はてなキーワード: 尊厳死とは
「尊厳死させる」じゃなくて、「尊厳死を選べるようにする」だと思うな。
恥をかきたくない、身内に迷惑をかけたくない、と思ってるお年寄りはたくさんいるよ。
そういう人が尊厳死を選べるようにすることは、クオリティ・オブ・ライフの面からもいいことのはずなのに、なぜかこの議論がタブーになっちゃってるあたりはどうかと思う。
欧米といえば、左胸のところに「救命は要りません、ありがとう」っていう刺青すんの流行った(?)ことあるみたいだね。流行りとかじゃなくて普通にもう根付いてんのかな?
ある程度のトシ行った人が入れるんだって。道端とかで突然ぶっ倒れた時のために。
そういうのが可能なのって何つーの、自己に関する責任とか決定権とかが社会の共通認識としてある程度しっかり固まってるが故だよね。
でもニッポンはそうじゃないじゃん。和をもって貴しとなすの精神だからか、意思決定とかめっちゃ苦手じゃんこの国の人は。
そうでなくても「死ぬ」なんてこと受け入れたり消化したりするの大変なのに、「これから受け入れたり消化したりするぞ!」って決めるのがそもそも踏ん切りつかないみたいな感じになるじゃん。
それを法制度化するのって、外部から押し付けるみたいに義務化するみたいにもってくのって、どうなの?
しかもおためごかしにも本人の幸福のためでなくて医療費のため。
でも「そこから自己決定権を奪ってはアカン」という部分をどうクリアするのかって本当にすごく難しい。
「承諾書類にサインすればいい」くらいまで整えたとしても、土壇場で泣いて嫌がる人って絶対出るし。
カネとか損得だけ見るのは何か違うと思う。
政策的見地っていうか、その根っこにあるべき人道とか人権の面で延命治療(と尊厳死)は語られるべきだと思うけど。
事実、単に「延命治療」に限るなら、老若男女問わず「治る見込みもなく、社会に還元することもできない」連中はみんな死ぬべきだしそのための病院は要らないみたいな話になるじゃん。
「老人」に限るのは単に数が多くて財政圧迫要因として占める割合がデカイからってだけで他に理由ないでしょう?
でもそんな理由で「老人(一定の年齢以上?)の延命は打ち切るけど老人じゃなければ続ける」とか不公平じゃん。ダメじゃん。ってだけ。
個人的には、尊厳死なる意思表示(とその手段)がこの世の中に存在するとか、なぜそんな仕組みが必要とされ整備されたのか(尊厳死協会とかあるよね)ってな事は広く知れ渡ればよかろうと思うけども。
でも強いちゃだめだよね、やっぱりね。そんな権利が誰にある?
要するに個人的な不公平感ルサンチマンの話ってことだね?
石原伸晃の「年寄り死んでくれ」発言が波紋を呼んでいるが、これって国策だと思う。
NHKで2012年8月29日に放送されたクローズアップ現代でも尊厳死を美化して伝えている。
若干のオカルト色を使って、映画“おくりびと”的な安心感を演出しながら、要は「爺さんども、死んでくれ」と言っている。
「死んだ親父が会いに来た・・・」など、死を間近に体験すると言われる“お迎え”現象についての日本初の学術調査が進んでいる。在宅医療の専門医と東北大の社会学者たちが、文科省の助成を受けて高齢者や遺族500人あまりを調査、自宅で看取られた人の4割が“お迎え”を体験し、そのうちの8割が死への恐れや不安が和らぎ、穏やかに看取られていったことが分かった。その一方で、「生」を追求する過剰な延命治療が、“お迎え”ばかりか、患者が「死」と向き合う妨げになっている現状も浮かび上がった。調査を行った岡部健医師は、「死を受け止める力」に注目した新たな在宅医療を模索している。自らも末期ガンを患う岡部医師の活動を通じて、自然な看取りをいかに実現していくのか考える。
これが国策でなくてなんだと言うのだろう。
公共放送の夜7時のニュースが終わった直後にこの番組は始まる。
ニュースが終わってそのまま見る視聴者を目当てに国や大企業、経団連などが言いたいことを代弁している(かなり露骨に)。
石原も総理候補の踏み絵か何かだと思ってやらかしたのか、そうで無いのか。
どっちにしてもこんな団体(NHK様)に払ってやる金は無い。
追い詰められた人の自殺とは一緒にして欲しくないよ。
ここについて。
追い詰められた人の都合なんて考えてたら、自殺は止められない。
その人は「死んだ方がラク」なんだから。
当人が死ぬ事によって故意に損害を与えようとして「いようがいまいが」あまり関係ない。
で、もともとの意見は「何故止めるんだ?」なんだから、「金銭的・時間的に負担させられるから止めるんだよ」となる。
