はてなキーワード: トリミングとは
そもそも トリミング以前に死亡確率や食中毒確率が異常すぎる。
私は、証明写真を安くする方法がないかと思ってネットを探していたら
いい方法があったのでここに書いておきます。
結構出来がよくて、お店で撮ったものと見分けがつかないほどものが出来ます。
よかったら参考にして下さい。
1. 証明写真画像をCD-Rに焼いてくれる証明写真屋を探して 証明写真を撮りましょう。 (私はキタムラで撮りました。) 2. 『証明写真をつくろう!』ってソフトをダウンロードして インストールして、1.のCD-Rの証明写真画像を読み込ませよう。 読み込ませる時に、プリントするサイズは"L版"、証明写真のサイズは"履歴書サイズ"にしよう。 "パスポートトリミング"ではなくて"オートトリミング"の方がよかったと思います。 証明写真画像が横を向いている場合は、"編集"の"90度回転"をしよう。 後、"表示"の"出力設定"の"高度な設定"の"写真と写真の間隔"は1mmにしないと6枚印刷にならなかった。 で最後に、"名前を付けてファイルを出力"を実行しよう。(出来た画像はこんな感じ http://bit.ly/ekA2Pd) http://bit.ly/dVBqiE (関係ないかもしれないが、最新版だと同時に4枚しか印刷できなかったので同時に6枚印刷できたver2.9.0をお奨めします。) 3. で作成された画像をセブンイレブンに持って行って、コピー機の所で通常の写真として印刷しよう。 (セブンイレブンで作った証明写真の方がキタムラのセルフ証明写真機よりきれいでした。) 4. で最後にハサミか裁断機で写真を切り分けましょう。
考えてたら訳わかんなくなってきた。
とりあえず黙認を自覚しているからって権利に寛容になるって言うのは意味わかんない。
二次創作を転載してもらって有名になりたいって、結局他人のふんどしじゃないのか?
あと思い出したこと。
携帯待ち受け投稿サイトで「転載禁止だったら教えてください」って言うのが結構あった。
無断なのは間違いないとして、縮小してトリミングして無断配布したうえでそんな事言っちゃうのか・・・
しかもそういう奴いっぱいいるのか・・・と軽くカルチャーショックだった。
真っ当な紹介サイトもあるんだろうけどこんなんも多いし、紹介してもらいたいから転載可の人にはこういうところは迷惑ではないのだろうか。
シーズーの顔はとにかく可愛い。
中国犬(シーズー、パグ、ペキニーズなど)は愛嬌のある顔の犬が多い。
シーズーは黒目しかないのか?と思うくらい黒目が大きく、瞳もぱっちりしている。
時々上目遣いにした時白目がちらっと見えるともうたまりませんぜ。
シーズーは極めて穏やかな性格が多い。
もちろん犬にも個性があるので、犬によるが他の小型犬に比べて無駄吠え噛み付き癖が少ないと思う。
ダックスフンドやプードルは元々狩猟犬(諸説あり)で狩りを得意としてきたが、シーズーは中国の宮廷で長年愛され続けた為のんびり穏やかな性格になったのではと思う。
穏やかなだけではなく、けっこう社交性もあって人懐こい。とってもチャーミングなわんこである。
でも、宮廷犬だっただけあって変なところで頑固でプライドが高い部分もある。
でもそういう高慢ちきなところもただの抱っこ犬じゃないシーズーの魅力だと思う。
シーズーの平均的な身長は20~30cm、体重は5~8kg(ウィキペディアより)
うちの犬も6.8kg。これは小型犬では大きい方で、ずっと抱っこしようもんなら筋肉痛必須。
でもその程良い大きさの存在感が安堵感をもたらしてくれる(と、思う)
あと家庭内で飼うには手頃な大きさだと思う。
犬を始めて飼う人に真っ先におすすめしたい理由がこれ。
シーズーはとにかく抜け毛が少ない。
もちろん日々のブラッシングでケアしてこそだが、他の犬種だったらもう抜け毛で一匹犬が作れるぜという換毛期でも、シーズーはほとんど抜けない。
ただし抜ける犬と違い、長毛が伸びるだけ伸びるので年に何回かトリミングに連れてってやらないと別の犬種だろってくらいボサボサになる。
その長毛を手入れしてやると犬種図鑑に載ってるようなシーズーになれる。
でも大体どこの家でもめんどくさくてカットしちゃうんだけどね。
説明など要らない。「シーズー 仔犬」でグーグル画像検索をしてほしい。
私は犬オタなのでどんな仔犬も可愛いと思っているけど、シーズーの仔犬は「仔犬時代がすげえ可愛い犬種」トップ3に入ると思う。
一向にシーズーブームが来そうにないから、せめてと思って書いてみたよ。
めちゃくちゃ可愛いのに・・・。
ちなみに、この記事に猫派の人は空気を読んで「猫じゃダメなの?」ってトラックバックしてくると思うから先に書いておきます。
「シーズーがいいんです!」
以前からトレス疑惑の問題は上がっていたけど、また新たに出ましたね。
それについてはでもまあ特に言うことはないのです。
自分はツイッターとか、自分のアイコンを必要とするサービスでは、主に「自画像を『~風』に描いてみた」ものを使っています。
少し前までは、安易に適当な猫の画像をトリミングしたものなんかを使っていたんだけど、ちょっとだけ自己主張してみたくなったもので。
そこで、キャラを模写(というより本当に「似せて描いてみた程度」)しつつ、服や髪型、色を自分っぽく変えて描いて、それをアイコンにしているんだけど
ふと、疑問に思ったんです。
自分がやっていることももしかしたら著作権を侵害していることになるんだろうか?
