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はてなキーワード: 聖典とは

2011-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20110119225947

意味作用をもたらしているわけで、らが抜けていようが「チョベリバ」だろうが

言語今日も正常動作!面白いなぁ」と考えるのが言語学者。

言語ってのは基本的に伝わっていればオールオーケーなので、そこにはそもそも正しいとか間違いとかって概念がないです。

言語学には「正」とか「誤」って無いんですよ。伝わってるってことはラング作用してるね!ってことで。

んで、「日本語学的に」という話になると、「そもそも日本語とは何か」という話になり

国語学者たちが連綿と作り上げて来た「聖典」を参照するしかないわけで、となると「的を得る」は誤用だね。

という話になります

http://anond.hatelabo.jp/20110119223813

いや、教育と分離した国語学」なんて存在し得ないんですって。

例えば「文法」ってのも国語学では扱うけれど、言語学において「文法的に間違ってる」って言葉はありえないんですよ。

ところが、国語学っていうのは「文法的な正しさ」、文学・文法・言語における「聖典」を構築する学派なんですよ。

いわゆる、モダンからポストモダンの移行期に「文学」と言われるジャンルが分派して

保守層国語学へ移行していった。国語学には教育分野から要請が強くあるからね。正しい日本語がなければ日本語教育は出来ない。

から国文学っていうのは教育アカデミズムなしでは存在し得ないジャンルだし、保守こそが存在意義。

それなしで存在している国文学があったら、それは「国文学」ではないです。単なる文学研究です

そういう学問から国文学」とジャンル分けされてるわけで。増田さんのおっしゃるとおりであれば、ジャンルわけいらないでしょ?

国語学国文学言語学文学の関係は、神学宗教学考古学文化人類学のそれなんですよ。

ほんと、いい加減なこと言うなぁ・・・。

ちなみに、「日本語学」は「言語学として日本語に特化した領域を取り扱う」という意味を指す場合もあります

国語学」は国の言葉を正しく構築する(ポストモダンの現代では「理解する」といった語彙は使われません)学問です

昔、ソシュール辺りの構造主義ショックがあったころ学者さんたちが散々大喧嘩して決めた住み分けですよ。

イデオロギーであることを自覚しながら必要に迫られて存在するのが国語学イデオロギーから抜け出すことを志向したのが言語学

これ重要

http://anond.hatelabo.jp/20110119223439

俺横増田なんだよ。元の議論も俺はあんたに賛同しないけど。まぁ、そっちは関係ない。

んで、言語学的に言えば「誤用」って存在しないんだよね。

言語ってのは変化するものだから。だから、「正」とか「誤」っていうタームは

言語学でなく国語学の上にあるものなんだよ。

んで、国語学っていうのは『国』って語が入るとおり、教育アカデミズムと結びついた権威学問で。

その土俵に乗っかってしまった以上、聖典批評と呼ばれるジャンルが適用されちゃうんだよね。

正とか誤を問題にした時点でそれは言語の問題ではな国語の問題だから

というわけで、増田さんの論点に立って「的を得る」は誤用です。でも、言語学的には誤用とかそういうのはないです。

http://anond.hatelabo.jp/20110119222403

こんだけ誤用が周知された中で「的を得る」なんて使ってたら

「ああ、バカかなんか変なこだわりを持ってるバカかどっちかだな」と俺は思う。

そしてまぁ、他の文章を読んで凡そそれは間違ってないな、と確認できた。

そんな感じ。

かに言葉って変化してくけども。

そーゆーのって権威で決定付けられるもので、語彙に於ける聖典ってのは辞書から

今のところは誤用だし、誤用だってことがすっかり周知されてるからやっぱ誤用だよね。

言語って変化していくこともあるけど、変化に逆らおうとする流れも当然あるから

そういう場合のジャッジメントは聖典、つまり辞書教科書の類になりますね。

2010-06-17

http://anond.hatelabo.jp/20100617073209

意味はものとものと間に成り立つ関係のことだから、要素は2個あればいい。どういうものが2個あればいいのかというと、包含図考えてみたときに、「A」と「Aを含むようなB」

「末期患者」に含まれてる「かっこよく死にたい人」にとっての自殺の是非 とかそんな感じ

Aを含むようなBをあらかじめ仮定しているっていうのがAが意味を持つための条件かな

こういう言葉論理集合論に持っていって延々考えた人はバートランド・ラッセルとか、悩みそのものは宗教聖典とか、キルケゴールの「死に至る病」とか

これはタイトルからしてそのまんまだけど、哲学者っていうか岩波文庫の青(岩波文庫哲学書は背表紙のラベルが青い)は大概そんなんだったな

とりあえずラッセル?既知だったら恐縮です。

ラッセルパラドックス

2009-10-23

http://anond.hatelabo.jp/20091023103333

モテへの手紙(1)2章9-15

婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。

コリント信徒への手紙(1)14章34-36

婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。


2000年前の聖典に既に書かれているよ。メディアは関係ない。

2009-10-08

http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20091007-OHT1T00346.htm

サウジイスラム教聖典コーラン預言者ムハンマドの慣行であるスンナ憲法としている。

台風18号の予想ルートと似た進路をたどったものに1990年9月の台風19号がある。19号では大雨などで死者・行方不明44人の被害が出た。


え?なぜにこの記事に台風?しかも共同通信の配信記事なのにクレジット無いし、本来は無い

一文入れてる。これで編集通るか。はぁぁ何と言うか。


共同通信を明記した産経新聞の記事

http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/091008/mds0910080100000-n1.htm