理由は個々人でイロイロとあろうが、死ぬのが自己都合なら、止めるのも自己都合だ。
都合同士がぶつかり合うので、(仮に機会が与えられれば)あとは折衝。
死ななくても済むような助力が出来るのか。
それは、そいつが死ぬよりもマシな提案なのか。
正直、病院で余命幾ばくもない人間が尊厳死を選ぶのだって、親族からしてみれば止めたくなる事もあるだろう。
生きているのに意味が無くても、生きてるのが本当の意味で苦痛しか産まなくても、親族は生きて欲しいと願うかもしれない。
何故って、そいつが死ぬのが精神的損害だから。
http://d.hatena.ne.jp/ssig33/20100825/1282722071
・ホメオパシーの例の事件の問題は、助産師という医療関係者が、K2シロップの非投与という医療怠惰行為を本人又は保護者の説明/了解なく行ったこと
・代替治療の多くが非難されるべきなのは人の弱みにつけ込む悪徳商法となりやすいから
本人が自分で判断できるのであれば、治療方針が科学的であるかは関係ないです
基本的に、転移した膵がんはまず助かる余地がないです
がんは若くて元気な人ほど進行が早いので、今監督のようなケースでは余命は予測がほとんどできないです
少なくとも、抗がん剤治療をしたところで、新しい作品を残すところまで回復するのはありえない
そもそも、抗がん剤治療というのは完全に確立したものではなくて、
いろいろなガンの発生部位、進行度、併発症状などを
少しずつ試しながらある程度効果が確かめられたものを取り入れて
進行したがんについては非常に難しいのが現状なんです
まず副作用がひどい(事が多い) 本人もつらいし、まわりもつらい
副作用によっては見た目が変わる。
本人は早く死にたいと言い出すし、
介助してる側も、こっちのほうが早く死にそうだと
そういう冗談を言いたくなるほど大変です
もちろん、がんになった時点で同じなのかもしれません
ということもわかって頂きたいのです
(最近では医療ミスとして訴えられる訴訟リスクも重なってさらにヤバイ)
いうのを理解して欲しいです
それが正しい判断である場合がもちろん多いのですが、
それ以外の選択肢が許されていないということもあるのです
患者さんにとって、最善の選択ではないと分かっていてもです
科学が絶対であっても、いつか人は死にます
どうにもできない時が必ず来ます
その時にあなたは、どう生きるのか
そして死ぬのか
自分としては
本人の意思と判断が正常である場合には、
むしろ自由度を高めてもいいと思っています
自由度を高めるのは悪いことではないと思います
けして悪いことではないとおもいます
みんなが逃げながら、過度に膨張する倫理感
だれもが来る死
それから逃げないで、だれかのせいにしないで
もう少しだけ自分と向き合って欲しいです
尊厳死ももっと議論の俎上に上がっていいのではないかと思います
興味深かったですが、まさかこんな感想を持つ人が居たので
少し長い話を書いてしまいました。
みんな相変わらずで安心したよ。
相変わらず薬は飲んでるし体調は悪いけど、社会復帰はして仕事はバリバリやってる。だからといってリア充かっていうとそんなことはなくて、仕事しかしてない。会社の女子とかとは仕事の話はするけど、特に興味はない。若すぎるし。あ、でもちょっとだらしない体はいいな、って思うことはある。でもとくにモーションかけたりしない。しんどいし。うちに帰って眠りたい。それだけ。
あと、世界の全てを恨む、根絶やしにするために生きてきたともいえる俺のルサンチマンはだいぶ解消してきたかもしれない。本気で周りから「最近優しくなりましたね」って言われる。言われるたびにぞっとするけど、事実そうみたいだから仕方ない。
この間「何がしたいんですか」って偉い人にぼんやり聞かれたことがあって、まあ適当に答えたんだけど。俺は何がしたかったんだろうね。
人生の折り返しはもうとっくに過ぎていて、今の体調であれば2年くらいが現役の限界。そこから先は少なくとも入院生活になることは間違いないだろう、と。まだどこが悪いんだかよくわかんないんだよね。それまでは、両親に何かを残してやりたい。海外には連れて行った。ヨーロッパはちょっと難しいなあ。頑張ってみるけど、言語が通じるところじゃないと厳しい(英語はできる)。
親より先に死ぬのは、正直非常にNGだよなあ。でもなあ、延命とかされて脳幹しか生きてない的なことになりかねなくて、それって苦しいならやだなーって。ワガママ聞いてもらえないかしら。こう言うのって尊厳死っていうの?