自分の場合はなんの利益もないわけだけど、既存のキャラクター風の絵を描いて、それを自分が描きましたということもだめなんだろうか。
法的に、というよりは、道徳的に、ということで問題になっているのでしょうか。
アニメ絵をそのままアイコンにしている人もいるわけだから、くだらない次元の話なのかもしれないけど、本当のところどうなんだろう。
構図だけ引っ張ってきてもトレス(実際は模写であるかもしれなくても)と言われ非難されるのを見ていて純粋に不思議に思ったのです。
自分のアイコンの場合も、参考画像と輪郭やポーズはほとんど同じなので気になります。
どなたか詳しい方がいましたら教えてください。
はてな日記にもmixiにも書けないけど、どこかには書きたかったので匿名で書く。
先日、身内が亡くなり、その身内が抱え込んでた爺様の遺品を数十年ぶりに見る事が出来た。
爺様は戦時中、とある通信社にカメラマンとして所属していた。「会社辞める時に、自分が撮ったネガとか、他のカメラマンが撮ってて面白そうなネガとか色々と紙焼きしてきた」そうで、その写真が数十年を経て出てきた。
真珠湾第一次攻撃で空母を離艦する戦闘機の写真やら大和の写真やら、連合艦隊の空撮図、南方戦線のスナップ、昭和天皇とマッカーサーの2ショット(これは教科書に載ってるのと同じ。紙焼きの方はトリミングしてないけど)、極東軍事裁判の東条英機などなど…。ネガの紙焼き100枚ちょっと。紙焼きだから複製といえば複製なんだけど、それでも日本近代史の濃縮ジュースを原液で飲んだような。何枚か大日本帝国海軍検閲済、とタグが貼られた写真もあったから、原本に近い紙焼きも混ざっているのかもしれない。
最期の方に、爺様の日記というか随筆が残っていた。自分が書いた記事や撮った写真で新聞を賑やかして、それを読んだ何百人何千人かは戦場に狩り出される事になって、そして死んでいった事が悔やまれるといった内容だった。戦中戦後、引き続けて通信社や新聞社で記者やカメラマンを続けている同僚先輩は何人も居たけど、戦時中に自分が行った報道は自分としては戦犯行為であり戦犯会社に勤め続けたくないとも。
この写真の束は、爺様の生き様の証明と後悔が綯交ぜになった代物らしい。お焚き上げして爺様の供養をするべきか、だれか有識者の方に見てもらうか、ちょっと考えている。
薄闇に覆われた交差点は、混ざり気のない静寂に包まれていた。立ち込める朝霧が全てを洗い流したのかもしれないし、遠ざかりつつある宵闇がたくさんのモノを持ち運んでいってしまったのかもしれない。
歩道に立ち尽くしていたのは私ひとりだった。
車の往来は先ほどからずっと皆無。厳冬を前に冷え込んだ外気は、小鳥の囀りさえも拒んでいるように感じられる。
まるでこの交差点だけが世界から切り取られてしまったかのようだった。私を取り囲むようにして範囲設定、トリミングを行い、まったく同じ画像でありながら完全に異質のモノと化した画像の上に貼り付けて合成する。
この交差点は、ともすると異界なのではないのだろうか。あるいは異界と繋がりかけた、もしくは異界がぱっくりと口を開いた、そんな境界線に接しているのではないだろうか。
思ってしまうほどに、私はその人物から目を離すことができなくなっていた。スクランブル交差点の中央に悠然と佇む野球帽。深く下げられたつばのせいでその表情はまったく読み取れない。口許にだけ、離れているにも関わらず認識できてしまう下弦の月が浮かんでいた。微笑はすなわちそれだけでその人物の全てを表していて、その性差、年齢、思想など、ありとあらゆる特徴を飲み込みながらも絶対的に人物が普通ではないことを放ち続けていた。
その人は、間違いなくどこかがたがっていた。狂ってしまっていた。例えば目の前で子どもが出血しながら蹲っていようとも、老婆が胸を抑えて苦しんでいようとも、子犬が訳もわからないままに溺れようとしていようとも、確実にその微笑を揺るがせないままじっくりと観察するような人物だった。そうであることを、吊り上げた口角と纏わせたオーラで私に伝えてきていた。
そう、間違いなくその人物は私に伝えてきていた。
その事実が恐ろしくて、意味が分からなくて、戸惑い、混乱して、私はただ人物を注視することしかできなくなっていた。
確か、深夜まで続いた仕事をやり終えて、肉体的にも精神的にもボロ雑巾のような状態になってしまっていて、人を物のようにしか扱わない酷使に悲嘆に暮れながら家路についていたはずだった。不意に視線を上げた途端に、交差点中央の人物と向き合ってしまったのだ。その瞬間に私は世界から切り取られてしまった。
一体なんだというのだ。
どうして私がここにいるのか、どうしてここに招待されなくてはならなかったのか想像することさえできなかった。それは私には望まれていない行為だった。人物の微笑みが深くなる。
相手の意図は不明だったし、そうであるから不用意に動くこともできなかった。私は人物に恐怖を覚えていたのだ。本能的な、動物的な、原始的な、野生的な、抗いようのない根源から呼び起こされる畏怖の感情。なにをされるのか、なにを期待されているのか、なにが待ち受けているのか、その一切が不明だった。そして私は、この場から離れなければならないと、ただそれだけを強く強く感じ取っていたのだった。
変化は瞬間に起こった。車道の信号が真っ赤に点灯して、急にとうりゃんせが鳴り響き始めた。電子音の、少し間延びしたような不愉快な旋律。驚き、周囲を見渡した私は、視線の先に目にしたモノに更に目を見張ってしまう。
いつの間にか私と同じように信号を待っていたらしいたくさんのヒトが、一斉に交差点に向かって歩き出していたのだ。その夥しい人数。圧迫されるような人口密度に、私は今の今までまったく気がつかなかった。気がつけなかった。
人々は私の脇を通って対岸へと移動していく。何も喋らず、無駄な動作は一切せず、まっすぐ前を向いたまま一心不乱に先を目指す。それ以外に、この交差点ですべきことなんてないだろう? 遠ざかっていく背中が、向かってくる虚ろな眼差しが、そう物語っているようだった。ざわりと背筋を悪寒が走りぬける。
視線を、交差点の中央に立っている人物に戻す。変わらずその人はそこに立っていて、ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべてきている。
ここがどんな場所か分かっただろう?
