はてなキーワード: バトロワとは
デスゲームとか頭脳バトルものとかが相互に影響を与えあって発展してきている気はする。
もちろん、それぞれに源流となる作品があるのは当然として。
個人的な体感では、「ライアーゲーム」のテレビドラマ(2007・2009)のヒットで注目度が上がり
(ちょうど「孤独のグルメ」のドラマからグルメものが増えたのに似ている)、
物事の相似形を探すのは面白い.
身近な具体的な出来事と絡めて,トレースができるほど
それの文章は汎用的だと言えるのではないだろうか.
屍鬼という小説の作中,静信というお坊さんが書く小説が面白い.キリスト教の7つの大罪の一つ.憤怒を象徴する,カインとアベルのお話がベースになっているのだが,彼自身,自分の身の回りの村や寺,そしてその中にいる住職としての自分や父,村人との関係性となぞらえて,小説を書き出している.
彼には何故,と考え続けていることがある.
私にもなぜ,と考え続けていることがある.
そこに私もトレースしてしまうのだろう.
このところ,このテーマとなってる話ばかり見ている気がする.
・ザ クイズショウ:番組司会者とそのプロデューサーの関係が物語のキーとなっているのだが,そこにあるのが「憤怒」だった.これを見て私は,怒りすぎるのも考え物だと思った.
・ストレイトストーリー:主人公は,危篤の兄の知らせを受け,トラクターに乗って兄に会いに行くのだが,道中立ち寄った教会で,カインとアベルの話に自分と兄の関係をなぞらえていた.きっと,カインがアベルに抱いた怒りに近いものを持ってしまった(怒りすぎるのも考え物だ)という罪として主人公にひっかかりがあったのではないかと思う.最後は兄と和解したようだった.
そう,それでカインとアベルの関係について調べていくと,ヤフーの知恵袋で屍鬼についても触れられていたため,あの分厚いハードカバー2段組み 2冊を読むことにした.もともと屍鬼自体はジャンプで連載されている漫画を友人から借りて4巻まで読んだことがあったため,ひぐらしやバトロワなどの村での惨劇物語として認識していた.ブログでの評価を読むと,カインとアベルについての新解釈だと書いてあるものもあった.
さて,静信の書く小説と静信自身については本を読んでもらうとして,私自身に起きたごく個人的なことについて話を進める.
ありきたりな人間関係についての話だ.
自分に好意をもった男性がいて,それに絡まれた私はどうしようもなく絶望的な気持ちになり追い返してしまった.その後それを仕組んだ友人からなぜ断ったのか責めるような目で見られ,とても悲しい気持ちになった.もう5年も前の話だ.
なぜ,私は絶望的な気持ちになったのか.
なぜ,悲しい気持ちになったのか.
この出来事の直後,私は精神体力ともに虚脱してしまい,このような状況整理も問題把握もできずに,ぐるぐると悩んでは泣き悩んでは泣き悩みすぎたことにまた悩んでいた.
あとから考えると抽象的で荒唐無稽な話ほど,自分の周りの具体的な事象に重ね合わせてしまいやすのかもしれない.
結局私は彼をねたんでたんだと思う.
仕組んだ友達は私に対して親切というわけではなかったけれど,
彼に対しては親切にしていた.
それを私はねたんでたんだと思う.
今思い出すと,彼に対してしたことは後悔している.
つきあう付き合わないは別にして,私の話も聞いてもらえばよかった.
話した後はそれでお開きになっても,その後会えば何かしら話すこともあったかもしれない.
ねたんでしまってごめんなさい.
