けられる。
同じように、人間の脳や体は「既に存在するもの」として、実際に「気持ちの良い行動」をすると、いろんな脳内物質が出て行動が活性化される。人間の脳とは、気持ちのいいことをすると行動が活性化される機能を持っている、と単純に定義できる
「生きる」事の定義が行動であり、逆の「死ぬ」定義が、まったく行動ができない状態だとしたら、「生きる」事の定義は「活発な行動」そのものだ。
そして、その「生きる意味」つまり「活発な行動をする意味」は、科学的に「人間が既にそういう作り(機能)で出来ている」としか説明しようがない。
つまり、産まれてきた理由は説明できないが、それをどういう機能で解釈するか?という事は、人間がどういう作りになっているか?という解釈であり、それは単純に「楽しむために生きている」意外にありえない。
逆に楽しまず、行動が活発でなくなれば、それはどんどん死に近づくという事だ。
人間は、もっと楽しんでいい。いろいろ他人の目が気になったりするだろうが、それで自分を楽しめないのは損だし、楽しまないという事は人間の機能を逆行している。
じゃあ「何が楽しいか?」という定義は、個人の判断、個体差にゆだねられる。ただ、今が楽しくない人は自分で意識して「楽しさを見つける」事だったり、「楽しさを作る」事だったり「自分を変え」たり「慣れ」たりすることで楽しさを見つけられるようになる機能も人間にはちゃんと備わってる。
人間は機能的に、楽しくないことをずっと続けていると脳が死んでいくようなものなのだ。
生きる意味を定義したとき、単なる快楽主義ではなく、その科学的プロセスから見ても、楽しんで生きることが人間にとって一番の正解になるんじゃないかな
人間の機能の結果が「楽しむこと」を「生きる(活発な行動)」へと結びつける。つまり、生きる為には逆説的に「楽しみさえしていれば、なんでもいい」のだ
そして、制約の多い現代社会でより人間の機能に逆らわず生きるためには、とにかく自分にとって重要な情報を書き換えて、なんでもかんでも節操なく楽しんでしまう事だ。楽しいヤツが一番強い
「いのち」の安売り
ttp://blog.goo.ne.jp/toidahimeji/e/2b17926460ed3f6f9ace9b84aa32cbd7
鳩山総理の施政方針演説に「いのち」という言葉が27回出てきたと新聞で報じていた。実際に目を通してみると意図的に「いのち」が散りばめてある。確かにいのちは大切であるし、守らねばならない。しかし、これだけ「いのち」の安売りをされると、敵ながら消化不良にならないかと心配になる。鳩山総理の言葉の軽さは、定評が出来上がってきたように思うが、「いのち」までが軽くならないか心配になる。以前に、「丸坊主日記」にも書いた記憶があるが、同じ「いのち」も口にする人によっては、限りなく重くなる。ルバング島で終戦後30年日本陸軍少尉として頑張ってこられた小野田寛郎氏が著書「たった一人の30年戦争」の中で述べておられた以下の言葉と比較すると「いのち」の重さの違いに気付かされる。
「戦前、人々は「命を惜しむな」と教えられ、死を覚悟して生きた。
何か命がけでやることを否定してしまった。
覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。
だが死を意識しないことで、
「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。」
何度も引き合いに出したくはないが、あまりに軽く「いのち」「いのち」と連呼されるとひとこと言いたくもなってくる。万の言葉を費やしても通じない事もあれば、立った一言でも億の人々の心を鷲掴みにして離さないこともあるのだ。この日本を守る為に「いのち」投げ出した人達がいて、その「いのち」を疎かにして「いのちを守りたい」といっても人の心に響かない。
同じようにマハトマ・ガンジーの言葉を引用しても、鳩山総理が「労働なき富」なんていっても、国民は、せせら笑っているのを感じませんか?
