そして闇染まる、ってか?www
ちがうぜ、認める認めないは、単にお前が「ちゅうにびょー」と言われて、僕は違うもん!って言ってることだぜ。
>目的は大学受験じゃなくて「大学受験をする、という体でかまってもらうこと」だから。
ある言説に対し、その内容ではなくその内容が表れるに至った動機や欲望について指摘することを、メタ批評と言います。
「勉強する」ことの内容や意義や目的に対する批評じゃなくて、「勉強したい」という発話行為自体に宿る欲望を指摘することによる批評、ですね。
承認欲求とか、自己愛とか、そういった指摘はワンパターンになりがちです。
と言いますのも、このような指摘は言説のコンテントのいかんに関わらず構成可能だからです。
「勉強したい」「一千万円貯めたい」「金持ちになりたい」「恋をしたい」ー何に対しても<同型の>指摘をすることができるのです。
金持ちになりたいんじゃなくて、金持ちになりたいと言うことによって周りの人に構って欲しいんでしょ、と。
金持ちのはてなーの自意識をくすぶって、そこから承認欲求の肥やしを得たいんでしょ、と。
別言すれば、発言者がいかなる内容を語ろうと、「承認欲求」や「自己愛」に根源的原因を措定し、これに結論を回収できるんですね。
慈善活動を行おうとする者に対して「偽善である」と指摘するのと同じですね。よく流行ってたやつです。
批判対象者の行為や言説の内容はなんでもいいんです、ただ単にメタな欲望を指摘すれば当該発話者に対して、社会心理的に恥や反省意識を刻むことができるだろうという発想です。
そしてまた、「偽善である」という指摘に何も意味がないのと同様、何の意味もない言説なんですよ。
偽善とか、承認欲求とか、構って欲しいだけとか、自己愛とか、メタな欲望をさす流行り言葉をテンプレのように繰り返しておれば相手に対し優位なポジションを取れると考えているのでしょうか。
もうさんざん飽きてきたし(私がですよ)、アンビバレントメメ氏に対しても、氏は方々で同様のテンプレ批判を受けてるので、そろそろ効果がないことを自覚してください。
もうひとつ。
何に対しても指摘できるがゆえに、
逆説的にですね、
何に対して指摘をし、何に対しては指摘しないという恣意性が宿ります。
要するに、「私はあなたを気に入らない」と言っているに過ぎない、ということです。
これが、上述のテンプレメタ批判が、言説に対する内在的批判ではなく、外在的批判にしかなり得ていないと、私が主張したい理由です。
テンプレに滞留せず、
もう少し先に進みましょう。
董卓は呂布の力を前提にして計画を立てる。そして呂布は目的を達成する。恩賞を得る。だが董卓が与えるのだから董卓より多くもらえるはずはない。しかし董卓はみずからの計画を呂布をあてにして立案する。そして達成できないと怒る。呂布がたぐいまれな武勇の持ち主だということを忘れてしまう。
今年 別離れた ばかりなのに
喉仏が for you
逝った 逝った 逝ったよ Wow Woo
なぜか 優しい 見舞いが いっぱい
はじめてのモチュウ 君と もちゅう
Be in mourning with you
何か予想してない部分に食いつかれてびっくり。
「良く言えば寛容」をそこまで拡大解釈されるとは思わなかったなー。
私は元増田の記事がランキングに注目してるから、ランキング部分でこういう感じかなっていうのを語っただけなんだけど、まあ伝わらなかったか・・・。
街コンとかに行って、自分は健康体で少しお金も持っていて自分に自信もある、そんな風に振る舞えば、彼女を作れると思う。
けれど自分が好きじゃない人と付き合っても、なんも楽しくないだろうから、合コンや街コンのような場所には行っていない。
と、思っていたが、最近この考えが揺らいできた。
つまり、もしかしたら、好きじゃない相手とでもとりあえず交際することが、人生単位でQOLを高めるのではないか、と。
そもそも世の中のカップルの、「少なくとも片方がもう一人を好きになってから交際した」率はそこまで多くないのかもしれない。(50%くらいだろうか?)