2009-03-17

■さわやかな有村悠のガイドライン

さわやかな有村悠のガイドライン

「ありむー」

「ありむー」

さわやかな有村信者挨拶が、澄みきったブクマこだまする。

はてなブックマークのお庭に集う有村信者たちが、今日天使のような無垢な

笑顔で、ありむーのブログブクマを付けまくっていく。

汚れを知らない片手に持つのは、ユリイカ聖典ユリイカ

汚さないように、高尚な青土社歴史を尊重するように、ゆっくり読むのがここでのたしなみ。

もちろん、有村悠は高学歴ブルジョアだからユリイカに連載が持てるなどといった、はしたない発言など存在していようはずもない。

はてなブックマーク

平成十六年創立のこのブックマークは、もとは高学歴ブルジョワジー政治力増強の為につくられたという、

伝統ある新月お茶の会東大分校である。

はてな下。駒場の面影を未だに残している高学歴の多いこのサーバで、東京大学に見守られ、

新入市民から古参市民までの一貫教育が受けられる高学歴ブルジョワジーの園。

時代は移り変わり、元号平成から改まっていない平成今日でさえ、

三年ブクマし続ければ高学歴純粋培養有村信者が箱入りで出荷される、

という仕組みが未だに残っている貴重なブックマークである。

2009-01-24

さわやかな有村悠のガイドライン

さわやかな有村悠のガイドライン

「ありむー」

「ありむー」

さわやかな有村信者挨拶が、澄みきったブクマこだまする。

はてなブックマークのお庭に集う有村信者たちが、今日天使のような無垢な

笑顔で、ありむーのブログブクマを付けまくっていく。

汚れを知らない片手に持つのは、ユリイカ聖典ユリイカ

汚さないように、高尚な青土社歴史を尊重するように、ゆっくり読むのがここでのたしなみ。

もちろん、有村悠は高学歴ブルジョアだからユリイカに連載が持てるなどといった、はしたない発言など存在していようはずもない。

はてなブックマーク

平成十六年創立のこのブックマークは、もとは高学歴ブルジョワジー政治力増強の為につくられたという、

伝統ある新月お茶の会東大分校である。

はてな下。駒場の面影を未だに残している高学歴の多いこのサーバで、東京大学に見守られ、

新入市民から古参市民までの一貫教育が受けられる高学歴ブルジョワジーの園。

時代は移り変わり、元号平成から改まっていない平成今日でさえ、

三年ブクマし続ければ高学歴純粋培養有村信者が箱入りで出荷される、

という仕組みが未だに残っている貴重なブックマークである。

http://anond.hatelabo.jp/20090122120756

2008-11-24

国籍法改正問題と憲法典の欠陥、そして憲法学の貧困【転載自由】

第三章 国民の権利及び義務

第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

  • 形式化すると、10条と14条は、次のような関係に立つ。

すべてのXについて、XはPされない(14条)。

Xたる要件はQである(10条)。

  • ここで14条は、X=Pの場合に「違憲」、X≠Pの場合に「合憲」という値を取る関数だと理解できる。そして10条は、Xの定義域を定めるものである。とすれば、Qをどのように定めるかについて、14条の規制が働かないのは自明のことである。14条は、10条(によって委任された国籍法)で定められた日本国民について、差別されないことを定めているのであって、日本国民の範囲をどのように定めるかは14条の関知するところではないのである。
  • およそ論理的であろうとする限り、以上の結論は不可避と思われる。しかしここで法律ギルドは軽々と論理を超越するのである。

憲法14条1項は,法の下の平等を定めており,この規定は,事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくものでない限り,法的な差別的取扱いを禁止する趣旨であると解すべきことは,当裁判所判例とするところである<略>

憲法10条は,「日本国民たる要件は,法律でこれを定める。」と規定し,これを受けて,国籍法は,日本国籍得喪に関する要件を規定している<略>このようにして定められた日本国籍の取得に関する法律の要件によって生じた区別が,合理的理由のない差別的取扱いとなるときは,憲法14条1項違反の問題を生ずることはいうまでもない。

国籍法違憲判決全文】

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kokusekihouiekennzennbunn.htm