「鳩山由起夫総理!」
シリーズにしてみた。
前回、生きたいから生きてるんだよ、ということをたくさん言った。
それについて補足します。
「生きる」という語には、様々な述語が含まれるよね。
例えば「食べる」「仕事をする」「子を育てる」「悩む」「泣く」「準備をする」
そんな感じ。
ただそれに「死ぬ」が入るのか。
さあ、「死ぬ準備をする」は入るかもしれないけれどね、分かんないや。
しかしまあ、結局のところ絶対的に言えるのは。
生きている内にできることは全て述語で表すことができるんだろう、ということ。
つまり死ぬという行為は生きている内にしか実行できないから。
多分、私の言うところの『述語』の内に入るんだろう。
つまり、「死ぬ」という行為もまた、欲求の一つなんだろう。
まあとりあえず、今生きている誰しもにとって、死は最後の楽しみなんだ。
私は今、何よりもこのことを、熱烈に、言いたいね。
何で生きているのか。そんな疑問が噴出しているようだけど、もっとも簡潔な答えを、皆は初めから知っているのではないだろうか。
つまりそれは「生きたいから」だ。
同語反復ではない。
生きたいから生きているのであって。生きていたくないなら、既に人は死んでいるからだ。
私が思うにそれは、「経験する」ということである。
生きていなければ、人は何事も経験することはできない。
生きていれば、人は何事をも経験できる。
経験、即ち生。
そういうことである。
「生きる」という動詞と、「経験する」という動詞は、このように同義語なのだ。
...
...
...
「何で生きているのか」という問いに対して「それは生きていたいからです、生きていたくなければ、貴方は既に死んでいます」
このように答えることができる、と冒頭に書いた。
そこで、この「生きる」という動詞を、同義語であるところの「経験する」に置き換えてみよう。
『「何で経験し(生き)ているのか」という問いに対して「それは経験していたいからです、経験していたくなければ、貴方は既に死んでいます」と答えることができる』
このように置き換えることができる。
つまり、私たちはあらゆる物事を経験したいが為に、生きている。
そして、生きているということは、今、貴方が、身のまわりに起こり得る全ての物事に対し、経験してみたい、と欲求しているということなのだ。
生きている限り、貴方に降りかかる全ての苦痛も、全て、貴方が望んだことに他ならないのである。
全ては、貴方が望んだのだ。
ちょっと前からよく思っているんですけどね、私、生きる能力のない人は死ぬのが正しいと思っているんです。
えーとですね、私はどっちかというと社会不適合で、偶然専門職の口を見つけたお陰でなんとか生きてますけどね、1つの会社でずっとやってるとですね、精神的にダメになってくんですわ、これが。精神的に弱いんですな、たぶん。
で、ひとところに居つけないから社員にもなれず、職場を転々としながら生きてるんですけどね、まぁ景気も不安定ですし、これから先はどうなることやらという感じですな。
そういう人間として生きているからこそですね、「生きる」っていうことは、けっこう強く意識しているんですよ。
もしですね、自分の能力が通用しなくなって、貯金も尽きたら、それはそこまで。その時にですね、生活保護なんて求めたり、誰かを頼ったりとかですね、そんなことは絶対にしない、と。そう思ってるわけなんです。
それはですね、私がたぶん、生きる能力をそんなに持ってないから考えることだと思うんですよね。私はですね、私が全てを失って死ぬ姿をですね、明確にイメージして生きてきたわけです。それはもう学生時代からずっと、20年近い時間ですね、ずっと心に住み続けているイメージなんですよ。
で、それは不遇によってそうなるわけではなくですね、私の能力からすれば順当な結果だと理解しているわけなんです。
私はですね、他人に殺されるのは当然嫌ですよ。でも、ですね。私の能力が社会に通じなくなってそれで敗れるなら、それはまぁ、仕方ないことじゃないかと。生きていく力が足りないなら、死ぬしかないじゃないか、と。
そういう死をですね、誰にもかばわれず死んでいくことをですね、明確に意識していて、だからですね、私は私なりに、まぁ精神的にダメで不器用な人間なりにですね、避けようとして一生懸命頑張ってるわけですよ。