知らず知らずの内に、私は頷き返してしまっていた。張り付いた笑みは一層壮絶なものに変化していく。
なら、どうするべきか、お前は知っているだろう。さあ。ほら。
私の足は動かなかった。それに、人物は少し不思議そうな素振りを見せる。
どうした。なにを躊躇っているんだ。分かっているのだろう? ならば、するべきことがあるじゃないか。
固唾が咽喉を流れ落ちる。握り締めた掌には、じっとりと汗が滲んでいる。それでも、私の身体は固まったままだった。私の身体は、私という人格の意思が及ばないところで確かに交差点中央の人物に反旗を翻し続けていた。
様子に、人物が浮かべていた微笑が崩れる。口許に詰まらなさそうな感情を宿すと、直後に苛立ちをあらわにした舌打ちをした。
同時に、行き交っていた人々の、まっすぐに前を向いていただけの人々の首という首が、身体がぐるりと回転して、その数百の双眸が一身に集中する。
誰も何も言わない。何も思っていない。ただ私を私であると認識して、立ち止まり、直視してきているのだ。異物がいると。こちらの世界に属していないのだと。
眼差しが突き刺さる。射抜いてくる。遠く対岸の歩道から、あるいは交差点の中央から、私のすぐ間近から、まだ立ち尽くしている背後の歩道から、虚ろな瞳孔が私を見つめている。観られている。
がくんと膝が砕けそうになった。頭からざああっと漣を響かせながら血の気が引いていき、首筋に、両肩に、背中に、胸に、じんわりと汗が滲んでいく。
心臓が早鐘を穿ち始めた。破裂せんばかりに伸縮を繰り返す臓器は、鈍い痛みを伝えてきている。
呼吸も苦しくなる。肺がうまく膨らまない。浅く繰り返し繰り返し空気が出入りするばかりで、徐々に視界まで霞み始めてしまった。
まずい。呑まれる――
「どうかしましたか?」
声が頭上から聞こえた。唐突に鼓膜に音が戻ってくる。視界に映るのは、随分と明るくなった足元のタイルだ。胸に手を当てたまま、私はそっと頭を持ち上げた。
人がたくさん交差点の前に立ち尽くしていた。路面を車が勢いよく往来している。雑踏が聞こえ、喧伝が聞こえ、小鳥の囀りが微かに耳に届いてきた。
私は傍らに視線を移す。老婦人が心配そうに見つめてきていた。
「お気分でも悪いのかしら?」
「……いえ、少し立眩みが。もう大丈夫です」
「そう? 顔が青いようだけど」
「大丈夫です。ありがとうございました」
答え、ぎこちなく微笑むと、納得はできなかったものの老婦人の心労はそれ以上かけてもらう必要がなくなった。
顔を持ち上げて、大きく息を吸い込む。空には太陽が照っていた。吐き出した息と共に、強要されていた緊張が溶け出していった。
車道の信号が揃って赤く点灯する。交差点にはまたとうりゃんせが鳴り響く。
動き出した人垣に併せて歩き出した私は、行き交う人ごみの中にあの微笑が浮かんでいるような気がして仕方がなかった。
(追記)
法華狼と言う人が、奇妙なことを言っている。明々白々赤裸々に保守を自称する人のことを、ブログのタイトルなどで使ったネタフレーズを根拠に「自称中立」と揶揄して批判を行なっているのだ(http://anond.hatelabo.jp/20091006175940)。
ふつう、人の思想的な立ち位置というのはその人がする自己説明の総体や実際の主張を分析して判断するものであろうから、ブログのタイトルの数単語で判断を行なう必要はないのだが、なぜか法華狼は(数々の批判を浴びているのに、今も)それを修正していない。
そして今度も、実に不思議なことを言い始めた。
(~引用部分略~)
とりあえず引用された文章に限っても、「まず」と表現しているように、受け手の責任が問われていない状況へ異議をとなえただけなのだが。受け手の責任が優先的に問われるという主張は、送り手にいっさいの責任がないという意味を持たない。
しかし、法華狼は前日にこう書いている。
そもそも私が違和感を表明したのは【俺が自分を「中立」などと言ったことはなくても、それを『勝手に読み取る』超能力の持ち主らしいので、そっとしといてあげましょう。シッ、チカヨッチャイケマセン。】*4という主張に対してであり、実際に「中の方」「中心」と自称していることも指摘した。他方面で別の自認をしているだけでは不十分だ。
plummet氏が反論するには、「中の方」「中心」という自称が「中立」を意味しないことと同時に、誤読の責任が自分にないことを説明しなければならない。
「受け手の責任が問われていない状況へ異議をとなえた」「受け手の責任が優先的に問われるという主張」の人が、それをせずにまず「反論するには説明責任を果たせ」といっているわけだ。