  • 最高裁判決が10条は全文引用しつつも14条の文言は全く引用していないことに注目されたい。恣意的な解釈をしていることが露見するのを恐れる姑息な心理が、表層か深層かは知らないが、判決文の起草者に働いたのだろう。
  • 判決の背景にあるのは、憲法上の権利享有主体に関する「性質説」と呼ばれるドグマである。このドグマによれば、法文に「国民は」と明記されている場合であっても、「事案の性質に応じて」憲法の権利規定は自在に拡張適用される。その結果、外国人にも参政権が認められ得るとか、国籍法の規定の定め方が平等原則違反であるとかいった、倒錯した結論が導かれるのである。
  • 国籍法を巡る議論や、いわゆる「外国人人権」を巡る議論の混乱の背景には、すべてこの「性質説」というドグマがある。
  • このようなドグマは法解釈としては極めて不自然なものである。憲法第三章は明確に「『国民の』権利及び義務」と定めている。しかも、このような解釈を前提とするなら、「日本国民」という範疇自体が無意味化する。権利享有主体としての機能を奪われた「日本国民概念に如何なる意味があろうか?
  • 性質説がドグマの名にふさわしいのは、それが超制定法的観点から主張されているためである。憲法典の規定を虚心に眺める限り、このような結論はおそよ導けない。
  • 性質説の解釈論としての不自然さは、自衛隊合憲論の不自然さに匹敵する。いずれも、憲法典の欠陥を糊塗するための法律ギルド屁理屈である。
  • 嘘も100遍唱えれば真実となり、屁理屈も50年唱えれば「自明の理」に昇華する。いまや法律ギルドの構成員は自らのドグマ恣意性を意識することすらない。

憲法第10条は「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とありますが,そのことは,この「法律」が憲法第14条に反する差別的なものであってもよいということを意味していません。法律を作る国会議員が,そのような憲法論の基礎の部分を理解されていないようでは困ってしまいます。

【むしろ,自民党が心配】

http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/11/post-8c0c.html

  • 他方、「国民」を名宛人とした権利規定は「国民」にしか適用されないという、憲法典の文言に即した当然の解釈は、「文言説」というレッテルを張られ、排斥されている。
  • 「性質説」ドグマの「論拠」として持ち出されるのは、「自然権思想」とか「人権の前国家性」といった、一種の「信仰」である。
  • これらの信仰の当否をここで論じようとは思わない。信仰は証明も反証もできないからである。
  • しかし、わずかでも論理性への感覚を持っている人であるならば、「国籍の取得」を要求することの根拠として「人権の前国家性」を持ち出すことの倒錯には気づかずにいられないはずである。
  • 私は、性質説を破棄して文言説を採用せよと主張しているのではない。文言説には文言説の問題がある。
  • 権利規定の定義域を無限定国籍法委任している現行憲法典の下で文言説を採用すれば、国籍法の規定次第で如何様にでも憲法上の権利の適用範囲を限定できてしまう。これはこれで由々しき問題である。
  • つまり、憲法典には欠陥があるのだ。本来、国民と統治機構との権利関係を定める憲法において、誰が国民かは下位規範白紙委任してよい問題ではない。憲法典自身が規定しなければならない問題である。細部については法律に委ねるとしても、国籍の基本的要件は憲法典に明記されていなければならないのである。
  • これは当たり前すぎるくらい当たり前のことだ。
  • 現行憲法典は、かくも根本的な部分で穴だらけなのだ。
  • 法律ギルドの構成員は決して憲法典の欠陥を認めようとはしないだろう。聖典無謬性こそ自らの権威の源泉だからだ。あらゆる屁理屈を総動員して護教に努めようとするはずである。
  • しかし、私たち国民は騙されてはならない。誤った憲法を正すことは主権者の当然の権利であり、義務でさえある。私たちは、理解ある選良達とともに、欠陥憲法の改正にこそ努めるべきである。

2008-11-23

馬鹿でも分かる」という文句は嘘

馬鹿には分からない事というのは必ずある。

能力を超えた事というのは、どうあがいたって分からない。

赤外線紫外線が見えない我々には、可視領域の異なる生物世界をどんな風に「視て」いるか、分からない。「こんな風に見えています」と仮想化して(つまり『馬鹿でも分かる』状態にして)見せる写真とかあるけど、それは彼等が「視て」いる風景ではない。

複眼のある生物世界をどんな風に「視て」いるか、我々には分からない。複眼に見える世界を表現しようと数百個くらいの小さい映像をぐるっと並べたような想像写真とかあるけど、複眼なめんな。我々に「二つの映像」が見えているのではないように、彼らだって「数百個の映像」を視ているわけではないだろう。数百個の映像によって構成される「一つの世界」を認識しているだろう。でもその現実感覚を理解することは多分できない。

西尾維新風に云えば「ムカデにどうやって歩いているのか聞いても、アンタにそれは理解できないだろう?」。

だから「馬鹿でも分かる」という謳い文句は、大抵の場合馬鹿をひっかけるための宣伝文句で、嘘だ。百歩譲って嘘でなかった場合、それは本来馬鹿でも分かることであって、馬鹿でも分かるように言われなくても分かっておくべきだったことに過ぎない。つまり、馬鹿が分からないことを「馬鹿でも分かるようにする説明」など無い。