無駄なお金は使わず貯金してですね、自分への投資はちゃんとしてですね、唯一の便りの専門職の能力を衰えさせないように夜遅くまで勉強してですね、少しでも生き延びようとしているわけなんですよ。
だからですね、私は自分の能力が足りずに死ぬことは受け入れるのが正しくてですね、弱い人を助ける優しい社会なんてものが出来たら、喜んで唾を吐きかけようと、そんな風に思っているわけなんです。
→http://anond.hatelabo.jp/20090103032255
人間関係が薄くなりすぎているのでは? カウンセリングや認知療法では人間関係の代わりにはならないだろうし、抗鬱剤で承認が得られるわけではむろんない。人間関係を具体的に広く深くすることに踏み出せれば前に進めると思うが。
* * *
一つの参考として読んで下さい。私も鬱病経験者なので一人の経験者の立場で書きますが、この病気の十全な改善のためには、「自分が生きる」とか「生きる」ということについての或るていどの深さのある肯定が必要なのだろうと感じます。
「こんなに苦しいことがあふれている生を続けていく意味は何?」というような問いを抱えていて、その問いの答えが分からない状態だと、色々な辛いことや苦しいことが剥き出しになって自分に迫ってくるように感じられて非常に辛いし、憂鬱にもなります。具体的な行動に踏み出す気力も出にくくなります。
「こんなに苦しいことがあふれている生を続けていく意味は何?」というような問いは要するに人生の意味を問うている問いなのでしょうが、鬱状態だと人は意味や価値について一種の盲目になる(意味や価値をあまり信用できなくなる)ことがあるので、そういう状態で「人生の意味や価値を問う問い」について答えを出そうとしても無理があるのではないかと思います(鬱状態でなくても扱いに困る問いですが)。
「こんなに苦しいことがあふれている生を続けていく意味は何?」といったように人生の意味や価値をストレートに問おうとするから答えに窮するのであって、答えに窮しているから憂鬱にもなるのでしょう。だとすると、そもそも「こんなに苦しいことがあふれている生を続けていく意味は何?」というような形式の問いを抱くことが憂鬱さの原因の主要な1つかもしれない。だとすると、この原因を取り除くためには問いの形式を変えるべきだと思います。
どのように変えるかというと、例えば「生きているとはどういうことか?/人生とはどういう事態か?」という問いに変えるわけです。つまりこれは「生きる」とか「人生」という語の意味自体を本人が再定義する試みであって、これを果たせば鬱病者当人が自分の現状を或る意味でクリアに見ることが可能になるし、あるべき生と比べて現状に何が足りないかということを自覚することもできるでしょう。「人生の意味は何?」というような問いの1つの答えが副産物として得られる可能性もあると思います。
「生きる」とか「人生」という語を単に通俗的な意味でとらえているだけだと、「生きる」とか「人生」ということを通俗的な意味の外側から見る視点が得られないでしょう。そうすると、通俗的な意味での「人生」に幻滅すれば精神的に行き詰まり得ます。「その行き詰まり状況を打破するためには、本人が人生を積極的に肯定しなければならない」といったときに、そこでいう「人生」の語は通俗的な意味を超えたものにならざるを得ないのではないか。それを提供するのは宗教かもしれないし、哲学かもしれないし、文学かもしれないし、何らかの直観かもしれないが、理性を否定したりトンデモに堕ちたりはしないかたちで「人生」という語の意味を本人なりに再定義することはできるはずです。
>>薬なんか飲んでも極論、治らないんだよ。
>>本人が回復しようと思わないと治らないんだよ。
人生観に関して行き詰まっている人間は、行き詰まりが打破できないがために「自分は回復の見込みが無い」と思い込んでいる可能性もあると思います。ですから、「生きているとはどういうことか?/人生とはどういう事態か?」ということを考えることを通じて少しでも人生観を更新すれば「回復しようと思」い至ることができるでしょう。そして「こういうことが自分の善き生である」ということが明瞭に意識のなかに立ち現れれば、具体的な行動にもつながると思います。
