はてなキーワード: 要出典とは
1(Φ比較)«略式»同性愛の, ゲイ«◆この語義が今日もっとも優勢;同性愛者および彼らを支持する人たちが用いるが、同性愛を認めない人からは、軽蔑的な含みで用いられることが多い;通例男性の同性愛者を指す»
(強調は引用者)
結局同性愛嫌いの人間は同性愛者を表すあらゆる表現を差別語として使うものなので [要出典] 、差別の存在を明確にする [要出典] 婉曲表現 [要出典] である「ゲイ」より、形態的には単純な省略語に過ぎない「ホモ」を普通語として普及させた方がよいと思うのです。
Wikipedia でいう「その意味するところ自体が侮蔑の対象であるために差別的意味をもつようになったもの」に別の呼称をつけたところで、その意味するところ自体が侮蔑の対象であり続ける限り、新しい呼称もやはり差別的意味を持つに決まっているのです。
排泄所を表す婉曲表現が陳腐化して意味が固定化されてくると、それ自体が避けるべき表現となって新たな婉曲表現が出現する、というサイクルが生じることがあるのと少し似ていますね。
青空文庫もひどく腐敗しているとは知らなかった
けっきょく何が問題かって、多様性を認められない=曖昧さを許容できないことだろう
狂信的にWikipediaは百科事典です(キリッ)を目指す必要なんてどこにあるのか
船頭多くして船山に登る結果になるのは最初からわかりきっているじゃないか
曖昧さ、多様性を認められないことはいろいろな問題の根源だと思うがそれは割愛
追記
Wikipediaのところ構わず貼られる要出典の嵐や、挙げられていた青空文庫のケとヶのような、烏合の衆が決めたものでしかないのにルールをルールとして信奉することに強い違和感を覚えた。
たとえば犯罪は悪いことだから罪なのではなくて、人間がそう決めたから罪であると、それをタブー視しないで考えるところからしか本当の理解はできないのではないかと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20120724010826
むしろやって欲しかったんだけどなぁ。やれば簡単に解決するのに。計画はあったらしいし。
でも、他の理由で不可能、ってところへは(要出典)をつけさせてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A6%E5%A5%B3
おいおまえら、wikipediaまで荒らすなw
世界中の大多数の男性が結婚相手に処女を望むという事実[要出典]が、「男性の本能」なのか「思想や文化の影響」なのかというのは、生物学者と文化人類学者で長い間論争が繰り広げられてきた。文化人類学者は「男性が結婚相手には処女の女性を求める」事を、文化によって作られたものと主張した[要出典]が、生物学と近年発展してきた遺伝学によって、学問的には「男性が結婚相手には処女の女性を求める」事は『男性が本来持っている本能である』という結論で終止符が打たれ[要出典]、勝敗がつく事となった。[要出典]「自分の遺伝子をつぐ子供を確実に残す為」等の、本来男性が持っているはずの本能が根底にあり、その自分自身の本能に気づいている男性と、「まだ」気づいていない男性とで二極化される事が、今のところわかっている。[要出典]
処女ではない女性と結婚後、又は結婚数年後に男性の心中に「生理的な嫌悪感」が沸き起こり[要出典]、家庭内暴力やセックスレス、妻に対する愛情が失われ平気で浮気に走る様になる等の傾向がある[要出典]。そして最悪の場合、離婚に発展するケースも少なくない[要出典]。
遺伝学によって~終止符が打たれ、とかないわww
[要出展]大杉、てか出展が皆無じゃねえかw
Wikipedia:削除依頼/高橋洋一 (音楽家) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E4%BE%9D%E9%A0%BC/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%B4%8B%E4%B8%80_%28%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%AE%B6%29
