はてなキーワード: 一の渡とは
けれど、ここでは、番勝負で敗れた渡辺明二冠の話をさせてください。
いつものようにニヒルな笑いを浮かべて、彼はあっけらかんとこのようなことを言った。
しかし、この発言は私にとっては結構な衝撃であった。渡辺明は、羽生の次は藤井の時代だ、自分は時代を作る棋士ではない、そう言ったのである。
中学生で棋士になり、20歳で将棋界の最高タイトル、竜王を獲得する。
玉を堅く囲い、針の穴に糸を通すような細い攻めを見事に通す。理路整然としたその将棋は、美しく、絶品である。
2008年には、羽生善治との頂上決戦を3連敗4連勝という劇的な結末の末制し、初代永世竜王の座を手にする。
こうやって書くと、渡辺の棋士人生は栄華に満ちているようである。しかし、そうではない。彼の棋士人生は、常に孤独との闘いであった。
渡辺の同世代で、彼と同じレベルでトップを張り合える棋士はいなかった。渡辺は、若い頃から、一回り以上も上の羽生世代と「たった一人で」しのぎを削り続けた。
羽生世代は、底知れぬ力を持った将棋の怪物たちである。渡辺は、たった一人で怪物たちと剣を交え、互角以上の戦いを続けてきた。
最強の羽生世代と争ってきた彼は、これまで年下の棋士にタイトルで敗れたことがない。はっきりいうと、「格」が違うのである。踏んできた場数も、積んできた経験も、何もかもが違う。孤独と闘ってきたものだけが持つ、底知れぬ「凄み」のようなもので、彼は年下の棋士たちを蹴散らしてきた。
2017年度には、大きく勝率を下げ、プロ入り後初の負け越しを喫する。「衰え」がきたのか-そう思った人もいたかもしれない。
しかし、渡辺は死ななかった。自らの将棋を大きく改造し、再び上昇気流に乗る。鬱憤を晴らすように勝ちまくり、再び三冠の座に上り詰めた。
そんな渡辺明という天才が、当時まだタイトルを獲得していない棋士を、タイトル99期の羽生の次だと言った。自分を飛ばして、である。
渡辺明は、本音をはっきりと口にするタイプで、お世辞で人を持ち上げるようなことはしない。
「羽生と藤井の間」との発言も、率直な彼の実感なのだろうと思った。そう思うと同時に、私は恐ろしくなった。
藤井聡太とは、いったいどれほどの棋士なのか。どこまで行く棋士なのか。
天才にしか、見えない世界があるのだろう。言わば藤井聡太は、「天才から見た天才」。雲の上の、そのまた雲の上にあるような世界は、想像も及ばなかった。
想像も及ばないから、見てみたいと思った。渡辺明と、藤井聡太によるタイトル戦。その舞台を、心待ちにした。
待ち望んだ舞台は、時を経ずに実現する。2020年6月。渡辺が保持していた棋聖のタイトルに名乗りを上げたのは、藤井だった。
「なるべくなら藤井と当たりたくない」そう言って笑っていた渡辺だったが、藤井聡太にとって初のタイトル戦を待ち受けることになるのは、自分だった。
このあたりは、強者の宿命である。あるいは、将棋の神様が、渡辺に課している試練なのかもしれない。
渡辺明は、自らが「時代を作る棋士」と評した最強の挑戦者と、盤を挟むことになった。これまで蹴散らしてきた年下の挑戦者たちとは違う。そのことは、渡辺自身が、始まる前から一番分かっていただろう。
第1局、矢倉を選択した藤井は、凄まじい、人間離れした踏み込みで渡辺を圧倒する。1三の地点に、飛車と角が次々に飛び込む。鮮烈な寄せ。驚異の見切り。
第2局。この将棋に関しては、今も冷静に振り返ることができない。これまで見てきた将棋の中で、一番の衝撃だった。
先手番で矢倉を選択した渡辺。将棋は、基本的には先手が主導権を握ることのできるゲームで、特に渡辺の先手番は抜群に強い。用意周到な作戦で一局を支配する、それが渡辺である。
その渡辺が、何もさせてもらえなかった。王手すら、かけることができなかった。藤井が放つ異筋の手が、渡辺の矢倉を破壊した。観戦しながら、頭が割れるような、足元が崩れ落ちるような感覚に陥った。こんなことは、もう後にも先にも訪れないかもしれない。
「いつ不利になったのか分からないまま、気が付いたら敗勢」。渡辺はブログでそう回顧した。理路整然とした彼の口から出たことが信じられない言葉だった。
2連敗。これまでタイトル戦でストレート負けをしたことのない渡辺が、あっという間の土俵際である。羽生の次は藤井の時代だといった渡辺の言葉は、残酷にも証明されようとしていた。私は茫然とした。最強の渡辺明が、手も足も出ない。自分が見ているものは、悪夢だと思いたかった。羽生世代という怪物たちと剣を交えてきた渡辺。その渡辺の、剣先すら届かない。こんなことがあるのか。私は叫び出したい気持ちだった。