そういう試みを鬱病者本人が一人でやるのは正直しんどいかもしれないので、信頼できる伴走者的な人と一緒にすすめた方がいいと思います。とりわけ、「こういうことが自分の善き生である」と意識するためには他者の存在が欠かせないでしょう。回復した後も社会のなかで生きていくのだから、「自分の善き生」というものは他人との具体的な関係のなかで築いて(気づいて)いかないといけないと思います。
人生への幻滅や人生観の行き詰まりが原因で鬱病になっているのだとすれば、その鬱病者の人生観の方をこそ誰かが理解し解きほぐしてあげるべきだと私は思います。あなた一人の手に余るならば第三者にも頼るべきでしょう。
人生観の更新で「健康」を創ることはできると私は思うし、できる以上はするべきだと思います。「健康」に生きることが善であるとお認めになるのであれば。
〈参考〉
いやいやいやいや
インフルエンザに罹れば、例え体調的には学校や会社に出られる状態であっても家で待機を命ぜられるし、今はないけど結核も隔離の対象だ。
そして、それらの病気はあらかじめそう罹らないようにワクチンの接種を義務付けていたりもする。
……国民の健康を守るのは国の役目なわけで、保険料が三割負担なのも国のおかげなわけで、「いいじゃんほっといてよ」を許すわけにもいかないのが国なわけでして。
イラクへ行って人間の盾をしてきた人やら首を切られて自分を見失った人にも、これ以上ない厚遇をしてきたじゃん? それは、国の義務だからであって、国民もまた「生きる」という義務を放棄してはならんのだよ、本来は。
生殺与奪の権利については、理性のある個々人が既に握っているのは確かにそう。でも、憲法的に言うなら、「生きる権利」を皆に保証する、つまり
格差の解消や派遣労働の問題等々、最近どのメディアでも本当に多く見かけるようになった。いわゆる就職氷河期世代で就職に失敗した人たちは相当厳しい所まで追い詰められてきているのは間違いの無いことで、格差の縮小と労働者保護に向けた対策を今すぐにでも行うべきだ。ただ、これに関係してどうしても一つ言いたいことがある。
「何故、悲惨な労働者の実態を“失っていく物語”として語る?」
以前、新聞でこんな派遣労働者の“失っていく物語”を読んだ。ほぼ私と同年代の人だ。
「Aさんは、小学校から高校までは田舎で育った。高校卒業後上京し就職したが職場でうまくいかず退職。転職までのつなぎと考えて派遣会社に登録しいくつもの派遣先を渡り歩いているうちにいい年齢に。年収は200万強、彼女はいるが同様の環境で、このままでは結婚もできない。田舎の両親も心配だが、帰っても就職先がない。もちろん年金は……。」
この話、普通の人生を送り普通の暮らしを手に入れている人なら同情してくれるだろう。
同じように何かを失っていく人生だと感じている人の共感を得られるかもしれない。
けれど「何も無い」状態からひたすら頑張ったような人だったら……。
小中高と、外見のマズさと吃音でイジメられ続けた、クラスの最底辺から頑張るしかなかった僕の正直な心の声
「だから何?その程度で社会頼るなよ」
普通の(普通であればそこそこ楽しかろうよ)学生生活、周囲からの承認、周囲に怯えず生きていける時間、それを当たり前のこととして受け止め、自分の興味ある事に取り組み成長できることが人生にとってどれだけのプラスになるか。18歳時点で「生きる」ためのリソースの量は、Aさんと僕とでは圧倒的な差があったはずだろうよ。それなのに……と思わざるを得ない。
人間、努力して這い上がる型の人生を送ると「最初から持っていなかった人」「得られなかった」人には普通に同情できるけど「失っていく」人に同情するのには条件が付いてしまうのではないかと考える。予測可能な困難に対して効果的な努力はしたのか、リスクヘッジはしたのか、とどうしても問うてしまうようになる。2chで格差問題やワーキングプア・フリーター等に関するスレが立つたび当事者を煽るレスが多く付くけど、本質的には変わらないだろう。そして、こういう人は一定の割合で社会に存在して、努力したなりの地位にいることが多い。少なくとも自分と自分近辺を見る限りにおいては。
だから、この種の問題を語るときは、基本的に現在の労働条件や将来における経済的な影響、対策として何が有効か、などできるだけ条件を限定して語るべきだ。“物語”を語れば語るほどに“自己責任”を突っ込まれる悪循環はいい加減に断ち切った方がいいんじゃないか?