相手のことが好きじゃない状態で交際を始めたとしても、時間が経てば二人の思い出だったり、二人だけの秘密なんかはできたりするだろう。
その時に自分は相手の事を、好きになれているだろうか。
好き、にまでいけていなくても、こいつとだったら結婚したいな、などと思えるのだろうか。
わからない。
彼女が欲しい。
恋愛体質になりたい。
以下のように分けて話を進める。
■オタク…1つの趣味に深くハマった人を指す。趣味の内容は主にインドア系・文化的なものだが、幅広く多様なジャンルがある。
例えば海外ドラマオタク、洋楽オタク、韓流オタク、漫画オタク、アメコミオタク、ゲームオタク、アニメオタク、エロゲオタク、鉄道オタクなど様々。
■サブカル…オタクの中でも、いわゆるカウンターカルチャー(マイナーだったり前衛的だったりする作品)が好物の人を指す。
漫画だと有名になる前の松本大洋、つげ義春、ガロやCOMやアックス系
雑誌だとコンテニューやスタジオボイスやクイックジャパンやバーストなど
音楽だと渋谷系、テクノやニューウェーブやポストロック、有名になる前のレディオヘッド、ドラムンベースやクラブミュージック、じゃがらたなどの前衛音楽
映画だとタランティーノやB級映画、ニューシネマ系、売れる前のピータージャクソン、デビッドリンチやホドロフスキー監督などの前衛作品
アニメだと東京ゴッドファーザーズ、パプリカ、ナウシカ、ラピュタ、アキラ、マインドゲーム
その他、ドラッグ、SF、エロ、特撮、MOONやLSDやシルバー事件みたいなゲーム、レトロゲー好きなど
■キモオタ…オタクの中でもカーストが最下位の、狭い意味で言われるオタク。美少女が出るアニメ(深夜アニメに多い)が好き。エロゲが好きな場合も多く、美少女フィギュアを持ち壁紙にしてたり抱き枕を持ったりする。
以上の3つ。
狭い意味でのオタクは「キモオタ」で、広い意味でのオタクは、サブカルも内包する。
一般的に気持ち悪がられるのは狭い意味のオタク、つまり「キモオタ」だけである。
ではキモオタとサブカルとの差はいったい何によって隔てられているのかというと、
それは実は「アニメキャラが性欲の対象であるか」という点だと断言する。
アニメの女の子に程度の差こそあれ欲情しているのがキモオタで、一般人からすると物凄く気持ち悪い。
サブカルは「作品」として一歩離れた目で見ており、たとえ作品の中の女の子がかわいいと感じてもあくまで作品の評価のひとつであり、
あえてポスターを集めたりフィギュアを収集することは基本的には無い。
キモオタは作品の中のキャラに少なからず欲情しており、コンテンツの消費目的の殆どが作品の中の美少女である。
性欲がモニターの向こうの世界なので現実の自分の服装などを気にすることも少なく、現実の女性に対してアクションを起こすことは殆どない。
ジブリの宮崎駿カントクがクリエイターとして「オタク」を批判していたが、あれはいわゆる「キモオタ」を批判していたのだろう。
宮崎監督自身は「オタク(サブカル)」ではあるが「キモオタ」ではない。
エヴァの庵野監督も「オタク(サブカル)」ではあるが、「キモオタ」ではない。
キモオタだとその自己の性欲の対象としてコンテンツを消費しているので、なかなか作品自体の創り手として大成することは難しいのだろう(とパヤオ監督が言ってると理解した)
実際にコンテンツ業界にいると、オペレーターや作業員レベルではキモオタが居ることがあるが、ある一定の地位以上になるとキモオタは激減する。
作品をクリエイトするのは作品自体に興味を持つサブカル層の方が圧倒的に有利なのである。
(もちろんキモオタでありつつサブカルという変異種も存在するし単純に区切れない事もあるので、例外の話はここではしないでおく)。
最近「オタク」という言葉が市民権を得てきたのは色々な理由があるが、そのうちのひとつとして、「まどかマギカ」みたいな、
キモオタの好きそうなロリッ子少女たちが活躍するアニメのくせに、ストーリーや演出など作品としての完成度が非常に高いものが多数出てきたというものがある。
(当然ながら「エヴェンゲリオン」の影響が一番デカい)
困って無かったら一人っ子政策なんてしねえよ