・ソ連と北方領土返還交渉をしていたのはサンフランシスコ講和条約締結(1951)後の1955年から。
・連合国占領下でも「統治権」は日本政府にあったというのが一般的な認識。
・アメリカから「国後択捉を放棄するな」と強く言われた話は「ダレス恫喝」として今でこそ知られるようになったが、公式には明らかにされていない。
…まあ、自民党の古い方々にとっては当然の前提なのだろうけれども、たとえば内田樹とかが「日本はアメリカの植民地だ」と言うのと、元総理が「冷戦下の日本の統治権はアメリカにあったからね-」と言うのとでは、全然重みも意味合いも違うよね。
なぜ、「憲法九条は素晴らしい」と語る人が、その憲法九条の力で北朝鮮の核実験や、中国の領海侵犯を止めるための活動をしないのだろうか? 大使館前でデモ行進くらいはすればいいのに。
資金や時間の問題? 自衛隊が小銃を持って行進するだけで、横断幕を作って駆けつけてシュプレヒコールあげる連中に、そんな時間や資金が無いとは思えない。だから、日本の左翼は、中国の召使と揶揄されるのである。
え? 日本の右翼は、逆にアメリカの奴隷だろうって? いや、その日本の右翼と同じような行動を取ってて、日本の左翼は恥ずかしくないんだろうか?
それに日本の右翼がアメリカの奴隷だろうがそうでなかろうが、「日本の左翼=中国の召使」という構図を覆すだけの材料にはならないのだが。
世界にはいろんな考え方の人がいて、尊重し合いながら生きて行きましょう。
という結論その物はいいけど
赤はすくなくとも赤だし 紅を赤と呼んでもいいけど 青は赤じゃない。
そのへんはもう、コンセンサスの問題で程度の問題で
だいいち、いろんな考え方の人を尊重するが、独裁的な考え方は認めない。というのは、矛盾している。
独裁的な考え方をする人がいることは認めて、尊重した上で、折り合いをつけていくというのなら、わかる。
いや、なんだろう。お前さん、それは態度の問題なのか?
実際問題 内容はあってるのか?間違ってるのか?
内容はどうでもいい、態度が問題と書かれても、こっちも困るぞ。
そもそも、映画のレビューなら解釈は多様に有るだろうが、数式なんかの問題なら解釈は多様にはない。(一応でもないが、あってる間違ってるで決められる)
つまり、言ってることが正しいかどうかは、双方内容次第なので、その文章だけでは、判断がつかん。
あと、普通論文なら、断定調で書くもので、それはそういう文化のものだ。
ようするに、そういうふうに 内容関係なく、態度が悪いとすることが、嫌われるのでは?
なんか資料をいろいろと上げてるんだけどさ。
「俺の解釈が正しい。この資料からそれ以外の解釈をしてるやつらは全員間違っている」
こんな結論で資料を出されても、話にならんよな。
それって、嫌ってる人間の態度と何が違うんだろうね。
tqf?
うっぷ
しにたい
再びさんすみませんいろいろたりなくて。
青い枠一つ目の評論って、報告とかみたいに伝えるためだけに言語化するのじゃなくって、なにか結果を示唆するものだとおもっていたので結果に方向づけるために評価を優と劣にわけて優と思わせた方向へ誘導するのが評論かなと想像してました。
軍事評論家が「これは大変危険な状態ですね」とか言う事について危険度について示唆はするけど「回避策を投ずべき」とは結果誘導していなかったらそうはいえないですよね、すいませんでした。
ということは、評論家は「あのとき言いましたでしょ」とかいう単語をはなった瞬間評論家ではなく「評価者」に転じる別物かなと理解しちゃいました。
青い枠二つ目はその「危険」といったことが「人を死傷たらしめる」を意味したものであったとき「人が傷つくのは悪いことなのか、いいことなのか」ということは哲学ではない事なのかなとおもってたのです。
人を傷つけたり、傷つかないようにしたり、人が傷つくこととかいうのは哲学ではなくて、「人と傷」ということの関係性が哲学なのかなと、人と傷についてさまざまな感覚は評論になるのかなと考えてました。
たとえばごんぎつねのエンディングがどんなものであってもそれは評論とかで、ごんと兵十が存在し関係しあうということ自体が哲学なのかなと思ったわけです。
青いの三つ目は、人が哲学をつくっても哲学は人をつくらないみたいな、人は哲学を語るけど哲学が語るのは人そのものではなくて、人の生きる環境のことかなと思ってしまったので、たとえば人は疲れたら休むところを探すとすると、休むところには人が来るといえるのかとか、休むところにきた小動物はおなじ悩みを抱えているのかとか、隠れ里の温泉に来るキツネは上司のストレスから解放されているのかとかみたいな話もあるのかなーと思っちゃったものだから。
人でなくてはとして「キツネが戦争をしてお互いに傷つきあって温泉でちょっと休息を得る」という絵があった場合は哲学成分が一切入っていない感じかなあ、入ってそうだなあと想像しちゃったものでした。
多かれ少なかれ個人差はあるだろうけど、
みんな自由がなくなって、可能性が狭まるのが嫌なのだと思う。
「で、その先はどうなるの?」とぼくはいつも思うのだけど、フィクションは教えてくれない。
こういったら笑われるかもしれないけど、どの子も本当に大好きで優劣なんかない。
9歳年上のデザイナーの子と、部屋着でごろごろとDVDを見るのも、
神戸在住の4歳年上のモデルの子が、東京にくるたびに飲むのも、
1歳年上の大学の先輩と、好きな音楽の聞かせあいをするのも、ぼくには大切な時間だ。
それぞれの子と一緒にいる時間が、ぼくにとっては幸福なひとときで、誰とのセックスも大切な行いで。
でも、結婚するとなって一人を選ぶのだとすれば、ぼくの幸福は1/3になってしまう。この計算、わかるかな?
どの子も大切にしたいし、その数はこれからも増えるかもしれない。