唯一例外に見えるものがあるとすれば、『ある種の聖典とか、偉大な哲学者による哲学書の類。天才が生み出した科学の新しいパラダイム』みたいなもの。確かにそれは、壮絶な天才たちが自分の思考を一般人に理解させるために書いた物だ。だがそれは厳密に言えば「読むことによって賢くなるようになる何か」であって、「馬鹿にも分かる説明」ではない。それらは「馬鹿に分からせている」のではなく「馬鹿でなくすることによって分からせている」に過ぎない。

つまり「馬鹿にも分かる説明」など、この世に無い。

まあそれが分からなくて欺されるのが馬鹿馬鹿たるゆえんなのだろうが。

http://anond.hatelabo.jp/20081123221711

2008-09-30

http://anond.hatelabo.jp/20080930184312

料理漫画にも出来るものとできないものはある。

ということで比較的簡単な一皿を紹介するぞ!この流れで強引に!!

それは、牡蠣オムレツ。みんなの聖典美味しんぼ」からだ。

みじん切りにしたネギを油で熱し、牡蠣を炒める。炒める言っても、やさしくだ!崩れるからな。

しばらくすると、牡蠣エキスが出てきて煮るような感じになるはず。そのまま火を通し続けろ。

身が少しだけ縮まってプリっとしたら、塩少々を加えたとき卵を流し込む。

軽く混ぜながら卵を好みの硬さまで火を通したら皿に移し、魚醤を振り掛ける。

以上!牡蠣の旨みが余すところなく味わえる、最強の一皿だ。

卵がいい感じに牡蠣エキスを包み込む!

白いご飯に乗せて、丼にして食べるのもおすすめだ。

牡蠣鍋とか、どんだけ旨みを逃してるんだよって絶望するぞ!

分量は、牡蠣一パックに対して卵は3個くらいだ。ネギは1本くらい。

火加減は中火だ。魚醤がなければ醤油でもいいぞ。

山岡いわく「火を通しすぎないのがポイント」とのことだけど、あんまり気にするな。

2008-09-28

最初は建設志向、今は破滅志向

進歩」が米軍将軍たちに憑依して書かしめた聖典を護持する教団ですよ。

歴史は「進歩」の原理によって動かされており「進歩」が未来を定めていた。

ところが「進歩」の事業は前世紀末に挫折し「進歩」は死んだ。

死んだ「進歩」はタタリ神と化し復讐として現世を「脱構築」しようとする。

まあ、そういう厄介な教義ですわ。

http://anond.hatelabo.jp/20080928090345

2008-09-02

anond:20080902101740

人の観念によって存在しているものは、等しく人によって殺すことが出来る。

その通り。

ただし、従来の宗教観には「神が人の観念によって存在している」という認識はなかった。

神はあくまで世界メタ存在する者であり、信じる/信じないという価値判断が立ちゆかない相手だった。

神を「観察する」という立場そのものがありえなかったわけだ。

聖典教科書に喩える元増田の姿勢は、聖典の正誤が捉えられるほどに神を矮小化している。

そのような「神の矮小化」が起きた瞬間に、従来の全ての世界を超越する神は死ぬ。

つまり、元増田は彼自身で神を殺している。

anond:20080902000419

宗教聖典学校数学教科書に置き換えて喩えるとこうならないか?

君の姿勢そのものが、宗教メタに捉え、神を矮小化している。

いま、君は神を殺したことに気付いてる?

anond:20080901183111

宗教聖典学校数学教科書に置き換えて喩えるとこうならないか?

その人が小学校から学校で算数をならわずに、自分の独創性のみで高等数学をスラスラ解けてしまえるくらい天才ならば、別に最初から学校教科書聖典)も必要ない。

しかし、多くの場合はそんなに天才ではないから、学校先生教科書からまず学ぶことから始める。

それである程度計算力の基礎が出来てきてから、応用問題にも取り組めるようになる。

しかし、そういう地道な努力を斜めに構えて見て『自分の頭で考えられなくて、勉強しか能がない奴ってキモイ』って決めつけたり、『数学なんてどうせ社会では使わないし』とかいいだして、数学教科書を放り投げてしまう人がいたとするだろう。

こういう人はいくら自分だけの独創性でなんとか計算しようとしても、それまでの基礎が積み上げられていないから高等数学を解く力はほとんど育たない。

教科書には解決法が載っているのに、自分の頭のみで間違いだらけの計算方法に迷いに迷ってますます数学嫌いになってしまったりするわけだ。

その数学嫌いがつまりアンチ宗教の姿ってこと。

2008-09-01

特定の宗教を持っている人とアンチ宗教の人の間の、その宗教の是非についての議論によくありがちなこと。

anond:20080831160637

ある特定の宗教を持っている人は、自らの信仰の正統性を証明するのに、その宗教聖典と文献資料を論拠とする場合が多い。そして聖典解釈論の是非を問う場合としては、その聖典解釈論との論理整合性を証明することに心血を注ぐ。