2020年7月9日、棋聖戦第3局。私は仕事を休んでこの将棋を観戦した。藤井聡太の初タイトルを見るためではない。渡辺明の「意地」を見るために、仕事を休んだ。このまま終わる渡辺ではない。そう自分に言い聞かせながら、食い入るように盤面を見つめた。
第3局、渡辺は角換わり腰掛け銀で、90手目のあたりまで想定していたという、圧倒的な研究を投入する。研究の多さと深さは棋界随一の渡辺だが、今回投入したのは、とっておきの中でもとっておきの研究だったと思う。藤井聡太から白星を挙げる。たった一点の至上命題を果たすため、渡辺はついに、極限まで研ぎ澄ました剣を抜いた。序盤から中盤、ほとんど時間を使わない渡辺。研究範囲は時間を使わずに指す、この徹底的な合理主義も渡辺の特徴だ。用意周到な研究でリードを奪い、抜群のゲームメイクで、渡辺は一局を支配し、離さない。藤井の追撃も凄まじかったが、序盤を飛ばして残しておいた時間が最後に物をいう。渡辺、腰を落とし、崩れない。そして、ついに藤井が頭を下げる。
渡辺明、藤井聡太に初勝利。「これが渡辺明だよ!」今度は、本当に叫んでいた。もし、渡辺が何もできないまま3連敗していたら、私はしばらく将棋を見られなくなったかもしれない。しかし、3連敗する渡辺ではなかった。3連敗など、するはずがなかった。
この勝利は、たんなる1勝ではない。もはや渡辺明の「凄み」としか言いようがない。盤を挟んだ目の前にいる棋士は、まさに今、次の時代を切り拓こうとしている。渡辺にとって、その「圧」は凄まじかったと思う。自らを飲み込もうとする圧倒的な濁流に、渡辺は自らの強みである「研究」で立ち向かい、そして振り払った。あの舞台でこんなことができる棋士は、渡辺明以外にいない。大舞台で、濁流に抗う。孤高の棋士、渡辺明が報いた、最強の「一矢」だった。
棋聖戦第4局。先手番となった渡辺は、第2局で完敗した急戦矢倉の作戦を再び用いた。胸が熱くなった。「気付いたら敗勢」そう振り返った、渡辺にとって悪夢のような将棋である。負けたら終わりの一戦で、再びこの作戦を選択することには相当な勇気がいる。しかし、渡辺は悪夢を悪夢のまま終わらせておく男ではなかった。自身が完敗した将棋を徹底的に研究し、改良手順を藤井にぶつけたのである。妥協を許さない、トッププロとしての威信をかけた将棋だった。
渡辺の研究は功を奏し、互角からやや渡辺有利の形勢で局面は進行する。しかし、藤井は全く崩れずに渡辺のすぐ後ろをひた走る。紙一重の攻防の中で、渡辺に盲点の一手があった。藤井の攻め駒が、気付けば渡辺の玉を左右から包囲していた。「負け」。渡辺は、このあたりで覚悟を決めたという。
ピンと背筋を伸ばした渡辺が、「負けました」と声を発する。渡辺明の棋聖戦が終わり、史上最年少タイトルホルダー、藤井聡太棋聖が誕生した瞬間である。
激闘を終えた当日の深夜、渡辺は自身のブログを更新した。そして、自身の将棋を、淡々と、それでいて的確に分析する。信じられないような完敗を喫した第2局の後も、タイトルを失った第4局の後も、その姿勢は全く変わらなかった。目を覆いたくなるような将棋を、淡々と振り返る。それも、当日の夜に。普通の人間なら、抜け殻のようになっていてもおかしくない。すぐに敗局の分析をする。これもまた、渡辺の「凄み」である。
「負け方がどれも想像を超えてるので、もうなんなんだろうね、という感じです」
渡辺はそう述懐した。藤井聡太と初めてタイトル戦を闘った男の、偽らざる本音なのだろうと思った。棋界のトップを走り続ける男が、「想像を超えている」と述べた。その意味は果てしなく重い。
渡辺はトッププロとしての矜持を胸に、全力で闘い抜いた。第1局、第2局では、昼食に高額なうな重を連投した。これは、藤井聡太が昼食の値段を気にせず、好きなものを頼めるようにした配慮だと言われている。藤井聡太が残り時間3分の場面でトイレに走った時、渡辺は次の手を指さなかった。そこですぐに指せば、藤井の持ち時間を減らし、追い詰めることもできた。しかし、渡辺は藤井が戻るのを待ってから盤上に手を伸ばした。藤井を戸惑わせるような「盤外戦術」はいらない。時代が動くか動かないかというこの戦いにおいて、そんなものは「邪道」でしかない。渡辺は、藤井が全力を出せるように環境を整え、「将棋」で真正面から勝負した。
結果は、1勝3敗での敗退。「羽生の次は藤井の時代」という渡辺の言葉が、現実のものになろうとしているのかもしれない。藤井聡太の時代が、今まさに幕を開けたのかもしれない。
しかし、渡辺は抗う。自らが発した言葉に抗い続ける。そう信じている。
「次の機会までに考えます」渡辺はそうブログを締めくくった。渡辺は、もうすでに「次の機会」を見据えている。ここからまた、渡辺明の闘いは続く。