PHPとか好きそう。
男は知らんけど女は化粧で顔変わるから
おっしゃるとおり、フィクションの場合復讐されそうになった人がべらべら本当の動機とかしゃべりだして命乞いまでするからカタルシスが得られるけど現実にはそんなことはない。
復讐から得られるものは基本的には被害と等価以下のものでしかない。
ただし、「警察=国がオレにかわっておまえをつかまえお仕置き=復讐するぞ!」とみんなで信じることで
かつて師匠と呼んでいた人が、「人間が向き合った際に格闘技で決着をつけるなんて不平等極まりない。本当の戦いは体重差のない武器を使った戦いだ」とおっしゃっていた。これ自体は一見頷ける話に見えるが、よくよく考えてみると決闘という場において武器同氏の二人が並んだ際に、身長差すらない場面があるとしても何がしかの優劣は確実に存在することに気づく。例えば反射の良さや目の良さ、筋肉の質が速筋か遅筋かなどだ。
仮に筋肉の質が全く均一だとしても内部的な反射の良さは確実に差がある。これは相手にとってはギフテッドかも知れない。しかし一方の人物からすればハンデに見える。より半径を広くして人類がこの優れた反射の持ち主と同じくらいの反射神経を持っていたとすれば、持っていない対峙者にはハンデにしか見えないだろう。
これに似た状況が元々歩ける人、生まれながらに車椅子の人などの差異にも見いだせる。車椅子は第三者的に見ても当人から見てもハンデである。多数決が正しい世界では少数派はハンデになる。
話を戻そう。普通の能力を持ってないと人はハンデだと感じるが、実際のところハンデと思えるほどの能力差がある、という話なのではないか。つまり人は実は大抵の場合ハンデ持ちだと言える。配られたカードは元々不平等だという話は巷で開かれるし、配られたカードで勝負すべきという言説も聞かれる。これは勝者が言うときと敗者がいるときでは少々事情が異なると思っている。少なくとも敗者の配られたカードの差、あるいは勝負の言説には覚悟があるように思えるからだ。
何れにせよ、ハンデがなければうまくやった、という言説に関しては真なりということもできるし、言っても仕方がないとも言える。
(自分にしてみても厳しい状況下において制限された行動をどう取るかというハンデの中で戦っている。それも自己責任ではなく他人がもたらした賑やかしと冷やかしのためにそうなっている。それでもそこを悔やんでも仕方なく、意味もない)
誰に聞かれてもいない「弱み」を見せて
見たくないのなら無視して立ち去ればいいだけのこと。
これって、お前らの方こそ普段よく言ってることだろう。
死にそうでのたうち回っている人間にとどめを刺そうとしているお前らの仲間を見かけたから、それヤバくね?って言っただけの話だろう。
お前らとその仲間たちのような、元々裕福で健康な人間が通りすがりの困窮した重症者に、別に危害を加えられたわけでもないのに、さも正当防衛であるかのようにとどめを刺す行為は十分に卑怯だろう。