同じ宗教をもっている者同士、または違う宗派であっても、同じ宗祖を源とする場合はその宗祖の言葉を正統性の物差しとして議論を進めるのが伝統的な通例だ。

宗祖の言葉に違うならば異端ということになる。

宗教をもつ人同士で議論する場合、文献(一部には統計学や体験)が常に強い力を持っている。

しかし、宗教の証明には、自然科学のように、実験証明によって何度やっても同じ結果を得られるという決定的論拠というものではないので、白か黒という二者択一的な思考ではその結論を出せない。

しかし、アンチ宗教の人にはそれがわからない。

アンチ宗教聖典や文献云々をその論拠に持たないぶん、宗教をしている人の人としての人格云々や自分自身の気分、または自然科学的な白黒思考を論拠にして裁断しようとする。

よって、宗教を持った人はアンチ宗教の人の主張を聖典や文献では論破出来ない。

アンチ宗教には行動や人格形成の基盤となる聖典が無い代わりに、そこにあるのは自分自身の心だけだ。

その自分自身の心というのは、いつも風に吹かれて揺れ動いている。

利害が絡めば利のある方向にすぐ動き、特に根拠は無くてもウザイと思えばそっぷを向く。

よって、宗教をする者はアンチ宗教の者を根無し草と思う。

そして、宗教をする者は聖典を自分の根っことしている。

ところで、自然科学の思考と人文科学の思考は相反するものだろうか?

いや、それはどちらも科学であり、本来は互いに補完しあう関係だ。

科学なき宗教迷信であり、宗教性無き科学は(精神倫理性が無いという意味では)地球破壊する暴君となる。

2008-08-28

ペシャワール会。その2。

http://www.asahi.com/national/update/0827/SEB200808270011.html

伊藤君の心失ってはならない」 会の活動継続を表明

伊藤さんの死を乗り越え、同会はアフガニスタンパキスタンでの医療活動や農業支援を続けるのか。会見で問われた福元事務局長は「まだ頭が整理できていないが、アフガニスタンの人々のためにやっていること。今回のことで放棄することはない」と静かに語った。

 伊藤さんを捜索するため、千人を超える村人たちが協力したという。「伊藤君を含め、現地のワーカーが頑張ってきたから。村人たちの気持ちに応えることが……伊藤君の死を生かすことだと思います」と自らを奮い立たせるように話した。

 しかし、現地の治安悪化は間違いない。約20人いたジャララバードの日本人スタッフは4月に半数を帰国させ、年内に残りを帰すことになっていた。現地代表の中村哲医師は「以前は日本人なら大丈夫だったが、4月ごろから対日感情も急速に悪化していた。ここまで伊藤君をとどめた私が悪い」と悔やんだ。

 残る8人の日本人ワーカーを即時帰国させ、当面は現地スタッフを中心に事業を継続することを検討しているという。

『静かに語った』とか、そういうのやめなさい朝日

というのは置いておいても、とても残念な話ではある。ご家族の心痛を考えると胸が痛む。

だがそれはそれとしても、というよりもそれを思うからこそ、会の皆さんには再度じっくりと考えてもらいたいと思う。本当に伊藤さんという方の死を生かしたいと思うのであれば、『井戸を掘り、農地を作る』という初志に戻ることを再考してもらいたいと心から思う。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200808170278.html

日本NGOマドラサ建設 アフガンで「孤児のため」

アフガニスタンパキスタンで活動する福岡市非政府組織NGO)「ペシャワール会」がアフガン東部ナンガルハル州シェワ地区で、イスラム神学校マドラサ」の建設を進めている。旧政権タリバン幹部を養成過激派の温床とも批判されるマドラサだが、同会は「地元の要望が強く、貧困層子供や孤児の養育が目的」としている。

 マドラサイスラム聖職者養成目的とする寄宿学校で、青少年聖典コーランの内容や読み書きなどを教える。アフガンでは二〇〇一年タリバン政権崩壊後、各国NGO学校建設を進めているが、ペシャワール会によると、非イスラム教国の団体によるマドラサ建設は初めて。

 同会は干ばつによる食料不足を防ぐためシェワ地区などで農業用水路を造成。用水路は二十一キロ余り完成し砂漠地帯だった土地で耕作が可能になった。このため、隣国パキスタンに逃れていた難民が続々と帰還、地区周辺の人口が急増しているが、大きな学校がなく、信仰に根差しマドラサ建設の要望が出ていた。

 約一万四千平方メートルの敷地に学舎と寮、モスク(礼拝所)を建設中で、今秋にも完成予定。同会現地代表の中村哲なかむら・てつ医師は「貧困層にとって寺子屋と養護施設の役割がある。過激思想を植え込むという考えは間違いで、科学なども教える大事な施設だ」としている。(シェワ共同=遠藤幹宜)