しかも「中立」に関しては説明もなにもない。法華狼は「『中心』と自称していることも指摘した」というが、これは実はブログタイトル「世界の中心で左右をヲチするノケモノ 【勃興編】」の話であって、とても思想的中立と直接関係するとはいえない。なぜなら、それは既存作品を基にしたネタに過ぎないのだから(いや、元ネタがあることは思想的意味を持たぬ根拠にならない、という主張も可能ではある。が、それとてあくまで思想的意味づけを補強する明確な傍証―たとえば、実際行なわれた主張との組み合わせとか―があってのことで、それもなしに「世界の中心で=思想的中立」とできるわけはない。それでは片山恭一の小説さえ思想的中立の本ということになってしまう)。
法華狼はこの辺をごまかすために「世界の中心で」を「中心」にトリミングして、誤読の可能性を増やしながら「誤読の責任が自分にないことを説明せよ」というのだ。
これで「JSF氏のつまらないトリミング」「引用時に意図して排除したとは思いたくないが」だの書ける感覚が全くわからない。第一、自分を「中心」とする思想といえば、ふつう「中華思想」のことである。なぜ法華狼は「中心」=「中華思想」でなく「中心」=「思想的中立」と誤読しているのだろう。誤読しているのは法華狼ただ一人なのではないか?
さて、「中心」が用を成さないとすれば「自称中立」の根拠は「中の方」という1フレーズしかない。法華狼には、この3文字が他人の思想的立ち位置判定に重要であるらしい。他人のプロフィールや自己分析、またはその主張本体よりも、である。これもいわゆる「中の人」のもじりでしかないのだが、法華狼はすでにそう説明されてなお「反論するには説明責任を果たせ」と言っている。やはり、まことに奇妙というほかない。
------
ついでに言えば、上記の「そもそも私が違和感を表明したのは【俺が自分を「中立」などと言ったことはなくても、それを『勝手に読み取る』超能力の持ち主らしいので、そっとしといてあげましょう。シッ、チカヨッチャイケマセン。】*4という主張に対してであり」というのは嘘である。
>俺が自分を「中立」などと言ったことはなくても、
プロフィールやブログタイトルで「中の方から」「世界の中心で」左右をヲチと称しながら、そう自認されているのは以前から違和感がありました。
本来の文章を読めば分かるとおり、「違和感があ」るのは「プロフィールやブログタイトルで『中の方から』『世界の中心で』左右をヲチと称しながら、そう(=『中立を自称したことはない』と)自認」することに対してであり、「以前から」そうだというのである。決して書き込み2日前の「自称もしていないことを『自称した』と勝手に読み取りするらしい者はほっとけ、という主張」に対してではない。どうやら思想的位置だけではなく、ご自分の感覚もうまく把握できないようである。
更に視点を出すなら撮影した写真・画像をどうしたいか……ってのもあるかなと
それこそ携帯のカメラで十分。データの移動の問題とかもあるけど
SDカードとかもついてるのでそれに保存すれば良し。
トラバ元の方もかいてるけどこういう用途ならiPhoneは結構優秀
コンデジで画像サイズを並かそれ以下くらいにしてもいいかもしれない。
トリミングとかもするならその分のサイズは確保しとく必要はあるけども
コンデジで十二分です。ブレとかが気になるならデジイチでもいいかもしれんけど
どっちがぶれにくいかは結局使い方だったりする。
このくらいにすると写真の雰囲気が変わって結構面白かったり。というのは置いておいて
このサイズでもわりとコンデジで奇麗だったりします。
くらい場所でISO感度上げてるとすこしノイズが目立つかなぁという印象。
撮影対象によってはデジイチの方が便利でしょう
ここまでいくとデジイチ使うのをお薦めします。やっぱ受光部の大きさは大事。
これもやっぱり画像のノイズとか無けりゃ無い方がいいので、デジイチを薦めたい。
レタッチで解決出来ると言えばそうなんだけど、ね。
なんのひねりもねぇ。
http://anond.hatelabo.jp/20091006210805
ツッコミをモヒモヒして待ってたのに、はてブばかりが伸びてる割にトラバツリーがイマイチ伸びてないように見えるので、増田からも。