つまり、メシも作らず、洗濯もせず、身の回りのことも他人にやらせて
それで
オレはなぜ生きてるのだろうなあ
ってことですね。分かります。
母ちゃんの言うように、自分で一本立ちして「生きる」ということをしたことのない人間に
「生きる意味って…」とか言われても、正直「笑止!」って感じですね。
生きたことがないなら、生きるというのがどういうことか分からない。
TVで観戦するだけのファンが野球選手に「野球って何なんでしょうね」とか言って
「自分でプレーしてみろや(゜Д゜)ゴルァ!!」と言われたのに対して
そんなのただ時間と労力を浪費
しているだけなのでは?
って言ったらあなたどう思いますか。何も思いませんか。
てめーの言うその「時間と労力の浪費」の中に
それが分からないあなたにはそもそもそれを論じる資格がない、というか。
そんなこと、思うんじゃないですか。
生きる意味を問うなら
まずは今まで育ててくれた
言い換えればあんたの代わりに
一所懸命「生きて」くれていた親に対して
感謝の一つもし
孝行の一つもしてから言え、と。
そんな感じです。
他人によって「生かされていた」あんたの生きる意味は
まずはそこにあると思いますがね。
あなた自身の、自分だけの生きる意味など
その先にしかあり得ないでしょう。
自分が「生きる」
でなく
あなたの母ちゃんのように
他人を「生かす」
くらいのことをしてから言ってください。
確かに意味はあまりないかもなあ。以下、個人的な話ね。
「死にたくない」というのと「どうせ死ぬんだから」は同居している。
どちらかだけが自分の意思であるというわけではない。
人生において落ちるところまで落ちたとき、例えば、何かの拍子に飯を食うことすら面倒くさくなって
布団の中でぐだぐだしていると、早くも2日目くらいで「やべ本当に死ぬんじゃないか」って危険を感じて、
仕方なく死にそうな顔でコンビニに行ったりする、
思春期を迎えたばかりの頃、覚えたてのオナニーに「これが生きてるってことなのか!」というくらいの
感動を得て、1日に6回、7回射精をするうちに、脳の方はまだ行ける、行くぜって指令を出しているのに、
脳内をめぐるべく血流の方が減ってきてしまって、意識が朦朧としてきて身の危険を感じてしまう、
そんな繰り返しに人生が似ているんだと思うな。
「死にたくない」と「どうせ死ぬんだから」という2つの意思が、
意外と、本人のあずかり知らないところでバランスしながら回転して、
その結果として、何となく生き得ているんじゃないかなと思う。
つまり「死にたくない」と「どうせ死ぬんだから」の両方がないと、回っていかないのではないかな。
そうやって回ることが、「生きる」ということ?違うかな。
今のアンタは「アキレス腱切ったアスリート」みたいなモンだな。
死にたいだろう。走れないなら生きてる意味なんてねえよ、と思うかもしれない。
「生きろ生きろ、生きてるだけで価値がある」なんて腐った台詞に耳を傾ける気も起こらないだろう。
オレもアスリートだ。
アキレス腱も、あんたと同様伸ばしかけてるかもしれねえ。
だから、言いたいことは分かるつもりだ。
だがな。吠えたところで何も変わらない。愚痴ったところで始まらない。
「あんたがもう一度元のように走れる日は二度と来ない」
その冷徹な事実は、直視するしかないんだ。
あんたは一流アスリートだったのに、自分の身体をきちんとコントロールできず、オーバーワークなんて初歩的なミスをやって、結果アキレスを痛めてしまった。残念ながらこれは自業自得だ。
一流ならそこは、まず認めよう。医者の言うことも、素直に聞こう。
さあ、そこで考えてみようじゃないか。
あんたが一流のアスリートだったのは、なぜだ?