それにしても自分を好きだと言ってくれる人を妬んで嫌がらせするなんてどうかしてる。
悪化させないようにしなきゃ…。
ホッテントリから。
『保護が弱者を生む構造』http://mojix.org/2009/04/02/chintai_hoshounin
…とか読んで「パターンだなあ…」と思う。要するに「弱者保護とか善人ヅラきめぇwww競争したらむしろ規制解放されてみんなメシウマなんだから厳しいことゆうオレ様の方が科学的に正しんだよ偽善者ざまぁwwwwwww」って話だと思うんだけど、やまほどブクマついてるとこみると未だにこういう人が多いのかなと心配なんでちょっとだけツッコむよ。
この人は結局
というだけの当たり前な話をしてるわけで、それは正しい。つーかメリットしかない策があったら世界中そうするだろJK。
…って感じで良い具合にオツムがストップしちゃってるとこなんだよね。なんで
ということに気づかないのかしら? どこかに魔法のように素敵なウマイ話があるという幻想から抜け出せなくて、永遠にネズミ講に食い物にされ続ける困った人のように、あちらがダメならこちらで全解決、みたいな与太話にすっかり欺されてると思うんだよね。
マーケットが無限に拡大していく見込みの中では、原理的には、ネズミ講だって成立するように市場主義だって成功できる。でも実際問題として世界は有限だしマーケットは縮小傾向だ。その状況で市場主義とか自由競争っていうのは、要はサバイバルゲームしましょうってことでしょう。つまりおれたちはとっくに『バトロワ状態』に追い込まれてるわけだよね。
無人島、追い込まれた状況、不確定な未来。そんな状況で「殺し合い」と「助け合い」のどちらが正しい選択なのか? 「競争したらそれだけ利益が増える」って(魔法のような)言葉が現実にはどういうことを意味するのか。要するに弱者が死んで食い扶持が減りラッキーってことだよ、それは。
「そんなことはない!競争で耕地が増えて結果として食料が増えて弱者もご飯が食べられるようになって…」←だから『土地が無限にあるなら』それは正しい。でも土地は無限には無いんだよ、現実に。イノベーションとか横文字使って煽ろうが何しようが、この『有限性』につきあたったとき、世界はもう新しい段階に入ったんだよ。これは純然とした経済の問題であって、変な思想とかそーゆーのとは一切関係の無い話。
最初に引用したリンク先のような話に欺されそうな人には、一度問題をシンプルに考えてみることを勧めたい。今更遅れてきた市場主義者の口車に欺されないように。
(追記)
最初に書いてるとおり、もちろん弱者保護にもコストがかかる。けれどもたとえば競争主義が蔓延ることで失われる「安心」、そして失った安心を取り戻すための社会的コストというのも、けっして馬鹿にできないレベルのコストだ。いずれどちらの策でもコストはかかるわけで、一方の側のコストだけを強調するような主張は、それだけでじゅうぶん誤りだって。単純な話なんだけどね。
なんか面白いものをみつけたので改変してみる。
はじめに:はてなでの噂によると、10年前の12月、あるアニメが放送中止になったとき、上のリンク先と同じようなことを
ダイアリーで書いた人がいるそうです。
アニメ版ポケットモンスターについて、mixi日記で書き散らした内容をそのままコピペ。誠実さが常に美徳であるとは限らないのだが。
テレビ東京にて今後の放送中止。理由はおそらく、昨日のポケモンショック(パカパカで癲癇起こして子供が救急車で搬送されたアレ)の影響で自粛。
ええもう、快哉を叫びましたよ真夜中に。以下dis。
Twitterでぶち切れたこともあったけど、あの作品自体もファンも死ぬほど嫌いだ。サトシの行動が思春期男子のそれとしては実にわかりやすいポケモンゲットだぜであることは認めよう。存在が意識を規定する、という謂いのとおりでさ。それはいい、人間性についてのひとつの身も蓋もない認識だ。問題は、「これが理解できない、ポケモンを「ガキジャリ向け」と定義して楽しめないヤツは中二病」といういつもの優越感ゲームの空気が醸成されつつあること。少女革命ウテナのメンヘルなアンシーの身の振り方と同じで、不快なネタであるのは確かなのに、不快感を表明することで自動的に人格蔑視の対象になるという糞厭らしい構造なのである。それが気に入らない。