基本的に「コンデジ」と「デジイチ」を「使い方」という面から差別化するなら、前者はレンズがカメラに据え付きであり、後者はレンズを替えられる、というのが最大の違いとなる。因みにこの分け方の場合、「一眼レフ」ではないオリのE-P1だのパナのGH1だのは、後者。こいつらは「レフ」と表現されるミラーを持たないからデジイチにしては薄くて軽いが(ミラーってカメラの中で斜めに寝た状態にあるから、場所喰うんよ)、ファインダが光学じゃないから、気をつけろ。ファインダが光学である利点は、↓とかを参照。無論、ファインダがデジタルであることのメリットもまたある。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/480
は置いといて、コンデジの場合、レンズが据え付きだから、後で替えが利かない。「画質がいいですよ~」とか店で言われたのをそのまま受け取ってGR3とか買っちゃうと、運動会でガキが豆粒にしか写らなくなるので注意だ。一方、やたらズーム率の高いデジカメ買っても、所詮今の高画素なカメラであればトリミングさえしてしまえば十分だったりするので、用途によってはオーバースペックになることもある。ただ、コンデジの場合多数派は後者で、要するに「誰でも何でも撮る」ことを優先していて、ズーム率も高いしシーンモードも色々ある、ことが多い。
自分も、コンデジを買うなら「汎用性」を重視すべきだと思う。ほぼフルオートで、ズームで構図とる以外はほぼカメラ任せでも、とにかく常時携帯して何か見つけたら撮るくらいの気持ちで付き合えば、かなりお気に入りの存在となるはずだ。その場合、広角端を意識して買うべし。さっきも書いたが、ズームはある程度まではトリミングで誤魔化せるからな。
逆にデジイチはレンズが交換できるのが、逆に、あれ撮りたいこれ撮りたいとかなってレンズを無限に買い出すと、レンズ1本でコンデジ2~3台レベルなんてのは普通にいくらでもあるので、財布に気をつけろ。概ね、こうしたレンズ選びは「何を撮るか」の目的に合わせたものになると思う。被写体がはっきりしている場合には、向いているだろう。最初にキットレンズからはじめて、撮る目的が色々見えてきたら、というのはレンズを選ぶ感じか。
室内とか曇天とか、ちょっとした悪条件でカメラのシャッタースピードはすぐ落ちるので、特にコンデジや携帯だと家で子供とかぬこを撮る場合に大いに苦労する経験をされた方は多いだろう。
シャッタースピードは、当然のことながらカメラが受け取る光の量に比例する。逆に言えば、同じ明るさでもカメラで受け取れる光の量を増やせばシャッタースピード稼げるわけで、受け取る量は「レンズの口径を広げる」か「素子を大きくする」ことで実現し、このいずれについてもデジイチはコンデジを大きく凌駕する。ただ、素子の大きさに制約のあるコンデジにおいても、素子の形状や光の受け取り方を工夫することでこの制約を突破する試みは存在し、全社の代表格として富士のEXRシリーズ、後者の代表としてソニーのExmor-R採用コンデジがある。
無論、それでもデジイチとの性能差は大きいのだが、どうせ室内で子供とかバシャバシャ撮っても、A4にすら引き伸ばさず、せいぜいL版でアルバムに収めるくらいなんだったら、コンデジのこの辺りの性能が高いヤツでシャッタースピード稼げば、十分歩留まりのよい撮影になるだろう。それでも「画質がいい方がいい!」だったら、基本デジイチのレンズキットでそんな明るいのは無いので(例外:パナソニックのGF1→キットレンズが20mm/F1.7)、レンズを別途見積もるのを忘れるべからず。
少なくとも今現在の話として、コンデジは、現下の不況と画素数競争の終焉、携帯撮影文化の定着という逆風の中で絶賛苦戦中である。そうした中で、(特にソフトウェア的な)技術だけは着実に進化を遂げる中で、進化の袋小路的な変態機能が各社から繰り出されている。カシオの超高速連写、ニコンのプロジェクタ内蔵、富士の3Dコンデジなど、言わば「ガジェット的」方向性が見出されるコンデジは多い。こうした機能に「釣られてみる」のも悪くは無いだろう。
一方、デジイチというか伝統的なカメラにおいては、伝統的な遊びとして、テレコンやワイコン、マクロレンズ、フィルタ(クロススクリーンでキラキラな夜景とか、NDフィルタで滝の流れを撮るとか)などによる様々な表現手法が存在する。こうした機材による撮影表現遊びは、ハマると愉しいだろうと思われ。
色々と違いを述べたが、最大の違いはここかも知れない。
コンデジはともかく、結構オート化している。高級なものはある程度マニュアル機能も充実しているが、そういうのはむしろ、デジイチを持ってる人が軽さや機動性を求めて購入するものだろう。