生まれつき人より足が速かったからか。生まれつき人より何かができたからか。努力せずにたまたま何もかもを手に入れてきたからか。
……違うだろう?
確かに生まれつきの何かもあったかもしれない。でも一流になるために、あんたは色々なものを我慢してきただろう。努力してきただろう。いつも自分が何をすべきか考え、人の寝ている時間に努力し、人が遊んでいる時間にどうすればいいか考え続けたからだろう。トラブルが起こっても腐らず投げ出さず、全力で問題と取り組んで勝利をつかんできただろう。見えない努力を積み重ね、生活の全てをなげうち、単なる金銭欲や名誉欲ではなく、アスリートであることに心からの誇りと満足を感じていたんだろう。
早く走れるからアスリートなのではない。
努力するから、し続けるから、常に走り続けるからアスリートだったんだろう。冷静に計算を積み重ね、ねばり強く努力し、負荷に耐え、誇り高く、勝利を信じて走り続けるからアスリートだったんだろう。アスリートなんだろう。
なんだか自分に語ってる気がする……けどもう少し喋らせろ。
いいか。
「足を痛めた『から』負けた」とか
「横腹が痛くなった『から』成績が伸びなかった」とか
そんな言い訳は、止せ。
ただ「負けた」
ただ「筋を痛めた」
That's all.
死ぬなら、ただ「死ぬ」。
心を病んだ『から』死ぬとか、病んでない『から』生きるとか、
あんたがどうする積もりかは知らない。
ただ、アスリートであった自分を汚すことだけは止めてくれ。
それは余りにも痛々しい。
トラブルはあんたから「走れる脚」を奪ったかもしれないが、何もあんたから「アスリートであることの誇り」を奪うことはできないんだ。脚が無くても、あんたはアスリートであり続けるんだ。右手が、左手が、まばたきが、歯の一本が動いてくらいつくことができる限り、いや、たとえ全身の動きを止められようと、何もあんたからアスリートで有り続ける誇りを奪い去ることなんてできないんだ。
かっこ悪くてもアスリートなんだ。
死の瞬間まで、「敗者として」ではなく、「アスリートとして」の満足感のうちに死んでくれ。
いいか
人生というレースの
ここはまだゴールじゃない
「今の仕事」というこのレースは、
アキレス腱のばしたんだから無理しちゃいけない。
棄権するんだ。
恥ずかしいことじゃない。
単なる調整の失敗だ。
色々なレースの総合成績を競うレースは
まだ終わらない
人生のレースは
あんたのレースは
アスリートのレースは
まだ
ゴールじゃないんだ。
矢折れ
刀尽きても
そこに道がある限り
ただ愚直に一歩を進め
ゴールを求めて走り続けるんだ
アスリートとして。
http://www.city-nakatsu.jp/hospital/hatu_folder/haturatu_07.html#hyakuwa055
「医者はたいてい軽い胃潰瘍だというんですよ。それからね、手術の必要はない。食事も、まあ、あんまり不消化なものでない限り、好きなものを食べていい。こう言われたら、長くて1年」「もっとも、こういう自覚症状が出てきたら、とてもそれは1年は無理ですな。まず、重いように痛む。何か気持ちの悪いゲップが盛んに上がってくる。舌が乾きましてねえ、水やお茶ばっかり欲しくなる。そして下痢をする。下痢をしない場合には反対に便秘する。黒い色をした大便が出る。それからねえ、あれだけ好きだった肉類が全然食えなくなる。何を食っても30分ぐらいですぐに吐いてしまう。その時、1週間も前に食ったものが出てきたとしたら、ことですよ。もう、せいぜい3月ぐらい」。
「死なない」と「生きる」の違いか・・・。
難しいな。
そう考えると俺は死なないために生きているのかもしれない。
もしかしたら将来的に死ななくなることが可能になるかもしれないしな。
いやでもずっと死なないのも嫌だな・・・。
え?俺は結局どうしたいんだ?