かてて加えて、たいした覚悟もなく動物死にをネタにしている露悪趣味。この作品のウリは何か? ポケモンと呼ばれる動物が闘って相手を傷付け合うオチ以外に有り得ない。みんなイワークのしめつけるやピカチュウのじゅうまんボルトや、どくばりで刺されたりするのが見たいだけである。反論は認めない。竹熊健太郎先生も仰っているではないか、モンスターバトルまんがのウリは「人殺し」だが本質を突きつけると人は不安になるから「パートナーモンスターとの絆や信頼関係」などというテーマをでっち上げるのだと。俺はそんな欺瞞はさっくり無視して人殺しを楽しむのだが(それは小学生のころ、ベトナム戦争の写真集を一日中図書館で眺めていた――それも毎週――ときから変わらない)、世のファンども(これは前述の、サトシに理解を示してあの狭い液晶の中で今日も151匹ゲットにはげむ連中よりもっと広義のファンを指す)、どうせ血が見たいだけなのをなにやら糊塗して、ピカチュウがかわいいだのカスミかわいいだの、キャラ萌えも含めてネタとしての消費に汲々としている。こんなもんにマジになるヤツは痛いキモオタ、と言わんばかりにだ。
はっきり言わせて頂く、君らのその舐めくさった態度は「これは燃えアニメだから!」「燃えと萌えを両立してるんだ!」などと言い訳しつつ、飛べ!イサミのイサミだののイサミのおかあさんだのに萌えるイサミ厨とまったく変わらない。ちなみにここでのイサミ厨とは、オタクにとっての宮崎勤程度の意味である。下劣極まりない。堂々と宣言したらどうか、俺はポケモンが血まみれになって死ぬのが見たい糞野郎ですと。それができねえってんなら最初からこんな悪趣味なモノ消費しようとするんじゃねえよヘタレ共が。
ついでに、作品内容にかかわらず、とりあえずネタとして片付けようとする最近のヌルオタどもの風潮も許しがたい。それは作品に真正面から向き合おうとしない、受け手として不誠実な行為である(スキゾキッズは屑だ)。まあ所詮恐竜惑星を萌えの元ネタとしてしか受容できなかった連中ですからな、知性なぞ初手から期待してませんがさすがに目障りだ。その一方で、少女革命ウテナ最終回の粋を理解できずに感動させろと吹き上がる。軒先に吊るして回りたいぜまったく。まずは「こんなアニメにマジになってどうするの」とたけしメソッドを使う連中を殲滅するのが先だが(俺の前で金輪際この台詞は吐かないこと)。
と・い・う・わ・け・で、清々した、という言葉がこれほど相応しい結末もない。願わくば今後も一切放送されず、このまま闇に葬られんことを。できればファン共々な。
あああと、虚構と現実を一緒にするな、とほざいている連中にはいい薬になったと思うよ。切り分けられるわけねえだろが。バトロワに影響されて立てこもり事件起こしたやつとか、フライトシミュレータ好きが嵩じてハイジャック事件起こしたやつとか、忘れたとは言わせんぞ。俺だって「僕らのウォーゲーム」観に行った映画館から出たあと、「俺もデジタルワールドに行けたらナァ!!」とデジヴァイス探して回りたかったんだ。
ちなみにTwitterでぶち切れたときのログは以下のとおり。
Yuu Arimura y_arim ポケモンのこと考えるだけで本当に吐き気を覚えるようになった。どうしたらいいんだ。 05:42 AM September 12, 2007 from web
Yuu Arimura y_arim ポケモン(さらにはポケモンバトルを厭わない態度を取るサトシ)に対する態度のとり方が優越感ゲームのネタになっている気がするのは俺の被害妄想だろうか? 不快感の表明が即キモオタ扱いに直結するのが、少女革命ウテナのメンヘルなアンシーの身の振り方に対するそれと同じ構造だ。心底不愉快。 ... 06:00 AM September 12, 2007 from web