確かに、シーンの操作やズームなど、撮影者の意図は入力されるものだが、大きな方向性としてはプログラムシフトだの絞り優先だのシャッター優先だのよりは、カメラが「勝手に決めた」設定で撮影が行われ、カメラが「勝手に」補正し、時にはカメラが勝手に顔色まで認識してくれた上で、絵として記録される。AFやファインダの敏捷性も高くないので、タイミング的な意味でもある程度カメラに「引っ張られる」部分はあるだろう。というと何かコンデジ駄目じゃん的な印象はあるが、実際「カメラが決めてくれる」気持ちよさ、みたいなのは、確実にある。暗所などの弱点はあるが、記録としての歩留まりは確実に今のコンデジは確保してくれるだろう。
で、デジイチの方はというと、これも一部にはオート機能がオプション的に充実してたりはするものの、総じてはある程度以上「撮影者の意図」を反映する機材である。観光地とかで「シャッター押してください~」と声を掛けてデジイチを渡す人は、普通はいない。
絞りをコントロールしてボケを付けたり付けなかったりとか、わざとシャッター速度を最適からはずして流し撮りとかをしてみたりとか、ピントを被写体の目に合わせてみたりとか、色のバランスを変えてみるとか。こういう機能は、ある程度コンデジにもあることはあるが、制約が付いてるケースが大半である。言わば、コンデジが「メニューから選ぶ」もので、デジイチが「自分で組み合げる」もの。ただ、センスがなければ、機材がいくら良くてもヘボいものしか出来ないという意味で、間違いなく敷居は高く、挫折したら投資が無駄になるリスクもあろう。
そうは言っても、素子とレンズの質の高さでしか実現できない絵はあるので、金と目的があるなら、デジイチに挑んでみるのも良いかな、とは思われ。
自分は趣味でイラストを描いていて、ちょっと前は広告デザイン(要はチラシだ)の仕事もやっていた。
でまあ、仕事はともかく、趣味でやってる程度だと、基本相手の許諾を得るか、模写してるくらいだと特に気にもならない。自分は文句が怖いのでやらんけど。
今回の騒動にしたってあんだけ細かく模写するには腕もいるだろうに大変だよなあと思ったが、これは絵を書く人間にしては珍しいようだ。どうも正面きって、
「だってよ う じ ょの(ピー)イラストとか(ピー)な(ピー)の(ピー)イラストとか平気でのっててだよ、写真の模写はいかんというのはどうなんだろうか。だいたいそれをいうなら二次創作なんて全部模写なんじゃないの。児ポ法は駄目といいつつ二次創作はOKなのに、ただの模写が許されないというのはなんか変じゃないの?
そのへんのダブルスタンダードはどうなのよ一体」
と聞きたいのだが聞けない雰囲気がある。ていうか増田で書いていても大炎上しそうで怖い。神さまそっとしといてください。
で、なんで自分がそんなに抵抗ないんだろうと考えたのだが、自分はもともとCAD屋だった。いかにして早く、正確に、図面を書くかという商売だ。検定とったけどありゃトレスコピペ地獄である。むしろコピペというかなんつうかあの業界の書き方というのはある種人間の限界に挑戦してると思う。おかげで今でもイラストを見るとああここ四分割して書いて回転コピーしてとか、なんでフォトショップやイラストレーターにトリミング機能がないんだとか、無いものねだりをはじめる。
部品やなんかは登録しといて使いまわすのが当たり前だ。ていうかでないと仕事にならない。一々ねじなんか書いてられるか。
一応図面も著作物に入ると思うがこの違い。
世の中は立場が違うとこんだけ違うものかと思う。
http://2chart.fc2web.com/tereto.html テレビ東京伝説
ってページがあって、現時点で200以上のブックマークを集めているの。中身は「世間が沸き立った重要事件の時に、テレビ東京だけは特別番組を流さないでいた」というのが中心なんだけど。
下の方見ていったら、こんなことが書いてあるのね。
みんな知っているとおり、総選挙ってのは衆議院議員選挙のことで、過去に行われているのは2009年、2005年、2003年。2004年に総選挙なんて行われていない。
もうちょっと調べてみると、これは2004年に行われた参議院議員選挙のことだったみたい。
参考 http://election-japan.blogspot.com/2004_07_01_archive.html
総選挙の改選議席数は480、参議院議員選挙の改選議席数は121ってことを考えると、議席予想的中が総選挙か参議院議員選挙かってのは、「すごさ」に結構な違いが出てくると思うわけ。
「そんなの、ちょっと用語を間違っただけじゃない」って反論はあると思うし、それにも一理あると思う。でも、一個不正確なところがあったら、ほかもどれだけ正しいんだか、気になってくるのが普通じゃない?
