かつて師匠と呼んでいた人が、「人間が向き合った際に格闘技で決着をつけるなんて不平等極まりない。本当の戦いは体重差のない武器を使った戦いだ」とおっしゃっていた。これ自体は一見頷ける話に見えるが、よくよく考えてみると決闘という場において武器同氏の二人が並んだ際に、身長差すらない場面があるとしても何がしかの優劣は確実に存在することに気づく。例えば反射の良さや目の良さ、筋肉の質が速筋か遅筋かなどだ。
仮に筋肉の質が全く均一だとしても内部的な反射の良さは確実に差がある。これは相手にとってはギフテッドかも知れない。しかし一方の人物からすればハンデに見える。より半径を広くして人類がこの優れた反射の持ち主と同じくらいの反射神経を持っていたとすれば、持っていない対峙者にはハンデにしか見えないだろう。
これに似た状況が元々歩ける人、生まれながらに車椅子の人などの差異にも見いだせる。車椅子は第三者的に見ても当人から見てもハンデである。多数決が正しい世界では少数派はハンデになる。
話を戻そう。普通の能力を持ってないと人はハンデだと感じるが、実際のところハンデと思えるほどの能力差がある、という話なのではないか。つまり人は実は大抵の場合ハンデ持ちだと言える。配られたカードは元々不平等だという話は巷で開かれるし、配られたカードで勝負すべきという言説も聞かれる。これは勝者が言うときと敗者がいるときでは少々事情が異なると思っている。少なくとも敗者の配られたカードの差、あるいは勝負の言説には覚悟があるように思えるからだ。
何れにせよ、ハンデがなければうまくやった、という言説に関しては真なりということもできるし、言っても仕方がないとも言える。
(自分にしてみても厳しい状況下において制限された行動をどう取るかというハンデの中で戦っている。それも自己責任ではなく他人がもたらした賑やかしと冷やかしのためにそうなっている。それでもそこを悔やんでも仕方なく、意味もない)
フルコンタクトは手が空だから試合とかスポーツのくくりになるのであって 武装してフルコンタクトしたら即座に死傷者が出る 犯罪者扱いされて死刑だよ青葉のように
リッツ
ルヴァン!
これもリッツ