y_arim 作品は玩具やメソッド宣伝アニメにも関わらずさもキッズアニメであるかのような体裁をとり、ファンはさもキッズアニメを見ているかのごとく受容する。ピカチュウがかわいいとかな。はっきり言わせていただくが、これは燃えアニメだから! と言い訳して萌えるイサミ厨とおんなじだよ、きみら。醜悪だ。 ... 06:21 AM September 12, 2007 from web
y_arim 単なるヘタレのリョナ好きだ、と認めたらどうなんだ? え? 06:22 AM September 12, 2007 from web
Yuu Arimura y_arim 悪趣味に無自覚な悪趣味野郎、悪趣味を自覚させない悪趣味な創作はまとめてこの世から消えろ。 06:24 AM September 12, 2007 from web
Yuu Arimura y_arim ほんとうに、震えが止まらないほどキモチワルイ。 06:26 AM September 12, 2007 from web
「ぼくらの」は読んだこともアニメ見たこともない。でもOPをユーチューブで見たり、あとウィキで設定見たりとかだけで鬱になって、悲しすぎて吐きそうになる。だから何となく手が出せない。アニメなり原作なり最終回を迎えて、ラストがどのように終わるのか、ってのを聞いてからならただの作品として読めるかもしれないけど途中の今の段階では一々一喜一憂しなきゃいけなくてきっとついてゆけない。人が死ぬ、っていう点ではバトルロワイヤルとかも読んだことあるんだけど、その時はそんなにショックとか受けなかった。悲劇性、って点なら、友人と観に行った「誰も知らない」だって似たようなものだろう。でもその時はラストに、可哀想って泣きじゃくってた友人を見ながらえっこれって泣く映画なの??って思ったりしていた(実際にあった事件だってのは知ってたし、惨いとは思ったけど、)
でも「ぼくらの」に関しては悲しすぎて気持ち悪くて吐きそうになる。逃げ場がない、ってのが怖いんだろうか。でもそれはバトロワも一緒だし。ラストが見えてないから怖いと思うんだろうか。これが一番の理由っぽいなぁ。はらはらどきどきしたくないというか…完結してるオマージュ元ならまだ読めそうな気がするけど。作り物なんだから怖いとか悲しいとか感じるのはおかしいはずなのに、
それでも怖すぎて気持ち悪くて見る勇気が出ない。人が死ぬのが嫌なのかなー。
追記:
http://anond.hatelabo.jp/20070222032839
これすごく分かります。
「5巻で彼が母親について語ってるの見ると、きっと子ども時代は????だったと思うんです!!」
↓
「だからその頃の母親へのコンプレックスが××(カップリングのお相手)との恋愛にも表れると思うんですよ!」
↓
「それを表現しようと思って書いたのが『◎◎(そのサイト内の二次創作)』だったりするんですけどww」
というような流れが大体の場合あって、キャラクターのバックグラウンドを「考察」し「設定」してから
さらにその設定の先に生まれる人間関係(つまりカップリング)を妄想し、作品にする、という傾向があるように思います。
それが極端に現れたのが、5年位前に女性向けジャンルを圧巻した「バトロワパロ」なのではないかなと思います。
(最もこのパロディは流行った一方でかなり嫌われていて「バトロワ厨」の呼び声も高かったのですが)
バトロワの世界に元ジャンルのクラスを放り込んで殺し合いをさせるというパロディのことですが、
この手法は「死が迫った場合」という極限状態にキャラクターを置くことでカップリング同士の関係性を強調することに成功していました。
あるカップリングは脱出を誓い合って協力して窮地を切り抜け、
あるカップリングは他の人に殺されるくらいならと愛が暴走して相手を殺す……などなど、
そこには多種多様な関係性と、キャラクターの思考方向がたどり着く結末が描かれています。
キャラクターについて妄想し考察して出来た設定を思う存分書ききりたい!それこそ揺り籠から墓場まで。
という欲求が、バトロワパロという形で現れたのではないなと感じています。