そうすると気になるのが、ページ下部にある「民放各局の同時刻の映像をとらえた(らしき)画像」。他局がみんな臨時ニュースだったり特別番組だったりを放送しているときに、テレ東のみ旅番組とかアニメとかが流れている、ってシチュエーションなんだけど、「これ、ホントなの?」ってこと。
見たところ、最近のニュースでも右上に「アナログ」って出てないから、デジタル放送をキャプチャして4:3にトリミングしたかなにかしてるんだよね。でも、デジタル放送ってチャンネル変えてから表示されるまで数秒のタイムラグがあったりするわけで、「完全に同時」をはかることは出来ないんじゃなかったかな? そうでないにしても、極端な話、テレ東がそのときに特別番組を放送していたって、ほかの時間帯に放送されていたアニメの画像をそこにはめ込んでないって保証はないよね? 検証するには、2ちゃんねるのテレビ実況板のそのころのレスの様子を探せば、状況証拠にはなるんだろうけど。
とりとめが無くなっちゃったけど、結局、これらのテレ東伝説がすべて本当なのかどうかは分からない。一般的な話をすると、インパクトがある画像や、衝撃的な話だったりすると、どうしても「本当であって欲しい」って気持ちが見た人、聞いた人の中に生まれちゃうのは、しょうがないことだと思う。そのときに、それを押しとどめて「もしかしたら違うのかも」って気持ちを呼び起こすきっかけになるのは、「2004年に総選挙はない」みたいな、元々自分が持っていた知識なのかもしれない。今後、何でもチョチョッと検索したらそれなりの情報が出てくる世の中で、自分の頭の中に知識を持っておかないといけない理由ってのは、検索結果の真偽を確認するためのチェックサム的な機能をキープするためかもしれないね。
>全文タイプライターで偽造しようと思えば出来ますよね。
物量が多すぎると思うよ。それに逐一他の史料と照らし合わせにゃならん。まぁムリ。それに、何度も書いてすまんがゲッベルス日記の真贋に関する論争なんて現在は無い。
>今はもう誰も信じていない事が長い間「事実」とされてきた例を見ましょう。
それ、証言じゃないの?余計な話だが、リンク先はSSのミューラーとゾンターコマンドのミューラーの証言を、知ってか知らずか混同したりしてるね。wこういうのはお里が知れるんで、削除したほうがいいよなぁ。
誰か「無い」って書いたかい?要は「俺」と話をしろってこったよ。あなたのイメージする「正史派」じゃなくて。キライなんだろ?そういうの。
>そうですよ。でも、裁判では「キャンプの外で囚人と話が出来た」とある。
「私は、自分の書いた報告書が、まずジュネーブに送られる事を知っていました。そうなれば、24時間以内に、報告書はゲシュタポの手に渡るでしょう。ジュネーブにはスパイがうようよしてましたからね、私はゲシュタポに読まれる事を前提にあの報告書を書いたんです。彼らにはその後も、色々な頼みごとをしなくてはなりませんでした。私は赤十字国際委員会を問題に巻き込みたくなかったんです。
その後、収容所長にあった時、私はこう言いました。私の書いた報告書がここにあります、読み上げましょうか? すると彼はこう言いました。必要無い、もう目を通した。それが戦争というものなんです。わかりますか?」
http://72.14.235.132/search?q=cache:zukdWsAylsAJ:www.law.hiroshima-u.ac.jp/profhome/nishitan/doc/01998-redcross2.htm+BBC+%E8%B5%A4%E5%8D%81%E5%AD%97%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%85%89%E3%81%A8%E5%BD%B1&hl=ja&gl=jp&strip=1
どんな形で書かれた物であれ、存在するかしないか訊かれたら「ある」と答えざるを得んだろうな。そういうものだよ。
>さんざん、あなた方が言って来た「ツンデル裁判で、修正主義者は赤十字の存在しないレポートを提出し否定しようとした」という事を裁判記録をもって否定しただけなんですが。
では、カナダ裁判所のHPから判決文全文のURLとその一部を抜粋しよう。
http://scc.lexum.umontreal.ca/en/1992/1992rcs2-731/1992rcs2-731.html
>Every one who wilfully publishes a statement, tale or news that he knows is false and that causes or is likely to cause injury or mischief to a public interest is guilty of an indictable offence and liable to imprisonment for a term not exceeding two years.
裁判所は「虚偽である」と結論しているね。だから裁判結果から見れば、間違ってるのはあなた。前にも出したよね、判決文。
つまりは、記録に残したい言葉だけを質問すれば、それのみが残るて事だと思うがね。どういう文脈で語られた証言なのか、それがハッキリしなきゃなんとも言えんわな。(こういうのは「トリミング」と呼ばれてて、史料を扱う際にはやっちゃイカン事のひとつと言われておるよ)もちろん、IMTにもNMTにも同じ事は言える。だからイェール大学とかで、全文翻訳とかが試みられたり、出版されたりするわけでさ。他の人(どうやら物好きにも見ている人がいるらしい)の参考に。
だってパタゴニアの偽物みたいで
トリミングとは縁取りのこと。襟やすそ、ポケット周り、Zipジャケットならジッパーの部分。(用語あってる?)
パタゴニアはトリミングの素材が細い、もしくはトリミング素材が不要な縫製をしているので、
全体的に柔らかく、何よりも軽い。
バルキーフリースはナイロン100%らしいが、モノによってはトリミングに綿素材を使ってたりして、速乾性がなかったりする。シマムラとか。
ついでにジッパー部も軽いものを使ってるので、重量感が桁違いに軽い。
例えばひじの部分。前方内側前に自然に曲がるよう、立体的な縫製になっている。
ひじの曲げ伸ばしや肩の上げ下げのとき、腕や肩と服がすれるストレスがない。
このくらいの違いだから、気にしないひとはユニクロ強いよ。
パタゴニアだけじゃなく、ホグロフスのやつとかも最強に着やす過ぎるので、おすすめ。
値段10倍だけどね!俺は買えないけどね!
