はてなキーワード: 政治的な正しさとは
追記見た。
そうかそうか。差別とか政治的な正しさとかそういうことはすっかり了解した上で、そういうのはさておき純粋に個人の感覚的な話をしたいんだね。感覚的に嫌悪するのが当然と思っていたのに、いつの間にかそうでないことになっている気がするけど、あれれどうしたの皆そうじゃないの?実際のところどうなの?俺がおかしいの?って話だね。
だとしたら「やめようぜそんな条例って言いたい」ってくだりは混乱をまねいていて無用だったわ。
そうだなぁ。同性愛に限らず、そもそも人の属性のみをもって「きもっ」ってのが無いな。例えば皮膚疾患の拡大写真とか見ると「うっわぁぁ」って感じる。でもそれを患っている人について「きもっ」とは感じないよ。もちろん自分との個人的かかわりの中で「近づきたくねぇ」ってのは別としてね。電車の中でからんでくる酔っ払いとか。
元増田は、どう感じてるんだ?
それって掘り返せば差別意識を背景にした学習性の価値判断、つまり皆が差別しているから俺も差別しておこう、って身に付けた感覚だと私は思うんだけど、そうではなくて、皮膚疾患を見た時のような純粋に感覚的な嫌悪感情なの?
彼の看板番組『session-22』では毎回各分野の専門家を招いておもしろ生トークを行っている。
で、この「専門家」たちが曲者で、要するにオタクという生き物は何かと無神経だ。
彼らの無神経さが特に発揮されるのが、内輪ギャグを言おうとするとき。
専門家の内輪ギャグとは即ち業界ジョークであり、パンピーの視聴者には面白い面白くない以前に理解不能であることが多い。
しかし専門家はそのへんの機微がわからないので、ついついサービス精神から内輪ギャグを口走ってしまう。そして、往々にして内輪ギャグは「不謹慎」「無神経」になりがちだ。
それをチキさんは軽やかにスルーする。ノリが軽めのセッションの場合は受けに回ることも多いが、政治ネタなどの真面目なトーンのときはギャグをギャグと理解できないフリしてスルーする。『session-22』に出る人はたいがい頭のよろしい知識人様どもでありますから、「スルーされること」で次から気をつけるように鳴る。(時に相手が明らかに配慮の足りない発言をした場合はチキりんりん直々に注意が飛ぶこともある)
あまりに自然にスルーので聴いてるほうで「あ、これはスルーしたな」と察知するまで少しラグが生じ、気づいたころにはもう次の話題に移っているので気にしてる暇がない。頭の回転と口のまわりの早いチキりん一流のトーク術がさりげなく発揮されているのである。
ところで、ここで確認しておきたいのだが、内輪ギャグそのものが政治的に正しくない発言を生むわけではない。「内輪ギャグを言ってもいい雰囲気」、狭いサークル内で誰かによっかかれる雰囲気というのが政治的に正しくない発言を生むのだ。
おやじ社員のセクハラはその時代の雰囲気、その社内の雰囲気がセクハラを許容する(と本人がみなしている)から発生してしまうのだ。
その雰囲気を確認する手段が寄っかかりである。内輪ギャグを対面の相手に振ることで「内輪」の流れを作り出し、政治的に正しくない土壌を耕すのである。人によってはこれを「マウンティング」と呼称するかもしれない。
チキりんりんさん氏はこの流れをせき止める。峻拒する。飲み会でやれば親父を「なんだこの空気の読めない若造は」と鼻白ませる行為であるが、『session-22』はチキチキマシーンりんりんさん氏の番組であり、場の空気とは彼のことだ。彼が気に入らないと言えば、それは通らない。
彼が徹底的につまらない内輪ギャグをスルー、あるいは叱責することで『session-22』はリベラル番組として、政治的な正しさを担保している。しかも決して攻撃的ではない形で、上品な形で、である。右といえば極右、左と言えば極左にドリフトをキメてしまいがちな生まれついての走り屋人種日本人にあって、このバランス感覚は稀有といってもいい。(ただしイケボにかぎる)
ポリティカル・コレクト的に正しいトークがなんたるかを知りたい人はTBSラジオ『session-22』を聴こう!
10年前に非モテ論客だった俺も、懐かしいのでこの「弱者男性の一件」について一言書いておこうと思う。
経済的な「弱者男性」については、たまたまEconomistが今週取り上げているのでそれを読め。俺は非モテについて書く。
近年ヘイトスピーチに批判が集まったが、ハゲ、デブ、チビ、不細工を馬鹿にする行為についてヘイトスピーチだという批判が集まっただろうか。
「モテ」に関わるヘイトはどれだけ表明しても問題視されないのだ。なぜならば、恋愛という行為そのものがそもそも差別的な行為だからだ。
ある女が俺ではない男を愛している。俺がこんなにも彼女の事を愛していて、その男がどれだけ他の女とも影で浮気していても、彼女はその男を愛している。
恋愛というのはそう言うものである。恋愛にはそもそも「差別」が内包されているだ。
ゲイやレズビアンの恋愛について俺はよく知らないが、ヘテロセクシャルに置ける恋愛は、未だに男女差別的だ。
女は最初のデートくらい男におごってほしいという。重い荷物は持ってほしいし、車道側を男に歩いてほしいという。実に前時代的な発想だ。
しかしながら、それがセクシーなのである。政治的に正しい男は(そして政治的に正しい女は)、セクシーではない。
我々は、現時点では進化した猿に過ぎず、生殖をする必要がある。生殖は獣の領域だ。一方、政治的な正しさは神の領域だ。
より政治的に正しい道を進もうとする先進国では、出生率が下がる。学歴が高いほど初体験は遅くなる。
政治的な正しさを求められば、生殖は遠のいていく。政治的に正しく生殖できるのは、神に近い存在(=イケメン&美女)だけなのだ。
フェミニズムは政治的正しさを追求する。生殖とは無関係だ。フェミニズムに非モテを救う力なんてないし、そもそも目的から外れている。
政治的に正しくない道を選び、生殖するか。政治的に正しい道を選び、童貞を貫くか。おれは童貞を貫いている。毎日、神に近づいている。
君も神の道を進め。