馬鹿には分からない事というのは必ずある。
能力を超えた事というのは、どうあがいたって分からない。
赤外線や紫外線が見えない我々には、可視領域の異なる生物が世界をどんな風に「視て」いるか、分からない。「こんな風に見えています」と仮想化して(つまり『馬鹿でも分かる』状態にして)見せる写真とかあるけど、それは彼等が「視て」いる風景ではない。
複眼のある生物が世界をどんな風に「視て」いるか、我々には分からない。複眼に見える世界を表現しようと数百個くらいの小さい映像をぐるっと並べたような想像の写真とかあるけど、複眼なめんな。我々に「二つの映像」が見えているのではないように、彼らだって「数百個の映像」を視ているわけではないだろう。数百個の映像によって構成される「一つの世界」を認識しているだろう。でもその現実感覚を理解することは多分できない。
西尾維新風に云えば「ムカデにどうやって歩いているのか聞いても、アンタにそれは理解できないだろう?」。
だから「馬鹿でも分かる」という謳い文句は、大抵の場合馬鹿をひっかけるための宣伝文句で、嘘だ。百歩譲って嘘でなかった場合、それは本来馬鹿でも分かることであって、馬鹿でも分かるように言われなくても分かっておくべきだったことに過ぎない。つまり、馬鹿が分からないことを「馬鹿でも分かるようにする説明」など無い。
唯一例外に見えるものがあるとすれば、『ある種の聖典とか、偉大な哲学者による哲学書の類。天才が生み出した科学の新しいパラダイム』みたいなもの。確かにそれは、壮絶な天才たちが自分の思考を一般人に理解させるために書いた物だ。だがそれは厳密に言えば「読むことによって賢くなるようになる何か」であって、「馬鹿にも分かる説明」ではない。それらは「馬鹿に分からせている」のではなく「馬鹿でなくすることによって分からせている」に過ぎない。
つまり「馬鹿にも分かる説明」など、この世に無い。
次はニセ科学に参戦ですね、わかります。