ZIP形式やRAR形式のファイルの中にはコメントを埋め込む事が出来るんだけど、その中に「放流者」の自己主張が入ってる事があったりする。
最近の物からそのうちのいくつか引っ張ってみる。おそらく全てスキャンした人間が埋め込んだもののはず。
ADFって楽だねぇ
1冊役10分位で取り込める。
フラベで取り込むのが嫌になりそう
まぁ自分の好きなやつはフラベで取り込むだろうけど
横スジが入ってしまった、ADFといえどマンドクセなのでそのままにした。
帯びなくした
まぁどうでもいいけどねぇ
これも横線入ったねぇまぁ直さないけどね
i40(片面)→fi-6130→i1120→i40(新品)
やれやれだぜ
この所為でここ2週間まともにスキャン出来なかった(財布も空っぽになった)
「主観です
fi-6130
良:裏写りが少ない(無い訳じゃない)、スキャンスピードが早い(3機種の中でダントツ)
悪:原稿サイズ調整に自動が無い為トリミングが必須(作業工程が増える)、結構傾く
裏当て白
i1120
良:無し
悪:裏写りが酷い(i40よりも)、スキャンスピードが遅い(S510より若干早いかな?)、酷く傾く
原稿サイズに自動あり(が、傾く)←微調整で何とかまともに(でもやっぱ数枚傾いてた)
裏当て白
主観です」
という事でi40に戻しました
価格帯が違うからi1120とは比べられないか(古いけど)
雑誌用、単行本カラー用、単行本グレスケ用と3つマクロ用意したんで
前と違って(前はマクロ1つのみ)「白っ!」ってのは少しは減ったかな?と思うけどどうでしょ
完了後追記
やっぱ白かった
これはぶっ壊れのi40です
1) フィードアセンブリ?っつーi40の蓋?上部に付いてる給紙補助装置がある程度磨耗しないと
偶数ページの上部が切れるor未スキャン領域として残る現象(分かり難いかな)が一切出ない。(使ってないんだから当たり前か)
2) 1に連動して、トリミングの手間が無くなる。
3) 偶数ページは稀に歪みが発生していたが、奇数ページは一切無かったので
再スキャンの手間が無くなる。
2) 肩が凝る
デメリット部分ですが
ファイルネームを1>3>5>7・・・2>4>6>8・・・って付けられれば手差しで表スキャン裏スキャンってやんなくて済むんだけど
(最初に奇数ページを全スキャンそんでリネーム、次に偶数ページを全スキャンそんでリネームって事です)
今使ってるのはリネーム君です
スッテンアタックやってみたらCFチックでこっちも面白かったっす
北森でAGPだけど
S氏の雑誌が遅いんでそれ終わらせてからかな?
あー、そうそう
炊くペースが落ちてるねん
無印H炉0EXの4誌ですか・・・
2日分の作業量だなぁ
しかもこの時期に
殆どの人がコメント見てないってのがわかったので
安心して(?)馬鹿な事が書けそうです
例のblogは面白いですね
今回からタイムスタンプいじくってみますがどうでしょうか?
今更な感が否めませんが
生温かく見守られたいと思います
何か条件ってあるのかな?
これらに共通して言えるのは、「作業がラクかどうか」「自分が何をばらまくか」という事とつたない自己主張ばかりで、「誰に迷惑をかけているか」「誰にどんなリスクがある」という所まで思慮が及んでいないという事だな。まあ、それほどに精神が幼稚だからこそ可能な所業なんだろうけど。
相手に迷惑をかけている事に無自覚で一切の配慮もしないような人達だから、そろそろ一定の歯止めがかかってもいい頃合いなんじゃないかな。スキャンしている人の多くが平日の午前中や早朝、深夜に作業しているらしいから、まともな社会生活を送れている人種でも無いだろうしね。
たまにデジカメでの静止画の解像度の決め方をきかれるのでここにメモ。RAWで撮ることは前提としていない。
実例があった方がわかりやすいので、Canon IXY DIGITAL 920 IS http://cweb.canon.jp/cgi-bin/camera/dcam/spec.cgi?pr=ixyd920is を引き合いに説明する。
一番高い解像度と、一番いい画質でOK、ではない。まあ、間違ってはいないけど、一枚のサイズが大きくなるに従ってPCでのハンドリングが悪くなったりして都合が悪い(数枚レベルでもサムネイル表示に待たされたり)。
920ISの有効画素数は1,030万画素。一番高い画素数はラージ:3648×2736。3648×2736=9,980,928でだいたい1,000万に近い値になっている。(中略:キーワード:ベイヤー配列、カラーフィルタetc.)んで、だいたい1/3程度の画素数になる解像度があるはずなのでそれに設定した方がいい。920ISの場合、2272×1704=3,871,488で、ミドル2がいいところ。
画質については、圧縮率の問題なので、撮影枚数とのトレードオフで決めればいいと思う。920ISの場合、ミドル2,スーパーファインで2GByteのSDカードを使用した場合、約960枚撮影できるので何も問題ない。このときの一枚あたりの容量は2MByte程度となるためハンドリングもしやすい。
例えばプリンタが300dpiの場合、11.8dot/mm。Lサイズはだいたい127mm×89mmで、1,500×1,051のサイズがあればいい。920ISであれば、ミドル3:1600×1200がいいところ。ただし、トリミングする場合や、プリンタの印刷の解像度が高い場合は、撮影時の解像度を上げてもいい(あげたとしても上で示したもの以上にしてもあまり意味はない)。
最近はメディアの容量も増えているのでLサイズのみの場合も高い解像度で撮影してもいいと思うけどね。