中村氏というひとについても、ペシャワール会のひとたちについても、えらいひとたちがいるものだと常々思っていた。だがこれはどう好意的に捉えようとしても捉えられるものではない。マドラサ建設が今回の事件の引き金になったと言いたいのではない。だが情勢がこれほどまでに緊迫している中で、マドラサ建設などということに着手しようとする神経が分からない。宗教に対する感覚が良く言えばおおらか、悪く言えば鈍っている日本人からしてみれば美談なのかも知れないが、少し視点を変えればこのような取り組みは常規を逸しているとしか言い様がないし、そうした常規を逸したことに着手してもなお会の内部からそうした活動を疑問視する声が出ないのだとしたら、これはもうNGOではなく個人崇拝団体だ。

他の報道を見ると、以前よりも日本人に対する反日感情が強まっているのを感じた、というような発言もあり、総合してみると「自衛隊派遣のせいだ」と言いたいのが本音のところか?と勘ぐりたくもなるが、それが理由だと言いたいなら、全く根拠にはならない、とは言わない。

だが反日感情云々と同時に、反イスラム主義感情もあるのだ、という現実にもそろそろ目を転じて頂きたい。アフガンにしろパキスタンにしろ、穏健なイスラム教徒イスラム教徒の中でも少数派とされる宗派に属する人々がどれほどイスラム主義者達に苦しめられてきたか、もう少し考えてもらいたい。

http://anond.hatelabo.jp/20080826205948

2008-08-26

ペシャワール会

アフガニスタンで武装勢力が日本人男性を拉致=スポークスマン

[ジャララバード(アフガニスタン) 26日 ロイター] アフガニスタン東部ナンガルハル州で26日、日本人男性武装勢力拉致された。同州のスポークスマンが発表した。

 この男性はダラエ・ヌールでの作業中に拉致されたとみられており、当局は男性の捜索を開始した。

 日本メディアによると、拉致されたのは日本非政府組織NGO)「ペシャワール会」の伊藤和也さん。

 アフガン反政府武装勢力タリバンは今回の事件について、何の情報も持っていないとしている。

 日本外務省は声明を発表し、カブール日本大使館が国連機関から拉致情報得たことを受け、調査していると明らかにした。

ペシャワール会というのは以前からたびたびその名前を聞いていた。井戸を掘るお医者さんと、彼を支える会なのだと聞いていた。えらいひとたちがいるものだなあと思っていた。ところが何日か前にこんな報道があった。

日本NGOがマドラサ建設 アフガンで「孤児のため」

アフガニスタンパキスタンで活動する福岡市非政府組織NGO)「ペシャワール会」がアフガン東部ナンガルハル州シェワ地区で、イスラム神学校マドラサ」の建設を進めている。旧政権タリバン幹部を養成過激派の温床とも批判されるマドラサだが、同会は「地元の要望が強く、貧困層子供や孤児の養育が目的」としている。

 マドラサイスラム聖職者養成目的とする寄宿学校で、青少年聖典コーランの内容や読み書きなどを教える。アフガンでは二〇〇一年タリバン政権崩壊後、各国NGO学校建設を進めているが、ペシャワール会によると、非イスラム教国の団体によるマドラサ建設は初めて。

 同会は干ばつによる食料不足を防ぐためシェワ地区などで農業用水路を造成。用水路は二十一キロ余り完成し砂漠地帯だった土地で耕作が可能になった。このため、隣国パキスタンに逃れていた難民が続々と帰還、地区周辺の人口が急増しているが、大きな学校がなく、信仰に根差しマドラサ建設の要望が出ていた。

 約一万四千平方メートルの敷地に学舎と寮、モスク(礼拝所)を建設中で、今秋にも完成予定。同会現地代表の中村哲なかむら・てつ医師は「貧困層にとって寺子屋と養護施設の役割がある。過激思想を植え込むという考えは間違いで、科学なども教える大事な施設だ」としている。(シェワ共同=遠藤幹宜)

科学思想もところが違えば過激にも穏健にもなる。進化論科学ということになっているが、一部の人々にとっては過激であると映る。マドラサと一口に言ってもそこで教えられる思想というかイスラム神学というのは地球上どこへ行っても同じというわけではない。そのマドラサで教える側に立つピールであるとかホジャであるとかイマムであるとかの思想背景によって違ってくる。地域によっては女子のためのマドラサというのもある。どのようなマドラサを構想していたのだろうか。

寺子屋が必要ならば学校でよいではないか。養護施設が必要なら養護施設でよいではないか。なぜマドラサである必要があるのか。

ペシャワール会ウェブサイトを見る限り、マドラサ建設に協力しているというような話は一言も告知がない。あくまでも農業支援の話しかない。『過激思想を植え込むという考えは間違いで、科学なども教える大事な施設だ』というのは論点のすり替えだ。ペシャワール会のひとたちはどのように考えておられるのだろう。

何にせよ無事に解放されることを祈る。

2008-06-12

最新版?