本人関係者を名乗るアカウントにより作成された、大言壮語・宣伝的記事。[要出典]をつけられたとたん、それを荒らし扱いし、記事の削除を要求。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%B9#.E8.A7.A3.E6.95.A3.E5.BE.8C
完全に本人目線の文章
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%B9&action=historysubmit&diff=23028600&oldid=22452947
やはり本人(周辺人物)が加筆。(2008/11/22)
ブラウワーである[要検証]。彼は、数学的概念とは数学者の精神の産物であり、その存在はその構成によって示されるべきだという立場から、無限集合において、背理法によって、非存在の矛盾から存在を示す証明を認めなかった[要出典]。それ故、無限集合において「排中律」、すなわち、ある命題は真であるか偽であるかのどちらかであるという推論法則を捨てるべきだと主張し、ヒルベルトとの間に有名な論争を引き起こした。[要出典] ヒルベルトの形式主義は、直接的にはブラウアの主張から排中律を守り、数学の無矛盾性を示すためのものと考えることができる[要検証]。
ブラウワーは「AであるかAでないかが分からない場合もある」を説明する例として、「円周率の無限小数の中に0が100個続く部分があるかどうか分からない」というものをあげていた。
あるとき、ブラウワーがこの話をしたとき、「しかし神なら100個続く部分があるかどうか分かるのでは?」という質問を受けたが、 ブラウワーはそれに対し「残念ながら我々は神と交信する方法を知りません」と答えた。
しれっと言う
憎いねぇ
世の中の人々が有名企業に就職するために就活、玉の輿に乗るために婚活、かわいい子供産むための産活、あるいはどうしようもない男から慰謝料をむしり取って離婚しようとする離活に励む今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?
そんな中、不況のせいもあり(?)就職に失敗したボクたち、若い(さらにはあんまり若くない)女性には見向きもされないボクたち、将来を見てくれる子供もいないボクたち、(とりあえず離婚問題で疲弊することはなさそうです)、こんなボクたちに必要なのは、人生をいかに締めくくるかという死亡活動なのではないでしょうか?
すなわち死活。
死活問題。
親の老い始めた姿を見て婚活にのめりこむ女性がいるのと同様、親はいつまでもはいないのです。
参考
死亡活動(以下、死活)という概念が考え出された背景には、日本の結婚を巡る環境の変化(以下を参照)にある。
等 こうして“特に活動を行わなくてもなんとなく結婚できたシステム”が崩れ、モテる人とモテない人が二極化。結婚を諦めた人間が独り身の死をどうするか決める活動が必要になったという。
以下の通り
なお、婚活のブーム化や、少子化対策などを背景として、結婚活動の支援に取り組む地方自治体や企業も出てきている。また、こうした社会情勢を奇貨とみた企業によって、結婚活動関係のビジネスが活況を呈している。しかし、商行為が悪質とされた企業が告発されるなどの問題も発生している。このような中、男性はますます結婚に失望するという状況に陥っており、経済的な改善が見られない状況と相まって、ますます死活は活況となっている。
橋爪大三郎東工大教授(社会学)は、「就職活動の連想で『婚活』が出てきたことに、奇妙なものを感じる」「あの世に旅立ったキヨシローじゃないが、婚活に血道を上げる連中に聞いてみたい。『愛し合ってるかい?』と。彼らに『恋愛』の2文字はみじんも感じない。あるのは『計算』だけ。」「『恋愛結婚』が定着したのは、1960年前後。まだ、社会全体が恋愛に慣れていないのです。結婚制度の変化に多くの人が戸惑っているのが現状で、独身でいることは、そんな自分に正直に生きた結果でもある。結婚する、しないは個人の自由。その意思は尊重されるべき」等々と語る。