あー、えーと募集。メンタルおよび各種疾患のチェックをやってくれて、専門の医者に状況紹介してくれる「メタ医者」を探しています。睡眠障害、躁鬱っ気(この2つは医者掛かってる)、喉と口内の炎症&鼻の炎症(約8ヶ月継続)、頻尿(薬の副作用)、目が見えない(メガネの調整不良&乱視調整不良)、耳が聞こえない(軽い難聴)、記憶不良(内容が突然飛ぶ&デジャブ)、胃腸の不良(消化不良、腹痛、リバース)、突然駅のホームで座り込む(たぶん貧血&薬の副作用)、などなど……。改めて書いてみるとぼろぼろだな。なんとなく、このままの暮らしだと余命4年くらいしら。働くのをやめたら余命半年くらいなのは知ってる。もうちょっと長く遊びたいんだけど、なんかいい方法ないかね。
http://anond.hatelabo.jp/20091021021318 はミス...。
用法が正しいかどうか分からないままに、もう一度名乗ります。元増田です。
ダブルスタンダード、とやらには当たらないと思いたい。
どうも「死の概念を与えられる」という言葉を誤解されてしまったみたいなんだけど。
(というか私が『概念』という単語を乱用している感がある)
要するに、誰かに殺される(死の概念を与えられる)っていうことは、厳密には無い、と言いたいんだ。
それは、『生』が消失したということだ。
そう言いたいんだ。
結局、それだけの話なんだと思う。
自然死だろうが、他殺であろうが、望んだ自殺であろうが、尊厳死であろうが。
誰かの『生』が出現し、消失した。
それだけのことなんじゃないかな。
……で、何の話をしていたんだっけ。
そうか、つまり私が言いたいのは。
逃げたい、死にたい、などと言ってる人も、実際に生きている(死んでいない)時点では、生を望んでいるんだと、そう言いたいんだ。
とりあえず、最初はそう言っていたんだけど、もはやこの論点は不要かな。
生きてる内に死の欲求が芽生える事は無いけど、
尊厳死の選択が有り、っていうのは、
俺にはダブスタに見える。
ダブスタでないとしたら、
その線引きは微妙絶妙過ぎて
「みんな」には当てはまらない。
少なくとも、俺には共感できない。
むしろ、大好きなペットの死何かを通じて、
初めて生を学ばされる子もいるんじゃないかな。
話が逸れた。
生きている内に、死ぬ時期を選ぶ欲求が生まれても、
おかしくは無いと思うね。
その欲求を肯定するかどうかとは、また別の話。
アリじゃないかな。
結局、『死』っていう概念は、人に与えられたりするものじゃない。
『生』という概念そのものが、消失していくことを言うんだから。
『生』そのものは、誰かに殺されたりなんかしないよ、きっと。
許容できる範囲まで少なくなるであろうことは認めます。
その上で、
1)兵役と同じくこの手の義務を課した場合、サボタージュが続出するので効率が悪い。
子育て支援のために保育園でのボランティアの義務化が非現実的であるのを考えればわかり良いと思います。
2)要介護側が元を取ろうとして、過剰な介護を希望するようになる。
「ワシが介護やったときはもっと心を込めて・・・」的な
が予測されるのでその辺を手当てする必要があります。
元増田です。
とりあえず尊厳死についてはいったん脇に置いておいてもいいですか?
話があさって方角に進んでしまいそうなので。
(ちなみに個人的には尊厳死は賛成です。できるなら自分もそうしたいと思ってます。
「みなさん、さようなら」みたいにマリファナとヘロインでラリラリになって死にたい)
ところで、フリーライダーが増えるのは
の場合であって
大本の案である