48 名前: 慈 円(福島県)[sage] 投稿日:2008/06/12(木) 19:53:31.04 ID:DkDUIf5u0

Fateは文学           狼と香辛料経済

Air芸術            なのはは燃えアニメ

CLANNADは人生       こじか葛藤

リトバスは友情          極上生徒会モラトリアム

鳥の詩は国歌         ハルヒ感性

SchoolDays神話      ARIA現実

君が望む永遠哲学     すももは楽園

攻殻政治            Myself;Yourself月9

うたわれるもの日本史A  アイマスはわが娘

ひぐらし論理学       初音ミク真実の光

EVA聖典           00は教科書

神霊狩音楽          true tears真実

Kanon奇跡          H2Oは格差社会

ゼロの使い魔国旗     D.C.??ダ・カーポ??は純愛

ムリョウは日常         efは旋律

まなびストレート青春   みなみけは食事

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない社会派ミステリ

落語天女おゆい伝統芸能  カブトボーグV?Vはポストダニズム

らき☆すた聖地       シャニティアは英雄憚 

けよりな八百屋        sola幻想

2008-05-23

私がなぜニセ科学を批判するか

クリスチャンはサタニズムやグノーシスが正しい神の教えだと言えば怒りを感じるだろう。ましてや神父がそんなことを言い出せば破門という罰則が与えられることもある。

私がニセ科学を批判するのもそれと同様に、私の信仰が否定されたからだ。

そもそも科学とは「同一条件で行った実験は同一の結果を示す」という信仰に基づくものだ。

ニセ科学科学教徒にとって内容の修正された聖典の流布されるような侮蔑なのである。

指導者を持たない科学教徒は破門という手段をとることはできないため、批判という手段をとるしかない。

なお一部の隠秘学者は同一条件の実験でも観測者の違いによりそのの結果は異なるとの見解をしているが、それらは科学には当てはまらないものとして流通する為科学教徒への侮蔑にはあたらない。

2008-02-21

インドカースト制を白人がつくり、上層階級には白人の血が入ってると言う説はニセ科学

まあこういうの真に受ける人っていなくならないと思うんだが

多くの人が、騙されているのには驚く

カースト(caste)、あるいはカースト制、カースト制度は、ヒンドゥー教にまつわる身分制度である。紀元前13世紀頃に、アーリア人インド支配に伴い、バラモン教の一部として作られた。カースト制度によって定められる個々の身分もカーストという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88

紀元前13世紀頃、西から移動して来たコーカソイドアーリア人原住民族のドラヴィダ人を支配するためにカーストを作り出した。そして自らを最高位の司祭僧侶階級に置き、ブラーマナ=バラモンと称したのが始まり――というのが現在主流の学説。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3

こういうのを放置しておくのはさすがに問題だろう

ウィキペディアというのがどういうものかよく知らないのだが

何故誰も訂正しないのだろうか

運転手はアメリカ黒人に近い褐色の肌をした、ドラヴィダ人だった。ドラヴィダ人は、紀元前2300年ごろ、モヘンジョ・ダロハラッパなどの古代都市に代表されるインダス文明を築いたといわれる民族である。その後紀元前1500年ごろに中央アジアから侵入したアーリア人に押され、混血を繰り返しながらも主力は南インドへと移動した。インドに侵入したアーリア人の『リグ・ヴェーダ』には、「皮膚が黒く鼻が低い先住民を打ち負かした」とあるから、アーリア人は色白でドラヴィダ人は黒かったのだろう。今でも北インドの人々に比べ、南インドのほうが浅黒く鼻が低く背も低い。あごも小さくどこか親しみを憶える顔である。

「心は孤独数学者」P141 新潮文庫 藤原正彦

親しみを感じるのは個人の勝手だが、偽の歴史を疑いもせずに書くのは問題だろう。何故疑うということをしないのか。

ナーマギリ神殿の本堂は、石で建造された二十メートル四方ほどの小さなものであった。

神殿入口の鉄扉の前に並ぶ信者上半身裸の眼鏡をかけた祭官がとりしきっていた。このバラモンが、色白の上、胸も背も欧米人のごとく毛むくじゃらなので驚いた。東ヨーロッパ人と同族のアーリア人が、二千年以上も前にバラモンとなった事が証明されているようだった。同一カースト内での婚姻をはじめとする、カーストの掟の厳しさを思い知らされたような気がした。

「心は孤独数学者」p207

証明もされていないニセ科学を、軽々しく「証明されたようだった」、とか言うべきではない

「そこで登場したのが、最近DNA遺伝子工学を駆使した研究です。詳しい事は省きますが、この研究は、アメリカソルトレイク市のユタ大学とインドアンドラ大学文化人類学部とヴィザカパトナム遺伝子研究所の合同チームによって進められました。1996年に南インドカースト人口分布調査として始められ、2001年までに全インドから集められた遺伝子分布を最新技術を用いて分析し、その結果が徐々に明らかになってきました。(中略)その結果、これまでの人家分類学言語学考古学などでは掴めなかった事実がわかってきたのです。たとえば、ブラーミン上位カーストヨーロッパ人のミトコンドリアDNAY染色体の差は、低カーストインド人とヨーロッパ人の差より小さい。また、ブラーミン上位カーストヨーロッパ人の差は低カースト民とヨーロッパ人、また上位カーストアジア人との差より小さいということが判明しました。