死活をする若者が増える一方、低収入等条件が悪いと思われる若者から結婚できたという報告が出されることがある。
これを見て一部の若者が死活を中止する例があるが、同時にその報告内容に疑問がもたれることも多い。
死亡は、文学における重要なテーマの一つであるが、死亡活動として捉えられる作品はまだない。
なんというか、結構Wikipediaの編集ルールに関して勘違いしている人が多いので、解説してみる。
それで大見出しの「Wikipediaの編集は難しい」となる。まあ当然ですよ。「百科事典」っていう大義名分が有るんだから。要出典や独自研究を貼られてキレるのはお門違い。ググるなり図書館に行くなりしてソースを探して書けばいいんですよ。それやいやならWikiaなりチャクウィキなりもっと気楽にやれるところにいけばいいんです。
これおすすめ。最近よくプッシュされてるし、もう知ってる人が多いか。
なんかのインタビューで見たけど、この作者さんはイエスとかブッダとかの逸話を普通に目にして育ってきたとか、そんな感じらしい。宗教的にどうかは知らないけど、すごく親しみと愛情がこもっていて、ギャグとしても突き抜けてて、面白いと思う。
ところで、作中ではアナンダって書いてあるけど、正確なカタカナ表記だとアーナンダ(Ānanda)が正しい。
アーナンダ、はサンスクリットでは、歓喜、幸福、みたいな意味。アーナンダは「アー+ナンダ」で、ナンダでも同じように、幸せ、みたいな意味がある。アーの部分は接頭辞ですね。
で、「アナンダ」の場合は当然「ア+ナンダ」なわけだが、接頭辞アって否定辞なんだよなあ。だからアナンダは意味がひっくり返って、喜びのない、つまらない、くらいの意味になる。(今辞書で確認した、「joyless」であってると思う)
…そこひっくり返ったらダメだろ!!
というくらいひっくり返ったぞアーナンダ!!
中村光がアーナンダをアナンダで表記してるのは、多分、中村光が読んできた本で「アナンダ」って書いてあったからだと思う。
サンスクリットのĀnandaという名前は、中国に伝わったとき、意訳では、歓喜とか、慶喜とか訳されて、音写では、阿難、とか、阿難陀、とかに訳された。日本は漢訳経由で仏教が来た国だから、漢訳の影響は強い。
仏弟子・阿難陀!と覚えてた人なら、アーナンダと書かれてるよりは、アナンダって書いてある方が座りがいいだろう。
「悟れ!アーナンダ」よりは、「悟れ!アナンダ」のほうが語呂がよかったのかなあ。
ウィキペディアで阿難→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%9B%A3
追記
そもそも中国語が単音節言語で、母音に長音と単音の区別がそもそもない、苦手、っていうのも影響していると思う。昔は現代中国語よりさらに複音節の単語が少なかったらしいし。中国語的に言えば、アーナンダ→阿難蛇、は音写として正しいはず。日本語的に言えば、阿難蛇→あなんだ と読むのは正しいから、まあ別に誰も悪くない。漢訳を経由すると、音の長短が消えやすい。
コスプレをしている(主に)女子の画像なんてのをよく目にするわけですが。
見ていて非常に気になることがあります。
衣装が安っぽい。
レイヤーの人は基本的にオタですよね。
そしてわざわざコスプレするくらいなので、たいていその元ネタ作品に深い愛情を持っているはずですよね。
だとしたら、深い愛情を注ぎ、オタ魂を発揮して、衣装にも気合い入れるんじゃないんでしょうか。
と思うんですが、実際に見ていて、非常に安っぽい。
ドンキとかに売ってるような、出来合いの安物だったらまだ分かるんですが、
自分で針子さんして作ってるようなものも安っぽい。
基本的にテカテカな素材ばっかり。おもちゃ然としてるというか。ツヤ消しスプレーしたくなるっていう。
あまつさえ、コストを掛けないことが美徳、みたいな風潮もあったり(要出典)。
これってオタ的に言ったら、限定版はアホくさいから通常版買うよねーみたいなノリだと思うんですよ。
オタコミュニティで「金がないから通常版買ったわw」なんて言ったら、袋だたきに遭いそうな気がします。
オタなのにそういうのにこだわらないのはなぜなんでしょう。