結論を言えば、インドカーストは原アジアタイプと西ユーラシア混合タイプだということであり、カースト序列はヨーロッパ人種への近縁性に依るということが分かってきました。上位、特にブラーミン階層はアジア人よりヨーロッパ人種により近く、クシャトリヤ、ヴァイシャ・カーストとの近似は前二者より低いのです。つまり、ブラーミンは西ユーラシア人種により近いということなのです。

このDNA調査によってもアーリア種族が外からやってきた人種であり、彼らが作ったカースト制度最上位を占め、一貫して文化、社会的優位性を保持し続けてきた事は明白です。彼らが来るまでカースト制度なんかインドには存在しなかったのです」

「不可触民と現代インド」p101 光文社新書 山際素男

最先端の科学で装いながら、偽の歴史を作っているのが、悪質

「これらの研究結果は1998年世界的に有名な権威ある科学雑誌ネイチャー発表され高く評価されました。また2001年には、これも有名な雑誌ゲノム研究に、インド原住民遺伝子学的証拠と題して掲載され、これも高い評価を受けています。ですが、こういう現象を面白く思わない人々もいます。たとえば、高級英語雑誌インディヤ・トゥデイなどは遺伝子カーストの上下を決めて良いのかなどと題して批判し、あるものは、そんな研究は無視しろと言い、高名な学者の一人は『遺伝子情報ヴェーダ時代にアーリア人インドに入ってきたなどどこで判るのか?』などと反論したりしています。

大企業経営者のほとんどが上位カーストグループであるインド雑誌新聞テレビといったマスメディアはこの遺伝子研究の成果に冷淡かつ敵意を抱いています。しかし、アーリア種族が外来人であることはそれ以前から、歴史学考古学言語学上の研究によって広く知られている事実です。その正しさを別の方法で論証して見せたわけで、アーリア種族をどうのこうのというために研究したわけではありません。

ある雑誌は『遺伝子まで動員してカースト戦争を引き起こそうというのか?』などとまるでピント外れの非難をしましたが、とんでもない言いがかりです。」

「不可触民と現代インド」p106

カースト歴史ニセ科学捏造するのは問題だ

正しくは次のような捉え方

アーリア人という鼻の高く色白の人々が外からやってきて、色の黒くて鼻の低い原住民を征服し、隷属させたのだ、そういうことが、お前達の聖典には書いてある。だから、我々お前達の上流階級と同じ白人が優れた文明を広めるのと同じだ、という文化工作をおこなったのである。さらに、南の人々は、北の人々によって駆逐された民族の子孫で、上流階級ヨーロッパ人に似ていて、下層階級原住民に似ているという主張を行い、南北間、階級間の分裂を図った。

このアーリアン学説は、学説誕生時から、非常に疑わしい虚構・捏造だ、という反論があった。ミュラーは、一度もインドに行ったこともなく、本当にヴェーダ言葉が何をさしていたのか、理解してなかった(あるいは故意に誤解した)らしい。

現代人は、言語というのは、モノと言葉が一つ一つ対応していると考えるが、古代の人々はそうではなかった。ある事象全体をあらわす全体的な概念があって、個別的な言葉は後に分化したからである。

恐ろしいことに、この捏造の疑いが極めて高い学説が西欧を席巻し、さらに西欧歴史を下敷きとしている日本教科書歴史書は、古代史の始めから、科学とは言えない学説を主張している。

(リグ=ヴェーダも、西欧人による誤訳をそのまま和訳している。)

資料「アーリアンとは何か」津田元一郎

http://www.rui.jp/message/04/98/84_bf6a.html

こういう冷静な視点を持つべきだ

ウィキペディアや、様々な本に特に問題視もされず捏造された歴史観が載っているという事は、非常に恐ろしい事だ

白人がやってきて、白人の血が入っていて鼻が高い上層階級と肌が黒く鼻が低い下層階級に分かれたという偽の歴史が何故ここまで信じられてるのか。恐ろしい。西欧人の誤解、捏造をそのまま信じる日本って何なんだろう。

2008-01-25

超遅トラバだけど

http://anond.hatelabo.jp/20071223110211

機動戦艦ナデシコとかどうだい?

バカがバレるといけないので説明は省くがかなり露骨にメタ熱血ロボットアニメ的なことをやっているよ。

劇中劇として熱血ロボットアニメがあって主人公はそれにとにかく憧れてるし敵にとってもそれが一種の聖典になっている。

ラストはその信仰に近い憧れから主人公が脱出。

他にもオタク文化を色々皮肉ったところがあるからメタ熱血ロボットアニメというよりはメタオタク文化アニメと言った方がいいのかもしれないが。

2007-11-09

http://anond.hatelabo.jp/20071109102113

意外に居るんだぜ?

ギャルゲで初めて「物語感動」するような奴。

そういう奴は大概本気で、そのゲーム聖典だから。

オフ会とか行くと、マジで口論したりするんだぜ?(笑)

一部の重症者とか切り分け出来ないくらい存在するし。

それは低年齢層で顕著。

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